長岡市医師会たより No.347 2009.2


もくじ

 表紙絵 「草生津」 丸岡稔(丸岡医院)
 「吉田鐵郎先生を偲ぶ」 板倉亨通(北長岡診療所)
 「武田正雄先生を偲んで」 亀山宏平(長岡西病院)
 「武田正雄先生を偲んで」 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「名器に触れるピアノ演奏会」 根本聡子(片貝医院:小千谷市魚沼市川口町医師会)
 「新年ボウリング大会優勝記」 窪田久(窪田医院)

 「新年麻雀大会優勝記」 児玉伸子(こしじ医院)
 「新年囲碁大会優勝記」 斎藤古志(さいとう医院)
 「古志十日町雪まつり」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「草生津」 丸岡稔(丸岡医院)


吉田鐵郎先生を偲ぶ  板倉亨通(北長岡診療所)

 彼は大正15年1月1日生まれ、小生は同4月26日生まれで共に昭和の一頁から生きて来た生き証人として、先生の偉さと努力、未発達の医療環境を思い出しながら偲んでいきたいと思います。
 或る医師会会合の時、少し時間が空いたので先生の発言の機会が得られました。お話の内容は、先生は小学校を卒業される頃あの有名な昭和初期の世界を巻き込んだ大恐慌の波をかぶって、父上のお仕事が倒産となり、尋常高一に進む運命にあった時、優秀だった彼の才能を親戚の方が惜しんで新潟医大迄学費を出して頂けたのであって決して怠け者で落第して二年遅れたのでない事を説明されました。此の事を必死になって説明された姿を拝見して彼の心の傷の深さと親戚他人の暖かさの大きさに心打たれるものがありました。だからありきたりの開業医になってはならないと御自分をいましめる心でいつも努力しているようでした。彼は大変真面目で、自分で決めた社会へのお返しを死ぬ迄努力された様に思われて仕方ありません。御自分の信ずる方向に進まれた事はそれなりに素晴らしいと思われます。
 先生は厚生連中央綜合病院外科医長を四年勤務され、昭和40年6月長町へ外科医院を開設されました。開業当時の吉田病院の歩みを読むと、先輩諸兄から手厚い応援を頂いているのが見られます。先生の人徳でしょうか。中山又吉先生、谷口昇先生の奥様、鈴木先生、小千谷で整形外科を開業されていた根元担先生等が応援に手をさしのべていらっしゃいます。先生はまず日本麻酔学会のペインクリニックの教育講座を手はじめに、昭和47年早くも関東逓信病院ペインクリニック科の湯田康正先生が若い先生をつれ毎週土曜日に来院されるようになり三叉神経痛、非定型性顔面神経痛、偏頭痛、群発頭痛、むち打ち症を積極的に治療され治療技術の受けつぎをなされました。その後、昭和大学麻酔科増田豊助教授等がペインクリニックの治療に来院され、続いて新潟大学麻酔科の下地恒毅教授、松木美智子助教授も来院され、ペインクリニックの診療技術の進歩に加わったようです。だいたい医療技術の移転は吉田病院のように教授が直接来られて堂々と技術移転をするべきだと考えます。先生はまた昭和63年スペインマドリッドの第4回国際大腸肛門病学会に直腸脱の経肛門的手術々式を演題申込しました処、シンポジウムに編入され、同行した東大第一外科武藤徹一郎助教授の通訳にてシンポジウムを終了されたそうです。そのあと頑張って吉田先生はセントマーク病院で8日間、午前8時30分から夜の9時〜10時迄手術の見学と質問を続けたそうです。その後国際学会の通訳がきっかけで東大の武藤先生が吉田病院へ昭和54年から月に2回こられ大腸内視鏡検査で珍しい大腸疾患を沢山発見され、その手術も手伝って下さる様になり素晴らしい技術の蓄積になったと思います。又検査技師として入られた高橋利明氏を名古屋保健衛生大学に入学させ、彼は良く努力なさってトップで御卒業になり整形外科医として活躍されているのも、別の意味で素晴らしい事を残されたと思います。そして消化器内科のお子さんを残され今後の発展を期して待つべきものがあると信じます。ありきたりの医長先生ではなく、開業した医長先生の御活躍は全く見事で痛快でした。天国でも素晴らしい吉田病院を作って下さい。
 御冥福をお祈り申し上げます。合掌

