長岡市医師会たより No.342 2008.9


もくじ

 表紙絵 「曇野初秋」 丸岡稔(丸岡医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その10」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「えーっ」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「ラクダはらくだ」 矢田祐子(長岡中央綜合病院)
 「尊氏でなかった騎馬武者と百犬図」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「安曇野初秋」 丸岡稔(丸岡医院)


南アフリカにルーツを求めて〜その10  田村康二(悠遊健康村病院)

※本文中、丸数字は表記できないため、「マル1」などと記載しています。

第5章 ヒトは何時から肌の色で差別をしはじめたか?
 アフリカ人の主体は黒人である。黒いとは相対的なもので、白人といっても完全に白い白人はいない。黒人は実は様々な肌の色をしている。このようなヒトの肌の色の違いは、約6万年前位から生じてきたという説が有力だ。
 「黄色人種は白色人種よりも劣るが、黒色人種よりも勝る」などとは、夢にもあなたはお考えではないでしょうね。肌の色の違いだけではなくて、実は言語の違いも同じく差別の対象になっている。JALに乗ってわざと英語で話すと、途端に乗務員の愛想が良くなるのは、いつも実に不愉快だ。日本人が同胞を蔑視しているからだ。この様なことは欧米の有力航空会社では経験したことが無い。この様に世界の至る所で肌の色や言語などによる差別は、未だに根深い。

1.アフリカは黒人の暗黒大陸ではない
 「アフリカって、黒人の住む土地でしょう?」などと聞かれる。さらには「アフリカは文明の光がまだ届かない野蛮な暗黒大陸でしょう?」などと真顔で聞く人もいる。人の無知による偏見や誤解ほど困ることはない。
 アフリカの民族は実に昔から多様だった。1400年当時すでにアフリカ大陸には大きく分けて5つの人種が共存していた(左、右図)。いくら本を読んでその様な知識を持っていても、アフリカの大都市の街角に寸時立ち止まって行きかう人々を観察するまではそのことを実感として理解できまい。この旅行記で繰り返して述べた言葉は「百聞は一見にしかず、百見は一体験にしかず」である。
 例えば南アフリカの大都市、ケープタウンの中心にあるウオーター・フロントに立っていると、そこを通る人種の多様性には圧倒される。肌の色を見ても真っ白い人から、真っ黒の人まで様々である。しかもその中間の色合いも実に多彩だ。顔つきとなるとさらに多様である。おまけに話す言葉も多様だ。
 アフリカというと先住民である黒人の社会に、後で白人が侵略してきて野蛮人の国を植民地とし、更に奴隷貿易などで巨万の富を得たと思っている人が多いようだ。しかし最近になって、白人が侵入してくる前に黒人だけがアフリカにいたわけではないことが理解されるようになって来た(上図)。

2.複雑な系統図
  
 ヒトの系統図、私のご先祖の系図、については次第に明らかになっている。しかしそれは複雑でいまだに異論続出だが、次第に整理されている(リチャード・リーキー著・馬場悠男訳『ヒトはいつから人間になったか』草思社)。古生物学会で認められている証拠からは、まず次のように理解されている(上、左図)

(1)1000から700万年位前:この時期のヒトに繋がる化石はいまだ見つかっていない。地球は文字通りの「サルの惑星」だった。だからご先祖をここまでは特定できないでいる。だからこの表では、(?)と記されている。確かなことは、アフリカを初め世界中で密林が生い茂り、サルの王国だったことだ。

