長岡市医師会たより No.366 2010.9


もくじ

 表紙絵 「からまつ」 藤島暢(長岡西病院)
 「亀山先生の追悼に寄せて」 吉川明(長岡中央綜合病院)
 「凝り性な自分」 川田亮(長岡赤十字病院)

 「拉致・監禁からの生還〜その5」 美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)
 「英語はおもしろい〜その10」 須藤寛人(長岡赤十字病院)
 「マイ・フェイバリット・シングス」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「からまつ」 藤島 暢(長岡西病院)


亀山先生の追悼に寄せて  吉川 明(長岡中央綜合病院)

 亀山先生は去る7月23日当院にて享年86歳の生涯を閉じられました。御家族は密葬の形式で送りたいと希望されました。しかし、小生や主治医の富所先生の強い希望もあり、後日お別れの会を開くことで御家族の御承諾を頂きました。
 長岡福祉協会、サンプラザ長岡、長岡中央綜合病院、新大第二内科同窓会の共催のもとに8月21日(土)、長岡会堂にて「亀山先生お別れ会」が開催されました。約600名の多くの方々の御参列を頂き、しめやかにとり行われました。荒川元学長、野沢県立坂町病院元院長、太田長岡市医師会長、田宮福祉協議会理事長の4名の先生方から弔辞を賜りました。ここでは最後に小生が述べました弔辞を書きしるさせて頂き亀山先生への追悼としたいと思います。

 亀山先生、本日は謹んでお別れの挨拶をさせて頂きます。先生は約10年の第二内科在局時代を経て昭和36年5月に厚生連中央綜合病院に赴任されました。以来中央病院で奮闘された御様子は昨年御自身で出版された「一輪の花」の中で詳細に述べられています。現院長の私にとりましても大変示唆の多い内容でした。
 昭和47年4月からは病院長に就任され、定年退職された平成2年3月迄の約20年の永きにわたり、まさに中央病院とともに歩まれました。病院を拡大、発展させた功労者の御一人と言っても過言ではありません。
 その後サンプラザ長岡へお勤めになり、さらに20年間現役を続けられました。
 私が先生に初めてお目にかかったのは第三内科の医局長になったばかりの頃でした。教授室で御用を済まされた先生は退室されたあと医局長室にお寄り下さり、笑顔で「大役頑張って下さい。」と祝いを手渡しながら激励して下さいました。大病院の院長先生から早速御挨拶を頂いたことに大いに感激したものでした。その3年半後に色々ありましたが中央病院に赴任することになりました。人間、簡単に感激するのは如何なものかということをまず教えて頂いた気がしました。
 中央病院での勤務も4年半を過ぎた頃、私に同じ厚生連の豊栄病院へ院長として赴任するようお話が参りました。骨を埋めるつもりで長岡へ来ましたのに早々転勤するのは如何なものか、当時豊栄病院は厚生連のお荷物病院の一つと言われていたこと、老朽化がひどく移転新築は必須の状況であったこと等々を考え、迷ったあげく先生の御自宅へ相談に参りました。先生は覚えておられますか。「迷っているようだが、いずれ院長をやって貰うためにお前を呼んだ。豊栄へ行ってこい。」といとも簡単に仰いましたね。……行きました。
 それから10年近くたって豊栄病院の移転新築も終わり、経営も順調になった頃、また色々ありまして長岡に戻ることになりました。
 早速、外来をやっておられた長岡西病院へ御挨拶に伺った際、「お、帰ってきたな。厚生連もようやくいい人事をしたな。」と言われました。私は良い人事かどうかは結果をみなければ判らないのではと思いながらもいい人事だったと言われるように頑張らねばと決意を新たにしたものでした。
 かように私の厚生連生活の節目々々で先生の御助言、御指導を頂きました。しかし、よく考えますとどうも先生にのせられてきたように思えてなりません。
 先生の弁舌の巧みさは軍隊時代に培われたというより持って生まれてきたものと思っています。先生に少しでも近づきたいと思いますが私にはとても無理のようです。
 麻雀の大好きな先生に呼ばれ、鈴木丈吉先生や富所先生、時には奥様をまじえ御自宅でよく麻雀をさせて頂きました。先生はすぐチーやポンをして点数を安くされるので麻雀に限っては大きなことはできない人だと思いました。むしろ、奥様が滅茶苦茶お強いため、途中で「おーい玲子(奥様)、変わって打ってくれ。」と奥様を助っ人に呼ばれるのが私どもは一番嫌でした。
 家庭では大先生も奥様の叱咤激励に無駄な抵抗を試みるという世間一般の構図であることが判明し、とても親しみを覚え、御自宅におじゃまするのがとても楽しみでしたし、そんな先生が大好きでした。
 人間味に溢れ、家族を愛し、人を愛し、医師として最後迄現役を全うされた御生涯は誠に素晴らしいとしか言いようがありません。
 亀山先生、長い間大変お世話になりました。また、大変お疲れ様でした。これから先生に一歩でも近づけるよう私も努力したいと思います。いずれどこかでお会いできましたらまたメンバーに入れて下さい。
 今はどうかごゆっくりお休み下さい。合掌 平成22年8月21日

