長岡市医師会たより No.367 2010.10


もくじ

 表紙絵 「魚沼の秋〜五日町スキー場から」 丸岡稔(丸岡医院)
 「故亀山宏平先生とのサンプラザ長岡での想い出」 角暁美(田宮病院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その1」 福本一朗(長岡技術科学大学)

 「英語はおもしろい〜その11」 須藤寛人(長岡赤十字病院)
 「東京での生活について」 櫻田朋子(長岡赤十字病院)
 「ボクの研修生活」 宗岡悠介(長岡中央綜合病院)
 「会員ゴルフ大会優勝記」 吉川明(長岡中央綜合病院)
 「秋は収穫の散歩道」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「魚沼の秋〜五日町スキー場から」 丸岡稔(丸岡医院)


亀山宏平先生とのサンプラザ長岡での想い出  角 暁美(田宮病院)

 亀山先生は長岡中央綜合病院を定年退官後、平成2年5月にサンプラザ長岡施設長として赴任され、平成18年12月に施設長退任後も名誉施設長として長岡西病院・田宮駅前診療所の外来を、共に勤務されていました。その間私も老人保健施設で平成5年から約17年間ご一緒に仕事をさせていただきました。在りし日の先生のお姿を思い浮かべると改めていろいろな思い出が懐かしく有難く思い出されます。
 利用者の皆さんには昼夜を問わず病気の診察は勿論のこと、普段から常に寄り添い頬をすりよせては声をかけ励まし慰められ、先生の姿が見えると誰もが近寄り、そこには陽だまりのような温かい心のふれあいがありました。中央病院時代からの何十年来の患者様も多く、ご家族からも供教祖様僑の様に慕われ、施設の行事にも先頭に立ち、水戸黄門やサンタクロースに扮して皆を喜ばせて下さいました。心の通う医療とは〜病気だけをみるのではなく一人の人間として関わる事〜、その大切さを身をもって教えていただきました。「両親にできなかった親孝行をここでさせてもらっているんだ」と嬉しそうにおっしゃっていた事を思い出します。

  垂乳根の 母に捧げん

  八十路すぎ 小さく咲ける

  一輪の花

  (「一輪の花」−亀山宏平−より)

 職員にも、「風邪はよくなったか?」「子供さんの熱は下がったか?」等の毎日の声かけは勿論の事、地震・水害・火事の際には被災し呆然と立ちすくむ職員のもとにすぐに駆けつけ、「元気を出せ。くじけるな。俺もいろんな時があった。またいい時がくるから」と励まし、職員が病気や怪我で入院した時も「うちの大事な職員なんだ。よろしくお願いしますよ。」とお見舞いの際、わざわざ担当医にお願いしておられました。陸軍幼年・士官学校時代に培われた強い責任感とリーダーシップの下、人としての気持ちを大切に、おおらかさの中に細かい心配りがあり喜び・悩みを共に分かち合って下さり、先生の下で毎日楽しく安心して働くことができました。施設内感染流行の時も先頭に立ちピンクの予防衣を着て張り切っておられた先生のお姿が目に浮かびます。
 私や子供たちも先生のお嬢様・お孫さん達と同じ年代だった事もあり、娘の様に可愛がっていただき施設長室や帰りの車の中で幼い頃のご家族(特にお母様)の思い出、陸軍幼年士官学校時代、新潟大学、中央病院時代の思い出等いろいろな話を伺い、多くの事を教えていただきました。昨年私が入院した際も、先生の大好物のサーティワンアイスを持って何度もお見舞いに来て下さり一緒に食べた事が懐かしく思い出され、こんなに早く逝かれた事が今も信じれない思いです。
 先生ご自身も胃・腸閉塞の手術、黄斑変性症の治療、その合間には奥様のご病気等いろいろな事があられましたが、常に前向きであり今回入院されるまで生涯現役で過ごされました。その姿には私達も勇気付けられ本当に頭の下がる思いでした。そして「よき死は、よき生より生まれる」という先生のお言葉通り、最後はあるがまま受け止められ穏やかに旅立っていかれました。
 一人の人間として、奥様やご家族を心から愛し大切にされ、これまで出会われた多くの人達にも愛し愛された先生の魅力は、生まれながらに備わった才能、素晴らしいご両親特にお母様から受けられた愛情、そしてそれを失われた後に培われた慈しみの心……によるものであろうかと思います。あの世へ行ったら再びお母様に逢って、別れた後のいろいろな出来事を報告するのが楽しみだといっもおっしゃられていました。今頃は大好きなお母様やご家族と再会し懐かしい話をなさり、愛する奥様・ご家族・皆の事を今後も見守り続けて下さる事と思います。
 私も先生に出遇えた事に心より感謝し、先生の咲かされた一輪の花を大切に育て伝えてゆけるよう努力したいと思います。亀山先生、本当に本当に有難うございました。