(2)700〜600万年前(上、右図):この頃チンパンジーと初期人間(猿人)は分かれた。その1つの種がアウストラロピテクス・アファレンシスである。

(3)この先は、約20万年前にA・ロブストゥスとH・ハビリスに分かれた(上、左図マル2とマル3)。これがタンザニアのオルドバイ渓谷やケニアのトゥルカナから化石がみつかっている。当時の東アフリカは氷河期で、山には氷河があり、麓近くまで1年の殆どは雪に覆われていたらしい。環境は極度に乾燥し、サバンナは砂漠化していた。猿人たちは山の寒さとエサ不足に耐えられず、森から平地に下りてきた。アフリカ中東部ですら今の北海道の北部位の気候だったらしい。
 マル4ホモ・エレクトスはアフリカで生まれた(上図マル4)。南アフリカのスワルトクランスやケニアのトゥルカナから化石が見つかっている。そこからネアンデルタール人とクロマニオン人とが生まれてきた(上図マル5・マル6)。二足歩行し、大きな脳と小さな歯を持っていた。既に石器を使い、火を使用していた。しかし彼等の小さな歯で食べられるような食べ物を求めるには、広く森林サバンナとサバンナの境目辺りで生活していたらしい(最初の左図)食糧を得るためには歩き回らなければならなかった。そこで体毛が次第に薄くなり、肌の汗腺で体温を調節できるようになった。チンパンジーの素肌はピンク色だ。だからこの猿人の肌はピンクか、薄く色付いていた「白人」だったらしい。
 裸になることで口呼吸が容易になり、長い間歩き回れるように適応した。立位を保持してきたので胸筋が発達し、声を出せるようになった。これが集団を作る上に役だった。やがて彼等は石器を手にして、集団的に狩をするようになった。すると獲物の肉を容易に手に出来たので、脳の重量は次第に増えてきた。そうして人類の祖先が生まれたとされている。
 一方のアウストラロピテクス・ボイセイも2足歩行し、脳は小さかったが、大きな臼歯を持っていた(上、左図)。この代表がタンザニアのオルドバイ渓谷で発掘された猿人であった。かれらはサバンナの草木や根を丈夫な歯で噛み砕き食べていた。サバンナに草木があるうちは食糧には困らず、狭い地域で生きて行けた。しかし氷河期が続き、サバンナが砂漠化すると、草木は消失して食物に行きづまり絶滅したのだという。
 H・エレクトゥス(180万〜20万年前)は恐らくハビリスの子孫だ。東アフリカで誕生し、あっという間に世界各地に広がった最初の人類だ。南アフリカのスワルトクランス、ジャワ原人、北京原人などである。彼等は現代人と同じような体格で、脳も発達していた。石器や火を使用して集団生活をしていた。この系統までは白人だったらしい。
 50万〜3万年前にエレクトゥスはネアンデルタール人とホモ・サピエンス(クロマニオン人)に分れた。ネアンデルタール人は主にヨーロッパに住んでいた。更新期には氷河期と温暖期とが数多く繰り返して起きていた。そこでネアンデルタール人は既に述べた適応障害の理由で、4万年位前の氷河期末期に絶滅した。
 私の本当のご先祖であるクロマニオン人は、60万年前頃に、やはりアフリカで生まれた。かれらのうちのごく少数は極度に乾燥したサバンナで、奇跡的にも食いつなげて生き延びられた。かれらが生き永らえたのは、赤道近くの強烈な紫外線と暑さに適応して肌が黒色になったお陰だ。この子孫が20万年前ぐらいから世界各地に広がり始めた。それと同時に、肌の色が薄い方へと進化していった。そうして地域特有の環境条件に適応して行った。だから肌の色の違いはヒトの進化の最も明らかな証拠として生じてきたのだ。5万年前位からは住んでいる土地の紫外線などの風土に適応して皮膚の色が変わってきた。つまり様々な肌の差は5万年位前から始まったらしい。