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凝り性な自分  川田 亮(長岡赤十字病院)

 皆さん、はじめまして。長岡赤十字病院臨床研修医1年目の川田亮と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私は新潟市出身で新潟明訓高校、福島県立医科大学を卒業しました。研修医となって数カ月がたち、ようやく病院の雰囲気にも慣れてきたところです。今回、原稿の依頼をいただきました。私は多趣味な人間でして、それらについて少し紹介したいと思います。
 第一番目は野菜作りです。何を田舎くさいといわれるかもしれませんが、これがなかなか面白いのです。高校時代に始めたので今年で10年目くらいでしょうか。実家が新潟市の郊外で、竹林と畑があります。さすがに今年は臨床研修が始まったので、まったくやっていませんが、去年までは国家試験の勉強のあいまに時々実家に帰り、世話をしていました。
 ピーマンやナスなどメジャーなものからニラやアスパラガス、ハーブまで数十種を育てていました。福島にいながら、野菜の世話などできるのかとよく言われますが、全く問題ありません。自分のできる範囲のことをやれば、あとは手をぬいても野菜は自然と育ちます。野菜だって植物なのだから当たり前のことです。過保護にする必要などないのです。農家の人と同じものを作る必要はないし、作ろうとも思いません。
 おすすめの野菜はニラです。正直、スーパーなどで購入するニラは化学肥料で無理やり大きくしているせいか、固く大味です。ニラは肥料などやらなくても時々堆肥を少量与えるだけで十分育ちますし、害虫がつくこともありません。自然に育てたものは小ぶりではあるものの、柔らかく深みのある味わいです。私自身、昔はニラが苦手でしたが、自分で育てたニラを食べてからは大好きになりました。しかもニラの利点は、一度植えてしまえば、長期にわたって収穫できるということです。株の根元から2cmほど上を刈り取って、堆肥を少し与えれば、数週間後にはまた収穫できます。株分けもできるので常時収穫できます。アスパラガスも季節は限られますが、やはり毎年収穫できるのでお勧めです。ぜひ、皆さんも機会があったらやってみてはいかがでしょうか。日赤病院の先生方にも野菜を作られている方は何人もいらっしゃいます。
 二番目はパイプオルガンです。もともと幼少時からピアノは習っていたのですが、小学校の音楽の授業でバッハのフーガ・ト短調を聴いてから、いつか弾いてみたいなと思っていました。高校時代にとある教会でパイプオルガンのコンサートがありまして、聴きに行きました。コンサート後に教会の方にお顔いして、練習させてもらえることになりました。自宅にも電子オルガンはありましたので、バッハの楽譜を何冊も買い、練習しました。残念ながら、途中でその教会での練習は出来なくなってしまいましたが、福島医大に入学してからも福島市音楽堂にある小型のパイプオルガンを弾いていました。
 パイプオルガンは管楽器です。数十種類の木管や金管の組み合わせにより、さまざまな音色を出すことができます。もとはヨーロッパで教会音楽を担う楽器として扱われていたようです。ただ、キリスト教のことなど全く分からない僕でも、バッハのコラール(宗教曲の一つ)を聴くと感銘を受けます。オルガン曲を作曲している音楽家は大勢いますが、やはりバッハの曲は重厚で複雑な曲が多いですね。また、バッハの活躍したバロックの時期は対位法音楽が主流でしたが、私はフーガをはじめとする対位法音楽が大好きです。バッハのオルガン曲、おすすめです。
 第三の趣味は将棋と囲碁です。渋い趣味だねと言われそうですが、なぜかそういうものに魅かれてしまうのです。将棋は小学生時代からやっていまして、何回か全国大会にもでていますし、中学生時代は日本将棋連盟の「研修会」という、「奨励会」の一つ下位の組織にも属していたことがあります。月に2回東京に通わせてくれた両親には今も感謝しています。この「研修会」には、全国から将来プロ棋士になるための少年少女が集まっています。いつも胃をきりきりさせながら、対局に臨んでいました。自分の人生が一局一局にかかっているわけで、神頼みをせずにはいられませんでした。この時期は、毎週のように白山神社に自転車でお参りに行ってました。「研修会」での対局中にも、千駄ヶ谷の将棋会館の前にある鳩森神社に行って祈ってました。今考えるとかなりの精神状態だったのでしょうね。なぜそこまで苦しい思いをして将棋に打ち込んでいたのか、それは自分でも分かりません。高校時代からは、囲碁も始めまして、とても面白いですが、上達はいまひとつです。
 さて、これまでいくつか私の趣味について紹介させていただきました。研修期間中は、医学に集中して取り組む期間であるとは思いますが、これらの趣味も細々と続けていけたらと思います。

