長岡市医師会たより No.353 2009.8


もくじ

 表紙絵 「昼下がり」 下田四郎
 「シモちゃん(下田四郎先生)の思い出」 関根光雄(関根整形外科医院)
 「下田四郎先生を悼む」 高木昇三郎
 「正体見たり!」廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「長岡での初ドライブ」渡邉佳緒里(長岡赤十字病院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その16」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「長岡大花火2009」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「昼下がり」 下田四郎


「シモちゃん」(下田四郎先生)の思い出  関根光雄(関根整形外科医院)

 「下田君の話はよく人を笑わせるなあ」といって感嘆された恩師の故河野教授の言葉がよく思い出される。それは私が個人で12人乗りのボートを持っていて、それに河野教授、下田先生、長部先生と私が乗り合わせキス釣りを行った時の河野教授の讃嘆の辮である。
 下田先生と初めて逢ったのは、彼が小千谷病院を辞めてその挨拶を兼ねて小生宅を訪れた時である。
 それ以後、長整会とかいろいろの機会で顔を合わせる度に彼の巧みな話術とその内容に笑わせられたり、感心させられたりして今日に至っている。
 彼はいろいろな趣味を持っていたがその一つに絵画がある。いつも私の目の前には彼から贈られた茄子の絵がある。もともと図画工作が大の苦手であった私にこれでもかというぐあいに上手に画かれている。
 以前は拙宅で今は亡き私の家内ともども彼の話に引き込まれたものであった。
 彼の体調不良もあって、年に数回催される蒼整会(長岡市開業医の会)も数年間は欠席であったが、この春一時体調がよく、私に電話でこの次からは出席すると連絡をもらい、幹事であった山川先生にその旨を伝えて7月16日の蒼整会に出席するよう電話したところ再び体調不良で中止とのことで、結局その状態で回復することなく最期を迎えたわけである。
 以前は耳鼻科の加納先生を含めて定期的にもちまわりで麻雀をやっていたが、早々と加納先生が亡くなり(その葬儀のため事務星君の結婚式不参加であった)以後シモちゃんとはお手合わせする機会がなくなった。同じくらいで勝った負けたはお互い恨みっこなしの状態であったと思う。
 シモちゃんは昭和45年秋に立川病院を辞めて現在地で開業し、患者さんも多く、評判もよかった。小生は同年12月に一足おくれて開業したが評判も患者の数も及ばなかった。兎に角市内で整形の開業医は2軒だけでその状態は数年間続いた。現在は十数軒でそれなりにみんな盛業を誇っていられるのは結構なことだと思う。
 いずれにしろ本当に親しくしてもらったシモちゃんが亡くなってこんなに淋しい思いをしたことはない。
 いずれ私にも順番がまわって来るのであろうがそれまでは一生懸命生きていく所存である。
 以上親しかったシモちゃんの逝去を悲しみ乍ら手向けの言葉としたい。合掌

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下田四郎先生を悼む  高木昇三郎

 医師会より下田先生の元気だった頃の思い出を書けとの連絡に困りました。身内でもあり(家内の弟)、書きづらい面もあります。開業してからも病気気味で四郎の記憶の第一に感ずるのは入院また入院をくり返しておりましたこと。その後、血小板減少症になり、輸血をくり返しておりましたが、増加を認めず八月に他界しました。

 人は末代 名は永久である

 若い頃は手術もやり、入院も受け入れておりました。四郎の診療を、若い奥様が手足の如く応援してもりたてて下さいましたこと、改めてお礼申し上げます。関原の自宅300坪に草が生えてシルバー人材センターに草を刈ってもらい、四郎も草を引きぬき花をつんで喜んでいましたことを昨日のように思い出します。
 突然の追悼文でお粗末ですがお許し下さい。