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忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その1  福本一朗(長岡技術科学大学)

1.スウェーデン語との出逢い
 人生は「一期一会」、様々な人々との出逢いで成り立っている。ただ島国日本は「単一民族国家」であるため、生涯日本人とのみ付合い、「外人」の友人を一人ももたない人も多い。それに対して遣隋使以来の留学は異国の地を踏み、異郷で生活をする事を通じて彼の地の友人を得る事ができる貴重なチャンスである。特に国費等の公費で留学させていただいた学生(がくしょう)には、自らの体験をただ自らの内に留める事なく、広く人々に伝え、祖国に住む同朋に役立てる義務があると考える。この拙文は筆者がスウェーデンに留学した9年間に出会って感銘を受けた人々の数奇な生き方を、その片鱗なりともお伝えし、読者諸氏のお考えを拝聴したいと考えて、ご迷惑を顧みず紙上を拝借するものである。ただ政治的難民・亡命者で祖国の訴追を受けている方もおられるため、この文中では一部の氏名は仮名とさせていただいたことをご了承頂きたい。
 1982年4月まだ雪の残るゴッセンブルグ国際港に英国からのフェリーで入国し、これからお世話になるシャルマース工科大学とゴッセンブルグ大学医学部の教授たちへの挨拶もそこそこに、市が経営する無料の「スウェーデン語を話せない外国人のためのスウェーデン語コース(SVI-SS)」に妻共々入学した。
 このSVISSは朝8時から12時までの半日制で、一クラス10名以内初級上級それぞれ半年ずつの計一年間の短期集中語学無料コースであった。学生のほとんどは外国からの移民・難民・亡命者で、我々の様に入国当初より母国の旅券と留学生ビザを得て入国していたものはごく稀であった。授業料等の受講費用は一切無料であるためか、ほぼ毎週行われるテストは厳格で、三回連続して不合格だと即国外退去となるので皆必死で勉強していた。しかしなにしろ初日から全てスウェーデン語のみの講義で、休み時間もスウェーデン語以外は禁止、還暦をとっくに超えておられた女性主任教官のリンド先生は「スウェーデン語、スウェーデン語、スウェーデン語!あなた方の全身を毎日スウェーデン語で“爆撃”しなさい!」と山の様な宿題を出される。お陰で授業は午前中だけなので午後は好きな事ができると思ったのは大間違い。午後どころか夜も予習復習をみっちり行わねば試験に通らない状態だった。留学生としての研究も同時に行わねばならなかった我々は徹夜もしばしばで平均睡眠時間は4時間ほどと、まさに大学受験時代以来の詰め込み勉強期間であった。
 毎学期クラスの20〜30%が脱落して消えて行く中、一番楽をしていたのはオランダからの20歳の女子留学生のエレンだった。彼女はなんと入国2週間目にはスウェーデン語のみで会話をする事ができた。逆に留学数年後には私でもオランダ語のラジオ放送が半分くらい理解できるようになったので、江戸時代の蘭学者たちがマスターしていたオランダ語は同じゲルマン語属の中でも北欧語に大変近く、おそらく鹿児島弁と津軽弁の違いくらいしかないと思えた。
 それに比べて我々に対してリンド先生は「外国語の取得能力は、民族や母国語にはよらない。大事なのは人間性と勤勉性だけなのよ。」と励ましてくださったが、地球の裏側から突然やって来て中学校以来8年間も習って来た英語ですら満足に会話できない日本人にとって、瑞日辞書すらなかった当時のスウェーデン語学習は誠に辛いものであった。