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拉致・監禁からの生還〜その5  美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)

2010年1月26日(火)午後7時 第8日 独房・断眠
 自白を迫るひとつの有力手段は眠らせないことだ。それに加えてわずかな薬を使えばすぐに秘密を吐いてしまうだろう。
 監禁に慣れ、体力も回復した俺はしょっちゅうケータイで連絡していた。彼らの裏をかいていたつもりが、しっかり彼らの罠にはまっていたのだ。とうとうケータイの現場を押さえられ、その罰として独房入りを宣告された。
 雑居房だろうが独房だろうが、監視されていることには違いはなく、むしろ一人のほうが邪魔されずにゆっくり寝られると思ったのだが、それは甘かった。
 その日はちょっとウトウトするとすぐに監視が飛んできた。晩飯が終わると満腹なので、すぐに眠くなるのだが、この日は手足を縛られ、頭には脳波計のような電極をたくさん付けられ、ほかにも体中に電極を付けられた。いわゆるポリグラフだ。見習い士官が言っていたボスが疑っているSAS(睡眠時無呼吸症候群)の検査らしい。もっともらしいが、結局は一時間と眠らせないということだ。トイレにも行けない。
 翌朝、手下が電極を外しに来た。ポリグラフは実は俺の昔の専門だ。こんなものをクリアするのはいとも簡単。しかし、睡眠が取れないのはこたえる。

2010年1月28日(木)午後2時 第10日 最後の闘い
 SASも否定され、結局、彼らの名目である急性心筋梗塞の原因が見つからない(実は例のカプセルを探すのが目的)ので、作戦を変えてきた。もう一度、直接心臓を探ろうというのだ。
 またもや縛られ、点滴をされ、橈骨動脈からカテーテルを入れられた。
 前回は回旋枝を主体に探ったようだが、今回は前下降枝を中心とするらしい。右はもともと細くて、しかもかなり以前に詰まっていて、側副血行路ができているので今更調べるまでもないとのこと。例のカプセルの実験をかなり以前に行ったが、その時に右に詰まったのかもしれない。今回は少しパラメータを変えたので、左の主幹部で詰まったらしい。
 かなりの時間をかけていろいろ探ったようだが、結局見つけられなかったようだ。悔し紛れというか、2度とカプセルが作用しないように、ステントを合計五つ六つ入れてガチガチに広げたらしい。有難い。ご苦労様。
 同時に、このカプセルの弱点も明らかとなった。ステントを入れた冠動脈には通用しないのだ。やはり平和利用に限る。
 最後の闘いで力尽きたのか、当日も翌日も尋問も何もなかった。