吉田鐵郎先生御略歴
大正15年1月1日生まれ
昭和41年 36床に増床4136
昭和45年 現在地へ移転し57床4557
昭和46年 関東逓信病院(現NTT関東病院)よりペインクリニック科医師出張開始
昭和49年 日本大腸肛門病学会評議員拝命
昭和52年 スペインで開催された国際大腸肛門病学会(World Congress of ColoProctology)シンポジストとして講演
昭和56年 第36回日本大腸肛門病学会総会(新潟開催)副会長

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武田正雄先生を偲ぶ  亀山宏平(長岡西病院)

 武田正雄先生は数年前より身体の不調を訴えられ療養に努められましたが、御家族、医師側の御努力の甲斐もなく平成21年1月23日御逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます。
 私が武田先生に初めてお逢いしたのは五十年程前のことで、当時先生は新潟大学医学部の泌尿器科医局長をしておられ、私は第二内科の医局長をしておりました。病院の医局長会議は定期的に開催されていましたが、先生はその中で恰幅がよく、声も大きく存在感のある方でした。
 ある日「先生、君は陸士出身だってな、俺は57期だ。」と言われ「私は58期の亀山です。よろしくお願いします。」とお答えし、それから泌尿器に関することは何でも先生にお願いし、よく処理していただきました。
 昭和36年頃長岡中央綜合病院は赤字で農林省の整備促進法の適用を受けていました。院長入貞彌先生は新進気鋭の医長の獲得に奔走しておられました。私達はそんな事情を少しも知りませんでした。
 武田先生は入先生が会津若松病院長をしておられた頃、同病院に勤務し入先生を存じ上げていましたし、私は先生が第二内科助教授時代、内科診断学をお習いし、その御人柄に私淑していましたので、二人共お誘いにのることとし、他に整形外科の倉田和夫先生、少し遅れて、外科の吉田鐵郎先生が赴任されました。
 皆30才から37才と若く何れも鼻柱が強い方でしたので、それぞれ腕を競い合い頑張ったものでした。中でも武田先生は中央病院のみならず、栃尾郷、刈羽、魚沼などの近隣厚生連病院に声をかけ、患者さんを集められました。先生はよく「中越一帯の前立腺肥大症で手術を要する者は大半俺が手術した。」と云っておられました。先生は外見豪放磊落、些事に抱泥されぬ様に見えましたが、その手術は精巧緻密で確実のものでした。
 当時、新館3階病棟は泌尿器科と皮膚科の混合でしたが、大半を泌尿器科が占め、しかもそれがいつも満床で感嘆したものでした。
 私がサンプラザで診ておりました患者さんで100才の天寿を全うした方がおられました。30年程前、膀胱癌で右の輸尿管が機能不全で腎瘻を右腎に入れましたが、経過がよく、いつも私に「武田先生のお陰で、こうして元気でおられます。先生の方には足を向けて寝られません。」と云っておられたのを思い出します。
 昭和47年入先生は定年でお辞めになることになりました。私も辞めて開業するつもりでしたが、いろいろ事情があり、辞められず困っていました。その時武田先生は「心配するな、俺が全面的にバックアップするからな。」と云って背中を押して下さり、私も意を決して院長をお引き受けしたのでした。先生にはその後副院長をお願いしました。医局会議などで紛糾する際には、よく助言して、私を助けて下さったものです。
 私は平成2年春、定年で中央病院を辞し老健施設サンプラザ長岡に就職しました。先生は平成4年中央病院を辞し、同年新設された長岡西病院に勤められました。私も西病院では外来診療をやっていましたので、よくお会いして、お互い励まし合ったものです。平成10年先生は体調をくずされ西病院を辞められました。
 先生はすぐれた運動神経を持っておられました。先日の葬儀の後のお斎の際、兄上(陸士56期、先生の一期上)のお話によれば、先生は初め戦車隊であったが、戦車は狭くるしくて暑くてかなわん、航空に行きたいとして戦友に頼み航空に転科され、司偵(司令部偵察機)のパイロットになられました。司偵のパイロットは最高の技術を持ったパイロットにのみ許される勤務であり、途中転科の先生が短時日の間に、こうした技術をマスターされたのは驚くべきことであります。ですから先生は、ゴルフもお上手、自動車の運転も素晴らしくお上手で、私もよく同乗させてもらいましたが、ヘアピンカーブもすいすいと行かれるのには驚きました。
 又先生はダンディで、いつもきちんとした服装をしておられました。私などは上履はズックかスリッパが普通でしたが、先生は年間を通して白革靴をはかれ、特製の白衣を着、柄物のワイシャツできめておられました。特にピンク系のワイシャツがお好きの様で、私達は戯れに「ピンクちゃん」とか「ピンク先生」と呼んだものです。
 次の話もお斎の際に弟の平賀康正氏に伺ったところでは、先生は平賀家の4男2女中の次男でいらして、曽祖母の御実家の武田家が後継者がなく絶家するのを憂いて幼にして武田家の家名を継承されたとのことです。その武田家は武田信玄の親衛隊の一人でおられた由、お宅には信玄より受けた感状などがあるとの話でした。こうした家柄であることは、先生は決しておっしゃいませんでしたが、その名を汚すまいとのお気持ちが、その服装に表れておったと私は思っています。
 先生の御長男正之先生は先生の後をつぎ、山梨医大の泌尿器科教授として一家をなされ、御次男も上越市で歯科医として御盛業中とのこと、先生には後顧の憂いはないものと存じます。私もいづれ、近いうちにあの世に参るものと思いますが、その節には又お会いして、ゆっくりお話いたしましょう。長い間の病からときはなされた先生どうかゆっくりお休み下さい。さようなら。

