長岡市医師会たより No.360 2010.3


もくじ

 表紙絵 「長生橋」 藤島暢(長岡西病院)
 「立川信三君を悼む」 鳥羽嘉雄(内科小児科鳥羽医院)

 「英語はおもしろい〜その6」 須藤寛人(長岡西病院)
 「another sky」 小松原孝夫(長岡赤十字病院)

 「新年囲碁大会優勝記」 新保俊光(新保内科医院)
 「ミルクヨーカンと牛乳かん」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「長生橋」 藤島 暢(長岡西病院)


立川信三君を悼む  鳥羽嘉雄(内科小児科鳥羽医院)

 年明け早々に立川君の訃報を医師会より受け一瞬わが耳を疑った。彼には昨年9月に長中の同期会で会って以来会っていないがその時には別に変わりなく忙しく元気に遣っていると話していた。然し今想えば以前より幾分酒量が減った様な気がした。
 彼とは昭和16年に入学した旧制長岡中学の同期である。当時は日支事変の最中で、中学の教科に教練があり陸軍将校が軍より配属されて軍事教練を行っていた。学校に兵器室があって教練で使う小銃が銃架に並び手榴弾等も置いてあった。支那(中国)との戦争は既に4年余りも続き日本中が戦時色に染まり、入学した年の12月には大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって戦時色は一段と濃くなり、長中の先輩に山本五十六大将(当時は中将で海軍次官)がおられた。年が変わって二年生になると幼年学校や予科連に進む者もあり、食料も次第に欠乏して授業を潰して校庭を開墾し野菜等を作った。三年生では敵国語であるとかでクラス名のABCDEは漢数字に変わったが、敵を知るには必要であると英語の授業は続けられた。四年生になると陸士や海兵等へ進む者も多く、一学期終了で工場への通年動員が決まり、授業は全く無くなった。四年生の二クラスは五年生と共に名古屋の豊和重工へ、他の三クラスは長岡の北越製紙と北越電化へ動員され、立川君も私も名古屋組となって朝から晩まで工場で油に塗れて飛行機の部品造りをやり、夜勤もした。四年生の三学期に五年修業の中等学校教育は一年短縮されて私達は五年生と同時に中学を卒業することになり、進学は認められて中学の内申書に口答試験と作文の入学試験があった。立川君は長岡工業専門学校電気科を私は旧制新潟高校理科甲類を受験し、6月に動員が解除されて夫々進学をした。従って長中を卒業してからお互いに会う機会はなく、彼は高等工業を卒業して日立に入社したと聞いた。
 戦後まもなく立川君のお兄さんの晴一先生は表町に内科小児科医院を開業され、診療に往診に休む間もない多忙さであったと巷では言われていた。晴一先生が既に日立に入社していた立川君に医者になって手伝って呉れないかと相談され、彼も兄さんの多忙さを見兼ねて東京医大に入り直して医者になる決心をしたと直接聞いた記憶がある。彼は昭和32年に大学を卒業してインターンを終え国家試験を受け33年に医師免許を取得している。この年には私は既に大学の内科学教室で論文をまとめて学位を取得し、長岡の中央病院に勤務していた。中学の同期生との此の年数の差を厭わずお兄さんを助けようとする彼の兄弟愛に強く心を打たれ感動したものである。
 晴一先生は昭和31年に立川病院を開設され、彼は34年には立川病院に入ったが、間もなく当時全国各地で起きた病院ストライキは立川病院にも波及して、彼は晴一先生を助けて組合との交渉に心身を磨り減らしたと聞いている。38年には新大病理学教室に入局し、44年に学位を取得しているが、此処にも彼の学究心と頑張りを見ることが出来る。
 私は昭和51年に市医師会の理事になり、立川君は55年に立川病院としては初めての市医師会理事になって、毎月の理事会で顔を合わせる様になった。理事会の帰りに二人で居酒屋に寄り、酒を飲みながら色々と話し合った。現在の病院を新築する際も患者中心の抱負や理想を話し、一階正面のエスカレーターも彼の発案だと聞いた。亦時には居酒屋を出て自宅に誘われて夜遅くお邪魔をした事もあったが、奥様は嫌な顔もされず馴れた様子で迎えて下さった。
 平成14年に晴一先生が亡くなられて、彼が後を継いで理事長に就任してからは、何時も医局の先生方や職員の人達の苦労に感謝をし、賞めていた。平成19年に奥様が亡くなられ一人暮らしであったが、子供達が直ぐ近くに居るから大丈夫だと強がりを言ってはいたが、何かと淋しい日々だったのではないかと案じていた。
 彼には素人離れをした素晴らしい趣味があった。それは写真で撮影の為には谷川岳や北アルプス等にも出掛けており、数年前に写真撮影の時に転んで怪我をして近年は杖を使用していた。「ながおか・たちかわ」の表紙を飾る写真は彼の作品であり毎年頂く立川病院のカレンダーも亦彼の撮影した写真である。今年の2月の写真は魚沼の禅寺雲洞庵の美しい道場で、毎日見ては過ぎし日の彼を想い出してご冥福を祈っている。

