長岡市医師会たより No.356 2009.11


もくじ

 表紙絵 「与板にて」 丸岡稔(丸岡医院)
 「弔辞(故田中健一先生)」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「父、田中健一の想いの中にある小国」 田中耕太郎(富山大学附属病院)
 「精神医療センター班の現状」 丸山直樹(県立精神医療センター)
 「英語はおもしろい〜その2」 須藤寛人(長岡西病院)
 「開業一年の感想」 堀高史朗(ほり内科医院)
 「開業一年目の雑感」 八百枝潔(眼科八百枝医院)
 「よろしくお願いします」 田中晋(三島病院)
 「音楽と旅」 松元朋子(長岡赤十字病院)
 「冬の夏みかん」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「与板にて」 丸岡 稔(丸岡医院)


弔 辞  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

 本日ここに故田中健一先生のご葬儀にあたり、先生のご霊前に額ずき、深く哀悼の意を表し、長岡市医師会員を代表してお別れの言葉を申し上げます。
 10月24日、先生の突然のご訃報に接した私は、一瞬言葉を失いました。同時に、3年程前に脳出血後遺症のリハビリのため入院中の先生をお見舞に伺った際のお姿が浮かんでまいりました。その時の先生は、右半身が不自由であられたにもかかわらず、私が失礼する際には、車椅子から立ち上がり、見送ってくださいました。そのお姿を見て、またきっとお元気になられると安心したことを思い出します。思えば、この時が先生とお会いした最後になってしまいました。
 先生は、刈羽郡小国町、現在の長岡市小国町のご出身で、昭和23年金沢医科大学(現金沢大学医学部)をご卒業後、小児科学教室に入られ、その後しばらく文部教官助手を勤められた後、昭和32年健康保険高岡市民病院に小児科医長として赴任されました。そして翌年、長岡に戻られ荒屋敷町、現在の表町に田中小児科医院をご開業になられました。以来、平成18年に脳出血で倒れられ、やむなく医院を廃止されるまで実に50年近くもの永きにわたり、地域の小児医療にご尽力されてこられました。
 この間、多忙な診療の傍ら長岡市の学校保健に、また、医師会の活動にも多大なご尽力をいただいております。
 学校保健においては、永年市内小学校の学校医及び保育所嘱託医として児童生徒の健康管理、増進に貢献され、昭和63年にはこのご功績により長岡市表彰を受けておられます。
 医師会活動では、昭和45年から昭和51年まで当医師会理事、昭和51年から昭和55年まで副会長を務められ、昭和55年4月には第13代の会長に就任されましたが、就任早々に体調を崩され、残念ながら同年6月に惜しまれつつ辞任されました。幸いその後は体調も回復され、医師会執行部を側面から支えていただきました。私が役員になってからは、医師会の会合でたびたび乾杯のご発声をお願いし、その都度快くお引き受けいただいたことが印象に残っております。
 先生の医師会役員としてのご功績は数多くございますが、中でも休日急患診療所の立ち上げが特筆されます。当時、急患診療体制が全く整備されていない中、先生は設立準備委員会委員として、昭和49年4月の総会承認からわずか2か月ほどで診療開始というハードスケジュールを見事にやり遂げられました。数々の困難を解決し、わずかな期間で開設にこぎ着けた先生を始めとする準備委員会委員の方々の多大なご尽力により、当長岡市の急患診療は全国に誇れる体制へと発展してまいりました。改めて厚く感謝を申し上げたいと存じます。
 もう一つ特筆されるべきものに、医師会報への「長谷川泰先生略伝」の執筆が挙げられます。済生学舎創設者である長岡出身の長谷川泰先生の伝記を、平成2年から11年にかけて実に50回近くにも亘り執筆されました。この先生の「長谷川泰先生略伝」は、長岡の医家についての第一級の史料であり、医師会の貴重な財産となっております。
 この他のご趣味の面では、園芸がお好きであられたと伺っております。そして、ご出身の小国町の自然、風土をこよなく愛され、暇を見つけられては山や畑へ出かけて楽しんでおられたとのことです。温和で優しい先生らしいご趣味で、そのお姿が目に浮かんでくるようです。
 また、先生のご子息は、現在、富山大学附属病院神経内科教授であられる耕太郎先生、新潟大学小児科准教授を経て、現長岡中央綜合病院小児科部長の篤先生と、様々な分野でご活躍になっておられます。先生は後顧の憂いはないものと拝察いたしますが、ご親族の皆様方のご心痛を思いますと、お慰めする言葉もございません。ただただ先生のご冥福をお祈りするばかりでございます。
 田中先生、本当にお疲れさまでした。これからは、天国からご親族、地域の医療をお見守りください。
 先生との名残りはつきませんが、そろそろお別れしなければなりません。
 最後に、永年にわたる先生のご尽力に会員一同心から感謝申し上げ、お別れの言葉といたします。田中先生、ありがとうございました。安らかにお休みください。合掌