2.命をかけて新しい言葉を習う亡命者たち
 スウェーデン語クラスSVISSの同級生たちはもちろん外国人ばかりであった。その国籍は本当に様々で、近くはドイツ・オランダ・ハンガリー・ポーランド・ルーマニア・ロシアから、トルコ・イラン・イラク・アフガニスタン・エチオピア、遠くは中国・タイ・ベトナム・チリ・ボリビア・ぺルー・アルゼンチン等とまさに言葉通り地球の裏側から隅々からの若者たちで溢れていた。
 30歳を過ぎるまで数名の韓国・フィリピンからの留学生以外は、純粋に日本人のみの社会で過ごして来た私にとって、突然の「国際化」はまさにカルチャーショックであった。特に世界中の独裁国家から亡命して来た若者たちの眼は何処までも透明で澄んでおり、悲惨な拷問を受けても屈しないその勇気には頭の下がる思いであった。それに引替え我が祖国はと思うと、旧制第一高等学校寮歌「ああ玉杯」中の「治安の夢に耽りたる栄華の巷低く見て」の意味が、これほど心に痛く突き刺さった事は後にも先にもこの時をおいてなかった。(つづく

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英語はおもしろい〜その11  須藤寛人(長岡西病院)

Founding Fellow 設立フェロー
 Martin. L. Stone 先生は New York Medical College と State University of New York at Stony Brook の二つの大学の名誉教授である。そしてアメリカ産婦人科学会(ACOG)の Founding Fellow(創設フェロー)の一人で、第30回ACOGの会長でもあった。以前の教授室には、ACOGの創設者一同の写った、円卓を囲んだ、鳥瞰
(ちょうかん)写真が大切そうに飾ってあった。
 第55回ACOG の annual meeting には、会場に“past president”の部屋が特別に用意されてあった。私は、そこに行けばひょっとしたら教授に一足早く会えるのではないかと思って行ってみたが、不在であった。いずれにしても、翌日会えると思いながら、前夜祭の懇親会場に向かった。快い海風の入る San Diego の Old Town の Gaslamp Quarters という一区であった。入場を待っていた数百人の産婦人科専門医集団の先頭に180cmの大男はいた。私は女房の手を引いて先頭グループに分け進んだ。教授は大きなジェスチャーで私の名前を呼んでくれた。私の胸の name tag には、ばかでかい字で“Norihito”と first name だけで印刷されてあった。教授の name tag も Martin だけであった。一つだけ違うことは、彼の tag の表面には金のシールが押してあり、一目で past president と分かるものであった。どんなシールかが想像しがたい方は、高級なナポレオンのワインのボトルの表面なんかに見られる、盛上がった丸い蝋を固めたようなものを思いだしてもらえれば良い。しかしそれが本当の金であったかどうかは定かではない。
 Martin は入場開始の時間にフライングして、先頭を切ってゆっくりとプロムナードを歩き始めた。かっての多くの弟子や関係者が挨拶に駆け寄ってきた。最高のインパクトをもったパフォーマンスであった。ACOG の founding member はもう何人もいないんだぞと言いたげであった。さすが、何でも一番でないと気の済まない Martin の心の中を見たような感じであった。
 ここでちょっとだけ英語。found は find の過去形ではなく、「……を創設する」、「設立する」found-founded-foundedである。foundation「基礎、ファウンデーション」、founder「創設者」などがある。foundingfather(s)は「創設者」として慣用的に用いられる英語であるが、性差別用語であるともみなされているそうである(長谷川潔著日本語からみた英語)。found の語源は中世英語 funden で、それは古フランス語 fonder より、これはまたラテン語 fundare で、これは、医師なら誰でもが知っている、fundus = bottom「底」から来ている(Merriam-Webster大辞典)。
 翌日、私が設定した Restaurant TAKI での夕食会に Stone 御夫妻にご出席いただいた。私のいた頃、講師であり、後に Albany Medical College(ニューヨーク州の州都のアルバニーにある1838年創立の医科大学)の産婦人科の主任教授を務めた Prof. Myron Gordon、私の同級生であり、Long Island で開業している Dr. Holey Jackson も参加してくれ、賑やかな夕食会となった。私は Chief Chef に最高の日本料理を出すよう頼んだ。カリフォルニアの海で無尽蔵のコンブを食べたウニは、日本のものの数倍おいしかった。たまたま出てきた日本酒が私の地元長岡の「久保田の万寿」であって、私自身もその偶然に驚き、また盛りあがった。お開きになったのが遅かったので、Stone 教授は、当日予定されていた戦艦 Midway 甲板上での President Reception の方は急遽出席をやめたようであった。私は彼のその心配りにこっそり涙した。

