長岡市医師会たより No.351 2009.6


もくじ

 表紙絵 「雨上がる(妙見堰辺り)」丸岡稔(丸岡医院)
 「故大関豊子先生を偲んで」 田辺一雄(田辺医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その14」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「どんぶりの冷やし中華」 荒井義彦(荒井医院)
 「地域連携パスについて」 副会長 富所隆(長岡中央綜合病院)

 「からすカァ太郎の畑だより」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「雨上がる(妙見堰辺り)」 丸岡稔(丸岡医院)


故大関豊子先生を偲んで  田辺一雄(田辺医院)

 背筋を伸ばされ、温かい瞳で端麗であられた大関豊子先生が平成21年5月26日にお亡くなりになりました。もう少しで白寿を迎えられたのに残念でした。
 先生は大正2年12月18日にお生まれになり、14〜5歳の頃、当時下々条村の村長をしておられましたお父様の指示で、黒津の願敬寺で恙虫の研究をされていた名古屋大学医学部の林直助教授が、研究費も少なく御苦労されていたので、そのお手伝いをされました。その林先生からのお勧めで医学を志し、帝国女子医学専門学校に入学されました。夏休みになり長岡に戻られますと林先生のお手伝いを続けられたと聞いております。昭和11年、帝国女子医学専門学校を卒業されると海軍築地病院にお勤めになり、血液の研究をしておられましたが、海軍の特攻人間魚雷「回天」にも乗ってみる機会があったそうです。戦争の激化により長岡に戻られ、昭和18年に新町で開業されましたが、20年に戦災にあわれ実家に疎開、城岡の仮診療所で診察をはじめ、24年に新町に戻られたそうです。診療は宅診、往診は徒歩、人力車、自転車、冬はそりと大変御苦労され、その後ダットサンに変わり30年間無事故の表彰も受けておられます。
 長岡市医師会活動でも昭和38年から45年まで、女性では珍しい副議長の要職を務められました。
 私が開業したての頃、先生より開業医の心構えをお聞きしたことがあります。開業医は一に在宅、二に在宅、三に在宅、四に在宅、五に学問とおっしゃられ、兎に角家にいること、そして患者さんから診て欲しいと依頼があれば深夜でも先ず診てあげること、往診して欲しいと依頼があれば往診することでありました。先生はそれを実践して多くの患者さんから慕われておられました。また先生が往診に出られる時には玄関前に看護婦さん達が並んでお見送りをしていました。職員の教育もきちんとされておられるのでした。
 昭和58年正知先生が家に入られ、大関先生から聞かされた大好きなモットーは一に在宅、二に笑顔、三、四がなくて五に学問と言われたそうです。時代が変わりましても第一は在宅で変わっていません。
 それにしましても大関先生の患者さんに対する病状の懇切丁寧な説明は患者さんの間で好評でした。
 昭和55年に平日夜間の急患で病院の先生方が大変だというお話をお聞きして、北部班で集まり種々検討をして、当番制で急患を診る制度を県内のトップをきって作りました。これが現在の夜間の急患診療所に移行しており、先生の時間外の患者さんに対するお気持ちを北部班が、そして長岡市医師会が受け継いでおります。
 帝国女子医専は東邦大学に昇格し拡充されましたが、その大学の新潟県支部長を先生は長らく勤められて後輩の御指導をされていました。また御趣味の方も弓道、琴、ピアノ、詩吟、茶道と幅広く嗜まれていましたが、患者さん第一の生活はそれ等を嗜むまた楽しむ時間を与えてくれなかったのではないでしょうか。
 大関先生は、平成4年に日本赤十字社に多額の寄付をされたことに対して厚生大臣より感謝状が、また、平成9年には長岡赤十字病院に多額の寄付をされたことに対して日本赤十字社新潟県支部より感謝状が授与されました。なお、昭和47年には長年の学校医功労で長岡市より表彰されております。また、昭和51年には国際女医会第16回にて国際会議組織委員長より功労に対し感謝状を授与されております。
 先生、長い間御苦労様でした。後は正知先生がしっかりと受け継いでおられ、お孫さん達も医師になられ先生と同じ道を歩み始めておられます。
 心安らかにゆっくりお休み下さい。合掌

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南アフリカにルーツを求めて〜その14  田村康二(悠遊健康村病院)

第9章 ケープ半島観光 10月17日(火) 晴れ

 今日はケープ半島観光だ。ガイドはまず「この町に3年位は住んでいる日本人で、安倍と申します」と自己紹介した。8:00にホテルを出発して、まず海岸沿いにケープ半島の先端にある Cape Point 目指して南下した(図9・2)。ケープタウンは、テーブル湾に面する南アフリカ共和国第2の都市で、風光明媚なところである。但し風が強い。「テーブルマウンテンのロープウエイは今日も風が強くて運行中止になっています」と言われた。テーブル・マウンテンとはケープタウンの背部にあるテーブル上の高地である。そこからの眺めは絶景だという。