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武田正雄先生を偲んで  齋藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)

 新潟県上中越泌尿器科検討会会長、武田正雄先生が平成21年1月23日ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生には私の勤務医時代をしっかりと支えて頂きました。何時も温かくじっと見守ってくれ、頼りにしていた大切な先輩でした。先生の訃報を知らされ、大きな喪失感と寂しさに襲われています。
 少し先生のご経歴や功績に触れながら暫し先生との思い出に浸りたいと思います。
 先生は甲府中学、陸士を経て新潟医専を卒業され、昭和27年、未だ黎明期にあった泌尿器科学を専攻されました。丁度新大では、初代教授として楠隆光先生が赴任されて間もない頃であります。そこで猛将楠教授の「出藍の誉れたるべし」との叱咤激励のもと、日本の泌尿器外科確立を目指して研鑽を積まれました。更に昭和32年からは第2代教授高安久雄先生のもとで、内科的視点を重視した泌尿器科学を学ばれ、かくして幅広いバランスのとれた人間味溢れた武田泌尿器科の礎が出来たものと拝察しています。当時の研究足跡については先生自らが泌尿器科教室同窓会誌(平成4年)に六千余字もの長文で語られています。沢山のエピソードをまじえながら明快で、簡にして要、一気に読ませます。衰えぬ筆力を感じます。
 先生に初めてお会いしたのは記憶では昭和36年私の泌尿器科入局の歓迎会の席であったと思います。その会はまた先生が長岡中央綜合病院へ赴任される送別会でもありました。以来先生の勇猛果敢な快男児ぶりは度々聞かされておりましたが、残念なことに直接ご指導を受ける機会は無く、十年余の歳月が流れました。
 昭和48年私が長岡赤十字病院へ赴任することになり、ようやくご指導を仰ぐ機会がめぐってきました。当時先生は既に長岡中央綜合病院で立派な業績をあげられ、中越地域で泌尿器科疾患診療の先頭に立って奮闘されていました。私の日赤病院での診療は先生の助力無しでは考えられませんでした。手術台をはさんで、ゆったりと構えた先生のお顔を見ると、執刀前の緊張感が不思議と消えて安心感に変わるのを今も思い出します。
 先生の泌尿器科への思い入れは尋常ではありませんでした。昭和57年6月、長岡で開催された日本泌尿器科学会、新潟・信州合同地方会は強く印象に残っています。武田先生の陣頭指揮のもと準備が進められ、学会はこれまでに無いほどの盛会を極めました。また懇親会には大勢の長岡の芸妓さん達が華をそえ、好評を博し、先生の面目躍如たるものでした。
 先生は長岡中央綜合病院での多忙な診療の傍ら、乞われれば何処へでも労苦を厭わずに後輩を援助されました。生涯で先生の携わった手術は膨大な件数に及ぶと思われます。また教室から預かった若手泌尿器科医の指導にも情熱を注がれました。お通夜には先生の薫陶を受けた驚くほど大勢の後輩たちが集まり、先生との別れを惜しみました。
 先生のお人柄をしいて一言で云えば思いやりの心でしょうか。まず、豪胆、雷、叱咤、負け嫌いなどの言葉が浮びますが、すぐにその陰に温かく、優しい、気配りのきいた思いやりの心が隠されているのに気づくのは私だけではなかったでしょう。
 又先生は好奇心の塊でありました。なんでも自分の五感で確かめないと承知しない。それ故、物知りである。しかし口数は少なく、専ら聞き手にまわることが多い。それでいて周りを退屈させない不思議な魅力をお持ちでした。
 旅先の老舗のみやげ物店でふっと姿が消えた。外へ出てみたが見つからない。店へ戻ると、片隅の小さな机に屈みこんでせっせと送り状を書いている。気配りの人である。
 私には黙り込んでしまう悪い癖がある。時にゴルフでこれが出る。「良ちゃん、どうした」先生から声がかかる。下手なゴルフに自分で自分に腹を立てているのだが、先生は本当に体の具合が悪いのかと心配してくれる。その思いやりに、はっと恐縮し冷汗が出た。
 武田先生は長岡中央綜合病院を退職されてからも長岡西病院に移り、泌尿器科医として腕を振るわれた。
 先生の泌尿器科学を思う心は終生一瞬たりとも揺らぐことなく、生涯を泌尿器科診療に捧げたといっても過言ではない。
 うれしいことに、ご子息、正之先生も父の意思を受継ぐように泌尿器科を専攻され、今は山梨大学泌尿器科教授となられ、学会の中堅として活躍されておられます。
 先生のご生涯は、まさに本懐とする「出藍の誉れたるべし」の実践そのものであったように思われます。
 永い間、本当にお世話になりました。心から感謝申し上げます。
 安らかにお眠りください。合掌

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名器に触れるピアノ演奏会  根本聡子(片貝医院:小千谷市魚沼市川口町医師会)