superb 最高にすばらしい
 帝王切開術を教わり始めたばかりの若かりし頃、一日で続けて3例の帝王切開を行った日があった。3例目は慣れてきて手術を短時間で完璧になし終えた。助手をしてくれた2級上の Carol Livoti 女医が大声で“superb”と私をほめてくれた。
 「すばらしい」という英語は、きわめてたくさんの表現方法がある。一語で感嘆詞的な使われ方をする時についてみても、fine、wonderful、excellent、fantastic、beautiful、splended、extraordinary などがあげられ、どちらかというと男性言葉である terrific も「上等な」で、女性言葉では fabulous とか lovely になり、あるいは welldone なども含めてよいかも知れない。しかし、それらの中でも、私はあえて言うなれば、“superb”は最高のほめ言葉ではないかという印象をもってきた。
 Merriam-Webster 大辞典では superb に(3)として、of the highest quality(最高の質の)、excellent とある。しかしそれに先だって(1)として noble(壮麗な)、grand(豪華な)、majestic(威厳のある)、(2)として、rich、elegant、luxurious と置き換えてあるから、「最高の」その内容が推察されよう。小原雅博著「外交官の父が伝える素顔のアメリカ人の生活と英語」の中に“You are not accepted by Harvard if your academic records is not superb.”という一文が書かれているが、ここにおいても superb は「最優秀」であろう。研究社の英和大辞典では「とびっきりの」「上等の」「最上等の」「すばらしい」「無類の」とあり、superb performance(絶妙な)、s.view(絶景)、s.voice(天来の)、s.courage(絶大の)、s.binding(豪華な)と訳されている。同書では同義語として splended(華麗な)を一つだけあげている。語源はラテン語 superb -(us)proudよりきている。
 先日、テレビの動物番組を見ていたら、ニューギニアにフウ鳥の一種類に、カタナカフウチョウという大変賢い鳥がいて、耳に入る音は、人の言葉も含めてすぐ真似をしてしまう特徴をもっていていると放映していた。字幕に superb bird と書いてあった。調べてみたら学名は Lophorina superba で、オームよりはるかに知能が発達しているようであった。
 superb の発音は簡単そうでやや難しく、スパブ、スーパーブ、スパーブではなくアクセントは後半の方にあり、スウパーブで、私にはたいへん上品に聞こえてくる言葉である。
 冒頭の手術の話。翌週も Dr. Livoti が、手術に一緒に入ってくれた。手術が終わり近くになると、彼女は突然、再び、“splended、superb、orgasmic!”と大声を張りあげ、あとはやっておけといわんばかりに、手術用ガウンを脱いでしまった。私への superb は、単なる compliments(おせじ)であることが分かった。(続く)

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東京での生活について  櫻田朋子(長岡赤十字病院)