平成21年10月26日(※故田中健一先生告別式にて)

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父、田中健一の想いの中にある小国  田中耕太郎(富山大学附属病院神経内科教授)

 私の父、田中健一は大正12年11月9日に、田中英篤とセツ(旧姓野神)を両親として、セツの実家のある新潟県西蒲原郡(現燕市)米納津村大字佐渡山で生まれた。田中の家は代々、新潟県刈羽郡(現長岡市)小国町大字相野原にあり、江戸時代には庄屋として、新潟港が長岡藩の管理下にあった時は、渋海川から信濃川を利用して年貢米の搬出をおこなっていたので、新潟港詰め村総代を務める家であった。なぜ、弥彦山がすぐ目の前に見える米納津村から、健一の母が、小国に嫁いできたのか、私ははっきりと聞いたことはないが、これから述べる父から良く聞かされた歴史と照らし合わせると、小国と弥彦山周辺地域の中世以来続いている人々の交流が垣間見えてくるのである。
 父は、生前、田中の先祖は小国入道(仏門に入る前は小国頼基ないし頼久と称した)であり、その元は清和源氏にさかのぼると、法事や小国の人たちとの会での挨拶で良く話していた。
 中世の頃、小国町一帯は「小国保」と称された国衙領であった。小国氏は、清和源氏の嫡流である源三位頼政の弟である源頼行を祖とし、長承年間(1130年)小国保に入部し土地の地名を名字として「小国氏」を名乗ったことに始まる。その後、頼行−宗頼−頼継(連)と続くが、小国に定着したのは頼継である。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、頼継は有力御家人として小国保地頭に補任された。
 源頼継は、「吾妻鏡」によれば、建暦二年正月(1212年)に、鎌倉幕府の弓始めの行事に射手として選ばれ、堂々第一位を獲得し第三代将軍であった源実朝公より「天下一の精兵なり」と賞賛され、一躍小国の名を全国に轟かせた。また1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱では、幕府方の北条朝時の軍に、小国保から出陣して参加し活躍したことが史実として記録されている。
 頼継−頼隆のあと、鎌倉時代後半には、惣領の頼村は、本城である小国保の小国城にあり、弟の頼景は、弥彦荘の所領を守るために、弥彦山のふもとにある天神山城に在城した。鎌倉時代末期の南北朝時代には、小国氏は南朝方について没落し、天神山城にあった小国氏の方が繁栄する結果となった。すなわち、南北朝時代以降、小国にあった小国氏は武具を捨てて帰農し、武家としての小国氏は、弥彦山のふもとに本拠を移して、戦国時代を乗り切っていったのである。この史実に、小国で生まれた健一の父、英篤が、弥彦山が目の前に見える米納津村から、セツを娶ったことに、中世以来の小国と弥彦との人的交流の継続を感ずるのである。
 さて、天神山城にあった小国入道(源頼久)は、永禄二年(1559年)に上杉謙信が関東管領に補されて京都から戻ってきた時に祝儀を献じたことが歴史に残っている。生前、父の健一が、春日山城の古地図に小国氏の居宅があることを私に誇らしげに見せてくれたことを覚えている。この入道は、佐渡征伐、川中島の合戦では後詰を勤め、越中攻めにも参加して感状を受けている。さらには、関東攻めでも活躍したことや、武田勝頼と対陣したことも記されている。
 天正6年(1578年)、謙信没後に始まった御館の乱では、小国氏は景勝方についたが一族の中に内紛があり、戦後に景勝は、腹心である直江兼続の弟である樋口与七を小国家に入れて、家督を相続させている。これが小国実頼であり、そのあとに、姓を小国から大国に変えた。大国家はその後、上杉家について米沢に移り、その家系は連綿とつながっている。この点で、小国は、現在NHK大河ドラマで放映中である「天地人」の主人公である直江兼続とも深い関係があるのである。
 父は、生前に、小国町相野原の実家のそばにある日吉神社は、昔は八幡神社と称され、源氏の氏神様であったこと、その参道の南は鎌倉を指し、北は八石山(はちこくやま)を指しているとよく言っていた。そしてその八石山に小国氏の出城があったはずだと、20年ほど前の11月23日、寒い日に一人で登山に出かけ、途中でみぞれが降り出して足場が悪くなり下山できずに、一夜を八石山中で数多くの落雷の大音響を聞きながら過ごさざるを得なくなった。しかし、家では同日の夜になっても父が帰宅しないことに母が心配しはじめ、当時東京の慶応義塾大学に勤務していた私にも電話してきた。そしてその夜遅くに、父の自家用車が八石山の登山道入り口に置いたままであるのを、小国の人が見つけて、長岡の家に連絡してきたのである。携帯電話もまだ無く連絡の取りようが無い時代であった。悪天候と零度近い気温から、家族は健一の死を覚悟したのである。しかし翌日に小国町総出の捜索活動によって、父が無事に歩いて下山してきた姿を見た時には、家族一同、夢ではないかと思ったことを良く覚えている。
 父は、その後も毎週日曜日や祝日には、患者さんが来ない時をみて、良く一人で自家用車を運転しては小国に行き、歴史の跡をめぐり、山に登り、杉苗の植林とその後の手入れや草刈りに、一生懸命だった。
 今、父は天国にあって、空の上から、小国の山々を見おろして、四季の移り変わりを、毎日楽しみながら眺めている気がする。
 最後に、生前、父、田中健一が皆様から受けたご厚情に深く感謝して、筆を置く。

