長岡市医師会たより No.357 2009.12


もくじ

 表紙絵 「雪の朝(越後川口)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その17」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「奇跡のスポーツNo.3 夢遊流ヌンチャク704」 樋口裕乗(樋口皮膚科医院)
 「名器に触れるピアノ演奏会〜生涯音楽」 藤田基(国立病院機構新潟病院)
※前県立精神医療センター
 「英語はおもしろい〜その3」 須藤寛人(長岡西病院)
 「開業10年が経過して」 田辺一彦(田辺医院)
 「二年経過して」 三上理(三上医院)
 「マッチング」 横澤将宏(長岡中央綜合病院)
 「ゆく年、くる年 そして年が明けて、」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「雪の朝(越後川口)」 丸岡 稔(丸岡医院)


南アフリカにルーツを求めて〜その17  田村康二(悠遊健康村病院)

 第12章 映画「The Day After Tomoroow」が見せる将来の氷河期の恐怖

 そもそも生命体は地球の誕生50億年から10億年位たって誕生したと推定されている。最初は原核細胞であった。それから20億年後に眞核細胞が出現した。光合成をおこなうシアノバクテリアで大気中に酸素が蓄積されてきた。このバクテリアは藻に寄生して増殖して堆積物であるストロマトライトを作り出した。この貴重な生命体を驚くことにオーストラリアのパース市の北700kmの最西端にあるシャーク湾で生きた化石として今もこの目で見ることができる。
 このバクテリアがやがてプランクトン様に進化した。それから魚になり、両生類へと進化した。
 これから後の進化の真実は南米エクアドルの西方約1000kmの沖合いにあるガラパゴス群島の生態系で今も観察することが出来る。有名なチャールス・ダーウィンが進化論のヒントを得たという伝説の島々である。今年はダーウィン生誕200年、進化論が発刊されてから150年の記念すべき年である。ダーウィン・イヤーとして、世界中で生物・医学会などでは様々な進化論の記念の催しが行なわれている。

1.わがご祖先にあらず
 1856年の8月デッセルドルフの郊外の谷間の洞窟から4万年以前の旧石器時代の旧人類の最初の化石、頭蓋冠、がみつかった。これがヨーロッパを中心に住んでいたネアンデルタール人である。私が見たネアンデルタール人の化石は、クロアチアの首都・ザグレブの北部の洞窟から出たものだ。カール・ゴルヤノビッチ・ベルガーが何百もの旧人類の化石、個体にすると約70体、をみつけたからである。かれらは現代の我々と同じような大きさの脳を持ち、体格ははるかに立派で筋骨隆々としていて身体は強健だった。いまから約10万年から3.5万年前に世界のさまざまな地域に住んでいた遺跡は以上が発見されている。しかし彼等はやがてことごとく消滅した(エリック・トリンカウス、パット・シップマン著・中島健訳「ネアンデルタール人」、青土社)。
 氷河期に適応して一時期は繁栄したネアンデルタール人に代表される古代型ホモサピエンスは時計の振り子のように繰り返して起こった氷河期と間氷期(温暖期)の気候変動に適応できずに滅亡した。しかし滅亡の真の原因は想像力が乏しかったので現実しか見れず、将来を予見して備えることが出来なかったからだというのが有力な説だ。

2.わがご先祖は死海のエデンの園から旅だった
 死海地帯一帯はアフリカからのご先祖の世界への出発に、三度にわたり大きな役割を果たした。死海地溝は東アフリカの大地溝帯の北部とつながっていて、恵まれた「エデンの園」だった。このエデンの園とは、イスラエル・シリア・ヨルダン・レバノンである。これらの国々を訪れてみると、豊かだった古代の遺跡の宝庫であることが分かる。今もなおその恵まれた自然があるからこそ、戦乱に明け暮れているのは気の毒である。
 この一帯で農耕革命がおきて古代文明が栄えたのだ。ここではクロマニオン人は多くの食用植物の原種をもとにして一年を通して栽培できるようにした。そこで一年中食用植物を食べられるという条件に恵まれた。そこで初めて新しい様々な行動が可能になったのである(図12・1)。更には主要な家畜の野生種を飼いならすことに成功していた(図12・2)。これらの技術や文物を武器にできた時点で、初めてご先祖たちは世界中に旅立てたのだ。ご先祖はまず中東から東のグルジア方面へと進んだらしい。100万年以上前のことだ。約175万年前のドマネシ原人の遺跡がグルジアのドマネシで見つかっている。メソポタミア文明の発生はこれらの中東の地に始まりトルコのアナトリア高原やイラン高原を経てイラクで花が咲いたのである。イランへ行くとメソポタミア文明の発祥の地の証拠をみせてもらえる。日本の教科書ではイラクがメソポタミア文明の発祥の地と書いてあることとは違う。
 中東は古代エジプト文明と共に栄えた。紀元前60年頃、現在のレバノンでフェニキア人が今のレバノンやイスラエルなどで世界で初めて吹きガラスの製作を発明したという。その一つはレバノン土産として私の飾り棚を飾っている。さらにシリアで今のアルファベットが発明された。これらはご先祖から今まで享受してきた現代文明の発祥の国である。
 わがご先祖はクロマニオン人として約13万年前に現われてきて、人類史上で新しい行動がみられる様になった。かれらは想像力豊かであり、予測する能力を備えている。だからネアンデルタール人と違っている新しい行動や創意工夫で氷河期を乗り切れたのである。

