長岡市医師会たより No.343 2008.10


もくじ

 表紙絵 「安曇野にて」 丸岡稔(丸岡医院)
 「渡辺正二郎先生を偲んで」 関根光雄(関根整形外科医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その11」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「会員ゴルフ大会優勝記」 杉本伸彦(杉本医院)
 「第10回長岡肺癌研究会を終えて」 富樫賢一(長岡赤十字病院)
 「いまひとたびの みゆきまたなん」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「安曇野にて」 丸岡稔(丸岡医院)


渡辺正二郎先生を偲んで  関根光雄(関根整形外科医院)

 最終は西病院の施設で亡くなられたとのことであった。末期はあちこちの施設で過ごしておられた。
 2年前までは訪問すると応接間というか居間というか玄関を入ったすぐの部屋でくつろがせてもらった記憶がある。
 娘さんはそれぞれ嫁がれており、普段はひとり住まいでそれを最後まで通された。そもそも渡辺一家との交流は奥様と私の家内とのつき合いであった。同じ女学校の出身で奥様の方が2年先輩で新潟を離れての同一女学校の卒業生という因縁で結びつき合ったようである。その結びつきは傍でみている我々も驚くほどの密着ぶりであった。家内は摘出不能の胃癌で平成5年8月に死亡。
 奥様は17年8月風呂場で倒れ、救急車で日赤病院に収容されたが数日後の8月26日に病状が急激に悪化しそのまま帰らぬ人となった。それ以後お互いにつれ合いを亡くしたもの同士のおつき合いが今日まで続いて来た。
 私はややいきおくれの娘と同居しているが渡辺先生はお嬢様が皆嫁がれており、普段は全くの独りでいられた。趣味は強烈な盆栽の愛好家であった。家の中は階段の一段ずつ、屋外は何百鉢がところ狭しと配置されて季節ごとに花とその香りに包まれていた。丸岡先生と一緒にお伺いしてともに感激を味わった。
 他に趣味はないが、なかななかアルコール好きでいくらのんでも乱れることのないクリーンな愛飲家であった。家具調達はブランド品揃いでなかには世界的に有名な作家の絵とか骨董品の収集家で他人(ひと)ものではあるがどういう結末を辿ったのか想像するのは持たざるものの僻みであろうか。
 兎に角渡辺先生のイメージはスコップをもってバケツの傍でにこにこ顔で立っている姿が目に浮かぶ。娘さん達は終始傍にいるわけでないのでいつも孤独ではあるが暖かみをもった笑顔が印象的である。いまごろは天国でスコップをもち乍ら沢山の植木鉢をさばいていられることであろう。
 謹んで御冥福をお祈りする次第である。

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南アフリカにルーツを求めて〜その11  田村康二(悠遊健康村病院)

4.肌の色の違いが誤解を産んでいる
 外国へ行くと、出会ったアジア人が日本人かどうかは俄かに判断し難い。私はどうもアジアでは香港人の系統に見られるように思う。東京のホテルへ行くと、ホテルの従業員からは二度に一度は英語で話しかけられるからだ。ヨーロッパへ行くとフランス語で話しかけられることが多い。その訳を聞いてみると、アジア人にしては色白で南フランスには禿げた男が多いという理由かららしい。肌の色で相手を区別することは、案外難しい。
 疑問は「なぜ肌の色が多様になったのだろうか?」である(ジャウロンスキーら『肌の色が多様になったわけ』日経サイエンス、2005年別冊)。その理由は、まずヒトが無毛になった時、つまりチンパンジーから分かれた時から始まる。160万年前のホモ・エレクトスは二足歩行を始めた類人猿であった。彼等の脳はまだチンパンジー並みだった。かれらは毛が少ない肌で体温を汗腺で調節し、口呼吸を楽にし長距離歩行を可能にした。やがて肺呼吸が上手くなり声を出すようになり、集団生活をするようになった。しかしそれの代償として皮膚への紫外線の悪影響を受けるようになってきた。ブランダとイートンは皮膚に強烈な太陽光線を当てると、葉酸が激減することを見つけた。この破壊から守るために皮膚が色付いたとされた。妊娠や出産に必要な葉酸塩の破壊を防ぐために皮膚の色が変化してきたと考えられている。住んでいる土地で太陽光線でビタミンDを生成し、しかも体内の葉酸塩を保護できる程度に肌の色を変えて来たと言うのだ。