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精神医療センター班の現状  丸山直樹(県立精神医療センター)

 現在地でのスクラップ&ビルド式の新築から早くも7年の時間が過ぎた当院です。
 昔は、数名の会員がいたのですが、この2〜3年は、院長と私の2人だけになってしまいました。赴任してくる人達に入会を勧めるのですが、なかなか良い返事がもらえない状況が続いております。
 さて、私どもの病院は、精神科と児童青年期精神科の2つを標榜しており、老人期から児童・幼児期までの巾ひろい精神疾患の診療を行っています。又、平成7年より開始された休日昼時間帯の精神科救急の中越ブロックの参加病院の一つとして、更に平成13年より実施されている夜間精神科救急(全県一ヶ所)の担当病院としての機能も果たしております。
 入院部門は、急性期治療病棟(閉鎖・46床)が2病棟、慢性期病棟(閉鎖・57床)が1病棟、開放病棟(57床)が3病棟、しへき治療病棟(40床)及び児童青年期治療病棟(40床)の8病棟400床の体制となっています。成人の入院患者の疾患では、統合失調症が7割近くを含め、うつ病、躁病の気分障害が1割ほど見られます。他には、アルコール依存症、パーソナリティ障害、知的障害などの人達が入院しています。このような状況の中で当院が困っている事は、長期入院の問題です。精神障害者は、以前の医療政策の結果や社会の理解の乏しさ等の為に入院生活を続けざるをえなかった訳です。2年程前から厚労省の退院促進・精神科病床の削減の方針が出されたのですが、なかなか進捗してないのが現実です。当院では、宅建協会長岡支部と協定を結び、患者への住居紹介を行っていますが、なかなか捗らないのが実情です。児童青年期病棟は、現在、専任の児童精神科医が欠員の為、新大・染矢教授の御協力を得て、外来診療を機能させる一方、入院診療は若手常勤医に頑張ってもらっています。その疾患を見ると最近多くなっているのが、広範性発達障害の子供達です。彼らは、その為に家庭や学校などで上手く適応できずに入院に至ってます。併設している養護学校での教育や家族向けの疾病教室等を通して治療にあたっております。
 外来診療面では、一日当たり220人ほどの患者数です。疾患別では、やはり統合失調症の数が多いのですが、近頃目立つ疾患はうつ病、適応障害と言ったものの他にパーソナリティ障害や広範性発達障害などが見られています。これらの疾患に対して、この20年程で大きく発展してきた薬剤による治療の他に、疾病教室、精神科リハビリテーションやカウンセリングを通して治療を行っております。
 又、予防活動の一環として中越地域の市等とタイアップして当院の医師達による「うつ病」「アルコール依存症」などの講演会を催しております。
 その他には、協力型臨床研修病院として機能し、長岡中央綜合病院及び新潟大学から年間20名程の研修医を受け入れてます。更に日本精神神経学会精神科専門医の認定研修施設としての機能も果たしております。
 このように精神科専門病院として様々な精神疾患に対応している当院ですが、身体疾患の治療や大量服薬等の急患事例では、市内3病院の先生方を始めとして市内各所の会員先生方の御協力を頂いております。当院紹介文の中ではありますが、御礼の気持ちをお伝えしたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。

