長岡市医師会たより No.339 2008.6


もくじ

 表紙写真 「春のプリマドンナ」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「歴代有名人にみる脳卒中の変遷」 渡辺正雄(渡辺医院)
 「もう二年目になりました」 小林俊恵(長岡中央綜合病院)
 「春のプリマドンナ」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「名曲に触れるピアノ演奏会」 小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)
 「Take Me Out To Your Beautiful Fierd(私を畑につれてって)」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「春のプリマドンナ」 廣田雅行(長岡赤十字病院)


歴代有名人にみる脳卒中の変遷  渡辺正雄(渡辺医院)

 依然として死因の高位を占め続ける脳卒中、降圧剤の進歩により出血は減ったものの梗塞はまだ多い。歴代の有名人の中にも当然脳卒中で倒れた人物は多いが、そのうち何例かを、時代背景や医学的処置などの変遷を中心にみてみたい。

1.上杉謙信 ―高血圧性脳出血―(1530〜1587)
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才(天正6年3月9日)、上洛の決意を固めた謙信は家臣達と酒宴を開いていた。途中、厠へ用足しに行ったきり戻ってこないので、家臣が見に行ったところ、厠の中で昏睡状態で倒れていた。勿論当時は治療方法などは無く、加持祈祷に頼るしかなかった。三日目に一たん意識は戻って開眼した。唇は動かすものの発語は不能、再び昏睡に陥り、四日後の3月13日、息を引き取った。肥満型で大酒飲み、しかも塩辛いものを好んで食べていたというから、高血圧症の典型である。実は40才の時にも軽い左半身麻痺の発作があり、後遺症を残していたという。症状から推定して恐らく左被殻出血で、脳室内穿破も考えられる。酒、食事につき、側近が進言していたが、全く聞き入れなかったという。因みに、織田信長も、斃れはしなかったものの高血圧であったろうと推定される。易怒で癇癪もち、いわゆるタイプA(Aggressive)で、塩気の多いものを好み、睡眠時間は短かかった。死因は焼死だが、背中に矢、腕に弾丸が当たり、暫く戦ったが部屋に閉じこもって焼け死んだ。死体は焼死特有のボクサー型肢位をとっていた。

2.佐藤栄作 ―病因不明の脳卒中―(1901〜1975)
 ノーベル平和賞をもらった名宰相であったが、74才の時、高級料亭での宴会の席で倒れた。当時の事とて、CTやMRIは無く、診断のつけ様もない。当時の風潮で某有名内科医の指示にて、脳卒中の患者は現場を絶対に動かしてはならないということであった。病院への移送も許されず、満足な検査治療も行われなかった。当時脳外科は発足間もなかったが、脳外科医の間では脳卒中患者は速やかに病院へ移送すべしという考えが主流であった。残念なことである。

3.田中角栄 ―脳梗塞―(1918〜1993)
 御存知角さんは左脳梗塞。病巣の部位範囲は、はっきりした情報は発表されず不明だが、右片麻痺、言語障害が強い事から、左中大脳動脈領域の梗塞と推測される。当時はまだ、tPA療法も確立されておらず、加えて発作後の医療処置に関して、医療側と家族側の意見が合わず、充分なリハビリが受けられなかったと聞く。(確かな情報ではないので誤りがあれば陳謝)。華々しい人生の最後は言葉を失ったまま淋しく終わってしまって無念であったろう。

4.小渕恵三 ―出血性脳梗塞―(1937〜2000)
 総理在職中の63才の時、テレビ放映中によろけるように倒れる。直後から昏睡に陥った。側近の発表では何か話をしたというが、これはどうも疑わしい。tPA療法はまだ確立されていなかったが、血栓溶解剤は使われたのではないかと思う。出血性脳梗塞は、一たん閉塞した動脈が何らかの理由で再疎通し新たな出血を起こすもので、予後は極めて不良である。恐らく昏睡のまま他界されたものと思う。

5.長嶋茂雄 ―脳梗塞―(1936〜)
 
左中大脳動脈領域の梗塞である。病巣の映像を見ていないので範囲はよくわからないが、そう大きな領域では無さそうである。tPA療法が行われたかどうかは発表されていないが、この治療法は発症後3時間以内に行わなければならないという厳しい制限がある。朝発見されたということで発症時刻がはっきりせず、3時間以内というゴールデンタイム内に間にあったかどうかは不明。驚異的な快復力をみせ、跛行ながら杖無しで歩けるようになった。右上肢は完全に廃用である。言語に関しても回復は良好で、日常生活に支障はないようだが、流暢さは欠けており、高次脳機能がどれ位回復しているのかが問題である。