3.アフリカから日本への旅
 アフリカからご先祖はどのようにして新潟にたどり着いたのだろうか? 書けば長いことになるので話をはしょりたい。血液型の研究から今では次のように考えられている。ご先祖の移動経路は4つが考えられている(図12・3)。経路マル1は、中東から海岸沿いにインドを経て、インドネシアやフィリピンなどの東南アジアの海岸沿いに来た。当時は氷河期には水位が今よりも100m位下がっていた。だから南アジアから中国や日本にかけては陸伝いに海岸部を経て来れたそうだ。この南方系モンゴロイドの血液型はO型だ。次の経路マル2では、氷河期にバイカル湖付近に閉じ込められていたヒトが生き残ってO型からB型に変わった。これが北方系モンゴロイドだ。シベリアからサハリン経由で陸伝いに日本へきた。私はB型なので私のご先祖はこの系統に属するのだろう。ちなみに日本ではB型は中部から東北にかけて多い。経路マル3は中国の華南からきた南方系のモンゴロイドだ。中東からパミール高原あたりで氷河期を生き抜いて、血液型がO型からA型に変わった種族である。彼等はヒマラヤの南部を迂回してインドネシア半島から北上して中国の沿岸部や朝鮮半島に到達した。彼等の血液型はA型である。4番目は経路マル4である。おそらく経路@で日本列島や中国内陸へと拡散した部族である。それが朝鮮半島などを経て最後に来たのが渡来人である弥生人である。だから血液型はO型である。これらの信憑性については、分子生物学や集団遺伝学で順次解明されている。(続く)

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奇跡のスポーツNo.3 夢遊流ヌンチャク704  樋口裕乗(樋口皮膚科医院)