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英語はおもしろい〜その2  須藤寛人(長岡西病院)

chauvinist:男(女)尊女(男)卑主義者

 Dr.Roy Ansが私のところに寄ってきて、こういう時は「female chauvnist pig!」と言うんだ!と耳打ちしてきた。Nurse Centerで、私が看護師になんだかんだと一方的に言われていた時であった。pigと言うんで、何となく、「ののしり言葉」なのだろうと思った。しかし、正直のところ、詳しいことは分らなかった。
  今、時間があるので調べてみた。chauvinismは岩波の辞典には、「好戦的愛国主義」として載っている。研究社の大辞典では、「盲目的愛国心(blindpatriotism)」、「狂信的排外主義」と訳されている。chauvinistは「……者」ということになる。chauvinistic(形)とかchauvinistically(副)もある。
 言葉の由来は、F chauvinism-(e),f.Nicholas Chauvin(Napoleonを神のように崇拝した一兵卒)と記されていた。Websterには、chauvinismは意味の2)として、unreasonable devotion to one's race sex etc., with contempt(蔑視)for other races, the opposit sex, etc.とあった。何となく分かってきた。しかし、そこにもpigのことは言及されていなかった。
 時事英語辞典(研究社出版)に出ていた!「(米俗)女性優越論をとなえる女」と。「女」で「女性」と書いていない理由はpigに「ふしだらな女」という意味があるからであろう(アメリカ米英俗語辞典)。
 Wikipediaには、特別に「Chauvinism as sexism(この言葉も普通の辞書に載っていないが、「(女)性差別」と訳される新しい語として項目が設けられている)。“male chauvinist”の方が、1960年頃の女性運動の頃よりよく使われきて、“female chauvinist”はフェミニズムの特殊な状態の時に限って使用されるとのこと。すなわち「男は皆、姦通を望み、女房を叩きのめし、性の対象者とはならず、子供の親としての資格のない者だ(筆者意訳)」と考える一派のことをさすようになった。Ariel Levyという女性が「female chauvinist pigs」と題する本を出版(2006年)しているとのことであった。
 アメリカ人の口論はすぐ四文字言葉になり、また“shoot you!”、“kill you”に至ってしまう。女性との口論になったら、直接には「俺は男だ!」とは言わないけれど、品を残して(推測)、“female chauvinist pig”と怒鳴りつけてやれ、というのが、ジョークの好きなAnsの教えであったと考えられた。

intellectual:知的な

 レジデントの時に専門領域で一流とみなされる雑誌に主著者として私の論文が掲載された。これが二度続いた。講師であったイタリア名を持つDr.Guglluicciが「you are very intellectual.」と褒めてくれた。「理知的な」と言われて悪い気はしなかった。
 intelligentは「理解力ある、物わかりのある、英明な」であるが、intellectualは「知性のすぐれた、知力・知的な、理解力のある」であるが、研究社の辞典では「頭の良い、(名)知識人、インテリ」と書かれている。Webster大辞典ではintellectualは“having or showing high intelligence”とあり、intelligentとの差異が分かる。
 intellect(名)知性(feelingおよびwillの対)、知力・理解力、識者。研究社の辞典では、(特に高度の)知性、理知とある。intellectually(副)知的に、intellectuality(名)知性、英明、intellection(名)思考、思考の結果得られる概念、観念、intellective(形)知力の、理性的な、intellectively(副)知的に、intellectualness、intellectualism(名)知性偏重などの関連語・派生語がある。
 intellectの語源は<L,<intellege,to understand<inter-,between+legere,to choose。
 村上春樹の長編エッセイ「やがて哀しき外国語」の中に「バドとかミラーとかは労働階級向けのもので、プリンストン大学の人はインターレクチュアルなビールを飲む」と書いてある箇所がある。しかし、意味するところは分かるが使い方が少しおかしいのではないかと感じる。このことはさらに言及したくない。なぜなら彼はノーベル文学賞に最も近い「頭脳先鋭」な日本人と言われているから。
 書き出しの事。論文を書くにあたって、ニューヨーク医科大学(現在はWestchester郡のValhallaに移転)の古ぼけた大きな図書館で、自分で書架梯子を登って文献を探した日々のことを想い出す。今は机に向かってコンピュータで文献を集めることができる。隔世の感である。

(続く)

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開業一年の感想  堀 高史朗(ほり内科医院)

