長岡市医師会たより No.361 2010.4


もくじ

 表紙絵 「春の岸辺(水梨)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「会長就任の挨拶」 太田 裕(太田こどもクリニック)

 「球友 福田光典君」 加藤政美(長岡中央綜合病院)
 「英語はおもしろい〜その7」 須藤寛人(長岡西病院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その18」 田村康二(悠遊健康村病院)

 「新年ボウリング大会報告」 廣田千尋(事務局)
 「お名残惜しき大歌舞伎」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「春の岸辺(水梨)」 丸岡 稔(丸岡医院)


会長就任の挨拶  太田 裕(太田こどもクリニック)

 このたび大貫前会長の後を受けまして会長を務めさせていただきます太田です。どうぞ宜しくお願いいたします。前々会長の斉藤先生から大貫先生へと引き継がれてまいりました。この間、新会館の建設、中越地震への対応、三医師会の合併、こども急患センターの立ち上げ、大人の夜間救急の整備、地域連携パスなど多くの問題を解決し医師会を盛り上げてくださいました。これもひとえに大貫前会長、富所前副会長を始めとする皆様の献身的な努力によるものと感謝申し上げます。誠にありがとうございました。4月からは長尾副会長、大塚副会長を軸に新しい先生も加わり、新体制となりました。皆さまのご支援、ご指導宜しくお願いいたします。
 4月1日に行われました日本医師会役員選挙では、これまでの実績を踏まえ、その総仕上げのため三選を訴える唐沢会長、民主党との太いパイプを持つという原中先生そして政党に左右されず医師会独自の理念を構築しようとする森先生の三つ巴の選挙戦が行われました。それぞれ三分の一前後の票を獲得し、僅差で原中新会長が選任されました。鳩山民主党政権が圧倒的な強さで政権を奪取しましたが、国民は希望を政権交代に託したように医師会の選挙でも同様な変化が起き、自民党寄りの唐沢先生が敗れ、民主党をバックとする原中先生が選ばれました。しかし副会長、常任理事ではいわゆるねじれ現象が起きており、前途多難とは存じますが、国民そして医師の期待にこたえる医療改革、働きを行っていただきたいと願っております。
 さて長岡市医師会の今後の取り組みに立ち返ってみますと、最も基本となる理念を「社会にこれからもますます貢献できる医師であり医師会であること」とし、またこれまで蓄積されてきた医療資源を活用して、全国でも有数の魅力ある医療圏の構築を目指し、そして市民の皆様に安全安心を与える医療を提供する医師会でなければと考えております。
 具体的には救急医療体制の整備、医師の確保、勤務医の待遇改善、医療の社会的、経済的な位置をはっきりさせ、広域な医療圏、高度医療の導入構築などが挙げられます。
 第一に取り組まなければならない事は、救急医療への対応です。休日急患、こども急患を主体とする一次救急、三病院の輪番による二次救急、この二つがうまくかみ合い、機能することが最も大切なことです。今まで長岡では二次病院である三病院の連携が良く、これは毎月行われる三病院救急懇談会によるところが大きく、これに倣って他の分野でも協議会、懇談会を作ってゆこうと思っております。また23年度に市役所が旧厚生会館跡に移りますが、その市役所の跡地に急患センターが移転することが決まっています。これに伴い急患センターの整備見直しも図られることになります。市民の皆さまのためにより良いものを作っていかなければと考えております。
 次に医師会の成り立ちにも関係しますが、保健衛生センターの縮小廃止、公益法人から一般法人への移行、法人化に伴う互助部会の存続の問題など早急に結論を出さなければならない課題があります。
 その他では、これまで行われてきた胃がん、大腸がん、肝疾患、COPDの地域連携パスに加え認知症、在宅医療の連携パスの整備、そして全てのパスがうまく運用できるように調整することも一つの課題です。また医師不足に対する備えも大切ですし、それに関連して女性医師の待遇改善、具体的には子どもを産み育てながら医療に従事できる体制の整備などこれからもいろいろの問題課題が出てくることと思いますが、その一つ一つを皆さまと協議し解決の道を探ってゆきたいと考えております。
 最後に、伝統ある長岡市医師会をさらに発展させ、社会に貢献する医師会としてゆく所存でございますので、会員各位のご支援ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

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球友 福田光典君  加藤政美(長岡中央綜合病院)