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英語はおもしろい〜その6  須藤寛人(長岡西病院)

aromatization 芳香族化
 aromaは芳香、aromaticは(形)芳香の、(化)芳香族の、(名)で芳香族化合物である。
 今や、右を向いても、左を向いてもアロマである。アロマテラピー、アロマエステ、アロマトリートメント、アロママッサージ、アロマオイル、アロマキャンドル、アロマランプ、アロマポット、アロマライフ……と世の中はアロマづくめである。
 私が最初にaromaに出会ったのは“たばこ”である。甘いパイプタバコの臭いに惹かれた。Stone主任教授は、General MacArthurよろしく、背高のコーンパイプを使っていた。Weingold教授(後のGeorge Washington大学主任教授)は小振りの丸形のパイプであった。さっそく私も5th AveneuのDunhill本店に行って、上級とみなされている、バラの根っこで作った大振りの、柄の曲がったパイプを$50で買い求めた。pipe tobaccoは色々試したが、まもなく芳香が強烈な商品名SAILに行き着いた。緑の紙袋は白いヨットの絵が描かれてあり、aromaの字で溢れていた。
 ホルモンの勉強をしているなかで、排卵障害の第一に多い理由となるpolycystic ovarian syndrome(PCO)の原因は卵巣の“aromatizing enzyme”の欠損ではないか?という論文に出会った。腹腔鏡下で卵巣生検ができるようになったばかりで、家族例も報告されていた。さっそくJournal Clubに出してみた。しかし、既に病気に陥った組織であり、わずか一つの酵素を測定しても意味がなく、酵素欠損症が成因と結論づけることはとうていできないという大方の意見であった。日本では医学論文は「行間を読む」ことが大切と言われるが、アメリカでも「論文に書かれていないことを議論する」大切さを教わった。
 芳香族はかって、医学部の学生の時、化学式のところで習ったことがある。炭素化合物で六員環の亀の甲で二重結合をしている奴、Benzeneである。ベンゼン、トルエン、キシレン、ナフタレンなどみな良い香りのするものである。性ステロイドホルモンも基本にはベンゼン環をもった化学式である。なお、香りのしない芳香族化合物も多いとのこと。
 芳香族化とは辞書には「各種炭化水素から芳香族炭化水素を生成する反応をいう」とあり、石油化学工業とか有機合成で広く使われる語とのこと。
 女性ホルモンはどのようにして作られるかというと、材料はコレステロールで、これがpregnenoloneを経て、まず男性ホルモン(dehydroepiandrosterone、androstendione、testosterone)に化学変化し、次いでaromatizationを受け女性ホルモン(estrone、estradiol、estriol)になる。
 ステロイド代謝において芳香族化とは、ステロイド環のA環が先に述べた、安定した二重結合環になることをいう。末梢の脂肪細胞において、副腎由来の男性ホルモンは女性ホルモンに変わっていくので、女性は何歳になっても美しいというわけである。
 aromaは(ギ)aromaでspiceの意=smell、odor、fragranceと書かれている。食物、飲み物、薬などの香。したがって、aromaticを“かぐわしい”と訳すと適切かもしれない。
 aromatize、aromatizing、aromatizer、aromatized、aromatous、aromaticy、aromaticity(化)芳香族性、aromaticness、aromatics、aromatology、aromedなどの関連語・派生語はかなりの数にのぼる。
 私は未だアロマテラピーなるものを受けたことはないが、言葉の意味は変わっていくので、いつの日か、aromaを香とは関係のない意味で「癒」などと訳す時代が来るかも知れない。