 昨年、2008年6月に旧三島町の上岩井で開業させていただきました。
 もともと、私の先祖はペリー来航1年前の1852年より、西洋医として開業しており、私で5代目となります。
 初代は籠、二代目は人力車、三代目の祖父はスクーター、四代目の父からは車の往診になりました。祖父からは、現役の頃、当時は、病院が少なく、今のような介護施設もないため、往診が多く、夜中に街中をウロウロしているのは、医者か芸者か猫だけと笑い話を聞いたことがあります。
 2003年より立川綜合病院で、約5年間、消化管を中心とした検査や治療に従事させて頂きました。開業に先立ち、循環器や小児科の外来診療も勉強させて頂くことができ、病院の先生方には感謝しております。
 開業した後で、聞いた話ですが、消化器内科の開業というのは、医療器械屋さんが一番喜ぶターゲットだそうです。内視鏡、レントゲン、エコー、最近では電子カルテや、画像サーバーといった原価が不明な高価な医療器械を購入しないと診療自体ができない科だからというのが理由です。
 しかし、医療器械は、日進月歩で、今、最新の器械が、数年後には鉄くずになることは間違いありません。そうなる前に、診療と実績で患者さんの信用を得ることができるようになっていきたいと思っています。
 医院に来られる患者さんの中には、80歳代の方でも、今まで病気をしたことがないため、お産以外は病院に行ったことがなく、「新しい医院ができたので、これからお世話になるかもしれないと思いとりあえず来てみました」などと言われる元気な老人の方も珍しくありませんでした。
 当院では、一般内科の診療を中心に、消化管内視鏡検査を施行しており、月に3〜4人の方の癌をみつけています。そのうち半数は、内視鏡で治療が可能な早期癌であり、当院で治療可能なものは切除していますが、それ以外は病院の先生方にお願いして治療をしていただいております。病院の先生方には、大変お世話になっております。
 内視鏡等で癌をみつけて結果をお話すると、こんな医院に来なければよかった、検査なんてしなければよかった、この年齢でとんでもない病気にさせられたと、しょんぼりされる方もいらっしゃいますが、きちんと病院で治療を受けて帰ってこられると、早めにみつけてもらってよかったと言っていただける事が多く、その後も元気で通って来られる姿をみると、開業してよかったと心底思います。それが毎日の診療の糧になっているのも事実です。
 昨年、自分の採血をしてみたところ、開業後数ヶ月で中性脂肪が3倍になっていました。慌てて万歩計をつけてみたら、1日700歩しか歩いていないことが判明しました。何だかんだと勤務医の頃は病棟や外来を歩き回っていたようです。開業してからは、通勤は車で、医院では一日中外来の椅子に座りっぱなしで、時々、隣の内視鏡室に数回移動する程度。それでは運動不足になるわけです。他人事だと考えていた成人病は自分のすぐ身近にあり、生活習慣が悪いと数ヶ月で発症するのだということを実感しました。患者さんにカロリーを減らせ、運動を増やせ、体重を落とせと指導するのは簡単ですが、明日はわが身で、医者の不養生には気をつけなければいけないと最近常々実感しています。
 昨年1年間は、従業員の健康面で色々なトラブルがありましたが、現在では全員復帰して、一人も脱落せず、従業員一同と、毎日元気に患者さんを迎えることができているのは、とても幸せなことだと思います。
 数年の猶予ができたとはいえレセプトオンラインの義務化、市街地の医師過密化と僻地の医師不足の2極化、ここ最近では、新型インフルエンザの流行による混乱と、これからも医師の仕事は増大し、ますます風あたりは強くなってくるものと思われます。
 一人の開業医としては、できることは限られていると思いますが、微力ながら、長岡の地域医療に貢献できればと考えています。
 これからもご指導の程、よろしくお願いいたします。

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開業一年目の雑感  八百枝 潔(眼科八百枝医院)