 なぜ私がヌンチャクについてあえて投稿しようと思いついたのでしょうか?
 多くの人はまだヌンチャクとは野蛮な危険な武術で興味をもっている者はノーマルではないと思っているようです。まだ未知で見捨てられているヌンチャクには素晴らしい価値があり、日本の誇る伝統文化の一つであることをぜひ知って頂きたい、そしていつの日にか誰かが私の考案した健康法にご注目して下さる事を夢見て本誌に投稿します。
 平成3年に現在世界ルールになっているスポーツ吹矢のルールや規格を考案して掲載した奇跡の小冊子「吹矢健康法」を出版しました。その際、本の広告を(株)BABジャパン出版の雑誌「秘伝」に掲載してもらったことからヌンチャクの神様と言われている双節棍道双幹流宗家荒川武仙先生と知り合いになり、お手製のヌンチャクを頂いたり手紙を頂くようになりました。
 荒川先生はかって剛柔流空手泉武館会長で沖縄出身の泉川寛喜先生に師事されており昭和20年にヌンチャクを自作して研究され杉並区に倫武館道場を開設しました。現在は80才で千葉県旭市にお住まいです。このヌンチャクの先駆者と出会わなかったら私がヌンチャクについて書くことはなかったでしょう。
 ヌンチャクの起源には諸説ありますが、脱穀用に棒の先に短い棒を結び穀物を叩く方法は世界各地で行われておりました。武術として発達したのは琉球が薩摩藩により武器を取り上げられた特殊な歴史的環境があったためではないかと思います。しかし日本本土では江戸時代には全く知られていなかった武器で脚光を浴びるようになったのは荒川先生が流派を結成して本格的に普及されたからです。ブルースリーの映画「燃えよドラゴン」で世界中にヌンチャクという武術があることが知れ渡るようになりましたが中国が発祥地ではなく、それまでは全く未知のスポーツでしたから戦後日本から始まったごく新しいスポーツです。
 従来のヌンチャクは長さ約36cmで棍間が13cmくらいです。これに対して双幹流ヌンチャクは長さが45cmで棍間が3.5cmです。この規格を考案されたことは非常に高く評価されるべきだと思います。なぜなら従来型のヌンチャクでは振り回しても棍が直線状にならないので非常に危険です。双幹流はどっしりした重さがあり安定した振り方が可能です。この双幹流ヌンチャクに出会ったので私はヌンチャクを今日まで続けることができました。医師会に寄贈した荒川武仙著「双幹流双節棍道、棒道大全」はヌンチャクの研究には不可欠の歴史的資料で不動返しなどの考案された振り方が掲載されております。
 ヌンチャクは沖縄の伝統武術として知られておりますが実戦で用いられたかについては疑問です。なぜならヌンチャクを振ると野球のバットのように最終点まで振ってしまい途中で寸止めすることができません。刀の場合寸止め切り返しの細かい技が可能ですが、ヌンチャクでは細かく棍を動かすことが出来ませんし、突きは棍が短くて効果がありません。さらに棍間が長いと棒などに巻き取られたり切られたりします。そのような不利な点があるから武器としては有効なものとは思いませんが、ヌンチャクを思い切り振るとゴルフのスウィングのように爽快な気分になれます。現在はソフトヌンチャクでたたき合うコンバットヌンチャクも行われていますが、以前は硬い木製のヌンチャクでしたので実際に相手を叩くことは不可能で素振りだけ行われて空手のようには互いに対戦は出来ませんでした。沖縄源流のスポーツですので空手をする人がヌンチャクも行っているようですが、空手とは全く異なるスポーツです。
 以前長岡技術科学大学の留学会館で実演したり、東京家政大学体育科にファイバー製の筒で作った軽いヌンチャクを50丁送ったこともあります。またタレントのウエンツ瑛士さんが拙宅に訪れヌンチャクを教えたことがありますが、当時のヌンチャクはまだ未熟な技でしたので今思い出すと笑止千万です。
 沖縄の従来の振り方は口伝で伝えられた肩掛け構えから袈裟打ちー胴返しー肩上げのような技で振り方は少ししかありません。しかも舞踊と同じく三次元の動きを文章で説明しても理解は困難です。いろいろな振り方を考案して振っていましたが、動きを伝えるにはどうしたら分かり易いか考えて考案したのが夢遊流ヌンチャク704です。
 振り方は左上Aから右下Dへ、右上Bから左下Cへ振るX型が袈裟打ちです。DA、CBと戻して振るXは逆袈裟打ちです。左右の手で振るから袈裟打ちは8型になります。これにエル字、逆エル字、その他10技の前技をつけ袈裟振りと合計11×8=88の基本的振り方があります。これはテーブル式表記法で書かれており誰にもすぐ理解できる点が今までになかった特徴です。スタートは裏腰に棍を水平に構えて立ち、棍を振った後、握り手側から対側へ振った場合は把棍を対手に持ち替えて飛棍を背面に回し元の構えになります。対側から握り手側に振った場合はそのまま飛棍を背面に回し元の構えになります。棍の持ち替え方が順手持ちを含めて4種あり、88×4×2(裏、表)合計704のバリエーションが可能ですから飽きることなく振ることができます。これは偶然ですが704は私の年令と似た数字です。詳細は国際吹矢道協会IFA(http://www.sportsfukiya.net/)に公開しておりますからぜひご覧ください。
 現在ユーチューブコムで世界中で見られているヌンチャクはフリースタイルという振り方が主流で古典的振り方は廃れてきています。これは棍間の紐やチェーンが長いヌンチャクを用いて紐を手首に掛けて回すリストスピン(リストロールともいう)を行うダンスのようなものです。リストスピンはフロント型とバック型だけしかありませんが見た目にはとても華やかで見応えがあります。これは見せ技でショーにはなりますが毎日行う健康法としては長続きするものではないでしょう。私もリストスピンをやってはおりますが非常に難度が高く誰にもすぐ真似できるものではありません。
 健康法として行うには毎日できることが必要です。さらに面白さと爽快さがなければ長続きはしません。ヌンチャクの利点は広くない空き地でどこでもできる、用具も作ることができる、コストフリーで、いろいろな振り方を考案できるなどの利点もあります。ヌンチャクはリズミカルでバランス感覚が向上するし、とても豪快、華麗で迫力があります。先人が残してくれた貴重なスポーツをさらに改良し遊びの文化遺産として多くの人に喜びと感動を与えたいということが私の念願です。
 まだ未知で知られずに埋もれているヌンチャクの秘められた魅力に魅了されて、毎日どこかで一人夢の遊びに戯れています。

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名器に触れるピアノ演奏会〜生涯音楽  藤田基(国立病院機構新潟病院)※前 県立精神医療センター