6.オシム ―脳梗塞―(1941〜)
 深夜テレビ観戦中に倒れる。発見は早かった様だが、日本語での連絡がうまくいかず、本国を通して日本の病院へ紹介されたようである。回復は順調の様で、初期治療、後治療もうまくいっている様子である(情報発表が乏しく、詳しくはわからない)

 以上、何人か挙げてみたが、明日は我が身、いつ災難がふりかかるかわからない。生活習慣を整え、検査を怠らない心構えでいくしかない。新潟県においては、まだまだ脳卒中に対する診療体制が整っているとは言い難い現状なのであるから。

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もう二年目になりました  小林俊恵(長岡中央綜合病院)

 私は今、長岡中央綜合病院(長中)で研修をしている、新潟大学の研修医です。大学の研修医だけど、長中で研修していると書くと、研修医制度をよくご存じない方々は大学病院の研修医なのに?なぜ?と思うようです。実際に患者さんたちだけでなく、先生方やコメディカルの方々にもよく聞かれるので、最初に少しだけ触れておきます。
 研修医は大きく分けて3つのパターンに分かれています。1つ目は市中病院の研修医、2つ目は大学病院の中だけで研修する研修医、3つ目は俗にたすきがけと言って、大学と市中病院を2年間で半分ずつにするというもので、私はその3つ目に当たります。
 さて、研修医についてですが、早いもので研修も2年目に突入しました。こう書くと、まだまだ若いなぁと思われる方も多いと思いますが、ちょっとお付き合い下さい。
 春からは1年生を迎え一緒に救急外来に立つと気恥ずかしい気持ちでいっぱいになるなど、戸惑うことばっかりです。正直に言って、1年目は本当に全然点滴のルートもとれない、採血も出来ない、薬なんて一般名しか知らない、検査って何出せばいいの??……知らない、出来ない、わからないことばかりでした。落ち込むし、普段から運動していない、私は毎日走り回ってぐったり。「もお嫌」って何回叫んだことか!!分かりません。そんな中いつも励みになったのは患者さんや看護師さんから掛けてもらう優しい言葉や飴やチョコなどのお菓子(笑)でした。
 学生の頃、女医は特に看護師さんとの関係が難しいという噂を聞いてびびっていた私は、1年目の春、相当ビクビクしていたのを覚えています。しかし、働きだして看護師さんからいつも言われるのは、「先生、面白い。」本人はかなり真面目なのですが、おっちょこちょいな性格のせいか、必ずと言っていいほどどの病棟でも言われます。学生の頃と違いお昼ご飯もなかなか食べる暇がなかったりすると、看護師さんに「先生、まだご飯食べてないでしょ。これあげる。」と言ってお菓子をポケットに入れられることが多々ありました。おかげで凌いだ科もいくつかあったので、本当に助かりました。患者さんたちもターミナルの人でさえ、掛けてくれる言葉は温かく、癒されました。
 いつも周りに助けられている私はとてもラッキーだと思います。研修医を指導して下さる指導医のいい先生にたくさん出会えたことは貴重な体験です。私は大学病院と市中病院の両方を体験することが出来て、よかったと思っています。技術的な面では市中病院の方が何でも手を出させてくれるので、身につきますが、最初の時期にじっくりと勉強も一緒に付き合ってくれる先生がいてくれるという面では、大学病院での研修もなかなかだと、医学生の後輩には伝えています。
 最後に私が最近、見つけたちょっといいことについてお話します。みなさんはデジカメを持っていますか?写真って撮ってもなかなか整理出来ないでそのままにしているなんてことありませんか?
 私はそんな一人です。旅行などの写真、撮るのはいいけど、溜まる一方になってしまいます。デジカメは簡単に何枚も撮れて便利な反面、写真にするのが億劫になってしまい、アルバムにするのがめんどうになってしまうという難点があると思います。そんなある日、学生の頃の友達と今年も集まることになりました。私の友達は関西や関東、北陸とみんなバラバラになってしまったので、会っていない友達とは2年ぶりになったりもします。久しぶりに会えるのだから、何か記念になるものを、と思いました。
 そんな時、デジカメでフォトアルバムを作成して本のようにするという広告に目がとまりました。ちょうど集まるメンバーはみんな一緒に卒業旅行に行った友達だったので、案の定その写真もそのままにしていた私は、アルバム作りを試してみることにしました。
 これがなかなかいい出来でした。デザインなどに大きなこだわりを追求しなければ、カメラ屋さんで作ってもらうので、写真自体もきれいですし、以外に価格もリーズナブルです。とてもいい思い出になり、ちょっとした時に取り出して見ることも出来て便利です。
 友達の一人は、お気に入りのページを見開きにして部屋に飾っているそうです。みなさんも撮り溜めた写真がおありでしたら是非お薦めします。