 この度、長岡市医師会から医院開業1年目の感想につき、原稿執筆依頼を頂きました。早いもので医院開業して丸々1年経ちましたが、まだまだ不慣れなこと、わからないことだらけで、近隣の諸先生方をはじめ、関係各位には色々とご迷惑をおかけし、この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
 小生は眼科医になって15年目になります。本職に就くまでは、研修医時代を除くと、新潟大学医歯学総合病院(大学病院)眼科緑内障専門外来に勤務しておりました。かつ現在も大学病院に出入りし、緑内障の治療薬や検査機器の治験等に携わっており、言わば生粋の緑内障専門医であると自負しております。逆を言えば、(恥ずかしながら)それ以外の眼科疾患についての知識が今一つであり、現在鋭意鍛錬している最中です。
 大学病院に勤務していた頃を今思い起こしてみると、それは大変な毎日でした。朝5時に起床してまだ入院患者が起床する前から病棟業務(薬の処方、手術指示出し、入院総括作成等々)を行い、起床した患者から廻診を始め、終了する8時頃に朝飯を医局でとり、簡単な事務仕事を終えた後、午前は外来、午後は手術や学生指導、病棟業務を行い、その後時間が空いていれば研究や原稿執筆をしておりました。そもそも大学病院に在籍していた一番の理由が研究をしたいということでしたが、病棟業務が終わると19時頃になってしまい、中々自由に研究する時間がとれない日々が続いておりました。そのような頃、父(八百枝浩)から連絡があり、「大学病院に居たって論文も書けないし、出世の見込みもないなら帰って来い!」と言われ、大学病院を辞めることを即決いたしました。大学病院を辞めることで、自分の仕事が他の医局員にまわされることになり、申し訳ない気持ちもありましたが、自分自身の研究の能力も限界を感じ始めていたこともあり、後悔の念はありませんでした。色々と行き詰まりを感じていた頃に、父から連絡を貰えて、父には大変感謝しております。
 医院を父より継承してみると、開業医という職業は勤務医とはずいぶん違うものだということがよくわかりました。中でもやはり一番の相違点は、経営のことです。勤務医の時には医長になったことがなかったので、来院者数を増やすという考えは全くなかったのですが、今は天気の善し悪しだけでも一喜一憂するようになりました(元来小心者のようです)。また、開業医にかかる患者は、(当院にかかる患者が特にそうなのかもしれませんが)速く診てほしいという要求が強く、診察のスピードを上げることに留意するようになりました。しかしながら、診察のスピードを上げることは、誤診や見逃しの元になる可能性があり、却って今まで以上に気を遣って診察するようになったと思います。更には、大学病院と違い、難症例に当たった場合、すぐに相談できる医師が近くにいない(幸いに当院では父はいますが)ため、診断や治療法に迷う時には本当に困ってしまいます。今まで以上に近隣の眼科医との連携が大切なのだと実感しております。
 色々と大学病院に勤務していた頃のことや開業後の雑感について書き連ねて参りましたが、仕事以外で一番大事にしているのは愛娘(2歳)の育児です。休日に愛娘を遊びに連れて行ってあげることがストレス発散になっております。酒乱でならしていた独身時代とはえらい違いです。
 以上、この度小生は、父の医院を継承する形での開業となりましたが、父もまだ現役で頑張っており、二人三脚で仲良く(?)医院を盛りたてていこうと思っております。小生の祖母の代から始まって、現在医院創業76年目とのことですが、何とか百周年を迎える日が来ればいいなあ、と思っております。会員の皆様方におかれましては、今後ともご指導、ご鞭撻いただきますようよろしくお願い申し上げます。

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よろしくお願いします  田中 晋(三島病院)

 この7月、長岡市医師会に入会いたしました田中晋と申します。皆様はじめまして。現在私は三島病院で働いています。
 まず自己紹介をいたします。
 私は上越市で生まれました。私の最初の記憶はその時父親が勤務していた上越市の国立犀潟療養所の官舎での生活です。療養所というだけあって緑も多く海も近かったので子供時代を過ごすには良かったと思います。夏は毎日海に行って泳いでいました。今から思い返すと療養所に入所されていた方々が身近にいたような気がします。昭和54年、父親が旧三島町で三島病院を開業したこともあり、私が小学5年の時にこちらへ引っ越しました。上越市の海沿いの地域と違い、長岡の雪が深いことで驚きました。その反動なのかもしれません。大学は雪の降らない沖縄の琉球大学に進学しました。大学時代はボードセイリング部に所属し、卒業後も沖縄に残り、琉球大学の精神神経科学講座に入局しました。琉球大学では精神疾患と事象関連電位の関係を研究し学位を取得しました。その後は杏林大学に異動し、こちらに来る直前は東京小平市にある国立精神・神経センター病院で、物忘れ外来とてんかん病棟を担当していました。そのため、一般精神の他に、認知症、てんかんの診療はわりとできるほうだと思います。
 時々実家には戻っていましたが本格的に長岡に腰を据えて住むのはおよそ25年ぶりで、こちらに来るまで古正寺地区にお店がこんなにあるとは恥ずかしながら知りませんでした。これから探検する場所が増えて楽しみに思っています。
 趣味は読書と水泳くらいしかないので、仕事に慣れたら体を動かす趣味をこれから増やしたいものです。こちらに来てから、時々ダイエーいます。50メートルプールで泳ぐと気持ちいいものです。建物も完成したばかりで綺麗です。あまり混んでいないのも良い所です。泳ぎ方は自己流なのであまり美しくはありません。できたら水泳教室にも通ってみたいと思っていますが、継続して通う時間が取れないので自己流の泳ぎ方のまま続けています。
 今回の転勤は急に決まったこともあり、妻と二歳の息子をまだ東京に残したままで、私は現在単身赴任中です。駅近くの単身者用家具付きアパートで暮らし始めました。週末はいそいそと東京に戻って子供と遊ぶのが楽しみです。子供に父親の顔を忘れられないようになるべく帰ろうと思っています。まだ大丈夫みたいです。そのうち妻と子供も長岡市に移住することになりますので、ともどもよろしくお願いします。
 仕事の話ですが、三島病院は皆さまご存知のことと思いますが認知症の患者さんを中心とした病院です。入院されている患者さんは、認知症の中核症状といわれる記憶障害の他に、幻覚や妄想、大声、徘徊、拒食、興奮、抑うつなど精神症状も多彩で、毎日応用問題を解いているようです。応用問題どころか解答がない問題を解かされている気持ちになる時もあります。また、病気の特徴からも高齢者が多くを占め、呼吸器、循環器、消化器系などの身体疾患などの合併も非常に多くなっています。私が経験を積んできた精神科を中心とした知識だけではとうてい対応できないため大変です。身体疾患の治療に四苦八苦しています。幸い、一緒に働いている先生がたが親切で、いろいろと教えてくださっているので非常に心強く思っています。これから高齢化が進む中で少しでも地域の支えになるようにこれからも研鑽を積むつもりです。
 今後皆様にはお世話になることと思いますが、なにとぞ宜しく、ご交誼賜りますようお願い申し上げます。

