長岡市医師会たより No.341 2008.8


もくじ

 表紙絵 「津南にて」 丸岡稔(丸岡医院)
 「開業から一年を経過して」 木口俊郎(木口内科クリニック)
 「屋久島まわりあるき」 石川紀一郎(石川内科医院)
 「頑張れ!」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「たくさんの感動2008」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「津南にて」 丸岡稔(丸岡医院)


開業から一年を経過して  木口俊郎(木口内科クリニック)

 恒例の開業一年後の心境についてのご依頼がありました。開業に至るまでの経緯と現在の状況を思いつくままに書いてみたいと思います。
 私は福島県の太平洋岸の生まれで、大学を出るまで新潟県には一度も来たことがありませんでした。しかも大学は防衛医大と、少なくとも県内に同窓生はほとんどおりません。こんな私が長岡で、しかも開業するとは誰が想像したでしょうか。今でも昔の仲間に会うと、「なんで新潟で開業したの?地元でもないのに、わざわざ雪国で災害が多いところに好き好んでいく必要はないだろう。」とよく言われます。
 長岡に初めて来たのは平成7年9月、今から13年前になります。当初は当時所属していた茨城県にある東京医大霞ヶ浦病院から立川綜合病院へ、半年の契約で派遣されました。ところが単身という気楽さ、何ともいえない居心地の良さで、月日はどんどん過ぎていきました。さすがに学位のことがあり、二回ほど大学
戻りましたが、平成13年8月に自由な身となって三度目の長岡に来ました。
 
立川綜合病院には大変働きやすい環境を提供していただきました。また長岡市という地域の特性か、地域内の医療機関の連携がすばらしく、私のような外様でも快く受け入れていただけました。こんなことは茨城県では全くありえないことでした。同じ地域の検討会や会合でも打ち解けて意見を交換することも少なく、地域連携などとは程遠いものでした。長岡なら長くやっていけそうだな、と感じたのはこのような理由からです。
 平成18年の春、偶然開業の話が舞い込んできました。立川でずっとやっていこうと思っていたので、最初は興味本位で話だけでも聞いてみようと軽い気持ちでした。しかし聞いていくうちに、資金も地盤もない私にはまたとないチャンスと思えてきました。とにかく十分な資金がなくても始められる、しかもレンタルなので借金もそんなに必要ない、という点に惹かれました。そう思うと不思議なもので、病院志向から少しずつ開業志向に気持ちが変化していきました。諸先生方には叱られるかもしれませんが、こんな単純な動機で開業する決断をしたのです。そして開業すれば自分の今までやりたかったことが実現できると、少しずつ夢は膨らんでいきました。
 開業するからには総合臨床医になろうと以前から決めていました。病院にいるときは、とかく自分の専門に偏りがちで、専門以外の疾病に関してはそれぞれの専門医に任せてしまおう、という傾向がありました。もともと私の母校は何でも診ることができる臨床医を目指すことを目標にしており、今までの20年間、研修医期間を含めると様々な科を経験してきました。どれもが中途半端と言われてしまうかも知れませんが、少しでも経験したということは、自分なりに今でも立派な財産になっていると思っています。精神科、小児科、また胸部外科も一年間経験しました。開業すれば専門以外も何でも対応しなければならないと思うと、大変であるとともに新しいことにチャレンジできるという期待を抱くようになりました。
 いざ開業してみると、思った以上に浅くても?幅広い知識、経験が要求されるものだと感じました。さすがに隣が整形外科ですので外科系は来ませんが、小児科が多いことには驚かされました。今まではほとんどが高齢者で、子供の対応に慣れていないので当初は苦労しました。とにかくお母さんに十分な説明をして納得していただく、分からないときは一緒になって、電子カルテの医学事典で調べるようにもしました。
 また、開業して最も気を遣ったことは患者さんのクリニックへの印象です。病院にいるときはあまり気がつかなかった待ち時間や診療料金が気になるようになりました。患者さんに満足していただける医療を提供するには診療内容はもちろんですが、少しでも待ち時間を少なく、少しでも無駄を少なくして料金を安く、ということも大切と考えるようになりました。また、私だけでなく医療スタッフ全員で患者さんに応対する(説明する)ように心がけています。幸い、スタッフの連携が良く、これまで助かることもしばしばありました。
 一年が経過した現在、まだまだ毎日が目新しいことの連続で、めまぐるしく過ぎてしまっています。そのうち少しは余裕が出来てくるだろうと気長に構えていますが、はたしてそんな日が来るのだろうか?と不安に思うこの頃です。
 新規開業医としては年をとってしまっていますが、実地医療はほとんど素人で、医師会の先生方とお話をするたびに教えていただけることが多く大変感謝しております。今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。