 昨年9月21日(日)、「名器に触れるピアノ演奏会」を行いました。今年で3回目を迎えるこの会は、小出郷文化会館大ホールで憧れの名器スタインウェイのグランドピアノに触れて楽しむという趣旨で、長岡市医師会の女性医師有志の会である「JOY会」を中心に生まれたものです。長岡市医師会員とその家族を中心に、医師仲間で音楽という共通の趣味を持つ者が集まり演奏し、客席も参加者と家族だけという贅沢な演奏会です。
 名器で演奏することで、鍵盤の感触や音の響きの違いが肌で感じられ、普段の練習曲でさえこれほど違うのかと実感します。もっと練習してうまくなりたい、もっと楽しみたい、という気持ちが自然に湧いてきて、習い初めの子どもから趣味で続けている大人まで、一度参加すると来年も是非、と思わせる魅力があります。
 曲目は、こどものピアノレッスン曲から、自作曲、ショパンの名曲まで、毎回バラエティに富んでいます。今回は初めてピアノとバイオリンの二重奏が加わり、さらなる盛り上がりがありました。参加者のレベルも様々で、初心者でも上手な方達に気後れする必要がなくのびのびと弾けるくつろいだ雰囲気に終始します。聴く立場では、プロ級の腕前に陶酔する場面もあれば、演奏者の緊張が伝わって観客までがはらはら手に汗を握る場面も。普通のコンサートを聴きにいくのとは違うときめきがあります。
 聴きに来られるだけの方もいらっしゃいますが、やはり参加することに意義がある弾かなきゃソン、と!?思わせる力があります。午前中に自由練習の時間を設け、午後1時半から4時半までが予定の演奏会ですが、会場を引き上げるまでの時間に、もうちょっと触ってみたいという方がピアノに群がってワイワイと心ゆくまで楽しみ、時間いっぱい余すところがありません。
 演奏が終わると懇親会です。今回は小出のトラットリア・ポポラーレで行いました。おいしい食事に緊張も解けてくつろいだ中で、一人ひとりが生の感想を述べあいます。観客は素晴らしいと感じた演奏なのに演じた本人は緊張してミスしたことを本気で悔しがっていると解り、自分ばかりではないのだと意外やら安心するやら……。会の主旨が名器を奏でて楽しむことですから、ミスも味わいのうちとばかりに話に花が咲きます。選曲した理由や思い入れ話に耳を傾けるのも心地よく、楽しい音楽談義に夜が更けて行きました。
 不定期ではありますが、年に一回の開催を目指しています。次はもっと上手く弾きたい!との意気込みに、演奏会を目指して日頃の練習にも身が入るのです。世界的ピアニストも演奏する大ホールで、ピアニストと同じピアノで演奏。一流のピアニスト気分になれますよ。あなたもご家族も一度参加してみませんか?
 会の世話人のお一人である小林眞紀子先生からのご発案もあり、来る3月22日(日)、アルカディア見附ホールでベーゼンドルファーを弾こうとの企画がありますのでご紹介します。11時からリハーサル、13時から16時半まで演奏会の予定です。参加費は数千円から1万円。詳しいことは○○○○(※省略)までご連絡を。

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新年ボウリング大会優勝記 〜復調の兆し〜  窪田 久(窪田医院)

 1月19日、恒例の長岡医師会新年ボウリング大会がドリームボウル長岡で行われました。
 まずは、今回大会に参加された方々を簡単に紹介したいと思います。
 まずは、新年会優勝5回を誇る、ベテランの野村権衛先生は、ゆったりとしたフォームからくり出される強烈に曲がるボールが持ち味です。
 そして、全国医師ボウリング大会の四人チーム戦で優勝経験のある茨木政毅先生は、新年会最多7回の優勝を達成しており、独特の高いバックスイングから、スピードのあるフックボールを投げ込みます。