3.クロマニオン人の展開
 クロマニオン人には人種上大きく6種ある。そのうちの5種、黒人・白人・ピグミー族とコイサン族・アジア人(黄色人種)、がアフリカで共に暮らしてきた。先ず氷河期にはホモ・サピエンスはサバンナに適応してそもそも黒人として住んでいた。サバンナ内の白丸は、この当時の遺跡の場所を示している。サバンナの内陸側は森林サバンナで、森林とサバンナとが混在し、チンパンジーが住んでいた地域である。14世紀頃には既に黒人が住んでいる。その内陸の西側は森林地帯でゴリラが住んでいた。いまではクロマニオン人の直系であるピグミー族が暮らしている。黒人はもともとアフリカ以外の土地には先史時代から拡散していなかったらしい。肌色が環境の変化に適応し難たくなっていた為だろう。
 黒人から派生した多くの白人は先史時代からサハラ砂漠の以北、地中海沿岸雑木林地帯に住んでいた。今日エジプトやモロッコの先住民に会ってみれば、明らかに黒人の特徴は備えていないことに気付くだろう。これらの地には圧倒的に白人が多いことが分かる。その意味では白人もまたアフリカの先住民なのである。彼らは黒人と違ってアフリカ以北へ広く拡散して行った。そこで既に1万年以上前から地中海気候の肥沃な地帯で広く農耕して住んでいた。
 それに対してピグミー族やコイサン族は基本的には今も狩猟民である。農耕に適した土地に住めなかったからだろう。しかし彼らが恐らく人類発生以来の正統派の人種だろうと推測されている。ピグミー族は小さな集団を造り、アフリカ中部の森林地帯に住んできた。彼らがばらばらに住んでいるのは、後から来た黒人に追われ、分断されたのだろうと思われる。
 コイサン族は別名がブッシュマンやホッテントットと呼ばれて、南部アフリカに住んできた。かれらの皮膚は黄褐色で、黒人とは明らかに違う。しかしコイ族もサン族も長年迫害されて、今では人口は激減している。興味あることに、ピグミーとコイサン族は今でもアフリカにしか住んでいない。
 今の人類学では人種とか民族とか言う言葉を避けて、クラインと呼んでいる。クラインとは地理的に定義され、遺伝子頻度に差がすくない群を包括して指している。人種と言う言葉は、歴史的に人権侵害に結びついている。ナチス時代の人種の純粋さ、米国の人種隔離、南アフリカのアパルトヘイト、セルビア・クロアチアの民族浄化などは、人種とか民族と言う名での近世の人権侵害の一部に過ぎない。これに対して近年の集団遺伝学や分子遺伝学の研究成果からは、ヒトに対する別の評価がなされている。だから日本でも日本民族とか人種とかいう言葉は、今では不人気なのは当然だろう。(続く)