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屋久島まわりあるき  石川紀一郎(石川内科医院)

 かねてから屋久島に一度は行ってみたいと思いながらなかなか行けずにいたのだが、昨年のゴールデンウイークに漸くその機会に恵まれた。5月3日から途中鹿児島県の指宿温泉での一泊を加えて三泊四日の旅であった。
 屋久島は鹿児島県南部の佐田岬から南方56km、種子島に並ぶように位置しているが、指宿の港からは高速船で約2時間の船旅である。朝8時半の便が最初で最後との事でいささか緊張して、出航予定の1時間位前にタクシーで乗りつけた。予定していた船が故障のため1時間後に別の船が運航されるとの知らせに、いささか不安な気持ちとなったが、結構快適な船旅であった。9時頃に出港した船は10時少し過ぎた頃にはもう島の北東岸の宮之浦港のはっきり見える所まできていた。小雨交じりの天候で途中の視界は開けず九州最南端の佐田岬が船内の案内で漸く分かる程度であったが、船内の速度表示は殆ど時速80キロ以上を示しており、飛び散る水しぶきを見ながら爽快な気分であった。
 屋久島は「洋上のアルプス」とも言われる島で、宮之浦岳(1935m)をはじめ1000m以上の山々が46座も屹立し、周囲約130km、その約90%が森林で、大小約140本もの川が流れると記載されている。屋久杉、縄文杉の島、雨の多い島としても有名である。
 島に降り立ったときには、幸いにも雨も上がり薄日が射していたが明日の天気予報は雨である。早速レンタカーで、映画「もののけ姫」のモデルといわれる白谷雲水渓に向かう。この島は海岸を少し離れると直ぐに山道となる。島の東岸から白谷川の谷沿いのつづらおりの山道を3、40分進むとすっかり緑に囲まれた白谷入口である。
 路肩にずらりと駐車している車も駐車場の車もほとんど「わ」ナンバーのレンタカーである。「もののけの森」までは往復3時間半のコースとの事で、とてもそこまでは行けないが、綺麗に整備された石畳の道を渓流沿いに登り始める。森の緑と清流に包まれ、別天地に来た様ないい気分である。途中、登山装備を整えた大勢の人たちとすれ違う。
 花崗岩の傾斜を滑り落ちるように流れ落ちる「飛流おとし」を過ぎ、吊り橋を渡ると、このへんから山道らしくなってくる。少し登ると下が二またになった大きな杉の木に出会う。「二代杉」なる表示が目に入る。島に来て初めて出会った大杉である。江戸時代に伐採された杉に新たな杉が着生したものとか、ああもう大杉を見たから大満足と、まだまだ奧は深そうだがここで引き返すこととした。明日は雨、今日のうちにあちこち廻ってしまおうという魂胆である。帰路、道端に何やら動くものがいる。よく見ると体長一メートルにも満たない小さな鹿があちこちにいるのが見える。ヤクシカである。ニホンシカの一種で、島で育ったため体も角も小さいとの事。人を怖がることもなく、ゆっくり餌をたべている。
 午後からは、島の東海岸を南下して、東南側、安房港付近から「ヤクスギランド」へと向かう。ここは屋久杉の点在する自然の森の中に作られた遊歩道で、手軽に屋久島の原生林を体験出来る所である。海岸から直ぐに山に入り、くねくねとした樹海の中を車で4、50分進むと漸く入口にたどり着く。この付近から、この島の最高峰「宮の浦岳」や樹齢7200年と推定される「縄文杉」への道が分かれているが、いずれも一日またはそれ以上を要するコースなので今日はお預けである。「ヤクスギランド」の入り口付近は木道がよく整備されており、荒川沿いに森の中を縫うように作られている。森は自然の営みそのままに着生、倒木、更新、合木などが見られ、特に川原に朽ちた倒木が多数見られたのが印象的で記憶に残っている。樹齢1000年から3000年くらいの大木が各所に見られ、それぞれ「千年杉」、「蛇紋杉」、「天柱杉」、「母子杉」、「三根杉」、「仏陀杉」、「くぐり杉」などの名前が付けらているが、今回出会えたのは、その一、二である。
 出口の管理棟の近くに屋台の様な売店がありおみやげを売っていた。屋久杉を輪切りにしたコースターの様なものを売っていたが、ひょいと値段を見て買うのをやめてしまった。思っていたよりゼロが一つ二つ多いのである。どうも勉強不足のようでした。屋久杉は現在伐採禁止で品薄、節の所は堅くて脂があり特に高価とのことでした。これで一日目は終わり、島の南端の尾の間温泉での一泊となる。
 翌日は予報通りの雨であった。この日は島の南端から西海岸を北上して、島を時計方向に半周し、上陸地点の宮之浦に戻る予定である。途中「屋久島フルーツガーデン」、「大川の滝」などに立ち寄ってから、島の西北部の西部林道に出る。この辺りは山が海岸線一杯に迫り、道も細く、車のすれちがいもやっとの所である。曲がりくねった海岸線の道をゆっくり走る。途中、道の真ん中に猿が座っていて、しばし停車させられた。ガイドブックによると「ヤクザル」と云うらしい。昼頃には宮之浦に入る。雨の宮之浦の町は車で混み合っている。食事をしようと動き回ると、あちこちに「首折れさば」と書いた看板が目に入入る。名物らしいので調べてみると“一本釣りのさばを船上ですぐに首を折って血抜きをすると鮮度が保たれ、刺身で食べられる”とあった。
 午後からは「志戸子カジュマール公園」に向かう。熱帯樹カジュマール自生の北限との事、太い幹から無数の枝の垂れ下がった樹々の間に囲まれると、少し気味が悪い様な独特の雰囲気であった。雨も大分強く降ってきたので、観光はもうお終いと車を返しに行く。ここで「明日は飛行機で鹿児島まで行くつもりだ。」と話すと、「今日は雨がひどくて、着陸しないで帰ってしまった便も有りますよ。島の上まではレーダーで来るけど、着陸は有視界飛行なので時々こういう事がありますよ。」と事もなげに言っていた。天気予報では明日も雨。少し心配になったが、翌日は何とか予定通り帰り着く事が出来た。
 二泊三日の島の旅は、島の周りをぐるりと廻っただけで、肝心な所にはゆけず物足りなさを感じており、準備不足を反省してはいるが、兎に角楽しく行って来られたので、この点では大いに満足している。