 平成13年に新年会で優勝され、平成19年には驚異のハイゲーム278点を記録された技大の福本一朗先生は、回転のよいストレートボールを投げられますが、スペアのときになると左に曲げたり、右に曲げたりと器用な一面をもっておられます。
 平成19年の新年会で優勝された吉田正弘先生は、威力あるストレートボールを投げ、ストライクを量産します。
 日赤救急のドンの内藤万砂文先生は、全国大会参加の経験もある、実力者ですが、スピードのあるフックボールが持ち味です。
 昨年前半の月例会は、肩の痛みのため、休場されていた山井健介先生は、今年は元気に新年会から参加され、レーン右端からきれいなフックボールを投げられます。
 マイボールを購入後、格段にボールが強くなった高野吉行先生は、大きく曲がるフックボールでストライクを連発します。
 平成14年の新年会で優勝された高木正人先生は、最近フォームが安定し、昇り調子ですが、かなり曲がるボールを投げられます。
 そして、昨年華やかにデビューし、大方の予想通り、年間獲得ポイント第1位に輝いた三上理先生は、ゆったりとした大きいフォームからピンも折れんばかりの剛速球を繰り出し、ストライクを連発します。
 昨年の年間獲得ポイント3位の市川健太郎先生は、若いながらボウリングの幹事を長年やっていただいておりますが、スピードのある直球が持ち味です。
 3年前から参加されている新保俊光先生は、大きな体から繰り出される速球が持ち味ですが、医師会の新年会では、一昨年は麻雀、昨年は囲碁で優勝されており、今年はボウリングでも優勝を狙っていたに相違ありません。
 そして年齢不詳、紅一点の医師会事務の廣田千尋さんは、昨年8月から参加され、12月の月例会では見事に優勝しています。以前よりマイボールを持っており、その滑らかなフォームからみて、かなりのキャリアを感じさせます。
 これに、私を加えた13名で行われた今回の新年会ですが、1ゲーム目は私が236点と好調な出だしで一歩リードしましたが、2ゲーム目からレーンのオイルがのびてきて、ボールのキレが悪くなり、10番ピンのタップが多く、ストライクが続かなくなり193点と勢いが半減してしまいました。3ゲーム目は10番ピンを飛ばすため、ボールのスピードや投げるコースを変えてみたのですが、逆にドツボにはまり、2つのスプリット、ダブルなしの169点と大ブレーキ。かなりのリードと思っていたのですが、あっという間に貯金を使い果たし、これはやばいと思いました。しかし、ここで落ち着いて、フォームの点検をするように、慎重に投げるようにしたところ、再度10番ピンが飛ぶようになり、ストライクの連発で245点と快心のゲームで、4回目の優勝を飾ることができました。2位は後半追い上げた高木先生、3位は復調された山井先生でした。
 実は、私は平成17年の全国医師ボウリング大会で個人総合優勝した後から約2年半の間、長期スランプに落ち込んでいました。投球のタイミングの微妙なズレをいかになくすかと、スイング面の安定性をいかに高めるかについて、常に悩んでいました。フォームが固まらなければよいゲームができないのは当然のことですが、それが、最近になってようやく、一定の方向性が見えてきたような気がします。まだまだ、理想的なフォームとは、ほど遠いと思いますが、そろそろこのフォームで固めていこうかと思っています。最後に、今年の私のボウリングにおける目標ですが、ずばり、パーフェクトゲームです。今まで、平成14年5月から平成17年の8月までの3年2ヶ月の間に4回のパーフェクトゲームを達成していますが、その後の3年半の間は、1回もできませんでした。集中力を高め、練習でもいいから、今年中に達成して、全国大会への起爆剤にしたいと思っています。