5.アフリカ内の人の拡散
 アフリカの言語もまた多様だが、人種との強い相関が認められる。ここで注目すべきことは、アラビア語・ヘブライ語・アラム語(キリストが話していた言葉)のいずれもがアフリカ起源であることだ。やはり言語でも文明の源の全てはアフリカにあることが分かる。
 アフリカで発生したクロマニオン人の遺跡は次々に見つかっている。その分布をみると東アフリカから南アフリカの線状に配列している。なかでも南アフリカのケープタウンから300キロメートルほど東の地点でみつかったブロンポス洞窟の遺跡には驚くべき遺物があった。約75000年前、最終氷河期の末期に明らかに人工的な抽象模様、刻み目のある骨片、巻貝でできたビーズなどと言う文化の印が見つかったからだ。
 ホモ・サピエンスの起源の場所は何処か?その答えはアフリカであることには異論は無いが、アフリカの何処か?についての答えはまだない。アフリカのなかで北東から南西へと拡散したのか、或いは逆に南アフリカから東アフリカへと拡散したのかは未だに解明されていない。
 やがてアフリカを出てクロマニオン人は世界中に拡散していった。12000年前には南アメリカの最南端にまでホモ・サピエンスは到達した。そうこうするうちに様々な環境の変化に巧く適合できるようになった。例えば肉食獣の危険を避けて海や湖の岸辺や水中に浸りながら暮らす内に、体毛が減ってきて裸のサルになってきたという説は面白い。そんなことで次第にヒトは新しい環境に適合してきたのだ。
 アフリカ大陸の内部での人の拡散は、ユーラシア大陸に比べて難しく長い時間を要したとされている。その理由は一つには地勢的な理由が挙げられている。アフリカは縦に長く気象上の変化も著しい。だから家畜や農産物がその土地に適応して行くには長い時間と努力を必要とした。それに比べてユーラシア大陸ではヨーロッパから中央アジアはほぼ同じ緯度の上にある。だから横に短時間の内に、家畜や食用植物が広がりえたのだ。このことが人の拡散を助ける大きな要素となっていたし、やがてユーラシア大陸で大きな国家を形成するのに役立ったのだ。

6.アフリカ人は何故ヨーロッパを征服できなかったのか?
 アフリカは人類を生み、文明を始めすべての起源の地である。それならアフリカ人は何故ヨーロッパを征服できなかったのだろうか?それにはジャレド・ダイアモンドがその著書『銃・病原菌・鉄』草想社)で見事に答えている。彼はカルフォルニア大学・ロスアンジェルス校の生理学教授で、進化生理学ならびに生物地理学が専門だ。1998年にはこの本でピューリッツアー賞を得ている。本書のきっかけになったのは、ニューギニアでの体験だという。ニューギニアでヤリという人がダイアモンドにこう聞いたという「欧米人たちはさまざまな物質をつくりだして、ニューギニアへもってきたがニューギニアの人々は何も作り出せなかった。その差はどこにあるのか?」
 その格差を生んだ原因については、即座にダイアモンドは答えられなかった。そこで答えをみつけるべく研究した成果がこの本にまとめられたのだ。それがアフリカへの答えでもある。
 ダイアモンドの答えの要点は「新たな感染症に無防備だったアフリカ人、鉄と銃を発明できなかったアフリカ人」だとしている。これは日本人にも適応できる原則だ。
 我々モンゴロイドは一般にヒゲや体毛が少ない。髪が直毛だ。頬の骨が張り出して顔面は平坦だ。鼻は低い。北方モンゴロイドが目が細いのは、氷河期に眼球を寒さから守るためにできたという。北方モンゴロイドは北アジアで進化した。これに対して南方モンゴロイドは手足が長く、肌は浅黒い。日本人はこれらの両者の特徴を併せ持っている。