 去る9月20日日曜日、小出郷文化会館大ホールにて「名器に触れるピアノ演奏会」と名打ったコンサートの第4回が開催されました。思えば家内が長女の出産でお世話になった小林眞紀子先生のお誘いで年に開催された第1回に参加したのが会との関わりの始まりです。先生がピアノをお弾きになることを知り、長女が退院する折に家内と相談してお礼にフォーレやラベルの連弾曲の楽譜をお贈りしたのがご縁となりました。後になって、先生とJOY会のメンバーである片貝医院の根本聡子先生のご発案と小出郷文化会館の運営委員でいらっしゃる庭山先生のご尽力で発足した会であることを知りました。1万円弱の会費で小出郷文化会館のスタインウェイが弾けるとあって、1歳の長女を祖母に預けて、夫婦ともども大喜びで参加したのが5年前です。
 今回は片貝医院の根本忠先生のモーツァルト、ご子息様たちのかわいい演奏、新潟労災病院の笛木はるな先生のサティ、新潟市民病院の竹内綾乃先生のブラームスとショパン、歯科の小松直美先生親子の連弾に加え、歯科の小川ひろ子先生親子のフルートとバイオリン、長岡中央病院の本多啓輔先生のチェロと多彩なプログラムとなりました。かわいい子どもたちの演奏、サティの風変わりな響き、モーツァルトの古典の味わい、ブラームスの重厚な和音と小出のスタインウェイはそれぞれの演奏に寄り添うように多彩な音を楽しませてくれました。また、弦やフルートの演奏でも、大ホールの豊な響きを楽しめました。我が家は長女が初めてのベートーベンを披露しましたが、ピアノが長女とにわかピアノ教師の家内に占拠され、私は彼女の練習のためピアノが使えず、35年前からの持ち曲をなんとか弾いて幹事の義務を果たしました。4年前の会の時には祖母とお留守番だった長女も成長したものです。演奏会が終わった後は、根本先生のご企画により、参加者全員イタリアンの店ポポラーレで夕食を楽しみました。われわれ大人だけでなく、子どもたちも大いに盛り上がって友好を深めていました。
 今回、会の生みの親のひとり根本忠先生によるスピーチがあり、先生が地域の子どもたちの体操クラブを通して長年生涯スポーツを推進していらっしゃること、これからは生涯音楽の推進を考えていらっしゃることが熱っぽく語られました。私自身、幼稚園のころ憧れていた女の子と一緒に通いたいという動機で始めたピアノですが、練習が嫌になってやめたいと言った時、祖母が「芸は身を助けるんだよ、簡単にやめるもんじゃないよ」と言いどうしてもやめさせてもらえなかったことを思い出します。当時は、琴や三味線は上手でも、ピアノのことなどなにもわからない祖母のお説教に反発したものですが、実際ピアノは45年間に渡って私に友人を授けてくれたり、私の窮地を救ってくれたり、人生の転機を与えてくれたりしました。そして最近はわが子の趣味にもなっています。40年も経って人生の先輩の言葉の重みが身に沁みます。人生年を経なければ本当には理解できないことが沢山あることが、50歳を目の前にしてやっと分かってきました。若気の至りで反発して困らせたピアノの先生ごめんなさい。
 小出郷文化会館のスタインウェイはグレン・グールド風の味付けの、アマチェアにも弾きやすいピアノです。強力なフォルテシモから繊細なピアニッシモまで広いダイナミックレンジが楽に表現できる素晴らしいピアノです。世の中にスタインウェイは数あれど、グールドになった気分になれるスタインウェイはそうそうあるものではございません。その上ホールは残響が長めで、響きが綺麗な特徴を持っています。小出でピアノを弾けば、ピアノとホールの特性で、「私ってこんなに上手だったかしら」と感動(勘違い???)できること請け合いです。会は毎年秋に開催する予定で居ります。参加したい方は、根本先生か小林先生か私にご連絡ください。

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英語はおもしろい〜その3  須藤寛人(長岡西病院)

 radiolucent 放射線半透過性の

 国外で開催された、国際学会で、ある日本の産婦人科教授が独自に考案した子宮内避妊器具(intra-uterine device:IUD)について英語発表した。これは器具の一部が卵管に入るというもので、世界最初の考案物であった。避妊率や合併症率について日本人らしい詳細な検討を発表した。
 質疑になって、会場からそのIUDは“radiolucent”かどうかという質問がでた。教授は、予想していない質問で、ハタと困ってしまった。演者が理解していないようで、座長がそれは“transparent”か否かと聞き直した。演者は黙してしまい、会場は静まりかえってしまった。
 偶然、前の方の席にいた私はいたたまれなく、立ち上がり演壇に上がっていった。「教授、それはレントゲンを撮ると写りますか?」と聞いた。「も、も、もちろん写りますとも」との答えであった。私は共同演者でもないのにマイクをとって“It's radiopaque.”と答えた。特殊なIUDがradiolucent(となると単なるプラスチック製!)であれば実用の可能性は少ない、と質問者は考えたのであろう、重要な質問であった。教授にあっては元よりその研究は製作初期段階で研究済みの事であって、今回は全く言及する必要はないと考えていたようだ。物が光などを透すかどうかについての言葉は transparency 透明、transparent 透明の、translucence、translucency は共に半透明、translucent 半透明のである。transparent の反対語は opaque 不透明な、名詞はしいてあげれば opacity 不透明。放射線が医学に応用されるようになって(Websterでは1923年、他の辞典では1917年頃より)、radiodencity、radiodence(放射線不透過性の)、radiolucent(放射線半透過性の)という言い方がなされるようになってきた。radiolucency は「放射線透亮」などとも訳されている。radiopaque(放射線不透過性の)、radiopacity(放射線不透過性)は初めの頃は radioopaque と綴られていたようである(Thefreedictionary)が、発音が難しいことからoが落ち、頻用されるようになり - が除かれるようになったのであろう。
 語源はラテン語 radiare、to emit rays+lucere、toshine(光線、輝)。
 その教授とは、その後、学会毎に親しく話ができる間柄になった。既にお亡くなりになったが、自分は新潟の見附市の出で、そこにお墓もあると生前言われていた。アメリカ不妊症学会で「腹腔内癒着のスコアー化」が発表されて5年以上も経っていた頃、私は、日本子宮内膜症学会の創始者であるその教授に、「早く日本語版を出しましょう」と尻押しした。その過程で、“filmy lesion”という言葉をどう訳すかを思案しあった。私は「膜様」と訳したかったが、結局、そのまま「フィルム様」として留められ、今日にいたっている。