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新年麻雀大会優勝記 〜たまに会って〜  児玉伸子(こしじ医院)

 1月31日に坂之上町の雀荘トップで、長岡医師会恒例の新春麻雀大会が開催されました。今年は参加者が少なく、前評判では一卓しか成立しないとのことでしたが、お手伝いの二人を加え二卓分のメンバーが集まりました。
 ルール進行は、前回前々回の優勝者が解説されていたような、医師会ルールで行われました。その結果は、表のように何と私が優勝してしまいました。これは、私的には想定外のできごとで、おかげ様でこの原稿を書かせて頂いています。
 ここで、6名の参加者を簡単に紹介します。
 初参加の木口先生は、1.2回戦と順調でこのまま御祝儀に優勝と原稿のお持ち帰りかと思われましたが、最後は原稿に御遠慮されたようです。初めから2位狙いを明言されていた小林先生は、想定内の3位でした。先生の原稿は、一昨年の旅行記や昨年の麻雀優勝記とたのしいものばかりで、私は隠れファンです。別の機会にまた先生の文章を楽しませて下さい。その小林先生によると、最近はドキドキすることはあっても、ワクワクすることはないとか、でも春谷先生はいつもワクワクを忘れず、たのしまれていたようお見受けしました。是非見習いたいと思っています。久しぶりに参加の田中先生、最後はちょっとツキがなかったようですが、楽しんでいただけたでしょうか?ツキは運ですから、来年は今年分を取り返し、是非原稿を書いて下さい。幹事の高橋先生は第3戦をB卓で大勝し、2位をキープされました。寡黙で強かった先代の剛一先生とは、ちょっと違った楽しい麻雀です。いつも幹事ご苦労様です。
 最後に私、児玉伸子ですが、開始当初は一年ぶりのため、上がりを忘れてしまったかとも思いました。しかし途中からツモに恵まれ、2回戦ではスーアンコをテンパイし、久しぶりにワクワクさせていただきました。その後も順調にツモを重ね、想定外の優勝に蟹缶をいただき、この原稿がなければ、極上の土曜の午後となりました。
 最近は御無沙汰続きですが、私と麻雀の付き合いは、かなり長いものになります。私の子供時代昭和30年代は、巷ではさしたる娯楽もなく、私の父親は職場の同僚と、麻雀やブリッジをたのしんでいました。そして、弟が字を読めるようになったころから、父親を先生に子供3人とで麻雀を始めました。その後成人してからも、最近でも兄弟家族が揃うと家庭麻雀をたのしんでいます。我が家にとっての麻雀は、“家族のかすがい”では大げさですが、共通の話題となるペットのようなものです。麻雀のおかげで、久しぶりでも会話がはずみ、楽しいひと時を過ごしています。実力勝負の将棋や碁ではちょっと厳しいものがありますが、麻雀は適当に運も絡んで下手でもそれなりに楽しめるので、家族団らんに最適なゲームです。
 新保先生にとって、麻雀は悪女のようなものとのことですが、子供時代から親しんでいる私にとっての麻雀は、幼馴染のマー君チュン子ちゃんです。徹夜で付き合う元気はないけれど、これからも息長くたまに会って楽しみたい相手です。医師会の麻雀大会には、未参加や御無沙汰の先生方へ、来年はご一緒にたのしまれませんか!?

