長岡市医師会たより No.368 2010.11


もくじ

 表紙絵 「バラ」 藤島暢(長岡西病院)
 「九十八年の光彩〜丸山正三先生、医師として画家として」 丸岡稔(丸岡医院)
 「三人の肖像画」 藤島暢(長岡西病院)
 「研修医となって」 山本重忠(立川綜合病院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「英語はおもしろい〜その12」 須藤寛人(長岡赤十字病院)
 「ふるさとの春秋」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「バラ」 藤島暢(長岡西病院)


九十八年の光彩〜丸山正三先生、医師として画家として

丸岡稔(丸岡医院:長岡市美術協会長)

 11月3日文化の日に、芸術文化に貢献されたとして県知事表彰を受けられた当医師会員の丸山正三先生(丸山医院)は、この前日、お元気で満九十八才のお誕生日を迎えられました。しかも今尚、医師として画家として常に前向きに仕事をして居られます。
 前に先生のお仕事の様子をTVで観たことがありますが、診察台に横たわる患者さんの触診をして居られる姿に感動しました。ともすればデーターの数値のみに頼りすぎる傾向にある現在の医療の現場で、こうした患者さんから伝わる生きた情報を重んずる、本当は最も大切なことを丸山先生は実践して居られることに鞭打たれる思いがしたのです。
 丸山先生のもう一つのライフワークである画業については、先生の偉大な師である猪熊弦一郎先生※の「丸山さんの画家としての世界」の言葉に言い尽されています。

「丸山さんはドクターである。ドクターの中でも優れた人間性を沢山持ったドクターである。その多忙な日常生活の中から、あの美しい平和な作品が次々に生まれ出る事は信じられない程の驚きである。あの他国の街角の風景、そこに生活している人々、特に子供達が一人一人、丸山さんの独特の眼でとらえられた点景は、他の画家にはあまり見られない作品をつくり上げて居る。丸山さんは人間をこよなく愛されているドクターである事は、この作品を通じてもよく解るのである。丸山さんは美しいものがピンピンと解る人だ。美しいものを素直に美と感じ得る作家は非常に少ないと思うが、丸山さんは幸である。すばらしい感受性が生まれ乍らに与えられて居るのであるから、これからも絵を通して人々の心に安らぎと憩いを与え、病気が侵入するところがない様な平安な顔を人々に与え続けてほしい。丸山さんの世界はそれを可能にしてくれると思う。今後丸山さんに絵描きとしての時間をもう少し多く与えてほしいと思う。」

 何度読んでも、その度にこの師弟愛の美しさに胸が熱くなります。私も医師となって五十六年、油絵を描き始めて六十年を過ぎましたが、丸山先生のような方と出会えたことは何と幸せであったことか。不思議なことに、先生とおつき合いさせていただいていると自分なんかまだまだ若僧に思われ、いつの間にか自分の年齢を数えることに関心がなくなっていました。
 時折先生のアトリエにお邪魔させてもらいますが、そこには二つの大きなイーゼルがあって、夫々に描き進んでいる作品がいつもあるのです。音楽好きな先生が制作中にアトリエに流れるお好きな音楽はバッハだということもうなづけました。
 ある日こんなことをお訊ねしたことがありました。「先生は今までにあんなこともやりたかったとか、これからこういうこともやってみたいと思って居られることがありますか」と。
 その時先生は即座に「ありません」と仰いました。「今の道を進んでいて、自分を模倣するようになったら変わる時です」と。制作で最後に筆を措く時は、刀折れ矢尽きた時だとお聞きしたことがありますが、どんな作品にでも全力で高い完成度を追求しておられる先生の言葉は、正に会津八一の「学規」にある「日々新面目あるべし」と重なります。
 先日お訪ねしたら、先生はお宅で、奥様と静かな時を過ごして居られました。その時私は、先生の展覧会のポスターにもなった「パリの陽だまり」を思い出しました。秋の午後のやわらかい陽ざしが降りそそぐ公園に遊ぶ子供達のさんざめく声が聞こえる絵です。その同じ陽ざしが先生と奥様の周りに溢れていて、訪ねた私までもその中に包まれている思いがしました。
 今、丸山先生の人と芸術を後世に伝えるべく、油彩、素描を含めた三千点を遙かに超す先生の全作品を収蔵展示する建物を、長岡造形大学のご好意で、あの美しいキャンパスに建てる準備を進めています。
 丸山先生の光彩に満ちた香り高い作品の数々をいつでも観られることは、近い将来国外でも注目するところとなり、多くの人がここを訪れるようになることを確信しています。
 長岡市医師会の皆さんにも是非御協力下さるようお願いいたします。