 去る3月8日に、立川メディカルセンター常務理事・悠遊健康村病院院長の福田光典先生が亡くなられました。新潟大学準硬式野球部で同じ釜の飯を食った仲間として、思い出話を書かせていただきます。私が福田君と初めて会ったのは新潟大学に入学し準硬式野球部に入部した昭和43年4月のことです。同期入部は他に一名いたと記憶しておりますが、すぐに同期の野球部員は二人きりになりました。当時の野球界といえば、プロ野球の絶頂期で、昭和40年から始まった巨人軍の日本シリーズ三連覇の直後であり、男の子は皆が野球をし、長嶋か王に憧れていた時代でありました。ちなみに当時の巨人軍の打順、1番センター柴田、2番セカンド土井、3番ファースト王、4番サード長嶋、5番ライト末次、6番レフト高田、7番ショート黒江、8番キャッチャー森、9番ピッチャー堀内(金田、城之内)は、今も鮮明に記憶しています。
 野球部に入部した二人ですが、高校時代に野球で鳴らしたわけでもなく、先輩に名選手が多く(一年上に、古賀良生:捕手・新潟医療センター・整外、川崎昭一:外野・佐渡総合病院・脳外、青木信樹:内野・信楽園病院・内科、加藤(現富沢)峰雄:外野・富沢医院・内科、二年上が、吉川明:投手・長岡中央綜合病院院長・内科、桜井炳一郎:外野・開業・内科、三年上に、関利明:投手・遊撃・新潟市民病院・整外、海谷忠良:外野・海谷眼科、中田一也:三塁・中田医院・外消、平野宏:一塁・ちゅら海クリニック・内科、浅利秀男:浅利クリニック・胸外、向井憲重:公立みつぎ総合病院院長・外科、等)、レギュラーになれるわけもなく、練習の手伝いを果たす毎日を送っておりました。
 福田君は長身・左打ち左投げで足は速い方でないため、将来の一塁手と早くから決まりました。ホームランを打てば足の速さは関係ないと言っていたそうですが(このことは、告別式の際に弟さんの挨拶で初めて知ったことです)、決して強打者ではなく、不思議なほど打球が野手の間に飛ぶというタイプの好打者でありました。
 私は身体が小さくパンチ力不足で、ただ足は比較的速くコントロールが良いという特徴がありましたので、内野手としての練習と先輩の打撃練習の投手を務めておりました。
 医学部野球部の最大の目標は8月上旬に行われる東日本医科学生体育大会(東医体)でありましたが、他に北陸大会が春秋に年二回、金沢大学医学部・群馬大学医学部との定期戦などで、合宿・遠征に明け暮れ、医学部学生というよりは野球部に入学したような学生生活を送るようになっておりました。
 初めての東医体遠征は東京都代々木の東京オリンピック選手村でありましたが、私にとっては三、四回目の東京旅行(中学三年生の修学旅行と大学受験くらい)であり、当時の特急が上野駅に到着し新入生の二人がボールやバットを持ってホームに降りたときには先輩たちの姿が見えず、川崎先輩と三人で迷子となり慌てたことが思い出されます。当時の新潟大学医学部準硬式野球部にはスター選手が多く、大量得点でコールドゲーム勝利した翌日にはコールド負けを喫するようなチームで、二年間は東医体では二回戦敗退で涙しました。
 医進過程が終了し医学部に進級すると、どこの科を回っても野球部の大先輩がいて、ますます野球中心の学生生活を送ることになりました。三年目の東医体は札幌円山球場、宿は北海道大学近くの旅館で、朝の散歩は北大構内でクラーク像をバックに準備体操をし、吉川明主将に導かれて勝利を重ねておりました。福田君はイチロー張りの打撃センスがますます冴えて、レギュラーで活躍するようになっておりましたが、私は試合前のバッティングピッチャー、試合後は汚れたユニフォームの洗濯係でありました。昭和45年、我がチームは遂に東医体優勝を勝ち取ることができました。巨人軍も日本一を続け、昭和44年には三年連続で阪急を退け、翌45年はロッテに圧勝し六連覇、シリーズ最優秀選手は二年連続で長嶋茂雄と、最終的には九連覇を達成した巨人軍の最強の時代に一致しておりました。