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新年囲碁大会優勝記  斎藤古志(さいとう医院)

 1月24日、魚藤にて開催。参加者は次の10名の先生方でした。太田裕、大塚武司、黒川和泉、小林和夫、小林知明、斎藤古志、齋藤良司、新保俊光、杉本邦雄、三間孝雄(五十音順敬称略)
 3戦全勝者が3名出ましたが、太田幹事の提案の変則?スイスルールにより僅差で優勝に決まりました。
 話は変わりますが、一昨年の秋、碁聖戦挑戦手合第三局が長岡市で行われました。その前夜祭に私も参加しました。大勢のプロ棋士一行の中にマイケル・レドモンド九段(以下M九段)の姿がありました。大盤解説の役で来られたとのこと。会場のホテルのホールは、囲碁ファンで溢れ大盛況でした。M九段はアメリカ出身の人気棋士で、囲碁を打たない人でも知っているかもしれません。
 会が進んで雰囲気が大分砕けて来た頃、M九段はホールの隅の方にいた私を目敏く見つけて下さって、わざわざ足を運んで来られました。グラスを手にしばし歓談しているうちにふと、ずっと昔のある出来事を思い出して笑い合いました。
 記憶は曖昧なのですが、あれは昭和60年頃でした。M九段はまだ低段で内弟子生活をしておられました。
 当時、毎月一度、大枝雄介九段の内弟子達が交代で長岡に指導に来てくれていました。金曜日の夜は我々医者仲間、翌日は夕方まで碁会所の指導をしてお帰りになる。あれは春まだ浅い頃だったように思います。それとも秋だったか……。金曜日に続いて土曜日にも指導をしてもらいお帰り前の夕食に二人で出かけました。もう少し飲みましょうと行きつけのバーに河岸を変えカウンターに並んで楽しく過ごしているうちに、最終新幹線は何時か尋ねたら、M九段は知らないとのこと。当時は最終は8時半頃でした。ママさんが小さポケット時刻表を貸してくれました。
 それによると最終9時半。まだまだ大丈夫と腰を据え直しました。
 ところが少し後でこの時刻表は来月からと判明したのです。私はまっ青もしも明日大切な対局でもあっ!!たら不戦敗になるかもしれません。
 明日は何も予定がないとわかって一安心。遅れたものは仕方ないからゆっくり飲みましょうと、師匠に電話連絡をして、我が家にM九段が泊まるからと打診。普段は囲碁を目の仇にしている妻も『マイケル君ならよろしい』と快諾してくれました。深夜11時過ぎまでその店で過ごし、そのあと我家で八海山一本ペロリと平らげました。欧米人は酒が強いとは聞いていましたが22、3才の若者がこれほど強いとは。それでも翌日は二日酔いのご様子で朝食に箸をつけませんでした。
 M九段は数百人いるプロ棋士の中で最も正しくきれいな日本語を話すとの定評があります。勿論英語は上手なわけですから日本棋院の貴重な人材として活躍しておられます。今は40台半ば、中国人の美人棋士と結婚して千葉で幸せな家庭をお持ちです。またいつか長岡においでになる機会があることを楽しみにしています。