1.ケープ半島に入る
 まず往路では西の沖合いには小島であるロベン島がみえた。「ここにはアパルトヘイト時代に政治犯が収容されていました。その一人が解放後初代の大統領になったマンデラ元大統領です」と説明された。このあたりの大西洋は意外なことに穏やかで、道路も別荘も海抜1メートル程の所にあった。と言うことは、海は一年を通して穏やかなのだろう。やがて山腹を這うように走っていると「眼下に鯨が勢いよく潮を吹いているいるさまがみえますよ」との話に一同色めき立った。
 やがてケープ半島の根元にあるハウト湾(図9・2のマル2)に着いた。「ハウトとはオランダ語で木の意味です。ここは木材の積み出しが盛んな港です。ここで車を降りて、船でオットセイとアザラシが多く住むドイカー島へ出かけます」ケープタウンはオランダからの移民が多いという。地中海気候に魅せられたかららしい。しかし後にイギリス軍との戦争に負けてイギリスの植民地になってしまった。
 乗った船は海難救助船の型のタグボート式だったが、大揺れした。中国人の男性5人が乗り合わせていた。中国は南アフリカやアフリカへの進出を盛んに図っている。そこから約1万頭のミナミアフリカ・オットセイが群生しているドイカー島へ向かった。港を出ると外洋の大波にもまれ、立っているのが大変な状態だった。オットセイが小島のドイカー島、を埋め尽くしている様を見た。その数は6,000〜5,000頭だという。海鴨も多く居た。「この辺りの水温は摂氏10度位です」と説明された。
 その後に喜望峰が良く見えるケープポイント(図9・2のマル3)に移動した。ケープポイントの手前で道路は終わっており、その先はケーブルカーで行き、更に灯台が立つ山頂に向かって歩いた。展望台からは左に広がるインド洋と右に広がる大西洋を一望できた。眼下にはケープ半島最南端の岬に押し寄せる大波が見え、「嵐の岬」とも呼ばれ海の難所として知られる喜望峰の荒海を実感した。「アフリカ最南端は?」と聞くと、ほとんどの人が喜望峰、と答えるに違いない。さてその喜望峰。本によると1488年、ポルトガル人、バーソロミュー・ディアスが発見してその9年後、同じくポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが近くに上陸し、街を作ったことになっている。そのヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を切り開いた頃、時のポルトガル王が喜望峰と命名したらしい。ここからは喜望峰(図9・2のマル4)が良く見えた。荒々しい大西洋とインド洋の接点にあり、実に荒々しい海である。「この荒波の先を南極クルーズ船で行けば南極にたどり着けるらしい」と傍らの家内にいう。「ロンドンからの現地ツアーに参加すれば、ここからなら飛行機でも南極へ行けると聞いたよ」と言うと「長岡の雪景色にアザラシがいるだけの所なんて、つまらないじゃない」「私はいやですから、あなた1人で行ってらっしゃい」と言われる。1人で行くのは心細いので、残念ながら南極旅行は諦めざるを得ない。南極に行くには他にチリからマゼラン海峡を船で3日3晩大揺れに揺られて行く方法もある。しかしこの船酔いには我々は到底耐えられないだろう。「北極へは行ったんだから、南極もと思うのはロマンだよな!」と言うともう返事は無かった。
 南極は南アフリカと地続きだったという痕跡を発見した独の地質学者ウェゲナーが「パンゲア大陸」と命名した。2億年前に地球上唯一の超大陸「パンゲア」が出来て、やがてそれが分裂していまの大陸の構造ができたという。その後数々の海底探査により古代大陸そのものの痕跡や大陸分断の痕跡などが次々立証されてきた。更にその後「大陸移動説」を発展して地震を説明する「プレートテクトニクス理論」が生まれた。
 アフリカ大陸をひたすら南下してきたご祖先は、ケープ・タウンの地に到着して先が海だけなのを知った時にどう感じたのだろうか?ケープタウンの近くで大西洋側の西海岸のLangebaanにも「イヴの足跡(Footprints of Eve)」と呼ばれる化石が残っている。これは、人類の祖先が残した最も古い足跡とされている。
 ところで先程ケープ半島という先が尖った半島の先端(図9・2のマル3)は実は喜望峰ではない。正確には先端はCape of Good Hopeと言う名の場所(図9・2のマル4)だ。
 そこには喜望峰の碑が立ててあり、そこにはアフリカ最端と書いてあった。この看板の前で一同記念写真をとった。この地へ間違いなく来たという証明書も頂いた(図9・3)。ここは南アフリカ共和国にあるアフリカ大陸の最南端と誤解されがちだが、実際にはここから東南東へ約150km離れているアガラス(アグラス)岬がアフリカ大陸最南端だという。やはり、来て見なくちゃ分からないものだ。その後でレストランSea Forthで期待のロブスターを食べた。
 昼食後は半島の東側、インド洋側、へと走った。途中の幾つかの街は、まるでヨーロッパの何処かの港街を走っているような気分にさせてくれた(図9・4)。南アフリカ共和国発祥の地のこのあたりには、当時の古いままのヨーロッパがまだ残っているようだ。そしてこのあたりは、ワインの名産地としても世界的に有名な所なのだ。古いワインセラーが幾つもあり、醸造所も見学でき、旨いワインを飲ませてくれる。