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頑張れ!  廣田雅行(長岡赤十字病院)

写真1 チチ、チチっと耳慣れた鳴き声がする。ああ今年も又この辺で子育てをするのかなと思うと、一寸心が温かく成る様な気がするのは、歳の所為でしょうか。
 声の主は、白黒のスマートな衣装のこの鳥、ハクセキレイ(写真1)。

写真2 この辺でと言うのは、何処有ろう、ご存知長岡赤十字病院の救急入り口の有る、この一角なのです(写真2)。何を好んでこんな所に……、とも思うのですが、この種の鶺鴒の仲間は、時として、使われていない車のボンネットの中とか、エッ?と思う様な所に巣を作って子育てをする事が有るようです。時々新聞等でお読みに成られた事がお有りでは無いでしょうか?。考えてみれば、こう言う所の方が寧ろ一般的な天敵であるヘビなども来ず、安全なのかもなァ等と考えながら暫く様子を見て居ますと、どうやら今回の営巣地は写真2の向かって右上の部分の緑、白に彩られた渡り廊下の下の隙間の所の様です。ここは去年も使われていた場所です。とすると、もしかすると少なくとも雄の方は去年と同じ親爺(失礼かな)ではないのかなと思われます。時々何かを咥えて巣の場所に入って行ったり出て来たりしています。(下写真3、4)

写真3写真4

 さてさて、今年も暫く楽しめるかな、等と思っていましたら、中々姿を見せなく成りました。今年は失敗かな、きっと彼女に振られたんだろう、等と思ったりして居ましたが、忘れた頃に矢張り同じ様な所で見掛けます。如何言う事かなと不思議に思って居りましたが、先日、はたと思い当たる事が有りました。それは、女房と一緒に救急外来から車で帰る時の事、鶺鴒が一羽、妙な動きをしているのを見て、彼女が「ケガでもしているのではないの?」と言ったのです。其れで合点が行きました。「擬傷行動」だと思われるのです。鳥で良く見られ、巣の近くに敵が現れると、恰も自分がケガをして上手く飛べない状態で有るかの様に見せかけて相手の目を引き、巣から離れた所まで引っ張り回して危険を避けると言う物です。と言う事は、恐らくこの行動からすると、巣の中に大事な者、卵か雛、が居る。そして、余り頻回に巣には出入りしていない所を見ると、恐らく雛では無いだろう。結論は、多分卵を抱いたツレアイが居るに違いないと言う事だと思われるのです。巣や卵、雛等を守ろうとする時の彼等は、本能に従っているだけとは言え、最近何かと話題になる「人間」の親に見習わせたく成る程の物を持っています。