2010年1月30日(土)午前10時 第12日 脱出・生還
 拉致・監禁12日目の朝、目覚めたらベッド脇に書類が無造作に置かれていた。それは退院許可書であった。要は用済みだということらしい。妻に連絡して着替えを持ってこさせたが、まわりはもぬけの殻だ。すぐにアジト(病院)をあとにした。身代金が効いたと妻が言う。たった20万円で!?
 信濃川が見えてきた。三途の川ではない。長生橋を渡る頃には鉛色の雲間から雪が降ってきた。今年は雪が多いが、この12日間は雪のことなど考えたことがなかった。第一、自分がどこにいるのかすら分からなかった。大学の同僚には南海の楽園での2週間のロングバケーションを楽しんだと言っておこう。
 彼らを探す唯一の手がかりは、血圧を測るのに必ず水銀マノメータを用い、聴診器はLittman(TM)を全員使っているということだ。アナログ技術に長けた彼らは高性能のアナログコンピュータを持っているに違いない。(完)

2010年2月7日脱稿
 改めて、T病院救急外来担当S先生、主治医N先生、研修医S先生、看護師さん、その他多くのスタッフの皆様に紙面を借りて深甚なる感謝を申し上げます。また、心配頂いた大学の同僚、学生諸君、友人、家族にも御礼申し上げます。

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英語はおもしろい〜その10  須藤寛人(長岡西病院)

Stenography 速記術
 大昔、東京で開かれた国際産婦人科学会(FIGO)の運営の裏方さんの端くれに加わったことがあった。医学用語は特殊で、通訳者も大変であろうと予想され、また、引き続いて、他の臨床科の国際学会も催されるということで、同時通訳者に対する産婦人科の集中講義がもたれた。
 開催を間近にした時点で、通訳会社から前もって発表者の「読み原稿」のコピーを渡しておいてもらいたいという要請があった。たとえ発表の30分前でもよいので、原稿を受け、通訳者が「一度でも目を通しているかいないかで、通訳の質が変わります」とのことであった。
 同時通訳は極度に集中力を必要とする仕事のようであった。通訳ブースには2人一組で入り、一人10分くらいで交代しあっていた。どういうわけか同時通訳者の多くは女性であった。同時通訳者は、聴きながら喋るのであるから、私たち凡人には出来ないことで、いつも感心させられる。担当会社となったサイマル・インターナショナルの松岡氏は、当時カーター大統領が来日したときの通訳者でもあり、その頃よくテレビにも出ていた。氏の落ち着いた通訳は、たいへんわかり易かった。氏は「私は留学経験はありません」と語られていたが、同時通訳のベテラン中のベテランに違いなかった。
 FIGOの期間中にアジア・オセアニア部会の理事会がもたれた。参加者は各国諸大学の重鎮教授5人であったが、重要な会合であり、初めから速記者(stenographer)が入る事が決まっていた。その記録責任者は50歳くらいの、日本人姓をもつアメリカ人女性であった。日本では屈指の英文速記のエキスパートの人とのことであった。
 会議が始まった。五種類の英語が入り乱れた。Agenda(議事日程)、Constitution(規約)、Article(条)、Section(項)、Amendament(修正)、Minutes(議事録)等々の会議用語が踊った。オーストラリアの理事が会を引っ張ってくれた。オブザーバーであった私はこっそり速記者の筆記用紙に目をやり、初めて英文速記(shorthand)というものを覗き見た。みみずの匍ったような線が書かれていったが、たいへんゆっくりした筆の動きで、彼女に緊張感は全くなく、粛々と仕事を続けていた。実は、会議が盛り上がり、1時間の予定が2時間になった。それでも不足で、翌日も継続した会合をもつとする motion(動議)が出され、“Do we have a seconder?”(動議の賛成者は)、“I second it.”(支持する)で adjourn(休会)となった。私は、突然のことが起こったことと会議費が予算を大幅に超えることを心配した。
 翌日、verbatim report(逐語的翻訳)と題された100ページにおよぶ分厚い会議録ができあがっていた。2日目の会議は1時間くらいで終会に至った。この2日目の会議録に私は目を通す機会がなかった。しばらくして、このことを担当した教授に話したところ、「後で、出席者が何か言ってきた時の保険のようなもの」で心配しないで良いとのことであった。私はバカ高い保険だと思った。
 語学の道の行き着くところにこのような専門分野のあることを知った。stenography は steno- + -graphy で、steno-の語源は f. Gk stenos narrow = write down in shorthand。stenograph(名)速記文字・速記物、(動)速記する。stenographer 速記者、stenographic、stenographical、stenographically、stenographycalistなど。
 話を変えるが、最近、越前敏弥著「日本人なら必ず誤訳する英文」を読んだ。本人の予備校生時代からの思い出話もありおもしろかった。彼がたくさんの本を訳しておられることに驚嘆した。著者は、「東京の商社の若者の英会話力には自分はかなわないかもしれない。しかし、英文を正しく訳すことに関しては負けないであろう」と書いており、語学を飯の種としている翻訳業者の意気込みを感じた。
 医師は、上記した語学の達人である通訳者、速記者、翻訳者とはめざすところを異にしている。しかし、英文の医学雑誌を読んだり、時には英論文を書いたりすることの必要性は益々求め続けられるものと思わねばならない。