2.ケープ・ペンギン(アフリカペンギン)は絶滅危惧種
 「アフリカ・ペンギンの生息地は、不思議なことに人家のすぐ傍にあります。」と説明された。Cape Pointから東に約30分ほど移動し、BouldersにあるTable bay national park(図9・2のマル5)でそれを見た。
 フンボルトペンギン属にはフンボルトペンギン、ケープペンギン、マゼランペンギン、ガラパゴスペンギンの4種類がある。ケープペンギン、
別名アフリカペンギン、の体長は70cm位でアフリカ大陸南部の沿岸海域のケープタウン周辺にだけ見られる。この1世紀間で生息数が20分の1ぐらいに減ってきているので、絶滅危惧種として保護されている。「原因は、人間による卵の乱獲や生息地の減少以外にも、船からの油の流出事故による被害も多いからです」と説明された。
 夕方、ホテルに繋がっているショッピング・センターへ再び行った。ダチョウの卵に世界地図がプリントされている物を、孫の土産にと買い求めた。

3.高齢者の海外旅行はボケ予防になる
 平成18年の社会生活基本調査によると、海外旅行者率は男性では65〜69歳・10%位、女性は25〜29歳が18%位と最も高い。しかし私のように70歳を過ぎると5%以下に激減してくる。今回のツアーでは中高年者が多かったが、私たちが最長老であった。好奇心による旅行はボケ予防になると思って続けている。(続く)

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どんぶりの冷やし中華  荒井義彦(荒井医院)

 暑い日が続いてくると食べたくなる昼食の定番が冷やし中華だ。但し、栃尾の町で普通にいう冷やし中華は、どんぶりにたっぷりのしょうゆ系のスープに麺がういている冷たいたべものである。要するに、普通の中華そばの冷やしたもの(のびたものではない)をイメージしていただければ、想像に難くない。
 栃尾の冷やし中華のルーツは、横浜のラーメン博物館に製麺機を寄贈した老舗の、鈴多食堂のご夫婦によれば、先代が昭和20年代に試行錯誤の末に創めたとのこと、それが栃尾の町じゅうの食堂に広まり、今では店々で各々に進化している。店によってスープはあっさり系からこってり系まではばひろく、具もチャーシュー、シナチクは当たり前で夏野菜のトマト、きゅうりからぶっかき氷の入ったものまである。
 恥ずかしながら、栃尾生まれの栃尾育ちの小生は、高校生になって長岡にでていくまで、皿の冷やし中華なるものを知らずに育った。はじめて皿の冷やし中華を食したときは、酢の味が好きになれず、すっぱい変なたべものだと感じたことを今でも鮮明に覚えている。しかし慣れとは恐ろしいもので、現在ではこちらのほうの味覚も楽しんでいる。ついでに言わしてもらえば、調味料のねり辛子はあったほうがよいが、若い人たちのようにマヨネーズまでかけて食べようとはおもわないが。
 それはさておき、天地人ブームでもあり、上杉謙信公ゆかりの史跡の多い栃尾に来られた折には、はなしのたねにでも一度どんぶりの冷やし中華を味わってみてほしい。あぶらげ以外にも美味しいものがあるので。

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地域連携パスについて  副会長 富所 隆(長岡中央綜合病院)