 学年が進むと、有望な後輩が入部してきて(一年下に、市田隆文:投手・順天堂静岡病院教授・消内、塚田一博:内外野・富山大学教授・外科、丸山明則:内野・平成クリニック・外科、鈴木八郎:外野・開業・耳鼻、山田伸夫:外野・物故、二年下に、吉田誠一:一塁・県立がんセンター新潟病院・脳外、渡辺悟志:外野・水島協同病院・消化器、三年下に、坂本隆:三塁・岩手県立二戸病院・外科、本道洋昭:富山県立中央病院・脳外、石川厚:阿賀野病院理事長・神内、長沢紀夫:太田東こども&おとな診療所・小児、永瀬敏明:捕手、魚沼市立堀之内病院院長・外科、野本栄:狭山病院・整外、等)、昭和47年には、私たちは学部三年生で、福田君が主将、私は内野手+マネージャーで東医体三連覇を果たすことができました。
 東医体に勝てば全医体があり、地区大会に勝てば全国大会にも出場することになり、医学部学生でありながら遠征に明け暮れ、年間二十数試合で二敗しかしなかった年もありました。遠征先も、北は札幌円山球場、南は福岡平和台球場、東京は神宮球場とプロ野球中継で観ていたグラウンドで試合をすることもできました。
 野球・遠征に明け暮れた証として、名歌「野球部小唄」が誕生し、東医体四連覇を置き土産として私たちは卒業を迎えることになりましたが、学部四年生の秋に同級生の吉沢浩志君(吉沢医院・産婦、県医師会副会長)が野球部の一員に加わりました。
 6年間で、福田君と同じ宿で寝起きをしたのは何日を数えたのでしょうか。人類が初めて月に降り立った時も合宿所でテレビ中継を観ておりました。仙台上空で自衛隊機と全日空機が衝突した時も東医体の仙台遠征の宿でニュースを観ておりました。私たちの時代の野球部部長は第三内科市田文弘教授であり、野球部卒業生の多くは第三内科に入局する慣例でありましたが、私たち三人は脳神経外科と産婦人科に入局することになりました。
 それからは別々の研修医生活を送ることになりました。私は今でも年に1〜2回の野球を続けておりますが、福田先生の野球での活躍の噂はとんと聞いたことがなく、学生最後の年に肩を壊したこともあり、すっぱりと野球から足を洗ったものと想像しております。
 わたしは昭和60年に地元の長岡赤十字病院に赴任いたしましたが、昭和63年に福田先生が立川綜合病院脳神経外科に転勤して来られました。野球部時代の話を肴に数回飲んだことはありますが、専門が異なるため交流は途絶え気味でありました。その頃、年に2〜3回長岡地区同級会(赤十字病院:江村巌・羽生忠正・児玉省二・宮村治男・森下英夫、長岡保健所:松井一光、長岡療育園:小西徹、小千谷総合病院:登木口進、内山耳鼻咽喉科医院:内山春雄、立川綜合病院:福田光典、長岡中央綜合病院:加藤政美)を開催していた時期もありましたが、次第に多忙となり自然消滅となっておりました。
 昨年春に、長岡赤十字病院病理部の江村巌先生から、福田先生が手術を受けられたがすぐに仕事に復帰するとの連絡をいただきました。回復して医師会などで会うこともあるだろうと考えておりましたが、昨年12月の卒後35年同級会にも参加せず「放射線治療中のため物が食べられない。」との近況報告で、もしやとの悪い想像をしましたが、その後の経過の速いのには驚きました。
 通夜・葬式に参列しながら野球部時代のことを思い出しました。私は守備の選手でしたので、一塁ベースの少し左側を目掛けて送球し福田君が差し出す右手のファーストミットに白球が収まる瞬間が浮かんで参りました。錚々たるメンバーの中、レギュラーで東医体連覇を遂げることが出来たこと、全国の町で野球をし、飲んで騒いだ青春時代が甦りました。福田先生が「千の風」になって球場を吹き抜け、私の最近の野球を見れば「加藤も衰えたなあ。」と感想を述べることでしょう。
 福田光典君、君と共に野球に熱中し、楽しい青春時代を過ごせたことが本当に楽しかったとつくづく思います。またいつか強いチームを作りましょう。一時さようなら。