※猪熊弦一郎(1902−1993)高松市出身、1936、志を同じくする小磯良平、脇田和等と丸山先生が所属する新制作派協会(現新制作協会)を結成。1951、国鉄上野駅中央ホールの壁画「自由」を制作。

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三人の肖像画  藤島暢(長岡西病院)

 絵や歴史がお好きでない方にはご迷惑かも知れませんが、信長・家康・ナポレオン三人の肖像を二枚ずつ並べて比較して見たいと思います。

 信長の肖像として、書物には左側のような狩野宗徳(永徳の弟)が描いた絵が載っている。これは立派な絵だけれども、あまりに温和・端正で、伝えられるような残忍・酷薄という一面が全く感じられない。ルイス・フロイスは「少し憂鬱そうで、性急で、しばしば激昂する。家臣は畏怖している」と書いているが、そんな気配はみじんもない。私は「こんな人が比叡山の焼討ちなどするだろうか?」と疑問に思っていた。多くの人がそう思っていたのではなかろうか? しかし、ほかに信長の肖像は無いので、批判することも出来なかった。
 平成19年、京都国立博物館において「狩野永徳展」が開催され、そこで永徳が描いた信長像(右側)が公開された。こちらはどこか暗い、病的な感じがして、前述のような性格が良く出ている。歴史ファンは、「さすが永徳、これこそ信長に違いない」と喜んだ。私も同感で、光秀が反逆したのも無理ないとさえ思う。信長の顔などどうでも良いが、いつか書物の信長像が一斉に変わるかも知れないから、これは知っておいても良いかも知れない。

 左側の絵は家康32歳の肖像だが、ひどく変わっていて、ふつう「家康のしかめ像」と呼ばれている。元亀3年、武田信玄は3万の最強軍団を率いて遠州を通り信長を攻略しようとした。浜松城に拠る家康は信長と同盟していたから、これと対決しなければならなかった。しかし兵力は1万、全く勝目はなかった。信玄は家康など無視して進軍しようとしたらしく、家康の家臣たちも戦わないように進言した。しかし家康は信長との信義を重んじたのか、出撃して三方ガ原で惨敗し、家臣が見代わりになって辛うじて城に逃げ帰った。この時のみじめな姿を絵師に描かせたのがこの絵である。表情は極度にゆがみ、目を剥いているが何物をも見ていない。歯で唇を噛んでいる。足は裸足。こんなみじめなわが姿を描かせたのはまず例がない。信長はこの出撃を高く評価し、「無二の律儀者」と評して家康を重用した。しかし家康はこのとき律儀を捨てたのだと思う。討死にしていればそれまでであった。つねにこの絵を手元に置いて自戒し、仁義は無視し損得勘定を優先して策略をめぐらし、ついに天下を取ったが、そのころには右側のような威厳ある温容をそなえていた。

 300年ののち、ナポレオンは「アルプス越え」を敢行してオーストリア軍を破った。宮廷画家ダビッドに命じて描かせたのがどなたもご存じの左側の記録画である。しかし5月とはいえ雪の峻嶮をこんな素敵な恰好で越えられるわけがない。ダビッドはフィクションが過ぎたと反省?した。しかしナポレオンはいたく気に入って「真実などどうでも良い。お前は勇ましい絵を描けば良いのだ」と言って、同じ構図でさらに4枚もの絵を描かせた。
 一方ラローシュという(あまり有名でない)画家は、実況をリアルに描いた。(右側)ナポレオンは茶色の外套を着てロバに乗り、左手を外套に突っ込んでいる(胃が痛かったといわれている)。ガイドらしい老人が杖を突いて付き添っている。現実はこうだっただろうが、こんなみじめな絵をもしナポレオンが見たら、激怒して廃棄させたに違いない。有名な絵でも、背景をさぐって見ると面白い。

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研修医となって  山本重忠(立川綜合病院)