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古志十日町雪まつり  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 私の居住地である長岡市十日町(古志十日町)と隣町の片田・高島地区合同で“第一回雪まつり”が2月7日土曜日におこなわれた。
 夕方6時より町民有志のメッセージ花火が打ち上げられ十日町小学校の体育館では豚汁とおにぎりが振る舞われ、6時半から芸能カラオケ大会が悠久太鼓を皮切りに、はなばなしく幕を開けた。
 司会を担当した方は市職員(十日町町民です。)とは思えない大きな赤い蝶ネクタイにキラキラのワインレッドのブレザー姿で玉置宏さんに負けない名司会者ぶりで会を進める。青悠会による悠久太鼓のあとには「すばらしい太鼓の演奏を青悠会さんには少ない予算の中、ボランティアーで来て頂きました。もう一度拍手を。」本当に素晴らしい迫力。日本の伝統芸で第一回の雪まつりが開催されました。やはり太鼓は日本の祭りの華。ありがとうございました。
 私もセンター長さんからお声がかかったので十日町地区皆さんの健康と長寿をいのって氷川きよしの「玄海船歌」を歌わせてもらいました。歌い終わると玉置宏さんより「先生、今年はインフルエンザが随分流行したようですがこの辺りはどうでしたか?」と聞かれて、「いやあ。長岡市内は暮れから学級閉鎖やらで流行っていたようですが、こちらはそれ程には……。はい、この中でインフルエンザにかかった人は手を挙げてみて。」とステージ上から観客に問うとかなりの良い子たちがぱっと手を挙げそうなので「……なんて聞くと悪いかな。ああ、結構いましたねえ。」なんて話してステージを降りた。その後ステージ上では片田の歌姫、高島の誇る歌謡名人の爺ちゃん(年齢を聞かれて“18歳”と嬉しそうに答えておられた。)、各地区代表の子供たちの熱唱、最後に地元消防団のメンバーによるEXILEならぬ“ショボザイル”によるパフォーマンスで第一回(古志)十日町雪まつりが無事に終った。
 当初予想していた以上に盛大で、小学校の体育館に子供たちと若いお母さん、お父ちゃん達も大勢集まり、地域の活性化につながる予感がしました。この祭りに尽力された大勢の方のご苦労に拍手。おつかれさま。
 そしてインフルエンザと言えば“感染列島”。祭りの翌日の日曜日に家族で観てきました。新型インフルエンザかと思われる正体不明のウィルス感染が列島中に広がるパニックムービー。……薬が効かない。……重たい空気の中、変人のウィルス研究者のカンニング竹山の地でいっている様な名演技が笑える。看護師の国仲涼子や医師の壇れい(宝塚時代は美貌のトップ娘役。中国公演でも大変な人気だったとか)らは治療や感染拡大防止に力を尽くし、自身も感染する。……若く美しい人の死は切ない。……いや、若くなくても私はまだ死にたくはないし当院の患者さんに死なれても困る。今年もインフルエンザはこの地域でもかなり流行りましたが、タミフルもリレンザもそれなりに効果があったようで、幸いであった。いや、しかし薬が効かなかったらえらい事になるだろうなあ、と実感した次第でした。
 見終わったあと、「映画館で鼻かんでた人いたけど感激しただけじゃないよね。」「咳してた人もいたね。」「予防にマスク、マスク。」「皆、吐血したり血だらけになって死んでいくのにヒロインは割ときれいなままで亡くなるのね。」「あんなに感染が拡大したら薬も設備も医者も看護師もずっと足らなくなるんじゃないの。」「普段でも病院は医者不足なんだから。」等々皆でつっこみ、感想はつきなかったのでした。

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