尚、勤務先は、平成20年11月発行の「学士会会員名簿」を参考にしました。

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英語はおもしろい〜その7  須藤寛人(長岡西病院)

 interactive 相互に作用する
 
アメリカ産科婦人科学会(ACOG)総会に久方ぶりに参加してみたが、Postgraduate Courseが2日間行われた後、学術集会は3日間であった。学術プログラムの中には9つのScientific Sessionがあり、この中の一つが会長口演・招請口演にあてられ、残りの8つで日本のシンポジウムに相当するものが行われた。一般口演は極少なく(12題)、poster session(およそ300題)やfilm festivalなど、これらはすべて無料である。
 教育プログラムは幅広く準備されており、これらが有料であることが日本と異なる。
 clinical seminarは1テーマ2時間で、46個用意され、1つ$30、Luncheon conferenceは、日本式と違っていて、8人くらいで丸いテーブルを囲んでexpertと話を交わすタイプで、これが$40。教室スタイルでランチをとりながら受ける1時間くらいのseminarは$35であった。なお、postgraduate courseは$260(62才以上は$200)、学会参加費が$145であったが、自分であらかじめ一日毎のスケジュールをしっかり立て、必要総額を計算して申し込まなければならなかった。
 “interactive session”と題して“thrombophilias inpregnancy”という90分コースを受けた。hemophiliasは知っていても“thrombophilias”?はお初にお目にかかった。最近、血液凝固因子にいくつかのタイプの遺伝子異常が明らかになり、その代表的な病気(ではなく遺伝子型)がFacto rLeidenであり、白人の4−7%がこのような状態で、深部静脈血栓症や他の凝固異常と関連し、産婦人科的にも、原因不明の流産・死産とかかわりがあるのではないかとみなされているとのこと。その他、Prothrombin 20210 Mutation、Activated Protein C、Protein C and S Defficiency、Antithrombin Defficiencyなどの異常について、診断に至る過程などを学ぶものであった。
 今回、ここに書き留めたいことは、講義の内容ではなく、その方法についてである。講義はまず30分ほど通常の口演があり、引き続いて演習問題が数題提示される。出席者の回答は、電子媒体にて、即座に集計結果がスクリーンに示される。講師はその結果を見てさらに補足的説明を加えるというやり方である。これが「interactive教授法」、「interactive teaching、interactive learning(system)」の基本形のようなもので、「先生と学生(参加者)が相互に情報を(各種のmediaを使いながら)やりとりして進める全く新しい教育システムである」と説明されている。日本の医学部でも既に始まっているところもあるようだ。
 かって、講義は「unilateralからbilateralへ」ということが強調されたが、いまや、bilateralという語に取って代わって“interactive”となったような感じを受けた。“interactive”には、多数の者が休み無く複雑にやりとりしているようなニュアンスが感じられる語である。
 関連語はinteract(動)「相互に作用する」、interaction(名)「相互(交互)作用、影響しあうこと」、interactively(副)。interactiveの発音はインターアクトにならないようにインタァラクッ(ラにアクセント)くらいにすると良い。
 Thrombophiliaの講師は、若いYale大学のDr.Ware Branch産婦人科主任教授であった。
 ending remarkは、「皆様からの質問はe-mailで受け付け、必ず返事を出しますのでどうぞ」ということであった。受講費を払っているのでアフターもがっちりしているということであった。

p.r.n. 必要によって
 p.r.n.はアメリカ人医師が指示や処方箋を書く時に頻用する短縮形の一例である。prnでもPRNでも可。(ラ)pro r ena'ta = as circumstances may require(Doland's medical dictionary)より来ている。書き言葉であるp.r.nを話言葉にするときは、“ifnecessary”、“whennecessary”、“asneeded”、あるいは“as required”ということが多いので、「必要によって」と訳して良いであろう。“ad lib”(ad libitumの略)と書くと「随意に、任意に」となり、指示の幅がさらに広くなる。
 処方箋には以下のようなラテン語の短縮形が使われることが多い。就寝時はh.s.ho'ra som'ni = at hour of sleep、at bed time、食前はa.c.an'te ci'bum = before meals、食後はp.c.postci'bum=aftermealsである。回数に関しては、1日1回o.d.omniindie=onceaday、1日2回b.i.d.bis in die = twice a day、1日3回t.i.d.ter in die = thre etimes a day、1日4回q.i.d.quater in die=four times a day。また、q.h.はqua'que ho'ra = every hour(1時間毎)であるので、2時間毎、3時間毎はq.2h.、q.3h.、q.8h.(たとえば抗生剤使用の時)となる。
 量に関して、液量の時はgt.gutta = drop 滴、gtts = dropsで、10gtts./minの如く記す。目薬の時も同じ。水薬は小匙一杯はa tea spoonful(約5ml)、大匙一杯はa tablespoonful(約15ml)である。
 p.o.は「内服」で、npo、NPOはnon per os = nothing by mouthで絶食、「経口投与禁」の意味となる。指示簿に“Stat”と書けば、(ラ)sta'tim = immediatelyよりで、アメリカの正看護師(Registered Nurse RN)は「大至急」であることを理解する。
 処方箋の書き方は日本式と異なる。まず、頭にのsymbolをおく。既にこの印が印刷された処方箋であることが多い。これは(ラ)Recipe = takeという意味である。この記号はアメリカの市中の薬局のカンバンに多く使われている。の書き順は、PxではなくR/の順で書く。次に、薬品名を可能な限りgeneric nameで書き、総処方薬品量を書く。例premarin 0.625mg 60 tab.。次に段を変えて、Sig.(Signatureの意味でSigna.または単にS.でも可)と書く。これは、本来はmark、write、letbewrittenの意味で「表示せよ」から、「服用方法」という意味になる。用法・容量はまず1回量を書き、ついで一日の回数を書くので「1tabo.d.」となる。また、日本式の「クロミッド3錠3X5日分」は「clomiphene citrate 50mg.t.i.d.for 5 days」となる。日本式の「お薬のみ」の受診形態はないので、「refill ok for 3 times.」と書けば、一枚の処方箋で3回(妊娠成立しなければ、3ヶ月分)使用可能となる。厚生労働省は平成22年1月、「内服薬処方せんの記載方法の在り方に関する検討会報告書」を出した。「薬名」の後はまず「1回量」を書き、次いで「服用回数」、「服用のタイミング」の順で書くよう通達された。今後は、「マーズ○○ 2g X 3」などという、まことに割り切れない処方箋はなくなることであろう。日本人医師が今もってドイツ語を用いた指示、処方箋を書いているように、アメリカ人医師も処方箋などにラテン語を書き続けていることは、考えてみるとおもしろいことである。ただし、さきの厚労省通達には「日本語で明確に記載すること」と書かれていることを付記する。(続く)