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春のプリマドンナ  廣田雅行(長岡赤十字病院)

写真1
写真2 
 写真3

 早春の日曜日、出番も外れ、天気も良し。これで遊びの虫が騒がない訳が有りましょうか?。春と言えば雪割草に山桜、花に蝶とくれば「春の女神」ギフチョウの出番。蝶を追う者にとって季節の指標。しかし此処暫くまともに追えた試しも無く、カメラ持つ手も鈍りがち、蝶を追う脚も心もと無し、と言う体たらく。今年も駄目かと思いつつ、それでも出掛けないと気が済まない、本当に困った物で。女房殿には「雪割草等でも見に行くか。」等と誘いを掛けても、あちらは既にお見透し。「そうねェ。」等と軽くあしらわれつつも、何とか物に成りそうな一枚を、と気は逸る。
 場所は「雪国植物園」多少気温も低めでは有るものの、寧ろ余り活発に飛ばれるよりは……等と計算しつつ歩き始める。雪割草、片栗、ショウジョウバカマ、早春の花々を愛でつつも、心は其処に有らず。キョロキョロと視線を走らせる。暫く歩き回って、駄目かなと思いかけた頃、パタパタと低く飛んでは一寸止まり、せわしなく飛び立つ一頭を発見。しかし止まっている時間が兎に角短い。ピント合わせの時間も無い。鈍った腕には荷が重い。自分に悪態つきながら只管追いかける。女房殿にまで「ほらこっち」、「そこじゃなくてあっちに。」等と言われつつ撮れた物が写真1。何とも目立たず、いまいちな物では有るものの、兎に角撮れた事に一先ず胸をなで下ろす。何となく体にリズムが染み込むと、昔取ったなんとやら、何とかそこそこ撮れる様には成ってきました。(写真2、3)御覧の様にギフチョウは、その派手な虎斑模様が、こういった場所では羽根を分断した様に成り、逆に目立たなくなり、分かり難くなります。
 さてこうなると俄然欲が湧いて来ます。何とか花に止まった状態で撮りたい。しかし、この頃には気温も上がり、活発に飛び回っていて、吸蜜状態自体なかなか見当たりません。只管飛びまわる蝶を相手にしては、こっちも開き直るしかない。何せデジタルカメラ、撮り直しも出来、直ぐにその場で見れば結果は分かる。キャパシティも4ギガバイト、凡そ2000枚は撮れる。いっそ飛んでいる物を!等と無謀な企みをしてしまったのです。しかし、見ると聞くとは大違い、フラフラした蝶の舞、障害物、足元の悪さ、世の中に味方をしようと言う者は無いのかと思う程。暫く追い掛けてみましたが上手く行きません。その内一頭が雪割草の側を繰り返し飛ぶ様に思われ、追い掛けから待ち伏せに切り替えてみる事にしました。けれども、なかなか思う様には被写体の設定ラインに入っては呉れません。近くには来るもののほんの一寸手前でコースを変えたり、有らぬ方向から飛び込んで来たり、業を煮やしてその場を離れると、予想したコースに来たり。「そうだよなァ、プロはセンサーを使って自動撮影にしたり、ストロボで被写界深度を深く取って撮るんだよな。」等と愚痴とも言い訳とも付かない事を考えながらそれでも、と粘ってみました。流石に時間も長くなり、女房殿もそろそろ付き合いに飽きて来そうな雰囲気となってきた頃、ほぼ予想に近いパターンで飛んで来て呉れたのがこの蝶でした。手ブレを注意しながら手持ちでシャッターを切ります。撮れた!幸運にも手ぶれも殆ど無く、体にピントがしっかり合って居ました。蝶は羽根にピントが有っていても、身体や触角に合って居ないと何となくいまいちとなる事が多いのです。
 帰宅してテレビの画面でピント等をチェック、脇で見て居た女房殿からも「ま、良いんじゃ無い。」等、一応のお褒めの言葉を頂いた写真(今号表紙)がこれです。「春の女神」の舞を皆様にもおすそ分け。さ、「春のプリマ」の登場です。又一年、今年も蝶との付き合いが始まります。

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名器に触れるピアノ演奏会  小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)