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正体見たり!  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 「あ〜、又鳴いているねェ。」と、女房殿が言う。耳を澄ますと「キー、キー。」に近い様な鳴き声が聞こえて来ます。四、五年前迄は何かの機械の音だろう、しかし何故夕方から聞こえ始めるのだろうか、等と考えていました。ところが、三年程前の或る日、その「音」が工場等とは全く関係の無い公園の方から聞こえ、しかもそれが電線の方からである事に気が付きました。変だなァ〜と思いながら外へ出て見ると、何か黒い塊が電線の上に、その上、件の「音」はその塊から聞えて来るのです。何だろう?と思って見ていると、その塊が翼を広げ、音も無く飛び去ったのです。夜でもあり、シルエットだけでしたが、比較的丸く大きめな頭、しかも嘴は普通の鳥とは異なって突き出してはいない。更に、暗く成ってから活動し始める。梟、ミミズク系に特徴的なプロフィール。さて何だろう?あまりにも漠然とした情報のみで全くお手上げでした。「声はすれども姿は見えず、本に貴方は……の様な」、等と埒も無いフレーズが空しく消えて行きました。
 そんな或る日、何時もの様に朝の自転車通勤の途中で、行商の小母さんと客のお婆さんが近くの木の枝の茂みを指差しながら何事か話しています。聞くとも無く、見るとも無く通り過ぎようとした時、あの鳴き声が聞こえて来たのです。自転車を止めてよく見ると、木の葉に隠れて全体は見えないものの、茶色と黒を主体とした羽根と、白っぽい茶色と黒の斑模様の腹部が見えます。しかし、通勤途中でカメラも無く、時間も無いと言う事で、梟系だと言う事を再確認しただけに止まりました。
 そういう経過が有ってのこの鳴き声。此処で会ったが百年目、声も近いしカメラも有るし、正体掴まで置くべきや!。意気込んで飛び出して鳴き声の元を探ります。居た!電線の上に初めの時の様に黒い塊が居ました。出来るだけ大きく、と思いながらシャッターを押すのですが、落ちない。カメラに付属のストロボではパワー不足か。色々条件を変えてみると、何とか一枚取れました。頭に飾り羽根が有るようです。ミミズク系だな(写真1)。続いて前面に回る、同じ条件なのにシャッターが下りない。相手は羽根の有る鳥、いつ飛び去ってしまうかと思うと焦りが出てしまいます。駄目か、と思った時シャッターが下りました。以前見たのと同じ腹部の模様が写っていました(写真2)。後は図鑑と首っ引きで、と考えたのが甘かったのです。帯に短し襷に長し、ピッタリ来ないのです。尤も、図鑑と言っても写真を主にした簡易な物では有ったのですが。こう言う時は文殊の知恵、他力本願、数頼み。仲間のK医師に話を持ち込みました。彼の弟さんは鳥等にも詳しいのです。と言う事で、後日、近所の行きつけの焼き鳥屋で「緊急サミット」の開催と相成りまた。「『トラフズク』じゃあないか、と彼氏は言うんだけれど」と、K医師が言うのですが、しかし、非常に猛々しい外見(頭の飾り羽根が大きい)と、鳴き声が「ウォ、ウォ」と言う事で、しっくり来ません。かと言って他の物は外見、季節などで合わず。喧々諤々の内にこちらが「トラ」になりかかり、サミット終了、結論に達せず、残念。
 何と無くスッキリしないまま時は過ぎ、あの鳴き声も聞こえなくなったなァ。などと思い始めた頃、或る新聞の囲み記事に目が留まりました。長岡市役所本庁脇の桜の木の「トラフズク」の親子の話と写真が載っていたのです。皆様の中には、「あ〜、あれか」と、お気付きの方も居られるかと思います。それに寄れば、市街地で営巣し、十年程前から当市内でも確認されているとの事。鳴き声についても、親鳥に餌をねだる子鳥の声が「キー、キー」と聞こえるとの事。解決!「これにて一件落着、目出度いのう。」と、一人ゴチタのでは有りました。目出度し目出度し。
 え?、「子鳥は如何した?。」と仰いましたか?。お任せ下さい、抜かりはございません。初めの二枚を撮った数日後、例の鳴き声に外へ出たものの暗くてさっぱり分からず、暫く目と耳を慣らしつつ、此処と思われる御近所の庭の松の木で蠢く塊を見つけて撮ったのがこの写真です。(写真3)未だフックラとした綿毛の残る可愛い姿も確認してございます。さて、来年も会えると良いのですがねェ。