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「えーっ」  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 ねえ、皆様も人間稼業を長い事やって来られますと、「えーっ」と言うような事の一つや二つ、三つや四つ、お有りの事と思われます。今年の春、そんな一つを体験してしまいました。ま、何時もの通り蝶々関係なのですが、もし時間とお閑がございましたら、一寸お付き合い頂いて、「えーっ」の一部でも共有して頂ければと思って居る次第であります。
 それは4月の事でした。まあまあの撮影成果を得て、そろそろ帰路に向かおうかと言う時の事でした。多少風は有るものの、下りの坂道は春の日が当り、良い気持ちでした。七歩下がって女房殿の影を踏まず……、ま、ユックリと歩いていた訳であります。ふと、小さな影が飛び回っては止まり、暫くしては一寸飛び、を繰り返しているのに目が止まりました。色も目立たない茶色系、シジミ蝶系等では無し、セセリ蝶でも無い。そうです、此処で「えーっ」嘘だろう!、と思った途端カメラを持つ手に力が入り過ぎ、心臓も有るのが分かる状態となって仕舞いました。そんな筈は無いだろう、何かの見間違いでは。でも兎に角確かめなくては始まらない。そっと近寄るものの、矢張り逸る心が見え隠れ、ツイツイ足運びも怪しく成って仕舞い勝ち。ファインダーを覗くと真っ暗、カメラのスイッチが入っていない、「っとー、ええいこの!」その瞬間相手は飛び立ってしまう。逃げられたか?、いや、一寸先に影が舞い降りて止まった。ファインダーを覗き乍ら兎に角一枚だけでもと、そっと近づく。茶色の羽根に紅の模様、棍棒状の触角、間違い無さそう。そう思った途端にファインダー内の揺れが一層大きくなり、口が乾くのが分かる。先ず一枚、小さい。クローズアップを何とか、接近を図るもその瞬間に飛び立ってしまう。今度はやや離れた所へ止まる。慎重に追い掛け膝を折る、ピントが合いかけた所で逃げられる。其処まで嫌わなくても、と言っても相手は蝶、通じる訳も無し。全く見えなく成って仕舞った。駄目か、しかし、さっき迄のパターンを考えれば、戻って来る可能性は高い。先に歩いていた女房殿は何か別の物を見ながら一人遊びをしている様だ。一寸腰を据える事にして見た。すると、帰って来た。かなり離れては居るが間違い無い。又、追い掛けっこを繰り返す。暫くして漸くファインダー内に大きく捉える事が出来た。面白い物でこうなって1枚撮れると続けて2、3枚撮れる事が多い。この時も位置を変えて撮る事が出来ました。この時の写真を御覧下さい。(写真左)
 それでは、「えーっ」の種明かしと参りましょう。この蝶は「テングチョウ」と言います。頭部に長く飛び出した突起が有り「天狗」の名前の元と成っています。(写真右)羽根を閉じて居ると約3cm位の小さな蝶々です。しかし、「本州では一属一種で、居る所には居るのですが、数は多くない事が多い」と言う位の事を、物の本から又引きする位で、チョウに関わり合って約50年、その存在を知ってから約45年、本物は見た事の無い物だったのです。「えーっ」の訳をお分かり頂けましたでしょうか。こんな事も有るのですね。今迄は、時々「えっ」と思う事が有っても、全て昼間に飛ぶ蛾の一種の「イカリモンガ」でした。其れがこんな風に触れ合う事が出来るとは、思いもしていませんでした。付近には食草も有り、来年も又出会える事を祈り乍ら帰って参りました。因みに、小児喘息と言われていた私に昆虫採集を通じて山歩きをする喜びを教えて呉れた80を過ぎた母に、これを見せました所、たった一言、そう、お分かりですね、「えーっ」。

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ラクダはらくだ  矢田祐子(長岡中央綜合病院)

 長岡中央綜合病院一年目研修医の矢田祐子と申します。
 突然ですが、私の趣味は旅行です。ついこの間までは学生で時間は有り余っていたので、長期休暇にはここぞとばかりにいろんなところへ旅行に行きました。
 一番最近は卒業旅行でモロッコへ行ってきました。モロッコはアフリカ大陸の左上のほうにある国で、アフリカなんていうと物騒な国かと思われがちですが、以前はフランス領だったそうで治安は比較的良い国です。
 なぜわざわざモロッコへ行ったかというと、砂漠を見たかったこと、あとは私の一番好きな動物であるラクダに乗りたかったからです。
 モロッコの砂漠は本当に素晴らしいです。オレンジ色の細かい砂でできた大きな山が、はるか向こうまで永遠に続いている景色は、まるで絵を見ているようです。その砂漠をラクダに乗って5時間かけて越えていくのですが、本当に夢のような時間でした。でもラクダは想像以上に揺れます。長い間乗っているとお尻が痛くなります。ラクダはあまり楽ではないです。
 砂漠を越えたところにある、原住民の家に泊めてもらいました。野原にポツンと家があって、トイレはどこでも好きな草むらでどうぞ、といった感じでした。夜の星空は本当にすごかったです。星が降ってきそうとはこのことだと思いました。でも夜はずっと野犬の声がして、いつ食べられるかとハラハラしっぱなしでした。
 とにかく日本ではなかなかできない体験ばかりでした。たまにこうして違う国で今までは知らなかった文化に触れることで、こうして過ごしている日常が色濃くなる気がします。私が研修で忙しくて目を回している今日も、モロッコでは原住民のお父さんがラクダと山羊の世話をしていると思うと、なんだか不思議な気持ちです。
 また何十年か後にゆっくり旅行ができるようになったら、もう一度モロッコへ行きたいです。皆さんも機会があったら是非行ってみてください。オススメです