 pension 年金

 私と同じ年齢の同僚の鴨井久司先生が、「年金って英語で pension っていうんだそうですネ!いよいよ我らも pension life ですネ」と話しかけてきたことがあった。気に掛かっていた英単語であったが、今、時間があるようになったので調べてみた。
 研究社と岩波の英和辞典をまとめれば、1)年金、恩給、2)芸術家、科学者などへの補助金、助成金、奨励金、3)(雇人などの臨時の)手当とあり、やっと4)として欧州大陸で下宿屋(boardinghouse)、下宿式のホテル、下宿料とあった。
 Webster大辞典では、1)仕事、年齢、障害などについて一定の条件を満たした時に定期的に支払われる支払い、2)パトロンより芸術家に支払われる、feeではない、決まった給料、3)として、フランス語(pa¨n'syon')よりで、英語発音は〔pa´nsian〕で寄宿舎、寄宿学校とあった。pensionというと私達は「高原にある、小綺麗な、山荘」を想い浮かべるが、それより先に「年金」のたぐいの重要な意味があった。
 ニュ−ヨーク時代の私の給料明細書を見直してみた。ニューヨーク市発行の paycheck の payroll deductions(天引き)の項目に、federal tax、state taxについで“pension”と確かに書かれていた。ひき続きの項目は、organization dues、health insurance と続き、family court(家庭裁判所)、garnishee(差押え)とあり、今更ながらアメリカ的だなと思った。
 語源はラテン語の pension-(em) payment から来ている。ラテン語の原義ではpendere、to hang on the scales、estimateとあるから、「何かの重さを量るとき天秤かなにかに載せて、計測したことと関係あるのかも知れない(推測)」。となると、ブラブラする首飾り pendant と語源を一にするのかも知れない(推測)。
 最近、国際的な法律が変わり、一定期間外国で働いた人に、その国より年金がおりることになった。私も正式な手続きをしたところ、アメリカ政府よりすずめの泪ほどの年金をもらえることになった。私が驚いたのは、額ではなく、手続きの速さと調査力であった。66才の誕生日になる前の4ヶ月間ですべて完了した。書類には“Retirement,Survivors and Disability Insurance”と書かれてあった。pension より retirementinsurance の方が硬い言葉のようである。
 派生語として、pensionable 年金資格のある、pensionary 年金などの、pensioner 年金受給者、pensionless 恩給のない、pensionaire 歩合制でなく固定給で働く下級俳優などがある。“pensionlife”という英語表現は、調べた範囲では用例として見あたらなかった。もとより、「山荘でハンモックに揺れながら、年金生活を送る」などということは、日本人では現実ばなれしていて、どうも憧れをもった日本人的造語のようである。(続く)

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開業10年が経過して  田辺一彦(田辺医院)