brown bag 弁当
 アメリカ産科婦人科学会の年次総会の事前登録をコンピュータ入力していたら、〔“brown bag”seminar、開催時間12:30−13:45、lunchincluded$35〕と書かれてあった。セミナーは5個用意されていたが、どのようなセミナーかよく分からないまま、「CDCの新ガイドラインの説明」のところに申し込んだ。
 当日、セミナー開始前に出てきた物は、茶色の紙製の箱形のランチボックスであった。中には普通のサンドウィッチ2切れとリンゴが一個入っているだけであった。リンゴは真っ黒の小さいアメリカのリンゴで、正直とても食べられるものではなかった。
 この時点で、“brown bag”とは「弁当」という意味であることを知った。アメリカ口語辞典には「サンドイッチなどをサランラップなどに包んで紙袋に入れた簡単な食べ物。紙袋は茶色のもの(brown-bag)が多いことから弁当を意味するようになった。」と書かれてあった。
 話はそれまでであるのだが、いわゆる既成の辞書類にはこの語は載っていないので比較的新しい言葉で、少し調べてみた。goo辞典ではbrown-bagとハイフン入りで、産婦人科学会もquotation mark“”印をつけていた理由がわかる。アメリカ口語辞典にはさらに、“He is brown-bag it today.”「彼は今日は弁当持参だ」となるが、「彼」にあたる者は、ふつう、学生、教師、サラリーマンで、肉体労働者ではないと丁寧な説明を加えている。
 
“brown-bagging”は(名)弁当持参、“a brown-bagger”はいつも紙袋弁当を持参する人。
 「アメリカでは地方によってレストランやナイトクラブでビールかワインしか出さないところがあり、そこにウイスキーを茶色の紙袋に入れて持ち込むことをbrown-bag it」というと記されている。
 後はインターネットの最近の情報であるが、Yahoo知恵袋ではbrown bagは「食べ物をもち込む」という動詞としてとか、「持ち込みの食べ物」と意味が広くなってきていると書かれている。アメリカのスーパーでは、今でも、半透明のビニール袋か茶色の紙袋かどちらか選べるところも多いとのこと。レストランで食べ残しをもって帰る時はdoggy bagと言ったものであるが、今はbrown bagでも通ずるようになってきたとのアメリカ在住者の書き込みもある。
 日本では、政界などで、「茶封筒」は今でも暗躍しているようだが、スーパーの無地の「茶袋」は、もう二昔くらい前のことで、今はほとんど見なくなってしまった。
 英語ってほんとうにおもしろい。(続く)

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another sky  小松原孝夫(長岡赤十字病院)