 昨年の11月18日(日)、小出郷文化会館大ホールで「名器に触れるピアノ演奏会」と名付けたコンサートが開催されました。幹事は、藤田基先生(独立行政法人国立病院機構新潟病院小児科医長)、観喜先生(県立精神医療センター)御夫妻。演奏者は中越および中越近郷の医師、その家族の方々です。
 長岡市には、女性医師の有志で作っている「JOYの会」という楽しい会があります。その会で何気なくピアノの話が持ち上がった事から、この会が始まりました。小出郷文化会館の立ち上げから尽力されたという庭山昌明先生(県医師会理事・元小千谷市魚沼市川口町医師会長)のお力添えもあり、今回もまた実現の運びとなりました。
 当日は午前9時30分から午後1時まで順番にピアノに触れてウォーミングアップ。午後1時30分から4時30分頃まで各自予定の曲を演奏。
 プログラムは十人十色。お嬢さんとの連弾も飛び出すなど、前回にも増してバラエティーに富んだ曲となりました。名器(スタインウェイ)で演奏し、ホールいっぱいに響き渡るピアノの音色を聴いていると自分も名ピアニストになったように感じられてしまうから本当に不思議です。第3回は、今年の9月21日(日)を予定しております。今回の幹事は根本忠先生・聡子先生(片貝医院)御夫妻です。ピアニストのようにうまくなくたっていい、本物の持つ響きと魅力力を体験できるまたとないチャンス、個人では絶対にできない企画。さあみなさんも参加なさいませんか? 是非多数の先生方、御家族の方々の参加をお待ち致しております。
 
最後に当日のプログラムを御紹介致します。

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Take Me Out To Your Beautiful Field 〜私を畑につれてって  
岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 今年は梅雨入りが遅いようで、6月に入っても雨量はさほどでもなく、例年は作物をおおいかくす程に雑草が良く育つ我が家の畑も、早朝30分程の草取りで草は目立たなくなり、かなり見栄えのする畑になっている……かな、と自画自賛しています。
 で、見わたすと、何しろ酒の肴にと選んで植えるので、まず枝豆ととうもろこしが一番良い場所に陣取っている。
 取れたてキュウリには味噌をつけて、新じゃがは(小さくて不ぞろいのが山ほど取れるので)洗って皮ごと茹でたものに塩とバターで、梨なすはぬか漬けに……と、獲らぬ狸でほくそ笑んでいる。
 こんな風に畑を楽しめるのも、時々耕運機で畑を打って貰ったり、「うちのが少し余ったから(苗を)植えときました。」などとまったくのご厚意で世話を焼いて頂いている畑の先生達(たいていは早朝早起きして自分のとこの畑の手入れをしにこられるご近所のおばちゃん)のおかげと感謝しています。
 大地の恵み豊かな豊穣なる越後平野。……と思っていたら5月連休で長男が帰省した折、「お父さん、大学の友達で『岸のところは診療報酬はやっぱり米とか野菜なのか』と聞く奴がいたんだ。『んなわけ無いでしょ。』って言っといたけど、3年前の中越地震で新幹線が止まっている所が放送されたでしょ、『俺の家から止まっている新幹線が見えたんだ。』と話してからすごい田舎だと思われているみたい……。」。
 そりゃあ長岡でも南端の十日町地区。朝は東の山から日が昇り夕方には竹林の向こうに日が沈む。見渡すかぎり続く青々とした田や畑。父の仕事の都合でこの土地を離れ、20数年ぶりに医師として帰って来た時、昔と少しも変っていない田や畑、町並みに、なぜかかえって不思議な感じを抱いたものだ。
 そんな十日町地区も中越地震で半壊、全壊となったお宅も多く、3年半たった今は建て替えが進み、町並みは一新された。
 ようやく地震の記憶も薄れてきた頃に、中国四川省の大地震、さらに岩手宮城内陸地震。一刻も早い救助と復興を祈っています。日本の救助隊、新潟県からの救助隊も派遣された。ご苦労さまです。
 あの時、地震の翌朝、私たちの所に真っ先に来てくれたのが神戸からの救援隊、神戸赤十字だった。今も感謝は忘れません。姫路、広島、静岡からもおいで頂いた。
 ちなみに息子によれば一番みんなに受けた地震の話は“空飛ぶ牛”だったと言う。だだっぴろい越後平野のうえを超大型ヘリからロープで吊り下げられた山古志牛が悠然と飛んでゆく。牛がどう思っていたかは知らぬが、なかなか愉快な光景だった。災害時に楽しいことなど中々あるものではないが、これは牛も人並みに救助してもらったと言う事だから、喜んでも良いのであろう。
 さて、うちの畑のことであるが、畑の先生の曰く、「子供育てるのとおんなじらね。毎日毎日通ってやって、手をかけて育ててやればいい子に育つ。」……うーん。確かに花が咲き実がなってくると次第に可愛くなってくる。取り入れた不揃いな野菜たちは、けっして器量よしではないが無農薬育ち、昔ながらの鮮烈な味と香りがする。
 そう、できるだけ畑に通って良い子を育てよう。
 「私をあの畑につれてって」。そう言われるようにしたい。誰から……って、取りあえずうちの娘や息子からかな。

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