写真5 写真5は、去年の物ですが、巣に近づいたカラスに対して彼等が取った行動を示す物です。大きさから言えば何倍も大きなカラスに対し、二羽で付かず離れず威嚇して撃退したのです。今年ももう少しするとそんな様子や、忙しく餌運びに励む様子が見られる事でしょう。心配な様な楽しみな様な。でもあの声を聞くと、心の中で言ってしまうのです、「頑張れ!」って。そして、チャンスが有れば巣立ちの様子を見られない物か、等と考えて仕舞う今日この頃なのです。

 追記、このペアの子供達の巣立ちは見られませんでした。最近この裏側で別のペアが営巣を始めています。

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たくさんの感動2008  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 今年はお盆休みが北京オリンピック開催中であったため、毎日「日本頑張れ、日本チャチャチャ、ガッツだぜ、気合いだ、気合いだ、気合いだー!」と、思う存分テレビの前で日本の応援とオリンピック観戦に明け暮れた。
 8月15日には赤倉温泉に一泊だけの家族旅行に行ったのだが、車の中でもテレビをオリンピックのチャンネルに合わせて皆で応援。ホテルに着いてもまずオリンピック、とテレビをつけると丁度14日に行なわれた馬場馬術をやっていた。
 日本五輪史上最年長、67歳の法華津選手の活躍を祈りつつ見ていると愛馬ウィスパーと登場。人馬一体となって軽やかにステップ。馬場を縦に斜めに、リズミカルに移動。さすがにうまいものだ。他の馬とはかろやかさが違う、と見ているとウィスパーは突然後ろ向きに走り始めた。繊細な性格のウィスパーは、観客席の巨大なスクリーンに映る自分の映像に驚いたのだそうだ。本来ならば直前に行われた世界大会で、有力選手が多数でている中で5位に入賞した実力の馬とのこと。
 「俺の馬の実力はこんなもんじゃないぞ。と思っているかも知れませんね。」という解説者のコメントを聞きながら、「馬は『俺がやるんだからお前もやれよ』ではなく『頼むよ、やってくれよ』と人間が一歩引いた時に良い演技をしてくれる。」と語っていた法華津選手のロンドンでのご活躍を期待しています。
 そして15日は柔道の最終日。女子も男子も最重量級決勝まで勝ちすすむ。塚田真希選手は中国選手に残り8秒で一本を取られ逆転負け。しかし始めから積極的に前に出て戦い、最後まで逃げることの無かった塚田選手に心からの拍手。中国の観衆からも拍手が。……表彰台の上ではにかんだ笑顔をみせた彼女の胸には銀色のメダルが輝いていた。有り難う。そして男子100超級の石井慧選手。豊富な練習量と研鑽でつかんだ金メダル。日本柔道界の期待や責任を一身に背負って、若さと技術で突き進んだ。すごい。(蛇足だがインターネットを見ていたら、試合後の彼のコメントに対して批判もあったようだ。しかし誰が彼をちょっとでも批難することが出来よう。プレッシャーに打ち勝ち勝利し、責務をまっとうした喜びにあふれた言葉だと思う。)彼が男子日本柔道界の最後の砦を守った。
 そして水泳。期待どおりの日本選手の活躍。圧倒的な力と強い精神力による北島康介選手の2つの金と皆で勝ち取ったメドレーリレーの銅。中村礼子選手と松田丈志選手の銅。……その他にも格上の相手に勝ったり、日本チームの気迫を感じたりと、各競技でたくさんの感動をもらいました。
 そして不本意にも自分の実力を出し切れなかった選手、周囲からの期待に応えられなかったと自分を責めてはいけない。長い間オリンピックを目指して並はずれた練習と努力を積み重ね、夢敗れて競技場を去った多くの選手達。人生には良い時もあれば悪い時もある。勝つ事もあれば負ける事も。……ずいぶん努力し練習したのに。もっと良い演技、良い記録が出せたのに、あの時ああしておけば……。
 そんな想いも何十年も経ってみるとよくあんなに努力できたな、と感じる良い想い出になり、自分の勲章になるのではないかな……などと考えてしまいましたがそれも自分が歳を取ったからかもしれません。
 みんな頑張れ。次なる夢の舞台、ロンドン目指して。

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