 はじめまして。長岡赤十字病院、研修医2年目の櫻田朋子と申します。私は生まれてから17年ほど千葉に住んでいましたが、高校3年のときと浪人していたときの合わせて2年間、東京に住んだことがあります。今回、恐れ多くも原稿を書く機会を得ましたので、東京での生活について書いてみたいと思います。
 高校3年になる前の春、物心ついてから初めての引越をしました。本当は3歳までに6回ほど引越したらしいのですが、全く覚えていません。また、記憶にある限り、初めて一軒家でない場所に住むことになりました。引越先は、神楽坂や飯田橋の近くの、11階建てくらいのマンションの9階でした(宿舎です)。私は東京にある高校に千葉から電車通学していたので、引越しても高校は変わらず、通学時間はむしろ短くなりました。
 初めて住んだマンションは、落ち着かない場所でした。外の足音が聞こえてきたり、上の階で飛び跳ねるような音がしたりして、慣れるのに時間がかかりました。また、一軒家に比べると家の中での移動距離が短く、変な感じでした。マンションの近くは、非常に残念なことに空気が悪く、窓を開ける気にもなりませんでした。また、水道水はどんな処理をされているのか分かりませんが、ワカメが戻らなかったのを覚えています。千葉では塩漬けのワカメを水道水で普通にもどしていたのですが、東京のマンションで同じことをすると、ワカメの外側はふにゃふにゃになり、内側は固いままなのです。もちろん、味もまずいです。私達は東京の水質に驚き、すぐに浄水器を取り付けました。なぜスーパーで水を売っているのかやっと分かりました。引越はしたけれど千葉の家はそのままあったので、半分以上の週末は千葉に帰って、「やっぱり千葉は落ち着くねぇ」と家族で言い合ったりしました。
 その後、大学に落ちたので浪人生活がはじまりました。東京のマンションから駿台市ヶ谷校舎まで、片道30分くらい歩いて通っていました。少し遠回りにはなりますが、飯田橋駅から市ヶ谷駅までの桜並木の下を通ることにしていました。飯田橋や市ヶ谷の駅の近くは汚い水をたたえた川があって臭いし(なるべく息を止めて通過していました)、大きな道だと排気ガスも多いのですが、桜並木の下は植物のおかげか、比較的澄んだ空気が流れていたからです。春過ぎに毛虫がいたのには困りましたが、殺虫剤をまいたのかいつの間にか毛虫はいなくなり、夏は蝉の声を聞き、秋には紅葉した木の下を歩き、落ち葉を踏んで歩きました。冬には枝の間から乾いた青い空を見て歩きました。その道は、東京でも自然を感じられる、私の好きな道でした。
 そんな私も、新潟に6年住み、長岡も2年目となりました。夏はかえるの声を聞き、秋は虫の音を聞いてアパートまで帰ります。前の冬は長靴での通勤が基本だったし、これから来る冬もそうなるでしょう。親の転職に伴い、実家は再び千葉に引っ越したので、私と私の家族があの宿舎に行くこともなくなりました。私の住んだ場所が東京の中でも格別ひどかったのかもしれませんが、思い返してみると、大変な2年間だったなぁ、と思います。

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ボクの研修生活  宗岡悠介(長岡中央綜合病院)