linen リネン
 linen をウィキペディアで引くと(フ)liniere リンネルに転送される。「亜麻の繊維を原料とした織物の総称」とある。亜麻(アマ)は、「比較的寒い地方で栽培される、一年草で、アサ(麻)と間違えられることがあるが、アサよりは柔らかくかつ強靱で上等な繊維である」とのこと。
 といっても若い人にはピンとこないかもしれないが、病院のどの病棟に行っても「リネン室」の標識があり、ホテルにも「リネンルーム」と書かれた部屋があり、最近は「○○リネン」なる会社もあり、見慣れた、耳慣れた言葉であろう。しかし、適切な日本語訳が付けがたかったのか、リネンはリネンのまま今日まで使われている。
 リネンは、一般には亜麻の薄地の丈夫で吸湿性のある織物で、紀元前3500年のエジプトの交易品に「リンネル」が混じっていたとのことである。古代の中近東では肌着としてよく使われていた。エジプトでミイラを巻くために使われ、イエス・キリストの遺体を覆った「聖骸布」もリンネルであり、現代のヒンズー教徒も亜麻で遺骸を包み、聖なるガンジス川へ死体を流すという(以上 Wikipedia より)。
 ヨーロッパで15年棲んだ、須賀敦子の著書「ユルスナールの靴」にリネンに関するおもしろい文章があった。長文なので半分くらいに書き縮めさせてもらった。「中世、フランドル地方はイギリスと商業でつながっており、主要な取引物は、フランドル毛織地、そして亜麻布―リネン―であった。……ヨーロッパの古い家柄の女たちにとって、リネンはほとんど文化といっていいからだ。結婚を意識すると、娘たちは雪のように白いシーツや枕袋やテーブル・クロスを刺繍糸で縁取りし、自分のイニシアルを縫い付けていた。リネンをもたない花嫁なんて考えられない。まずしい娘は木綿で、裕福な娘は亜麻布で、一生かかっても使い切れないほどのリネン類を、自分の手で縫い上げていった。」
 従って、西洋人にとってリンネルという言葉は大変身近な用語であったと推測される。かっては liniere cloth(布)であったのが、タオルやシャツを含めた一般用語となり、いつの頃からかシーツや寝具一般を指すまでに至り、さらに、linen-capboad や linen closet などから、それらを入れる棚や小部屋まで示すようになったと思われる。
 linenはフランス語でlin(ラン)。linge(ランジェ)がシーツ、タオル、テーブルクロス、ナプキンなどの布類。lingerie(ランジュリ)が肌着、下着、ランジェリー(三省堂仏和辞典)。「亜麻色の髪をしたランジェリーの娘……」、想像しただけで胸がどきどきしませんか?
 単なるリネン、されどリネン。明日から、リネン室の前を通るときは、ちょっとだけヨーロッパの香りがするかもしれませんヨ。(続く)