 

 

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長岡での初ドライブ  渡邉佳緒里(長岡赤十字病院)

 初めまして。初期研修医2年目の渡邉と申します。新大病院所属の研修医ですが、昨年の10月から長岡赤十字病院で研修中です。
 私は大学1年生の秋に運転免許証を取得してから、6年間ペーパードライバーでした。この度長岡で研修することとなり、通勤距離がやや遠いことや冬に雪が積もることから、夫の車を借りて初の独力でのドライブライフが始まりました。車は、夫が知人からいただいたセダンで、ナビやETCは付いていません。長岡市内の地図も持っていなかったので、初めは病院、古正寺、自宅の周辺を迷いながらゆっくり目に走りました。幸い自損事故も起こさずにすみました。
 初めて高速で新潟へ行くとき、ついに事件が起こりました。高速道路入り口で、なんと通行券をとらず、ETC搭載車よろしく一般用レーンを突っ切ってしまったのです。あっと思ったときには既に遅く、危なくてバックはできない位置にいました。車を路肩に止めてまごまごしていると、料金所の方が気づいて通行券を持ってきてくれて事無きを得ました。きっと、年に一度いるかいないかの滑稽な車だったことでしょう。
 そんな私も、何度か長岡−新潟間を往復するうちに百ウン十キロで飛ばせるようになりました。でも、ドキッとすることもありました。ある時、右車線に入って目的の車を追い抜き、さて左車線に戻ろうと、バックミラーをみると、まるで渋滞時の様に後続車が目一杯車間距離をつめてきているではありませんか。私はあわててアクセルを踏み込んで、やっと左車線に戻りました。その車は砂埃を立てんばかりにあっという間に豆粒ほどに小さくなっていきました。私は、胸をなで下ろしながら、なんてマナーの悪い車だと舌打ちしながら見送りました。一息つきながら、あの車はものすごく急いでいたのか、非常にせっかちなドライバーなのか、どちらだろうと考えました。おそらく後者だと思います。車体の内で顔が見えないドライバーは、仮面舞踏会やネット犯罪の様に、過激な性格を持つ人はその一部が表れてしまうのでしょう。普段は弱気な私が、百ウン十キロも出してしまうのも、同じことかもしれません。こんな車もいれば、きっと車内のBGMはフォークソングだろうと思うような、呑気なペースの車もいます。素人ドライバーの私にとって、高速道路は、観察していてなかなか刺激的な場所でした。
 楽しかったドライブライフも、長岡での研修終了を待たずに、一旦幕を降ろすことになりました。また、まもなく医師免許も一時ペーパー化します。もちろんどちらも免停ではありません。赤ちゃんができ、お腹が大分大きくなってきたからです。出産はお盆頃の予定で、しばし女の人生の楽しみを満喫するつもりです。妊娠中は、体力的には疲れやすくなりましたが、病院の先生方、スタッフの方々のお気遣いのおかげで、大変快適に研修を続けることができました。この場を借りて、心から感謝申し上げます。復帰は、大学病院での初期研修の途中からとなりますが、どこかで長岡の先生方に再びお世話になることがあると思います。その際は、どうぞご指導、ご鞭撻をよろしくお願い致します。それでは。

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南アフリカにルーツを求めて〜その16  田村康二(悠遊健康村病院)

第11章 首都プレトリアの花と驚くべき影

第8日目、10月18日(水)
 最後の目的地である首都プレトリアに向かって、朝07:00にホテルを出発した。ケープタウンから09:15のブリティッシュ・エアウエイズ6406便でヨハネスブルグへ向かった。約2時間の飛行だった。