 アナザースカイ、それは海外にある自分にとっての第二の故郷です。自分の生まれ育った場所ではない、だけれどもふとした折につい帰りたくなってしまう特別な場所。海外というくくりで言えば厳密には違うのかもしれませんが、私にとってのアナザースカイは沖縄県八重山諸島にある供波照間島(はてるまじま)僑というとても小さな離島です。
 那覇より南西にqに位置する八400重山諸島、その中心である有名な観光地の石垣島からさらに南西へ高速フェリーでq、東経度、北緯6312324度に位置する波照間島は、人が住んでいる島の中では日本最南端の島です。東西6q、南北3q、周囲q14.8のこの小さな島には、僅か人弱の600人々が主にサトウキビ栽培によって暮らしています。波照間の名前の由来には諸説ありますが、果てのウルマ(世界の最果てにあるサンゴ礁、の意)から来ているという説があり、とても綺麗で素敵なので私は気に入っています。
 私が波照間を最初に訪れたのは大学4年の春、高校の同級生と一緒に計画した卒業旅行でのことでした。時間はあってもお金がない大学時代、海外には行けないけれどもちょっと変わった旅がしたいと探したところ、オフシーズンであり航空券が格安で取れた沖縄の中でも更に離島中の離島であるこの島に白羽の矢が立ちました。
 7泊8日もの長い滞在中、自転車があれば一日で一周出来てしまうこの小さな島で、私達は特に何をして過ごしたわけでもありませんでしたが、海外のどの有名リゾート地よりも記憶に残る素晴らしい時間を過ごすことが出来ました。
 南国特有の朝の日射しに起こされると、赤瓦の沖縄の伝統的な街並みをぶらぶら歩いて廻ります(この島には供野良ヤギ僑が多数生息しており、道端ではしばしば親子ヤギに遭遇します)。島の西には、世界中で最も透明度が高いとされる海の北浜(ニシハマ、と呼ぶ)が約1qに渡って広がっています。供波照間ブルー僑と呼ばれるこの島特有のどこまでも青く澄んだこの浜辺でゆったりと泳ぐもよし、真っ白なサンゴの砂で出来た砂浜で寝そべるもよし。ダイビングをして海中から空を見上げると、天気のいい日には波照間ブルーの空にぷかぷか雲が浮かび、運が良ければその空をマンタが雄大に泳ぐ姿を見ることもできます。お昼は青空食堂でグルクンの唐揚げと八重山ソバをお腹いっぱいいただきました。島にはほとんど市場に出回らずプレミア価格が付いている幻の泡盛と呼ばれる供泡波僑が作られており、島の小さなお店では、その泡波を加工して泡波アイスを手作りしているのですが、このアイスがまた、これまで食べた世界中のどのアイスよりも遥かに美味しいのです。ほろ酔い加減になりながら宿に帰ってうたた寝し、午後は釣り竿をぶらさげ海に赴き南国の熱帯魚と戯れます。夕暮れ時には再び北浜を訪れ、波照間ブルーの海に映えた真っ白な砂浜に夕日がゆっくり沈んでいくのを何も考えずにぼーっと眺めていました。夜には満点の星空の中、日本ではこの八重山諸島でのみ見ることができる南十字星を探します。海で知り合った大学生たちとゆんたく(近所の人たちが集まってお酒を飲む場)に誘われながらのんびり夜が更けていきました。
 あれからもう一度、波照間を訪れる機会がありましたが、二度目の訪問でも何もないはずのあの島は、また新しい表情を見せ私を驚かせてくれました。学生時代を終え社会人となった今では、往復だけで2泊3日もかかり、海が荒れれば帰りの船も欠航してしまうようなあの島を気軽に訪れることはもうなかなか叶いません。しかし、いつかまたあの島を訪れる機会を得たならば、また何もせずにあのゆったりとした時間を過ごしてみたいと思います。皆さんにも自分だけのアナザースカイはありますか?

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新年囲碁大会優勝記〜医師会新年囲碁大会  新保俊光(新保内科医院)

 新年あけましておめでとうございます。
 医師会の皆様今年もよろしくお願い申し上げます。

大会模様
 1月日、恒例の医師会新春囲碁29大会が魚藤で開催されました。参加者は敬称略音順で、遠藤彦聖(立50川綜合病院)、太田裕(太田こどもクリニック)、大塚武司(大塚こども医院)、小林矩明(喜多町診療所)、斎藤古志(さいとう医院)、新保俊光(新保内科医院)、杉本邦雄(杉本医院)、高橋正明(長岡中央綜合病院)、増村幹夫(長岡西病院)、三間孝雄(三間内科医院)、山本和男(立川綜合病院)、吉田正弘(吉田医院)、各先生総勢名でした。毎年参加さ12れる黒川先生(魚沼病院院長)は体調を崩され残念ながら欠席されましたが、皆さんの会話から快方に向かっているご様子で、全快され来年烏鷺を戦わせる日を楽しみにしております。
 太田幹事のあみだ籤で対戦相手が決まり全3回のハンディー戦が行われました。ハンディーは一段一子の置き碁です。私は五段格として参加させていただき、一回戦は小林先生と向先、二回戦は大塚先生と向先、三回戦は斎藤先生と私の先で対戦しました。小林先生と大塚先生の戦いは序盤戦がひどく、ともに中盤まで必敗の形勢であり、何度も投げようと思いましたが、往生際悪く粘っているうちに逆転してしまいました。いわゆる品格のない囲碁で申し訳ありませんでした。決勝戦は全勝同士が戦う決めですが太田次期医師会長が身を引いて、私と斎藤先生が打つことになりました。思いの外上手く打つことが出来自分としては望外の結果となりました。