 このたび「開業して1年が経過して」という題目で投稿するようにとの依頼がありました。私は平成年11に実家の田辺医院に戻り、私としては開業年が経過しているつもりで10す。そのため「開業1年が経過して」というタイトルには非常に違和感があります。実家に戻った時には父親から1年で供ぼん・じゅ〜る僑から原稿依頼があるよと言われており、しばらくは少し気にはしていましたが、1年がたち、原稿依頼はなく、2年がたっても同様に連絡がない。そして数年後にはうまく免れたと喜び、現在ではこのこともすっかり忘れてのんびりしておりました。しかし昨年理事長職を父親から譲り受けたところ、医師会総会で新入会員の紹介があるから出席するようにとのご連絡を頂き、医師会総会で再び紹介して頂きました。総会で近くにいらした知り合いの先生から「今頃どうしたの」など言われ、少しばつが悪い思いをしておりました。そしてとうとうこの寄稿依頼がきてしまいました。
 開業して年が経過してしまいま10したが、遅ればせながら自己紹介させていただきます。私は昭和年に50長岡高校を卒業し、昭和年に聖マ56リアンナ医大を卒業しました。卒業後は母校に残り、循環器内科を勉強しました。入局当初は心電図、心音図、心筋シンチグラム、負荷心電図、心臓カテーテル検査などすべてを均等に勉強していましたが、村山教授に変わってから、心肺運動負荷試験、心筋梗塞患者などの心臓リハビリテーション、心不全の運動療法などの皆様には聞き慣れないかもしれませんが運動心臓病学の分野を主に勉強するようになりました。もともとスポーツを行うことやスポーツのテレビ観戦が好きで、大学時代はバスケットボール部に所属し、卒業後も時々は体育館に行き汗を流していました。歳くらいまでは男子部と練32習できていましたが、それ以降は体力がついていかず、女子部に混ぜてもらい運動させてもらっているような状態でした。またトレッドミル負荷試験のプロトコール作成などの研究時には自分で被検者もやりベルトコンベアーの上で運動しておりました。
 開業してみるといつも診療所にいるものとの予想に反して、学校健診、産業医の仕事、介護保険の認定審査会、往診、訪問診療など外に出ることも多く、また小児の予防注射、特定健診、企業健診、介護保険の主治医意見書など業務も多岐に渡り結構忙しいものだなと思いました。開業して一番不安だったのは入院が必要そうな患者さんが来られた時にどうするかでありました。大学卒業後約年間神奈川におりましたので長岡20の病院の先生方を全く存じ上げない状態で大変心細いものでした。しかし、日赤病院、中央病院、立川病院、西病院、吉田病院などいずれの病院の先生も紹介させて頂きますと気持ちよく引き受けて頂き大変助かりました。この場を借りて御礼申し上げます。有り難うございました。最近では好きなゴルフやお酒の力を借りて、いろんな病院や診療所の先生方と顔馴染みになることができ、またオープン病床などにもお世話になりながら、入院適応の方はいろんな病院の先生方のお世話になっており、少しストレスは減ったように考えています。
 卒業後年循環器しかやっておら20ず診療所に来院される患者さんの疾患は多岐に渡っているため日々勉強しなければならないなと痛感している現状です。
 唯一の趣味といえるゴルフでは長岡メディカルゴルフクラブに入会させて頂き、上手い先生方に楽しくもまれています。神奈川では年に3回くらいしかラウンドできませんでした。朝6時前に出発し、帰ってくると夜の9時か時という一日がかり10のことが多く、長岡のゴルフラウンド後に家に帰ってお酒を飲みながらゴルフのテレビ中継が見られる環境にびっくりし、長岡に帰ってきて良かったなと考えています。最近のゴルフのテレビ番組では石川遼君が中心となっていることが多く、若いのに常に攻めるゴルフスタイルを貫き通すことに感心させられています。私のゴルフスタイルに関しては、ゴルフでは何も失うものはないのに常に守りに入ってしまい情けなく思っています。もしかするとゴルフスタイルというものは人生の生き方を反映しているとも思われ、石川遼君のような攻めの精神も忘れずに仕事や遊びに頑張っていきたいと考えております。
 皆様には仕事などいろいろな状況でお世話になると思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。

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二年経過して  三上理(三上医院)