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南アフリカにルーツを求めて〜その18  田村康二(悠遊健康村病院)

4.The day after tomoroow
 我々の将来の展開はどうなるのだろうか? 10〜20年先は、今のニューヨークを見れば分かる。その先は現在のローマを見れば推測できると考えている。じゃその先は?誰も確信をもっては語れないだろう。例え語ったとしても、大きく外れることは間違いあるまい。
 気候変動がヒトの進展に大きく関わってきたことは、歴史が証明している。その気候は異常気象、つまり温暖化と寒冷化の繰り返し、と言うリズム変動を生じている。日本ではなぜか温暖化だけが騒がれている。寒冷化がその後で来るとは言わないのだ。不思議なことだ。
 今問題にされている温暖化が一段と進んだある時点から、気候は一転して寒冷化し、一気に氷河期になるという説が米国では有力らしい。じゃ温暖化がなぜ氷河期を起こすのだろうか?現在の地球では、赤道付近で湧き出て暖められた海水が、地球の自転によって発生した大きな潮流によって高緯度地方(北極、南極地方)へ熱を運んでいる。高緯度地方で熱を放出したあと、冷えて比重が増した海水は、海底へ沈み込み、再び赤道に向かって反転してゆく。こうして、海水は循環している。ところが、地球が温暖化し、極地の氷が解けて海に流れ出すと、大量の真水によって海水が薄められ、比重が低下するため、沈み込む力が消えてしまう。海流の循環が止まると、極地を暖める要因が取り去られ、再び極地の冷却が始まるというのだ。アメリカ国防省がまとめた、海流循環の停止による氷河期の到来まで視野に入れた、地球温暖化の将来予測の詳細を年、英国のオブザーバー紙2004がすっぱ抜いた。これは「急激な環境変動のシナリオとその合衆国の国家的安全保障への影響」と題するレポートであった。
 このレポートをもとにしてSF好きなハリウッドが作った映画「The day after tomoroow」(世紀20フォックス監督:ローランド・エメリッヒ)がある。ベスト・セラー小説「Coming global superstorm」を元にして作られた。映画では無数のゴルフボール大のヒョウが東京に降り注ぎ、街を崩壊させる大竜巻がロスアンジェルスを襲い、巨大な津波がニューヨーク市を飲み込んでしまう。北米に住む人々は、緊急避難命令に従って南のメキシコに逃避する。凍りついたマンハッタンに閉じ込められた息子(ジェイク・ギレンホール)を救いに、気象学者の父親(デニス・クエイド)は仲間たちと向かい成功するという物語だ。
 温暖化が進む明日の次の日には本当に1万年前に経験した氷河期に突如変わるのではなかろうか?南極や北極で氷床をボーリングして、過去数十万年の地球の温度変化を調べている科学者の中には、その移行速度は、場合によってはわずか数年で起きる可能性もあると述べている人もいる(リチャードBアレイ著・山崎淳訳:「氷に刻まれた地球11万年の記憶、温暖化は氷河期を招く」ソニー・マガジン)凍結しているマンモスの胃袋の中には、草木の食べ物が入っている。だからマンモスは瞬時に襲ってきた氷河期で滅亡したらしい。
 アメリカが本当に恐れているのは氷河期ではなかろうか?それに備えたプログラムが出来ているという。これを案じて昨今の石油の異常な高騰があるように思っている。近い未来に我々はこの映画のような光景に出会うのではないか?無策な政府には見切りをつけて、今のうちに南国の孫や子と共に移住したほうがいいかな?とも考えている。