 この度、長岡市医師会では市内の3病院と共同し、胃がん・大腸がん・肝炎の3疾患に対して地域連携パスを作成いたしました。これは、診療所の医師と病院の医師が一人の患者さんの治療経過を共有できる「治療計画書」の事です。病状が落ち着いているときや普段の通院は自宅近くの診療所(かかりつけ医)が診察を行い、専門的な治療や定期的な検査が必要な時は病院に受診する体制です。この治療計画書を患者さん・診療所・病院の三者で共有することで、同じ認識で診療を続けることが可能になります。
 また、良質で標準的な医療を無駄なく提供することができ、インフォームドコンセントの充実が図られ、さらに病院勤務医の負担の軽減につながります。
 昨年の9月からほぼ毎月検討を重ね、漸く上記3疾患に対してのパスが完成いたしました。
 今のところ胃がん・大腸がんは化学療法の不要な治癒切除後の経過観察例、肝炎に関してはC型慢性肝炎・無症候性HBVキャリア・B型慢性肝炎のうちインターフェロンや核酸アナログ製剤の投与適応例を除く症例に限られています。今後運用を開始したうえで問題点の解決を図りながら、適応疾患の拡大も視野に入れ検討を進めていく予定です。
 また、医師会では今後呼吸器疾患・腎疾患・糖尿病などの慢性疾患についても地域連携パスの整備を推し進めていく予定です。中越地区であればどこでも安心して安全な医療が受けられるように努力していきたいと願っています。
 なお、今回のパスに関する詳細は、後日医師会よりご案内いたします。その際、パスを利用しても良いと思われる診療所の先生を募りたいと考えています。ご協力お願いいたします。

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からすカァ太郎の畑だより  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 「あ?先生が“まさおくん(小型乗用草刈り機)”に乗っている。畑に行くんだ。ぼくもついていこうっと。」
 皆さん、こんにちは。ぼくは十日町村の岸医院の一番高い杉の木に住んでいるカラスのカァ太郎と申します。
 「えっ、カラス、嫌いだなあ」なんて言わないでください。カラスはもとは神様のお使い鳥。ぼくのご先祖は三本足のヤタ烏。天照大神のお使いで神武天皇の熊野から大和に入る険しい山中を導いたんだ。今は日本サッカーチームをゴールに導くシンボルとしてエンブレムにもなっている。
 都会のごみ箱を荒らす奴と違って、畑の旬の野菜を一番最初に食べれるぼくは住家と餌を与えてもらっている恩を忘れない礼儀正しいカラスです。子供をいじめたり、人の頭の上に糞をして喜んだりは致しません。「あっ、先生、ぼくを置いていかないで。」
 先生は畑の通り道と空き地を刈っているからぼくは畑を見て回ろうっと。さすがに苺はもう終わり。ぼくたちカラス族は赤いもの、キラキラ光る物はよく見えるんだけど、先生の畑は雑草で赤くなった苺が隠れてわからなかったからあまり食べれなかった。もう少し草取りしないとね。
 先生の畑のまわりのベテランたちの畑は草一本も無い。苺が赤くなればすぐ見つけて食べられるのにねえ。次はじゃがいも、花盛りが三畝も。お隣さんが余ったからと植えてくれたのが良くなってる。あっ、良い風が吹いてきた。
 畑にはこの風が大切なのさ。雨とお日様だけじゃあ良い作物は育たない。建物に邪魔されない風通しの良い野良でこそ良い作物が育つのさ。人間の社会ももっと風通しを良くしてやらないと良い人間が育たないかも。
 枝豆はすごいな。早生、中生、茶豆に晩生とこんなに作って誰が食べるんだろう。ちゃんとみんな芽が出て良く育っている。「ぼくは豆は食べません。播いた豆を食べるのは鳩ぽっぽ。今年は鳩をぼくが追い払ってやったんだ。えっへん。」
 きゅうりは初成りがなっている。もう少し大きくなったら雨あがりのみずみずしいのを戴こうかな。トマトはもっとしっかり棒たてをしないとたおれるよ。
 向こうはサラダ畑。サニーレタスは虫がつかないからいいよね。いつかテレビでハリウッド女優で農業もしている工藤夕貴が、サニーレタスはキク科植物なので、キク科植物は虫がつかないんだ、と言っていた。ハーブはルッコラにバジル、イタリアンパセリとにぎやかだけど、ぼくは好きじゃない。
 とうもろこしは夏、お盆の頃かな、待ち遠しいな。この前の年は狸に先を越されて全部食べられてしまった。「あすありと思う心のあだコーン夜半に狸の喰いに来るらん」(「あすありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」by 親鸞聖人)
 でもお寺に住んでいた狸一家はお引越ししたから今年は大丈夫かな。
 そして最後にスイカ。今年初めて苗を植えてくれてありがとう。ぼく、スイカは大好きなんだ。食べごろになったら一番成りを戴こうっと。もっと肥料をたくさんやらないと甘くならないよ。
 あれあれ、畑を見回っていたらいつのまにかもう夕暮。西のお山に大きな夕日が空を真っ赤に染めている。みんなも寝床に帰るところだ。ぼくも日が落ちる前に、竹林越しにそびえているあの杉の木のお家に帰ろう。カラスが鳴くからかーえろ。かあ〜。

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