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音楽と旅  松元朋子(長岡赤十字病院)

 わたしは東京の私大時代、管弦楽団(オーケストラ部)に所属しオーボエを始めた。地元新潟の音楽教室で小さい頃フルートを習い、大きくなったらオーケストラで吹いてみたいという夢はあったのだが、医学部に入学したのはそんな夢をすっかり忘れていた頃だった。部活紹介で管弦楽団の存在を知り、この大学に入学したのもきっとオーケストラにめぐりあうためだったのかもしれない、などと適当なことを思いながらなんとなく入部した。経験のあるフルートを再開するのが一番手っ取り早かったのだろうが、特に楽器にはこだわりなく、ただいろんな楽器が集まったオーケストラの一員として音楽をやりたいというのが自分の気持ちだったので、たまたまそのとき後継者不足であったオーボエを始めた。
 オーケストラは大きく分けると、弦楽器(弾く楽器)、管楽器(吹く楽器)、打楽器(叩く楽器)によって構成されていて、オーボエやフルートは管楽器のなかでも木管楽器と呼ばれる。最近オーボエは、「のだめカンタービレ」で少し知名度を上げたような気がするが、一般的にはまだまだ名前を言って反応してくれる人は少ないように思う。
 オーボエとの旅が始まったのは、まだまだ出したい音も出せず、満足に自分の楽器をコントロールできなかった2年生の終わりだった。大学の楽団の枠を越え、医療系の学生たちを中心に有志で演奏会を作り上げようという趣旨の「医科学生オーケストラ」という団体があり、先輩の誘いをきっかけに参加するようになった。毎年夏休みは「全日本医科学生オーケストラ」、春休みは「西日本医科学生オーケストラ」と「北日本医科学生オーケストラ」というふうに名を変えて、各地を転々としながら全国の医歯薬その他の学生総勢百数十人が1週間ほどの合宿練習の最後にホールで演奏会を開くという、かなり大規模なイベントだ。毎回見る顔もいれば新顔もいて、その場限りのメンバーで一度きりの本番という感動が魅力だった。
 2年生の春休み、横浜みなとみらい大ホールでの演奏会のメインは、「ブルックナー交響曲第4番供ロマンティック僑」。荘厳に繊細に、そして時にはおしゃれに魅せるこの曲は、横浜のベイエリアに続く石畳の散歩道の夜景を浮かび上がらせる。3年生の夏は、大分のiichiko総合文化センターの大ホール。頭上から照りつける真夏の太陽の下で、「ショスタコーヴィチ交響曲第7番供レニングラード僑」は鉄のような冷たさと熱さを持って響いた。3年生の春休み、鳥取県民文化会館梨花ホールでは「マーラー交響曲第1番供巨人僑」を、4年生の春休み、香川県サンポートホール高松では「チャイコフスキー交響曲第6番供悲愴僑」を演奏し、中国四国にも進出。5年生の春休み、広島郵便貯金ホールでは「ベルリオーズ幻想交響曲」で初めてオーボエソロを吹き切り、夢か幻か、咲き始めた広島の桜に見送られて帰京した。6年生の夏休み「ラフマニノフ交響曲第2番」では横浜のみなとみらいホールに舞い戻り、医師国家試験合格発表翌日、大阪ザ・シンフォニーホールでの「サン・サーンス交響曲第3番供オルガン付き僑」は学生最後の演奏会のメイン曲であった。わたしの旅の景色は音楽とともに鮮明によみがえり、また旅先の思い出には常にそのときの音楽がある。
 学生を卒業し、わたしの演奏旅行は終わってしまった。部室のように自由に練習できる場所がないし、一人で練習曲を吹いていても目標がなくおもしろくもない。そんなことを考えていた最近、全国の音楽仲間たちの結婚式が増えはじめ、結婚式でオーボエを吹く機会を得るようになった。車の中で楽器を吹くという妙案を思いついてからは、時間をみつけては人目をはばからず駐車場練習に集中している。日本全国津々浦々、オーボエを小脇に抱えたわたしの旅はこれからも続いていく。クラシックであろうとロックであろうと演歌であろうと、音楽を楽しむ人たちに垣根はない。秋の夜長にクラシック、みなさんもどうですか