 立川綜合病院で臨床研修を始め、早くも10か月が過ぎた。先生方とコメディカルの方々の暖かく、熱心な指導を受けながら臨床研修に励んでいるが、医療現場では医師としての自分の無力さを日々、痛感するばかりである。
 私は東京で学生生活を送ったので臨床研修は都会の喧騒を離れ、地域に密着した医療機関で学びたいと立川綜合病院を希望した。最近、長岡の生活にも少し慣れてきたと思う。休日には日本一美しいと聞いた夕日を見に出雲崎に出掛けたり、新鮮な海の幸を食べに寺泊にも行った。しかし、立川の研修医が毎年参加することになっている丘陵公園や神戸の24時間マラソンは予想外の出来事だった。高校3年生以来、まともに走ったことがなかったのでこれはマズいと思い、4月から信濃川のほとりを週2回、ジョギングを始めた。夜の信濃川は長岡大橋、大手大橋、長生橋を通る車のライトが川面に映り幻想的な情景である。草や川の匂いも感じることができ、とても気持ちがいいものである。完走できるかと不安であった神戸のマラソン大会はマネージャーの看護師さんのお陰もあり、楽しい思い出となった。後日、参加者の血液検査が行われ皆のCKが4桁から5桁であるのに自分だけが492U/Lの値であったため、本気の走りではなかったのかとからかわれたことは悔しい思い出となった。
 私事であるが、私は学生時代から度々、ベトナムのホーチミン市を訪れている。現地の友人たちと会うことと『平和村』を訪れるためである。『平和村』は、NPOドイツ国際平和村とドイツ政府の支援で開設された枯葉剤被害者の認定を受けた先天性異常を持つ、子供たちのための施設である。ホーチミン市唯一の産婦人科病院であるツーヅー病院(一日に約130件の出産を行う)に併設されている。この施設にはベト君ドク君がいることでも有名になった。残念ながら兄のベト君は2007年に腎不全と肺炎のため亡くなったが、弟のドク君は『平和村』の事務員として元気に働いている。昨年の10月に双子の赤ちゃんが産まれ父親になった。
 『平和村』には生後間もない乳児から18歳までの子供たちが入所している。障害が軽度の子供は、この施設から学校や職業訓練に通い、退所後の自立を目指している。しかし、半数近くの子供たちは脳性麻痺、知的障害など、いくつもの障害を重ね持つ。彼らの大半は歩行が困難なため、慰問者と遊ぶことを楽しみにしている。私は、一緒に遊んだり、食事介助や入浴介助をして過している。この施設では、障害に対して積極的な治療が行われないように感じる。
 いや、行う施設、技術、資金が乏しいからであろう。水頭症にドレナージを行わず、自然経過に任せている。毎年、会う度に水頭症のため頭が大きくなっていく姿をみると切なくなる。また、内反足も矯正せずに放置するため、歩行は困難になる。
 米軍の枯葉剤作戦は1961年から1971年の10年間に亘った。ベトナムの中部と南部の森林地帯には1グラムで2万人を死に至らしめるダイオキシンが170キログラムも枯葉剤の液体に混ぜられ、散布されたのである。枯葉剤自体は短期間に分解するが、その中に含まれるダイオキシンは脂肪や細胞組織に蓄積されるため、食物連鎖の頂点にある人間への蓄積は濃縮されたものになる。女性は妊娠すると胎盤を通じて汚染物質が移動し、母乳を出す時も同じように作用する。戦後35年が経ち、当時生まれた子供世代は親になっている。現在でも出産異常や癌の発生が多く、奇形、染色体異常、知的障害などの様々な障害を待って誕生する子供たちは後をたたない。
 今後は毎年『平和村』を訪れることは難しいと思うが、これからも関わりを持っていきたいと思っている。そして子供たちが幸せな人生を送ることができるのを切に願っている。

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忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その2

福本一朗(長岡技術科学大学)