5.人類学者は新しいヒトの出現を予告している
 かつて日本全体が北海道と九州の気温に相当する変動が1年ごとに起きたことがある。環境庁は日本の平均温度は100年後には1.3か4.7ら度上昇するだろうと予測している。つまり日本の関心は専ら炭酸ガスの排出量の増加による温暖化のみに集中しているように思える。それは排気ガスの抑制の技術やその製品を売りたいためだけではあるまいか?ちなみにアメリカのマスメディアでは気候変動といい、温暖化とは言わないようだ。
 気候変動が大きく急速に起きれば恐竜たちが滅亡したように、子孫も絶滅するだろう。変動に適応するにしても、そのスピードは気候変動にはついて行けぬだろうからだ。現代人の絶滅後に新たに登場する新しいヒトの条件は、環境と遺伝子の両方が共に恵まれる必要がある。つまり子孫が急に南アフリカやタンザニアへ移住しても適応できないということだ。
 まず適者生存の環境としては、(1)氷河期に入ってもなお温暖で水に恵まれていること、(2)移動可能な限られた地域内の環境が多彩であること、(3)火山地帯であること。火山地帯は森林を育むので動植物が多様で存在しうる地帯だから食糧に困らない。これらの条件を満たす地は世界中で東アフリカしかないだろう。次にヒトである。いきなり長岡からアフリカのサバンナに放り出されても生きぬけるような逞しく賢いヒトならなんとかなるかもしれない。求められる条件としては、(1)多様な遺伝子を持っていてその身体能力や知的活動が多彩なこと、(2)適応する方向がたまたま自然変動に一致すること、(3)原始的な狩猟や農耕など自然に依存した生活を持てること、(4)たまたま運がよいことなどであろう。それらの条件を十分に満たすのは、再びやはりアフリカ人達だろう。
 氷河期になると現代人(クロマニオン人)は滅亡して、新しいヒトが出現するという話になると、もはやSFの分野の話になる。しかし人類学者達は現実のものとして考えているようだ。はたして「子孫の将来はどうなるのだろうか?」それは急激な気象変化に伴う厳しい自然環境の変動の予測から可能になるだろう。

第13章 長岡へ帰る 10月19日(木)

 楽しい旅もアッと言う間に終わりとなった。プレトリア市を朝の08:30にバスで出発。60kmの道を再び空3060港に向かった。国際サッカー大会をひかえてヨハネスブルグ空港は大改装中だった。空港内の売店では、南アフリカのクルーガー金貨の形をしたチョコレートを子供や孫達への記念に買い求めた。

1.ルイボス・ティーは美味い
 ルイボス・ティー(図13・1)も土産に購入した。マメ科の針葉樹の一種で生育すると図のように50cm位の高さになる。それを刈り取って実を茶として使うのだ。優れた抗酸化作用がありアトピーなどに有用だという。この木は何故か南アフリカの西ケープ州セーダーバーグにしか生育しないとされている。アフリカの先住民はこれを不老長寿の源としてきた。それはともかくほんのりと甘い独特の風味をもつお茶なので、私は20年位前から愛飲している。今では長岡や新潟でも購入可能なので、是非とも一度はお試しあれ。

2.旅で守る三脱の教え「初対面の人に年齢、職業、地位を聞くな」
 江戸時代の江戸っ子の社会ルールでは、初対面の人に「年齢」「勤め先」「身分」を聞いてはいけないとされ、これを「三脱の教え」としたらしい。失礼にあたるというより、余計な情報が入ることで一種の色眼鏡で初対面の相手を見てしまいその人の素顔や本心を見通せなくなることを恐れたらしい。これは、現代の旅でも十分通用する考え方といえるだろう。プライバシーを守る必要があるからだ。
 私の経験ではJTB主催のツアーでは自己紹介をするが、このグローバル社のツアーではいつも自己紹介をしない。だから始から終わりまで一緒に旅しても、互いにどこの誰かは分からないことがある。それでいい時代なのかもしれない。ただ日本人、特に男性は互いに自己紹介をしない場合が多いので、当惑することもある。
 12:50 キャセイ・パシフィック748便で、まず香港に向けて飛びたった。キャセイ・パシフィックを含めて、外国の航空会社では様々な飲み物を身体の時間に合わせて次々に提供してくれるのが楽しみだ。西欧ではカクテルは生活の中に溶け込んでおり、飲むに適した時間帯に合う酒を持ってきてくれるのは実に粋なものだ。
 そうこうしている内に、座席を平らにするとあの世とこの世の境がなくなってくる。ふと目が覚めると「あと2時間で香港に着きます」というアナウンスが流れた。キャセイ航空は快適だが、ただ困ったことは機内に使うスリッパが提供されていなかったことだ。このような経験は初めてだった。経費の倹約なのだろうか。
 13時間05分間も乗った後の、翌朝の07:55に香港についた。改めて機内にいる乗客を見回すと、中国からは多くのビジネス・マンがアフリカへ往復していることが分かる。中国は最近アフリカの資源を求めて交流を深めているといわれている。これに比べて南アフリカの在留邦人数は僅かに1339人(平成19年)、渡航者数年間31816人(2006年資料)、つまり南アフリカへ旅する日本人は未だに僅かに毎日人位で極めて少ない。これに比べてハワイには毎日5000人の渡航者がいることと比べれば、余りにも少なすぎる。ケープタウンで会った日本人ガイドの安倍さんの話では「日本のテレビで最近南アフリカをようやく取り上げるようになりました。そこで観光客は少しずつ増えています」ということだった。日本の政府も企業ももっと世界の宝庫のアフリカに注目したらよいのではないか?学問上でもアフリカ学は日本では未だに真に貧弱なのだ。
 10月20日(金)14:25に成田空港に無事に着いた。夕方にはようやく長岡に到着。10日間の長旅は無事に終わった。
 アフリカへ是非一度は、まだ老いないうちに、おいでになることをお勧めしたい。例えば進化論はこれまでの生物学、応用生物学である医学、の基本的な思想となっているが、アフリカへ行くとその真実が分かるだろう。更には1960年代に始まった若い学問分野・社会生物学をもとにして「ヒトとサルとは、何が違うのか?」「ヒトとはなにか?」「ヒトは何処から来て、どこへ行くのか?」「ヒトをどう理解するか?」などへの答えは、アフリカの果てしないサバンナに立ってみて改めて自分なりに理解できたように思う。それは私が長年研究している時間生物学や進化医学の理解につながった。だからアフリカへお出でになれば、あなたの人生観が変わるかもしれませんよ。
 旅には確かに癒しの効果もある。かの文豪・ゲーテはこう書き残している「旅ほど希望が達成されるものはない。欲する旅人には全てが可能になる」。長々と供ぼん・じゅ〜る僑の紙面に駄文を書いてきたが、会員にアフリカへの旅情を掻き立てられたら幸いだ。私たちのご先祖探しの旅は、その後も続いている。以上