 長岡中央綜合病院で、初期臨床研修医としての生活が始まり、早くも6ヵ月が経ちました。2010年4月1日、念願の夢が叶い、(一応)医師という職業につけた喜びと、これから自分の背中に重くのしかかるであろう「責任」というものに対する不安が入り混じったとても複雑な気持ちで初出勤したことを今も鮮明に覚えています。それからの6ヵ月は自分の受け持ち患者さんに関する業務、救急外来、日ごとに貯まっていくサマリー、同僚との夜の会合等々に追われ、あっという間に過ぎてしまいました。自分の思い描く医師像と、現在の自分は遠くかけ離れていますが、それでも日々一生懸命に生きて走り続けることが重要だと信じています。
 長中で社会人としての生活が始まり、強く実感していることは、やはり「人との出会いの大切さ」です。今まで僕を指導してくれた上級医の先生方皆さんが、医師をやっていく上での自分の信念を持っていらして、かつ患者さんに対して本当に誠実に接していて、自分もこんな風になりたいと思うようなドクターばかりですし、またそういったドクターのしている仕事はとても魅力的に感じられます。それだけでとてもいい環境で研修させてもらっていて、とても幸せなことだと感じています。また長中にあるフットサル部に所属しているのですが、そこでサッカーを通じて病院の中の様々な職種の方々と仲良くなっていろいろな話を聞くと、その方々がどんな考えや想いを抱いてチーム医療の一端を担ってくれているのかを知ることができてとても良い勉強になっています。最後はやはり友人です。同じ病院で研修している同僚はもちろんのこと、高校や大学で仲が良く、今は遠く離れたところでそれぞれの道を歩んでいる仲間も大変な仕事をがんばってこなして充実した研修をしているんだろうなと想像すると、僕ももっとがんばらなきゃいけないという気持ちになります。そんな友人がいることもとても幸せなことだと感じています。
 さて、話は全く変わりますが、最近の僕の悩みは、「がん患者さんとの関わり方」です。現在ローテートしている消化器内科で初めてがん患者さんを担当させていただく機会をいただきましたが、その方々、特に真実を告知されておらず、抗癌剤の効果も認められなくなってきた方との接し方は本当に難しいと実感しています。学生の頃、告知の問題について考えてみたこともありましたが、当時は「自分のことなのだから、どんなことであれ知って当然。告知しない方がおかしい」なんて考えを持っていましたが、医師という立場で患者さん、そしてその家族と触れ合ってみると、それぞれに様々な想いや事情があって、告知できないと判断せざるを得ない場合もたくさんあることを知りました。そんな患者さんに「この治療でがんは治るのか」だとか「自分はあとどのくらい生きられるのか」だとか聞かれると、元々嘘をつくのが下手な性格と相俟ってその方の目を見て話すことができない自分がいます。後ろめたい気持ちがあるのは仕方のないことだとは思いますが、患者さんの不安をさらにあおりかねない態度は決してよくないと思います。ただ自分でこんな問題を提起しておきながらなんですが、がん患者さんとの接し方に答えなんてないと思っています。将来がんに関わる分野を選ぶつもりなので、全てのがんを治せる医師になることは現実的に不可能ですが、せめて自分が関わるがん患者さん一人一人に対して真剣に誠実に向き合うことによって、一人でも多くの方に、最期に自分に診てもらって良かったと思っていただけるような医師でありたいと思っています。
 真面目な話になってしまいましたが、先日、研修医14人で一泊二日の研修医旅行なるものに行ってきました。どこに行ってどうだったかなんてことはあまり印象に残らず、夜、日本酒をたんまり飲みながら『黒髭危機一髪』なるもので大盛り上がりをして帰りのバスでは酒も入っていないのにUNOで涙が出るくらいばか笑いをしたことがとても思い出に残りました。まだまだ若いなと思いました。
 冒頭にも述べましたが4月から半年間、本当にあっという間でした。きっと二年間の研修期間が終わった時もきっと、間違いなくそう感じているだろうと思います。その時に後悔がないように仕事も勉強も遊びもがんばっていきたいと強く思っています。駄文に最後までお付き合いいただき有難うございました。

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第41回会員ゴルフ大会優勝記  吉川 明(長岡中央綜合病院)

 さすがの猛暑の夏も終わりに近づいた去る9月20日(敬老の日)、恒例の医師会コンペが長岡カントリー倶楽部で4組14名の先生方の参加で盛大に開催されました。例によってダブルペリア方式(18ホール中隠しホールを12ホール選び、その打数によってハンディキャップを算出する)で順位が決定されます。簡単に言えば隠しホールで沢山たたけばハンディが多く有利になる訳です。
 今回、小生のグループは荒井先生、田辺先生、加藤当院副院長でいずれも強者揃いでしたので誰が優勝してもおかしくない筈でした。
 小生、今春3月にクラブをそっくり入れ変えました。年甲斐もなく、石川遼君にあやかりヨネックスにしたのですが、これがなかなかなじまず、2回に1度は100以上たたく日々が続いていました。しかし半年後にしてようやく95を切るようになりましたのでペリア方式の今大会にはひそかな期待はしていました。
 成績表を御覧下さい。(※省略)小生のスコアは全選手の平均のスコアと同じ94でした。平均スコアで優勝したその理由は隠しホールのうち7つがダ12ブルボギー(パー+2打)という幸運に恵まれハンディキャップを比較的多く頂けたためでした。
 成績発表は場所を変え、懇親会の席上で行われました。理由はともかく優勝はうれしいものです。ビールの味がふだんと違っておいしかったのは私だけだったようです。
 実は小生、今回が3度目の出場なのですが、3年前の初出場時にも108とたたいたにもかかわらず優勝させて頂きました。どうもペリア戦に強いようですが90%以上は運に左右されるのが常ですので実力とは言えない所が手放しで喜べません。大相撲で連勝中の大横綱白鵬がインタビューの中で「運は努力している者についてくる」と発言していました。これを聞きましていささか小生恥じ入ってしまいました。努力しなくてもついてくるのが運だとばかり思っていましたので大いに考えさせられました。“運が自分に向かってくるように努力し続けることが大事である。”どうもこれはスポーツに限ったことではないようです。
 すばらしい教訓を頂いた今大会を企画して頂いた太田会長、事務局の方々に感謝します。
 次回も頑張りますので宜しくお願い致します。