囲碁のとっつきにくさ
 私が、囲碁を覚えたのは大学2年生で、解剖実習がはじまり、多くの学生が午前まで実習室に詰めているような忙しい時でした。根気がそう長く続くわけもなく、何度も席を立ち、たまり場の休憩室に行く。行けば必ず誰かがだべっている。タバコとコーヒーの自販機、古くて安いだろうが十分大きなソファーと平机があり居心地はよかった。片隅に、将棋板と碁盤がおいてあり、将棋の駒入れにはダンボール製の駒が混じっている。碁笥には白石と黒石が混じっていて、黒石が個も少ない。30気の会う友達(彼はけして私のように怠け者ではないのだけれど、妙に人付き合いがよくて、誘えば断らず、付き合えば自分からやめようといわない奇特の人であった)をよく休憩に誘った。最初は将棋を指したが、そのうち彼から囲碁を教わった。どうやって覚えたか、その過程を思い出せないのだが、そう苦もなくルールを覚え、彼はそのとき多分5〜6級位の腕前であったと思うがしばらくして勝負らしき形まで打てるようになった。解剖の試験はトリコンまでいったが……。こんな経験があり、自分では囲碁はとっつきにくいゲームではなかった。
 その後十数年を経過し、5歳と6歳の娘を持つようになった。私が家でインターネット碁をしていると興味深げにみている。私はそれをみながら、「娘に囲碁を教えてみるか、両祖父や自分も囲碁好きなんだから、娘も好きになるだろう」など勝手に想像を逞しくしていた。ある日、9路盤を買ってきて教え始めた。ところが上手くいかない。当たりや石取りは、簡単に理解できたが、死活が理解できない。また終局の理解も難しかった。そもそも地とは何か分からないようであった。私「囲碁は地が大きいほうが勝ちだよ」。娘「そうね、ジャー私の勝ちね」とうれしそうに言うのだが、娘が自分の陣地と思っているところは、自分の死に石が累々としている場所なのである。そんなことが続くうちに面倒くさくなり、子ども囲碁教室に通わせるようになったが、まもなく妻から娘が嫌がっていると聞き、親のエゴであったと思いやめさせた。もう数年前の苦い思い出である。その後は、人に囲碁を教える機会はないが、何かの拍子にこのことを思い出し、考え込むことがある。
 囲碁の教え難さの原因の一つはルールの不備にあると思う。囲碁を打たない人には信じられないだろうが、囲碁には国際統一ルールがない。日本ルール、中国ルール、応氏ルール……そのほかにもあるらしい。しかも、その違いが囲碁の根幹にかかわるものだ。日本ルールは「地=囲った陣地」が多い方が勝ち。中国ルールは「最後に盤上の石数」が多い方が勝ちである。実はこの「地」の理解が困難である。「地」は相手の石が入ってきても生きることが出来ない場所と定義されるが、はたして初心者がこんなことを理解できるだろうか?いやトッププロでも判断できないことがある。大分前だが故加藤9段と某棋士の一戦で、お互い駄目を詰め終わって後、某棋士の地に手入れが必要かどうかわからない。その勝負は半目勝負のため、某九段は手入れをしない。加藤九段はわざわざ相手に「手入れはよろしいでしょうか」と断り、相手が頷いた後相手の陣地に手をつけ、延々数十手も攻防を繰り広げたのち負けが判然としたのである。プロにしてこんな風であるから、素人では必要な手入れをしなかったり、不要な手入れをしたりは日常茶飯事であり、それを指摘するときは決まって嫌な気持ちがするものである。中国ルールは最終的に盤上の石が多い方が勝ちであるから駄目を詰め終わってのち自陣にも石を詰めてゆくため終局のトラブルはない。またその過程で石の死活の意味が明らかになり初心者にも理解できる。石は2眼を持っていきとなるが、欠け目や中手などがあり、特に初心者は中手の意味を理解できない。日本ルールは死んでいる石に手を入れ打ち上げるのは損な行為であるため実戦では「この石死んでるよねー」、「そーですねー」と言葉にしなくても暗黙の了解が必要になる。初心者にそのような暗黙の了解を求めるのは大体無茶だし、上級者に「死んでるよねー」と言われれば深く考えず「そーですかねー」と応える。そして折角の死活の理解を深める機会を逃すのである。中国ルールでは実際に石を打ち上げるので、中手であれ、盤上でその死活の実戦が最後まで打たれることになり「なるほど、死んでますネ」と分かる。
 「ヒカルの碁」で子供に囲碁ブームが起きたが、囲碁を一生の趣味に出来るまで上達する子供は少ないと聞く。自分の経験からも多くの子供がルールを理解する前にあきらめてしまう様に思う。全くもったいない話だ。アマのみならずプロも現在中国、韓国のはるか後塵を拝しているが、競技人口の減少が大きいと思う。また現代の碁は戦いの碁であり、地を囲うという発想にとらわれればその後の上達は覚束ない。その意味でも日本棋院は早急にルールの改正とレクチャーの手順を確立して、普及して欲しい。
 なんだか、グチになったがやっぱり「囲碁を愛しているのだなー」ということで、勘弁してください。
 最後に、新保内科医院も開業して5年目を迎えることが出来ました。日曜診療も続けることが出来、これも一重に開業医の諸先生方ならびに連携病院様のご協力のおかげと心から感謝申し上げます。これからも一層のご指導・ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