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新年ボウリング大会報告  廣田千尋(事務局)

 いつもお世話になっております。事務局の廣田です。誰だ?とおっしゃられるかもしれませんが、医師会に電話を掛けるとほぼ一番に電話に出る“あの”僑廣田です。その事務局員がなぜ会報に登場したかと申しますと、今年の新年ボウリング大会で優勝させて戴いたからです。甚だ僭越ではございますが、そのご報告をさせて戴くこととなりましたのでよろしくお願いします。
 さて、新年ボウリング大会は、1月18日(月)にドリームボウル(柏町)において、参加者10名で開催されました。当日の組み合わせはくじ引きで、私は、吉田正弘先生、山井健介先生、高木正人先生と同じレーンとなりました。他のレーンは3名でしたから私たちの組は1名多いため、出来るだけ早く投げてみんなに遅れないようにしなければならないと思いました。ご一緒の先生から『ストライクを取り続ければいいんだよな。』と明確なアドバイスを戴く中、高らかなホイッスルを合図に大会はスタートしました。
 “早く投げる=ストライク”ということで、それを考えただけで手に汗が滲んできました。
 嫌でも順番は回ってきますからボールを持ち、無我夢中で投げた1フレーム目は9ピンのスペア。プレッシャーのお陰でしょうか他に一切の邪念なくゲームに集中でき、5連続のストライクを含め、1G目は201ピンという結果でした。続く2Gは172、3Gは153と順調に成績を下げ(?)、このままであれば130と思っていましたが、再び先生方に励まされ、終わってみれば4G目は179ピンでした。今までかつてない見事な成績にしばし呆然。空っぽになった私を一瞬で現実に引き戻してくれたのは窪田先生の『優勝決まりだな!』の一言でありました。「えっ?」そんなことはないはず、だって高木先生も吉田先生も山井先生もUP200だったじゃないですかぁと声にならない声を発していたところに高木先生がにこやかに登場。『あぁ、良かった!“ぼん・じゅ〜る”書かなくていいんだぁ♪』のお言葉で私は“ノックダウン”真っ白に燃え尽きてしまいました。その後の表彰式で世界チャンピオンのように大きなトロフィーを戴きましたが、どのように頂戴したのか、どの道を走って家まで帰ったのかよく覚えていません。おぼろげな記憶の中の『飾っておいてね!』と云われた市川先生の言葉通り、我が家の特等席にトロフィーを飾り、家族と共に賞品の豪華なケーキを食べましたが、その味も実はよく覚えていません。
 翌日、医師会に出勤し、昨日の顛末を事務局の星さんに報告すると、あまりの衝撃で頭を抱えて机に突っ伏してしまいました。それから以降、事務局には気まずい空気が漂い、とても居た堪れない雰囲気……。思えば、昨年暮れから私はやけに当たりが良かったのです。家族も事務局員の誰もかからなかった新型インフルエンザに感染したり、○ャスコのガラポン(福引)で特賞が当たったり、大会の数日前には、高速道路で飛び石が当たり、フロントガラスを全損。そして、この大会では優勝と本当に当たり続きでありました。しかし、これで一生分の運を使い果たしたのでしょう、その後は落ち込みっぱなし。“ぼん・じゅ〜る”の原稿を誰が書くのかで新年会で物議を醸し、これが決定するまでの約1ヵ月半の間、正直生きた心地がしませんでした。そもそもの原因は私にある訳ですから仕方ありませんが、今、こうして原稿用紙に向かうことが出来てホッとしています。
 私は以前に、ボウリングに熱中している時期がありましたが、そのときは残念ながらあまり上達しませんでした。しかし、このメジカルボウリングに参加させて頂いてからは、どちらを向いてもお手本がいっぱいで、おまけに投げるたびに褒めて下さるものですから、まさに、“ブタもおだてりゃ木に登る”。調子に乗って新しいボールも買い、小五の息子を伴い、月に数回の練習にも出かけるようになると少しずつ上達の兆しが見えるようになりました。月例会の後、いつも悩まされていた右半身だけの筋肉痛もやがてなくなり、13ポンドのボールのお陰で二の腕の贅肉も減り、家族とのコミュニケーションにも役立つということでボウリングは私にとって良いことばかりであります。
 さて、ご報告もいよいよ最終ページとなりました。このように拙い文章を“ぼん・じゅ〜る”に載せて戴くかと思うと大変恐縮しております。これまで、関係の先生方には大変ご迷惑をお掛けしました事をお詫び申し上げると共に、今後は今回の優勝を励みに事務局のお仕事もしっかりと努めて参りますので、よろしくお願いします。
 あっ!最後にもうひとつだけ。
 皆さま!
 ボウリングは楽しいですよ♪
 ご一緒にスカッとしませんか?