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冬の夏みかん  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「まあ大きな実がなってすごいですね。これ、食べられるんですか?」と玄関先でクリーニング屋さんのお姉さんの声です。
「色合いがかわいいでしょ。来年の春にやっと食べられるのよね。もちろん夏みかんだからすごく酸っぱいのよ。」と家人が答えています。

 冷え込んだ数日前に、庭先から玄関の風除室に取り込んだ鉢植に大きな黄色の実が数個なっています。冬の間は硝子越しに日が当たります。この夏みかんはわたしが食べおえた甘夏の種から育てました。オレンジやレモンも食べた種から同様に鉢植で育てています。どれも数年の経過で花は咲いたけれど、10年以上育ててもなかなか実がなりませんでした。昨年の秋に初めて夏みかんの実が大きく育ちました。白い香りの良い花が夏に咲き、秋に青緑の小さな実がしだいに大きく育ち、冬を前に黄色く色づきます。今年は好調続きの2回目。
 ところで炬燵でみかんは冬のおなじみです。これはウンシュウミカン、温州蜜柑、学名:Citrus unshiu。柑橘の名産地の中国浙江省の温州にちなむ命名だが、実は鹿児島原産だったらしい。和歌山、愛媛、静岡が三大産地。5月に白い花が咲き、果実の成熟時期は各品種で差があり、9月から1月、主に冬が食べ頃であります。いわば冬みかん。
 一方の夏みかんはナツミカン、夏蜜柑、学名:Citrus atsudaidai。酸味が強過ぎるが、初夏になるとその酸味が減じる。明治以後は夏に味わえる柑橘類として評価が上がり、広く栽培される。その品種の枝変わり種が大分で発見され、昭和40年代に普及したのが甘夏。これでも酸っぱいのは、ご存じの通りで、原種の夏蜜柑の味は想像を越えます。ネットで調べたこんな話をしたら、家人は「甘夏の前の夏みかんはすごく酸っぱかったわ。」と、なんと幼児期の記憶があるそうで驚きました。さて夏みかん(甘夏)の収穫時期つまり食べ時は、伊豆、和歌山などの温暖な地域では翌春の4月上旬〜5月上旬だそうです。果物の自宅栽培では食べ時判断が難しく、柿や西瓜なども悩みます。まして自然には育たない雪国新潟での室内の冬越しで育成なので、さらに判断が困難。この春は3月下旬に収穫してみて、ほぼ正解でした。計測してみると直径10センチ前後、重さは平均250グラムで計6個でありました。樹高が80センチ程度の素人の鉢植えですから、立派なものです。
 食べ方は家人と相談して、ネットで検索のうえ、夏みかんジャムを作ることにしました。画像入りのレシピを印刷して家人に渡しました。
 夏みかんの実はまず皮を剥き、その皮は細切りにし、また実は袋を一個ずつ剥いてからこれと合わせて、鍋でグラニュー糖で煮込むだけです。焦がさないように気をつけて混ぜながらですが。
「夏みかんのジャム、煮込むのに何時間くらいかかったんだっけ?」とわたしが家人に確認の質問。「そうねえ、ちょうどWBCの野球をテレビ観戦しながらだったから、忘れちゃったわ。数時間以内ですけど。」
 わずかに苦味がありますが、適度な酸味を残し、とても香りのよい純粋な甘夏ジャムが数瓶できたのでした。夏にかけて、おいしくいただきました。
 この夏みかんの実には、厳しくなる冬を元気に過ごしてもらい、来春の収穫を楽しみにしています。

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