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ミルクヨーカンと牛乳かん  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「情報通のYさんに教えていただいた通り、例の見附の牛乳ようかんは学校町のマルイで売ってました。あとで食べましょうね。」と家人。
 「そうかい、それは楽しみだ。」
 『秘密のケンミンSHOW』というテレビ番組が各地の慣習や個性的な食べ物を紹介していて面白いです。ここで昨年十月に、見附の牛乳パック入りで売られるミルクヨーカンが全国に紹介されたんだそうです。
 牛乳パックの中身といえば牛乳でしょ?……いえ、実はこれ羊羹なんです!見附市周辺に住む新潟ケンミンのデザートは、この「ミルクヨーカン」が定番。本来の羊羹は餡を寒天で固めてつくる伝統の和菓子。この「ミルクヨーカン」はなぜか500mlの牛乳パック入り。見附市の諏訪乳業が作り、地元スーパーのマルイが販売。諏訪乳業は長年地元の学校給食へ牛乳を供給する老舗。夏休みの牛乳消費ロス解消のため、1976年に社長が家で食べていた牛乳寒天をヒントに商品化。容器が牛乳パックそのままの理由は、他の容器では経費がかかるという発売当時の経済事情からとのことです。
 テレビ放送後の人気急上昇で、もとが製造数も多くないため、連日即完売。そこで販売のマルイが別会社(H食品)の類似品をプラ容器で「牛乳ようかん」と称して併売中。ネットで調べるとこんな歴史と実状が判明しました。つまり今回家人が購入できたのは「ミルクヨーカン」でなく、ジェネリック薬品のような「牛乳ようかん」なのでした。
 さっそく夕食後に試食です。やや甘さが強く柔らかめな牛乳寒天というところでおいしい。両製品を食べ比べた人によれば、本家「ミルクヨーカン」のおいしさは格別とのこと。いずれ本家牛乳パック入りの味を確認したいものです。
 ところでこれらの牛乳かん(羹)の類には思い出があります。
 「おかえり。暑かったねえ。おやつに牛乳かんが作ってあるよ。」と汗をふきながら母が迎えてくれます。
 「ほんとお、やったあ。」とよろこぶ小学生のわたし。わが家の呼び名は牛乳かんでした。たまにしかお目にかかれぬ母の手作りおやつ。1960年頃の貧しい時代でした。タッパーなぞないので、冷蔵庫に平たいアルミ弁当が入っています。取り出して蓋を開けると白い牛乳寒天に缶詰のミカンが散らしてありました。こどもらが自分の分を取り分けるので、割り当て境界線が母が包丁で切り込んでありました。
 1985年春にわたしは長岡のC病院に赴任。初夏のある昼下がり、外来に年配の女性の訪問です。お会いすると、以前出張で当地N病院に一年間勤務した際に担当したある未熟児のお祖母ちゃんでした。
 「G先生が長岡に戻ってC病院におられると聞いて、お顔を見たくて来たんですて。おかげさんで孫のK太も順調に幼稚園です。前に食べて亡くなったお母様の味と言って喜んでくださった。こんなもんでなんだけど、また作って来ましたがて。」
 お土産にくださったのが、なんとアルミ弁当箱入り牛乳寒天(缶詰ミカン入り)とこちらはデパート包装のヴェスト。すぐに弁当箱をお返しするため、好物の牛乳かんをお皿に移して空け、水洗いをしながら、このお祖母ちゃんの真情をうれしく思いました。
 今は家人がときおり、牛乳寒天を作ってくれます。パルスイートが砂糖代わりに入っております。

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