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マイ・フェイバリット・シングス  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 今年の夏は暑かった。あまりの暑さに畑も脱水気味で秋キュウリ、秋なすはだめになってしまい、もう収穫の楽しみは秋採れる奥枝豆(一人娘)ぐらいになってしまった。医者が畑で熱中症で倒れていても困るので、畑は大幅に手を抜いて今は鉄道模型に精を出しています。
 「ええ?もう帰っちゃうの?」なんて可愛い言葉はジジ、ババのお供に付いてきたお孫さん達。そんな言葉が聞こえたならば診察室から待合室に飛んで行って、名残り惜しそうに私の鉄道模型を振り返り振り返り帰って行く子供たちに、またな、と手を振って別れるのです。
 現在の鉄道模型バージョンは三代目。一番最初は山古志の段々畑、山や川のレイアウト。二代目の時代は近代となり、ビルと満開の桜並木の下での花見客の宴会風景をメインに。が、桜が台風で散って(子供達がもこもこした木にさわってみたかったらしく)修復不能となり、しばらくお蔵入りとなっている。
 いま現在の三代目は三丁目の夕日の雰囲気を、と思って作ってみた。
 路面電車の通る街。路面軌条と架線に導かれて都電、江ノ電、箱根登山鉄道、新潟交通、栃鉄などの車両が走る。大通りには、火の見櫓の脇からいま出動しようとする真っ赤な消防車。神社の裏手には町内の若い衆が担ぐ祭りの神輿。社屋の欄干には巫女さん達。参道にはお参りをする善男善女と白衣の巡礼の列。
 街全体を見渡すとまず目立つのは堂々たる映画館と赤色灯の輝く交番。モダンなレンガ作りの教会では今まさに結婚式が。
 格子戸にのれんのかかった酒屋、立派な時計店、瀟洒な写真館、フーテンの寅さんが“いよっ”と顔を出しそうな茶店の店先にはお婆ちゃんと子供が腰かけて団子を食べている。
 もちろん玄関先にダイハツミジェットが止まっている鈴木オートと駄菓子屋の茶川商店と角のたばこ屋も。はしる車はプリンススカイラインGT、観音開きのクラウン、初代ブルーバードとコロナ、路地の隅にはカーキ色のバキュームカー。
 これでバッチリ気分は東京オリンピック、とひとりほくそ笑む。しかしながら秋葉原で鉄道模型用の“メイドっ娘”のフィギュアを見つけて、思わず購入。メイちゃんの執事(向井理さんに似てる。)も加えて、メイド喫茶も作成。時代設定はもうめちゃめちゃ。
 で、この街があまり愉しそうなのでゴジラも見物にやって来ました。(ということにして)レイアウトの片隅からはゴジラが首をかしげて街をじっと見つめています。
 そもそも私は小さいころからおもちゃが大好き。で、三つ子の魂百までも、と今も下らないおもちゃを購入しては医院の待合室にそっと置いて楽しんでいます。
 その一つが犬の貯金箱(貯犬箱)です。患者さんが電話代十円を餌用の皿に置くと、犬はシッポと頭を振りながらわんわんばくばくとお金をバク喰い。
 先日、ちっちゃな女の子がママに抱かれながら「わんわん」と紅葉の様な手で指さして拍手をし、「これ、持って帰ろっか?」とおしゃべりし、あまりの可愛らしさに窓口のスタッフ一同感動していました。
 もうひとつ、最近購入した“踊る猫人形”も人気です。猫田課長(と名前をつけています。)の左手を握ると「ウー、レッツゴー」の掛け声とともにすっくと立ち上がり、メタボなお腹を振りながら曲に合わせて踊りまくる。ご覧になりたい方はどうぞ待合室までお出でくださいませ。

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