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「お名残惜しき大歌舞伎」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 「牡丹の様なお嬢さん、シッポ出すぜと浜松屋、二の腕かけた彫り物の、桜にからむ緋縮緬(ひちりめん)、知らざあ言って聞かせやしょう、おっとおいらは弁天小僧、菊之助」
 ご存じの方はいらっしゃるでしょうか? この歌は三浦洸一さんが昭和30年代に歌って大ヒットとなった「弁天小僧」で私は今でもちゃんと歌えます。
 なぜこの歌を思い出して口ずさんでいるかと言うと……。3月末の土曜日に二胡奏者のウェイウェイウーさんと尺八の藤原道山さんのコンサート「アジアン・ハート」を聞きに上京した翌日、建て替えの決まっている東京・歌舞伎座を見ておこうかと立ち寄ったところ、補助席ではありましたが当日券が手に入り、御名残三月大歌舞伎千秋楽の2部を観劇し歌舞伎に気触(かぶ)れているからです。
 数多くの名優、名舞台を送り出してきた桃山様式の大殿堂。建て替え後は劇場部分の外観に今の様式の雰囲気を取り入れて、その上は超高層ビルを建てる計画らしい。現歌舞伎座の外と中を楽しんで、いざ観劇。
 演目の一つは弁天娘女男白浪。弁天小僧菊之助を尾上菊五郎が、南郷力丸を中村吉右衛門が、そして日本駄右衛門は松本幸四郎という超豪華な顔揃え。
 浜松屋見世先の場面から始まり、美しい武家娘と供侍(ともざむらい)、実は世間で評判の盗賊、白浪五人男の弁天小僧菊之助と南郷力丸である。舞台はとんとんと、あっというまに進み(建て替えの為、普段は一日二回の公演のところを一日三回公演にしたせいではありません。たぶん?)、稲瀬川勢揃いの場面となる。
 悪事を重ね、耳目を集めた五人男に遂に追っ手が迫り、花道に並んだ五人男、先ずは菊五郎の「雪の下から山越しに、まずここまでは落ち延びたが……」に続き、左団次、梅玉、吉右衛門、幸四郎が名台詞を繋いでいく。『渡りぜりふ』に大向うから「音羽屋」「播磨屋」「高麗屋」と声がかかる。この声は絶妙のタイミングで掛かる。
 ミュージカルでも活躍している幸四郎は声がよく通りひと際の貫禄と華があった。「知らざあ言って聞かせやしょう……」など名台詞満載で楽しい舞台でした。
 あまり歌舞伎が良かったので4月の御名残歌舞伎も、と4月の某日曜日に上京するも、当日券売り場には既に沢山のファンが並んでいて(朝の4時、5時から並んでいたそうな。)急ぎ最後尾に並んでみたが一部、二部、三部と目の前で惜しくも売り切れてしまった。折角上京したので何か観たいものと東京宝塚劇場へと向かう。
 宝塚も雪組トップスターの水夏希が退団発表した事もあり、もちろんチケットなどある筈もない。が、こちらは何とか手に入れることができて観劇してきました。お芝居とショーの2本立て。お芝居のほうは、赤十字の生みの親、アンリー・デュナンのお話で白いシーツに血に染まった包帯で十字を描き、後に赤十字のマークとなった旗を最後に水夏希がふる所が植田先生(ベルサイユのばらの演出家)の作品らしく、宝塚ファンの琴線に触れていた様だ。
 宝塚の男役は実際の男性より恰好よく男を演じ、歌舞伎の女形は実際の女性より女らしく美しくあでやかに女を演じる。長く受け継がれてきた伝統芸、楽しませて貰いました。
 新しい歌舞伎座は2013年完成予定との事。あらざらんこの世のほかの想い出に……と、今一度、新装なった劇場で観劇したいと思っている。

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