1.プレトリア市内の観光
 ヨハネスブルグに11:15に着き、直ちにバスでプレトリアへ向かった。約60キロ走って到着して、そこでプレトリアの市内観光をした。現地のガイドから「警官が1日1人の割合で死ぬ街です。くれぐれも安全にはご注意下さい」とこの街での物騒さを忠告された。
 南アフリカの日本大使館の情報によると、首都プレトリアの治安は悪い。凶悪犯罪については、殺人事件、殺人未遂事件、武装強盗及び強盗事件が減少、強姦及び強姦未遂事件は横ばいだが、在留邦人の脅威となる武装強盗の中の住居侵入強盗、現金輸送車襲撃事件は逆に増加し、薬物関連犯罪も急激に増加している。2005年4月から2006年3月までの1年間における主要犯罪の発生状況は次の通り。殺人18545人、武装強盗119726件などが起きている。身代金目的誘拐は2320件も起きている。
 昼食は国立公園内にあるレストラン・Rademeyersで美味しいフランス料理を頂いた。特別に配ってくれたPorcupine(ヤマアラシ)の針、長さ30cm位、で果物を突き刺して食べた。

2.ジャカランダの花々
 今回の旅の中心の一つは、ジャカランダの花をみることだった。そこで食後には町中に咲きほこっているジャカランダのお花見に出かけた。プレトリアの町はジャカランダのむらさき色の花で覆われていて一面がとても鮮やかだった。その数万の花が地面に落ちて、まるで木の下にむらさき色のじゅうたんをしきつめたかのように見えた(図11・1)。
 最初にジャカランダを植えた人は1888年にプレトリアに住んでいたシィリアーズで、2本のジャカランダをジャカランダの原産地であるブラジルのリオデジャネイロから輸入した。それにしてもアフリカと南米とは元々1つの大陸であって、2つに分裂したとされている。しかし南米ではゴリラ、オランウータン、更にヒトは発生しなかった。まことに不思議なことである。
 ジャカランダは確かに見事な花の開花であった。町中がジャカランダの花の紫で埋め尽くされているといっても過言ではない。街路樹は勿論ジャカランダで、個人住宅にもこの花が溢れていた。
 バスの中から市内観光をしていても、白人は1人も見かけなかった。白人は全てがこの町から撤退して、多くは郊外や近くに新しくできたサン・シティに移り住んでいるらしい。まさに米国に勝る住み分けである。市内にある立派な住宅はかっては白人が住んでいたが、今では黒人の富裕層が代わって住んでいると聞いた。その家の門には「警告する!もしもこの家の敷地内に浸入したら、銃で防衛する。警備会社」という看板が掲げられていた。アメリカでも自宅の敷地内に無断で侵入した者を射殺しても、自衛のためで、罪には問われない。車のドアに無断で手をかけた者を、射殺してもいいとされていることを思い出した。開拓記念碑やクルーガー大統領の質素な家を見学した。
 ホテルは町の中央にある立派なSheraton Hotelであった。「ホテルの外には決して出ないで下さい。安全の保障はできませんから」と再び注意された。やはりプレトリアなのだ。
 夕食はプレトリアでは有名だというフランス料理店・Le Madeleinで頂いた。郊外の住宅地の中にあり、このあたりには黒人は全くみかけなかった。メインはアヒルのオレンジソースと白身魚のチョイスだった。南アフリカのワインは美味いし第一安い。南アフリカ共和国南西海岸沿いのコースタル・リジョンと呼ばれる地域は、南緯度の温暖な地中海34性気候に位置し、ぶどうの生育に適した豊かな陽射しと土壌に恵まれているので良質のワインが出来ている。これを楽しまない手はない。ちなみにdopeという地酒は酒のリストにはなかった。南アフリカ共和国の原住民カフィール族は、地元の強い酒(dope)を飲んで、士気を高めるために使用しているという。これがスポーツで問題になっているドーピングという言葉の語源だとされている。こうして南アフリカ最後の夜は楽しく更けていった。(続く)