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秋は収穫の散歩道  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「ただいま、今朝はギンナン少しだけ拾って来たよ。」と朝の散歩帰りのわたしが、片手に握ったギンナン10個余りを小皿にあけました。

 「おかえりなさい。ギンナン、くさいから苦手だわ。」と家人。

 「そう思ってね、自然に剥けた乾いたギンナンの転がっているのだけ拾って来た。だからにおわないよ。今年はほとんど拾う人もいないみたいで、ゴロゴロ落ちているのさ。」

 イチョウの黄色いサクランボ状の実は強烈な臭さです。(研究した奇特な方がおられ、ヘキサン酸やヘプタン酸が主成分)その実の種の薄い殻を割ると、ほのみどり色のギンナンが出てきます。茶碗蒸し、のっぺなどの具材では準・必須アイテム。そのまま塩味で焼くと酒のおつまみに季感があり、乙なもんです。日本以外では中国や韓国で食されているようです。
 このギンナン、微量で非蓄積性とはいえ神経毒を含有し、一度にたくさん食すとけいれんを誘発することは、ご存じのかたも多いと思います。近年の研究でビタミンB6の働きを競合阻害するメチルピリドキシンなる神経毒が同定されましたが、昔から「年の数以上はギンナンは食べてはいけない。」と民間でも言われていたそうです。
 ところで朝の散歩ですが、わたしは汗かきなので、ジャージー姿にちゃんと着替えての、いわゆるウオーキングです。居住する新興住宅地の外周の一周30分が毎日のコース。数年前の中越地震で長岡市内で被害が大きく出た地区のひとつです。大部分の住民はすっかり元の平穏な生活に戻っています。ここは周辺が昔ながらの里山なので、四季の自然を楽しめます。
 さて秋も深まりゆくなか、周辺道路を歩くと、道端でいろいろな自然の収穫物に遭遇できます。銀杏並木のギンナン拾いがその代表ですが、他にも柿や栗などもあります。もちろん近くの住人が栽培されている花や野菜はいくら路傍の花壇、畑でも収穫対象ではありませんぞ。
 柿は渋柿が多いですが、一本だけ甘柿の木が道端にあり、やはりこの秋はたわわな柿をほとんどもぐ人もなく(……わたしを除いて)、カラスが食い散らかし放題です。心を痛める食いしん坊なわたしは、通りがけに柿もぎを励行中。ジャージーのポケット左右に2個ずつ、一度に計4個です。でもこの際、思わず人目がないかあたりを見回すあたり、どこか後ろめたいのでありましょうか。
 栗の木も数カ所にあり、これはもう地面に落ちた物を文字通りの、栗拾いです。小さな山栗ですが、ゆでたてをほじって食べるとおいしいものです。おやつの少なかったこども時代の記憶が懐しいです。
 さてギンナンも例年になく収穫する人が減り、イチョウ並木の下の道路に落ちたたくさんの実が放置されて汚れています。これまで自然の恵みの収穫に熱心だった中高年の女性の高齢化が進み、ギンナン拾いや栗拾いの競合者(いわば自然収穫ライバル)が減少して来たと思われます。若い世代はそんなもの食べないか、スーパーでたやすく買えるなどで、興味がない。さびしい限りです。

「じゃ、このギンナンだけ今晩の晩酌のつまみによろしくね。」
「オーケー。早く帰れるといいね。」

 数日後、家人と車で通りすがりに、そんなライバルのひとりのおばあちゃんが小雨の中、道端で山栗拾いをしているのを見かけました。ほんわかした気持ちになれました。

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