 今年になり、昨年のメジカルボウリング一位の文をこの紙面に投稿してからまだあまり時間がたっていないような気がしますが、ふたたび原稿の依頼をいただきました。こんなことなら前回の文章をこの回に回せばよかったと後悔しています。
 それはさておき、開業一年が経過し(正確には継承後一年ですが)、現在の心境と、今後の抱負をここにまとめてみたいと思います。
 順天堂大学卒業後、大学に残り、内科のローテーションで最初に回ったのが呼吸器内科で、初めて触れた臨床に感銘を受け、結局研修終了後、呼吸器内科に入局しました。学生時代の授業はよく覚えていませんでしたが、呼吸生理に興味を覚え、現在でも時間があればJ.B.Westの呼吸生理学入門を、日本語訳ですが、ぱらぱらとめくっています。その後、出張で埼玉県の床程度の病院と、250防衛医科大学で、一般内科、呼吸器内科を学び、特に防衛医科大学では、患者が少ないからか、非常に丁寧な医療、医学、鑑別診断の大切さを学びました。そこでの経験は未だに役に立っており、その後の後輩の指導でも、常にその大切さを伝えています。
 さて、平成年に子供たちの進学11もあり、諸先生方にお願いし、長岡赤十字病院に就職しました。当時、呼吸器科は4名のみで、週2回の気管支鏡も、毎回8例から多いときで例を超えて、手分けしながらがん10ばってきました。退職後も現在まで、長岡赤十字病院での気管支鏡のお手伝いをしていますが、件数は当時よりは減っている感じです。呼吸器内科医はあまり手に職をつけるような検査はなく、せいぜい気管支鏡と胸腔ドレナージくらいですので、せめて気管支鏡は今後も可能な限り続けていきたいと思います。
 長岡赤十字病院ではなぜか呼吸器内科と同時に救命救急センターのお手伝いもさせていただき、救急車のトリアージをしましたが、現在でもこの経験は非常に役に立っております。開業し、病院時代と大きく異なることはやはり、診療に限りがあり、いかに早く緊急の疾患を間違いなく鑑別するか、ではないかと思っています。たとえば虚血性心疾患はいつ目の前に現れるか、わかりません。全くの飛び込みは少ないと思いますが、かかりつけの患者でも、その多くは慢性疾患を抱え、動脈硬化の危険因子を多く抱えている方がほとんどです。その時に可及的速やかに状況を把握し、病院の先生方には大変申し訳ございませんが、できるだけ早く二次、三次病院に搬送することは、常に忘れないよう、心がけております。7・豪雨、中越地震、中13越沖地震と三回の自然災害を経験し、また、ACLSもわずかながらお手伝いさせていただき、長岡の多くの救命士も顔がわかり、お互い同じ意識で現場での対応が可能な関係にあり、今までの経験がここでも役に立っております。
 日常診療においては、病院時代にはできなかった、保険診療での禁煙外来も行っていますが、長岡赤十字病院での禁煙外来立ち上げに際し学んだことが今でもいかされています。現在のバレニクリン(チャンピックス)が上梓され、以前よりその垣根は低くなりましたが、禁煙治療は薬物療法のみではけっしてうまくいきません。禁煙治療は薬物依存と心的依存の二つを解決しなければけっしてうまくいきませんし、禁煙継続も困難です。あまり対外的には宣伝もしていませんので、本当に禁煙希望の方がほとんどですが、これからも禁煙治療には力を入れていくつもりです。
 開業して、一番不安だったのは、病院時代では考えられないほど、歩かなくなることが心配でした。一日のうち、歩くのは1階から3階までの、ほぼ二往復のみ!これでは当然体重も増えていくことは避けられないと思っていました。ところが、この生活になり、一番変わったのが、酒量が減ったことでした。最近では週のうち、飲まない日の方が多くあります。いろんな意味でのストレスがなくなったのでしょうか。さらに、なかなか継続は難しいのですが、父にお願いしている月曜日の午後に、テニスをしたり、体育館のジムに通ったりで、以前よりは体も動かし、勤務医時代より確実に体重は減ってきています。これも禁煙と同じで、いかに継続するかが大切ですので、心して過ごしたいと思います。
 前回の投稿の際は未だ骨組みだけだった新しい消防署がりっぱな建物になり、さらに非常に高い火の見櫓?と、いうには立派すぎる塔ができました。それにより新幹線や、東山が隠れてしまい、きれいな風景が消え、非常に残念ですが、長岡市の救急医療の充実のため、やむを得ないと思いますし、今後も必要があれば協力させていただきたいと思います。長岡市医師会主導で、いくつかの疾患のクリニカルパスが作成され、今後ますます病院の先生方、そして、開業されている諸先輩方と連携を図っていく時代になってきています。その中で少しでも自分の力が活かされるよう精進したいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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マッチング  横澤将宏(長岡中央綜合病院)

 今年も例年のごとくマッチングの季節がやってきました。医師臨床研修マッチング制度が始まり7年目となります。新潟県は全国的にも医師数が少ない傾向にあり、研修医の確保は今後の県の医師数増加に急務であり、新潟県としては「良医育成新潟県コンソーシアム」という取り組みがなされています。また県内の各病院でも研修プログラムに工夫がこらされ、研修医の確保に努めておられることと存じます。
 マッチングは現在の医学生にとって大きなターニングポイントです。それぞれの人にドラマがあります。私も2年前には、医学生として非常に緊張して臨んだものです。旭川医大卒の私は、見学するにも長期休みを利用した数日間の実習しかできませんでしたし、病院の特徴や人気についての情報を得るのが難しかったことを覚えています。そんな私のマッチングエピソードをご紹介します。
 あれは年の夏のことです。ポリ2007クリや国家試験勉強をしながら、最後の東医体に向けて毎日練習していました。それに加えて、どの病院を受ければよいか悩んでいました。それこそ病院のマッチング試験の申し込みが、たいてい7月末まででしたからね。マッチング制度では、「3つの病院を受ければ%でマッチす90る」という情報を得た私は、とにかく3つは受けなければということだけ考えていました。そこで私は新潟県内の3つの病院に申し込んだわけです。
 8月に入ると同時に、軽井沢での東医体に参加し、その後全医体のために再び旭川に戻り、私の頭がマッチングのみに向かうことができたのは8月も中旬に差しかかったころでした。私の第1志望は長岡中央綜合病院で、試験日は日と日で選ぶ2022ことができたのですが、どうせなら最初に受けてしまえと考え、日に20受けることにしていました。私のマッチング試験日程は、日・2021日・日の3つの病院の予定でした。30試験日の直前に私は新潟にやってきました。しかし緊張しすぎたのか、直前の日になって発熱・鼻血・下血と体調不良はピークに達していました。試験日の朝も出発直前に鼻血が噴き出していました。試験のある講堂には定員以上の学生がいて、2日間でどれだけの人が受けるんだろうと不安も募りました。待ち時間では、新潟大学の人はお互い話せるわけですから気楽だったでしょうが、アウェーの私は肩身が狭く、偶然にも高校の同級生を見つけてなんとか過ごしていました。試験も終わって家に帰ろうと思ったのも束の間、長岡駅の待合室で再び鼻血が噴出。後日胃腸炎の診断がくだりました。
 そんなこんなで翌日は次の病院の試験なわけで、とにかく早めに休もうと思ったのですが、その前に集合時間の確認をしようと書類を見ました
 『日時:平成年8月日』1920ん?今日そんなはずがない?慌て??て病院のHPを確認しましたが、間違いなく日が試験日だったんです。20やっちまったとはこういうことを言うんですね。落ち込むどころか笑えてきました。もちろん親には呆れられましたけども。しかしその後は冷や冷やものです。なぜなら自動的に2つの病院しか選べなくなったんですから。2か月後、結果的に第1志望にマッチできてほっとしました。
 2つの病院の試験日が重なっていることは、もちろん病院側の人も知っていたわけです。「志望していたもう1つの病院の試験を蹴って中央病院の試験を受けにきた」という印象が病院側にあったのではないだろうか?なんて思ったりもしたわけですが、自意識過剰な考えです。ただ今の自分がいるのはそんなマッチングの末の話なんですね。きっと今の研修医にも指導医の先生方にも各々に様々なエピソードがあるはずです。たまには思い出すのもいいものですよね。
 え?「おっちょこちょいは学生までにしとけ!」ですか肝に銘じて??おきます。