7.南アフリカでの肌の色による人種差別・アパルトヘイト
 肌の色の違いによる人種などの差別や偏見は容易なことでは解消しないだろう。若いときにアメリカで受けた人種差別は今もなお私たち家族の心の奥底の傷として残っている。
(1)南アフリカの犯罪・アパルトヘイト
 南アフリカ共和国でのアパルトヘイトは現地のアフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉だ。南アフリカ共和国の白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に扱う人種隔離政策のことをさした。1948年に法制化され、以後強力に推進された。これに対して国際連合は「人類に対する犯罪」として非難した。アパルトヘイトのねらいは少数の白人による政治的経済的特権を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。アパルトヘイトでは法律で人種を次の4通りに分けた。白人、カラード(白人と、主に黒人等との混血者)、アジア人、黒人。南アフリカにとって国際的な禁を破って大きな貿易相手だった日本人は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた。しかし1987年、日本は南アフリカの最大の貿易相手国となり、翌1988年に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長は「西欧諸国とは違い、人種差別に味方する日本は大変遺憾な国である」と名指しで非難した(ガルバ声明)。これを我々は忘れてはならない。
 南アフリカ共和国ハウテン州ソウェトで発生した武装事件(1976年)で、13歳のヘクター・ピーターソンが警察に撃たれた衝撃的な写真は、警察の暴力のシンボルとなった。ジャーナリストによって撮られたヘクターの死体の写真は世界の怒りを呼び、当時アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府への国際非難をもたらした。このヘクターを抱く別の少年はその後国外追放となり、1978年に母親がナイジェリアから来た手紙を最後に消息はわかっていない。隣で走る17歳の少女はヘクターの姉で現在もソウェトに住んでいるという。
(2)マンデラ大統領の言葉
 南アフリカのヨハネスブルグ空港から帰国時に、南アフリカの音楽のCDを求めた。薦めてくれたCDの初にネルソン・マンデラ氏の大統領就任演説(1994年)が入っていた。そこでは「我々が最も恐れているもの、それは自分が無力だということではない。我々が最も恐れているもの、それは、自分には計り知れない力がある、ということだ。我々が最も恐れるもの、それはわれわれの光であって、闇ではない。我々は自分に問いかける。自分ごときが賢く、美しく、才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか?だが、そうであってはなぜいけない?あなたは神の子である。あなたが遠慮をしても世界の役には立たない。周りの人が気後れしないようにとあなたが身を縮めることは何の美徳でもない。われわれは、自らの内にある神の栄光を現すために生まれてきたのだ。そしてそれは限られた人々のものではなく、すべての人の内にある!我々が自らの内にある光を輝かせるとき、無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している。我々が自分の持つ恐れから自らを解放するとき、われわれの存在は同時に他者をも解放する」何度聞いても見事な演説に感銘を受ける。
 Nelson Rolihlahla Mandela(1918年7月18日〜)は南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者、政治家、弁護士。ノーベル平和賞受賞。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され長い間ロベン島の刑務所に収容された。Robben Island(蘭語でロベンはアザラシの意味)は南アフリカ共和国のケープタウンから約12キロメートルの沖合いに見える島。島の周囲は海流が強く、脱出が困難なところを見いだされ、20世紀の後半からは政治犯の強制収容所として使われ、ネルソン・マンデラらが収監された。
 釈放後デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政界から引退した。アパルトヘイト時代に、劣悪な環境下で充分な教育の機会にも恵まれなかった大多数の黒人は、未だ貧困層から脱却出来ない。また特権を得た一部の黒人による逆差別現象も生じているというような問題は山積している。
 米大統領選の民主党指名争いで、黒人の父親と白人の母親との間に生まれた初の大統領を目指すバラク・オバマ上院議員は、最近フィラデルフィアで人種問題に関する演説を行った。師事する黒人牧師が人種差別に絡む扇動的な発言で波紋を広げたのを受け、オバマ氏は国家の「統合」を訴え、事態の収拾を図ったのだ。その発言は流石だが、アメリカの教会の90%は白人と黒人とが同席していないという。肌の色による差別はこれからアメリカでどうなるのだろうか?注目している。(続く)

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会員ゴルフ大会優勝記  杉本伸彦(杉本医院)