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尊氏でなかった騎馬武者と百犬図  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 爽やかな秋の展覧会場です。先週出かけた都立美術館のフェルメール展の混雑にあきれたばかりなので、この閑散の一歩手前状態は心地よいです。長岡の県立近代美術館で、京都国立博物館の収蔵品展が10月中旬まで開催されております。

「この『騎馬武者像』って、たしか足利尊氏だってむかし教科書で習ったわね?」と家人が首を傾げます。
「そうそう、けっこう子供時代の記憶が絵なんかだと残るもんだね。……この解説文によると、調べてみると実は別人だったそうだよ。」

 以前にテレビ番組で―『世界一受けたい授業』だったかも―最近の研究の進展で、教科書に記載された歴史上人物の肖像が誤りだと訂正されつつあるとの講義に驚いたことがありました。記憶に残ったのは、端正な容貌の源頼朝の肖像はまったく別人と判明ということ。その際に小中学校で足利尊氏と覚えたこの絵の話題もあったのかもしれません。
 この絵の解説要旨は以下です。
 京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は足利尊氏の肖像として一般に知られていたが、二代将軍義詮の花押が像の上部にあること、騎馬武者の馬具の輪違の紋が足利氏の家紋でないことなどの理由から、足利家執事の高師直または師詮(高氏の家紋が輪違)の肖像とする説が有力視されている。
 さてその誤っていた頼朝の肖像ですが『神護寺の三像』(国宝の絹本着色で伝源頼朝、伝平重盛、伝藤原光能)のうちの一枚。なんとこれが足利直義(尊氏の弟)だとか。そして平重盛の肖像が、実は足利尊氏だった。これが1995年以後の美術史家らの新説で有力らしいです。なおわたしたちの中年世代に記憶される人物の誤った肖像は、すでに歴史の教科書から消えたそうです。
 この収蔵品展のタイトルは「国宝との出会い」。なかでは空海自筆の金剛般若経の開題、藤原伊行筆の芦手絵和漢朗詠抄は眼福でした。ただしわたし的には国宝の文物より、伊藤若沖の一枚の絵が最大目的。それは『百犬図』。推定84歳と最晩年の作品。若沖といえば絢爛な写実風の鶏の絵で有名ですが、枡目描きの花鳥・動物画、木版の意匠、筋目描きの墨絵など多彩な作風があります。数年前に美術本で見て以来、京都に所蔵される『百犬図』の実物が見たかったです。大きな画面(142.7×84.2cm)いっぱいに、たくさんの子犬が遊ぶ様子が、さまざまな毛色や模様で描かれています。写実の対極のかなりのデフォルメがかわいいです。よく知られている江戸の犬のデフォルメの代表は犬張り子。これとは異なり、ここに若沖の描くのはたとえば、まるまると太った小犬+ネコ+赤ん坊の唐獅子(狛犬)のミックスといったイメージが近いかも。彩色は茶、白、黒とその組み合わせの多彩な斑(ぶち)模様で、それぞれの毛が細密に描き込まれ、落ち着いた美しい色合でした。
 ところで『百犬図』と称されますが、百は数え方ではたくさんということなのでしょう。百戦錬磨、百科事典、百貨店などの百。俳句ならこんな作例を記憶しております。

 筍や雨粒ひとつふたつ百 湘子

 さて実際には、この絵の中には幾匹の犬が描かれているものなのでしょうか?
 三度指折り数えましたが(会場内に見知った方がいなかったか、今になっていささか心配ですが)全部で59匹でした。

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