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「ゆく年、くる年 そして年が明けて、」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 この稿が皆様のお手元に届くころは、もう新年が明けているでしょうか。今年もいろいろな事がありました。来年はどの様な年になるのでしょうか。めでたく、元気の出る話を……と思って書き始めましたが、実は今はまだクリスマスのちょっと前……。自分の頭の中は、まだ切り替わらず、『ゆく年、くる年』的な想いのみ浮かんできます。
 まずは“ぼん・じゅ〜る”の事。最近の“ぼん・じゅ〜る”は田村先生のタンザニアのお話や須藤先生の英単語のお話のように学問的で勉強になります。また福本先生の、宝塚の男役と娘役に関する深い造詣と観劇に対する姿勢に、宝塚ファンの女性達はさぞや感激していることでしょう。
 これらの御文のように、丁寧な下調べと膨大(だったでしょう)な参考文献に裏付けられた原稿を拝見すると、自分のコラム?をフィーリングだけで書いていることに対して反省を感じています。なにしろ私の参考文献?は鉄人や鞍馬天狗の昔の思い出のあいまいさをインターネットで確かめるので精一杯なのですから。
 古田島先生の「山と温泉」。当方最近は山登りをしておりませんので先生の御文で、自分も黙々と頂上を目指して、頂上の清冽な空気を胸一杯吸い込み、眼下の雲海とつらなる稜線に想いをはせ、帰りしな温泉でしみじみと疲れを癒す、そんな気分に浸りたいと思っています。
 JOY会の皆様のエッセイ、楽しく読ませて頂きました。私達の若い頃は女医さんはそう多くはありませんでしたので、特に若い女医さんの話を伺えるというのは貴重です。ああ、そうだったの、と感心したりして。“ぼん・じゅ〜る”編集会議にもJOY先生に参加して頂くようになり、華やかになりました。
 そうそう、今月号にはとびきり若い(男性の)研修医の方のマッチングのお話も。ン十年前、自分が研修したてのころを思い出して、最近は私等のころよりもずっと真面目に研修しているのかも、研修システムも全く変わってきているようだし……となんとなく懐かしく感心しながら(反省もしながら?)拝見しています。
 そして政治的な事。大きな変動の年でした。アメリカでは黒人大統領が誕生し、日本でも長年与党であった自民党が大敗を喫し、民主党政権が誕生した。新年はどのような年になるのだろうか?。
 医療とそれを維持する矜持を持った人たちが心配する事無く自分の使命を全う出来る、そんな世界を望んで良いのだろうか。
 ある日、東京にいる長男から電話あり。「お父さん、友達が“ぼん・じゅ〜る”をインターネットで見てるんだって。で、医学的、学術的すごい文章ばっかりの中、キシのお父さんはスゴいな。(なにがじゃ、と私。)医学的なことがまったく出てこなくて雰囲気がちがうね。妖怪とか……。」(そんな事、書いたっけ? まッ、うちの庭には数百歳の妖怪が何人?か棲みついているようだけど。)
 それはともかく、インターネットで長岡以外の方にもお読み頂いていると思うと、編集にかかわっている者の一人として嬉しく身のひきしまる想いです。そして常日頃、影でご尽力頂いている医師会事務局の皆様方と、特に“ぼん・じゅ〜る”担当の星さんに大感謝です。
 この一年間に数々の名文をお寄せ頂きました事に感謝申し上げますと共に、新年度の皆様の御寄稿をお待ち申し上げ、皆様のご健康とご多幸、そして、“ぼん・じゅ〜る”と長岡市医師会の発展をお祈り申し上げます。

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