 足かけ25年、長岡市医師会に入りうろちょろしていますが、今回初めて優勝いたしました。
 9月21日、あいにくの雨の中、東コースからのスタートとなりました。長岡カントリークラブのグリーンの仕上がり、コースコンディションは素晴らしい状態でした。同伴競技者は、落ち着いたプレーの泌尿器科医の田村隆美先生、いつも冷静沈着な脳外科医の川口先生、野球で鍛えられた豪快なプレースタイルの、見附市南蒲原郡医師会からの招待選手である眼科医の小川政男先生の四人で、楽しく語りながらのラウンドでした。キャディは、私と同じ干支の長谷川タツミさんで適確な読みをするベテランキャディでした。
 勝因は、幸いにもバーディ三つがペリア方式の隠しホールに入っていなかったことです。本当にラッキーな優勝でした。プレー後の魚藤での表彰式では、美味しくお酒をいただきました。
 今後もなるべく時間を見つけて、ゴルフに精進していきたいと思っております。残念なことに、会員の参加が少なく、若い先生にも、もっとゴルフに興味を持っていただけたらと思っております。この原稿を書くことがなかったら、きっと参加者も増えることと実感いたしました。
 最後になりましたが、幹事の太田裕先生ならびに医師会の事務局の皆さんに、心から感謝の意を表します。今後とも、粛々とゴルフを通じて、お付き合い頂きたいと存じます。ありがとうございました。

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第10回長岡肺癌研究会を終えて  富樫賢一(長岡赤十字病院)

 9月10日(金)、ホテルニューオータニ長岡におきまして、長岡中央綜合病院呼吸器内科部長・岩島明先生の座長のもと、大阪警察病院副院長(呼吸器内科部長)・小牟田清先生に、「包括医療におけるがん治療とは―特に肺癌治療について―」というテーマで御講演いただきました。小牟田清先生は、高知県御免市でお生まれになり、大阪府立茨木高校を卒業後関西医科大学にすすまれ、昭和56年に卒業されています。関西医科大学在学中は野球部に所属されており、阪神タイガースの大ファンで今年は一位を独走しており大いに気を良くしているとのことでした。現在は大阪警察病院で呼吸器内科医として臨床で活躍されるかたわら、副院長として病院経営にもたずさわっておいでです。
 講演内容は、大阪警察病院における病院経営の理論と実践、および平成18年にDPC(包括医療と出来高払いの合わさったもの)を導入した後の経営状態の変化についてでした。
 DPCは平成15年に誕生した日本独自の算定方式で、米国で施行されているDRG(一入院当たりの定額払い)とは異なり計算方法が複雑です。当院でも本年7月にDPC導入後は医事課職員が各病棟に専属配置されました。DPC導入に当たっては従来の収益が損なわれないように医療機関別係数が算定されており、導入後しばらくは収益が確保されております。従って平均在院日数が短く病床稼働率が高ければ必ず増収につながるはずで、大阪警察病院の場合はその増収分で電子カルテを導入したということでした。
 DPC導入対策としましては、診療情報管理体制確立、クリニカルパス、診療指標、電子化、ジェネリック医薬品使用促進、原価管理、医療連携促進、医療機関別係数対策、DPC教育体制などを挙げられ、特に医師に向けたDPC教育体制の重要性を強調されていました。医師はすべからく自分の行っている医療が最善であると信じております。その最善の医療は必ずしもDPCの範疇で利益を生むとは限りません。小牟田先生はそのような場合、行っている医療が標準的なものなのか、最善ではなく独善ではないのかといったことを直接担当医師本人に問うのではなく、その医師自身で考えてもらうために、他の病院で行われている資料をさりげなく呈示されるそうです。診療科によってそれぞれいろいろな事情をかかえていますので、一方的に病院の方針を押し付けることはしていないということでした。
 また、DPC導入に関しては病院経営の面から論じられることがほとんどですが、DPC導入が患者に及ぼす影響といった面からももっと考えられるべきではないかともおっしやっていました。従って大阪警察病院ではすすんでジェネリックに切り替えることはしていないとのことでした。ジェネリックへの切り替えのような、病院には都合が良いが患者には利益にならないような場合は、患者に事前に伝えなければならないのではないかという考えからのようです。そうしないと、大阪難波のような土地柄では、「ジェネリックを使っていると分かっていたらこの病院に入院しなかった」といった難癖をつけてくる患者が少なからずいるだろうとも言われてました。
 さて、会員皆様のお陰をもちまして、長岡肺癌研究会も10回目を無事終了いたしました。当研究会は、肺癌の治療成績向上を目指して、医師および医療技術者を対象に、年一回の研究発表(2月)と、年一回(通常7月、本年は9月)の招請講演を開催してまいりました。現在のところ、肺癌患者の八割以上は診断が確定した時点で治癒が望めない状況です。半面、手術が出来るような状態で見つかった方の半数以上は治癒しております。従いまして、いかに早期に発見するかに患者の生命はかかっているわけであります。会員各位におきましても、この研究会を通しまして、肺癌へのご理解を更に深めていただき、日々多忙の診療に際しましてもお役立ていただけたら望外の喜びであります。
 さてこの度、次回からの世話人代表を長岡中央綜合病院呼吸器内科の岩島明先生にお願いすることになりました。これまで同様にご支援のほどを宜しくお願いいたします