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長岡大花火  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 夏が来た。8月も近づくとそろそろ皆の話題は長岡大花火に集中。しかし今年は梅雨明けがまだはっきりしない。花火は8月の2日と3日と決まっているが、お天気はどうか。
 昨年は花火初日に花火見物に行ったので、二日目のみ打ち上げられ大好評だったNHK大河ドラマ記念特別花火「天地人」を見逃してしまった。今年は定額給付金を頂いた事でもあり、2日と3日の有料自由席を購入して両日とも土手で長岡花火(ナイアガラ、三尺玉、天地人、フェニックス)を堪能できた。
 毎年バージョンアップされる長岡の花火。8月2日は日曜日とあって過去最高の47万人の人出で土手の有料観覧席への通路は封鎖されている。通れない人に申し訳ないような気持ちでチケットを提示して通してもらい、なんとか場所を確保する。
 ぽつりと小雨があたる。降るかなと空を見上げているうち、森市長の「“天地人”のかよ役のあき竹城さんとお船役の常盤貴子さんをお迎えしております。」という誇らしげなご挨拶で打ち上げ開始となった。次々にベスビアス超大型スターマインなど特大の花火が打ち上げられる。しかし風が無いのと曇天のため大型花火の上半分くらいがかすんで見える。途中から小雨が降り出し稲妻が空を一瞬明るくする。降る。これは降る。絶対大ぶりになる、と思いつつフェニックスを観ないうちは土手を去れない。ついに傘をさしながらのフェニックス観賞となった。超ワイド2.7キロ十五か所からの打ち上げ。打ち続く天災からの復活と復興の願いを込めて広がる光のスクリーン。感動したが終るを待っていたかのように雷鳴と大粒の雨。雨足はさらに強くなりアナウンス嬢の「本日の花火大会はこのフェニックスを持ちまして終了とさせていただきます。」という放送が流れると、滝のような雨。人ごみにもまれつつびしょぬれで駐車場にたどりつき、やっとのことで家路についたのである。
 8月3日、一転して晴天。爽やかな夕風が打ち上げの際の煙を流してくれ、透明な夜空に次々と大型花火が打ち上げられた。ナイアガラは長生橋いっぱいに白い火花の帯が信濃川へとなだれ落ち、三尺玉は夜空いっぱいに大輪の花を広げる。“泣き虫与六の涙”花火ではゲストの与六役の加藤清史郎君が見守るなか、なき顔型の花火が打ち上げられ、最後には笑顔の花火が夜空をかざって観客の喝采を浴びた。
 そして今年の花火はなんと言っても天地人とスーパーフェニックス。音楽と色彩の妙でドラマチックに夜空を彩る。それもその筈、天地人花火は、作曲家であり花火師であり、俳優加山雄三さんの息子さんでもある池端信宏さんの総合プロデュース。2日の天地人の音楽はNHKの大河ドラマのテーマ曲であり、3日の曲は池端さん作曲の“愛と勇気を”に合わせて演出されたのだそうです。
 夜空を埋め尽くす大輪の花々に、最高!これこれ、これが無くちゃあ、という感じで枝豆をつまみながらビールを飲み干す。ちなみにこれはうちの畑で採れたての枝豆。とうもろこしも丁度とれ頃の筈であった。が朝畑に行ってみると大変きれいに喰われていた。カラスのかあ太郎の仕業か?狸か?「この食べ方はカラス」と言う人と「狸の親子連れがあるいていましたて。」と言う人と…。いずれにしろ見事に食べていったもの。旨かったかな。
 そしてついに最後の空いっぱいのスーパーフェニックス。これは言葉にならない素晴らしさでした。心に届く花火、感動しました。

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