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「いまひとたびの みゆきまたなん」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 爽やかな晴天となった9月8日。天皇皇后両陛下が4年前の中越地震復興のご視察とおねぎらいの為、長岡・山古志をご訪問下さいました。
 山古志の錦鯉養殖場や闘牛場などにお立ち寄りになられ、関係者をねぎらわれたとのことですが、私の診療所の近くの国道17号も両陛下のお車の列がお通りになられました。
 お通りになられる丁度一時間程前、お昼休みで自宅に戻っている時に、ピンポーン、「神奈川県機動隊より参りました○○です。両陛下が山古志に向かわれる国道の交通規制を行ないます。またお出迎えされたい方は沿道に場所をもうけてありますので…」と警備の方がきちんと挨拶にこられました。若くソフトな物腰。付近の安全にも気を配り、時にはするどい視線で危険を察知するのでしょう。さすが第一線の警備、保安体制です。
 「予定時刻は2時10分ごろですので30分前くらいにおいで下さい。お帰りは5時10分頃です。お見送りされたい方は、同じく30分前においで下さい。」そ
 の日の午後の待合室は興奮さめやらぬ患者さんとスタッフとで会話が盛り上がっていました。
 「まあ皇后さまのおきれいだったこと。」「観音さまの様で私、涙が出て来ました。」「お優しい笑顔で後光がさしていました!」
 …そしてお帰りのご予定の5時頃、医院の待合室はひっそりと静まり返りました。
 「みんなお見送りに行っているねえ…」。スタッフの顔には(私たちもお見送りに行きたいねえ!)とはっきり書いてあります。
 「皆でお見送りに行っていいよ。俺が残っているからさー。」と声をかけると、「エッ、良いんですか。」「キャ、5分前です。」「急いで…」「大丈夫、まだ間に合います。」と白衣にエプロン姿のまま飛び出して行った。
 …仕方なくコーヒーでも飲むかといれていると、ばたばたと音がして「あーれ、誰もいねーがかね。休みらろっか。」と受付に声が。
 はいはい。善男善女は両陛下のお見送りですよ。
 「おぅ、皆、両陛下のお見送りに行ったから、もうじき帰ってくるよ。」と話しているうちに、「ありがととうございました。」「先生、集合場所に間に合わなくて、道路の反対側でお見送りしていたら、歩道側に皇后陛下、車道側に天皇陛下がお乗りになり、皇后陛下がにこやかに沿道の人たちにお手を振っていらっしゃるのだけれど、お車が私たちの近くまでさしかかった時、天皇陛下がお気づきになられて、わざわざ窓をお開け下さって私たちにお手を振って下さったの。私たちに。」「このピンクのエプロンが良かったんだわ。」「感激でした。」と大満足の様子のスタッフ達が帰ってきた。
 やはりお見送りをして感激さめやらない患者さん達もやって来て、「どうして先生だけ来ねかったんだね。」といわれたが、ピンクのエプロン軍団は反対側の歩道側からも随分と目立っていたらしい。…おぅ、それでこそ若くて美人のスタッフが揃っている甲斐があったと言うものだ。
 そしていま一度あらば、次は医院を閉めて自分もお見送りに。
 山古志の紅葉もこれから見ごろ。秋の日に、刈り取りが終った棚田も金色にかがやきます。小倉山の峰のもみじ葉にも劣るものではありません。
 いつの日にか、いまひとたびの御幸またなん。

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