2-1 エリトリア貴族「エリザベト」−誇り高いシバの女王の子孫
 スウェーデン語語学学校には、入学資格も卒業義務もない市民教育機関と大学入学資格を得る事のできる前述の厳格なSVISSの二つがあるが、入国した移民のほとんどはまず前者に入学して、そのクラスの教師の推薦でSVISSに入学する事が多い。我々もまずその夜間コースに参加したが、そこもやはり最初からスウェーデン語だけで教授する徹底した移民馴化教育であった。そのため英語も一切使用禁止であり、まず自己紹介からして片言の単語と身振り手振りで行われた。開講日に隣の席に座っていたのが、漆黒の膚と縮れた髪の毛で青い眼をした歳の小柄18な少女エリザベトだった。彼女はエチオピア王国南部のエリトリア出身貴族の一人娘で、内戦の戦火を避けて父親がエリザベト一人をスウェーデンに亡命させたという。エリトリア人は自らをシバの女王とソロモンの子孫と信じ、コプト教と呼ばれる最も古いキリスト教の熱心な信者であることを初めて知った。エリトリアは現存アフリカ諸国の中で最古の歴史と高い文化を誇り、皮膚の色こそ黒人であるが、その高い教育程度も思考方法も全く西洋人と異ならない(Fig.2)。彼女のスウェーデンに来た目的は、民族自決・宗教自由を求めてエチオピア政府と戦っているエリトリア人戦争被害者を救えという、父親の命令を実行するためという。
 ただエリザベトの真摯な願いにも関わらず、医学部への壁は厚く、結局彼女は医師にはなれなかった。そのかわり医学部の次に難関であるシャルマース工科大学土木工学科に入学された。彼女は筆者が産まれて初めて個人的に話をした黒人の友人であり、自分にはないと思っていたものの今まで心のどこかに潜んでいた民族的偏見が全く間違いであったことを自覚させてくれた。今は平和になった祖国エリトリアで、ヘルメットをかぶり民族衣装に身を包んだ小柄な彼女が祖国の復興に活躍している事を祈っている。

2-2 ベトナム難民「ミンドゥク」一族
 世界平和を訴えて凶弾に倒れた故オロフ・パルメ首相の遺志を継いだスウェーデン政府は、ベトナム戦争時代から多くのベトナム難民を受け入れて来た。語学学校にも老若男女様々なベトナム人達が、新天地への適応能力を身に付けようとやって来ていた。友人の台湾留学生に紹介された女性ミンドゥクもその一人であった。恥ずかしながら、ベトナム語は台湾語と近く、お互いに自国語で話をして通じるという事を海外に出て初めて知った。陥落したサイゴンから身一つでボートに乗り国連難民救済機関を介して命からがらスウェーデンに落着いたミンドゥク一族は高齢の祖父毋・病気がちな父母・兄弟姉妹4名と従姉妹の総勢12名の大家族だった。小柄で日本人と全く区別のつかない容貌のミンドゥクは、家族全員の生活を一人で支えるために介護士として働きつつ看護師への道を目指していた。従姉のユエンはフランス人の血が入っているのか、知的でモデルかと思い間違うほどスタイルの良い170cmの美人で、英・仏・北京語に堪能であった(Fig.3)。女優になる事を夢見て後にパリに移住したユエンが、親友である台湾人女医の夫と間違いを起こし離婚騒動にまで至るとは、誰も当時は思ってもみなかった。ミンドゥクの祖父母や両親は、厳しい難民生活がたたったのかしばらくして亡くなられ、兄弟姉妹のみが異国に残された。戦争は何の罪もない、社会の下層に平凡に暮らしていた人々に最も辛い人生を歩ませる。戦争放棄を宣言した日本国憲法をこのときほど誇りに思った事はなかった。

2-3 トルコ流民「ボーラ」
 我々が暮らしていた学生寮は、その大部分が家族住居であった。その学生寮でよく見かける長髪長身の人懐っこいスマートな青年が、ギリシャ系スウェーデン人の妻マルガレータと暮らしているトルコ人のボーラである事を知ったのは、彼が夜間語学コースに入学した日だった(Fig.4)。職業不詳のボーラのホームパーティに参加した時、夫妻のなれそめなどを聞かせてもらった。ボーラは祖国でも職業を点々とし、あるときはトルコ絨毯をバスの車体に隠してヒンズークシ山脈を超える商売をしていて国境警備隊に銃撃されそうになったこともあるという。ギリシャ彫刻を思わせる夫人は幼い娘を抱えて、裁縫で生活を支えており、ボーラは毎日子守りをして過ごしていた。トルコは回教国であることはよく知られているが、ボーラの話では彼を含めて若い人々はそれほど信心深くなく、彼を通じてトルコ人は異人に寛容で、語学能力に長け、優れた商才と異郷での適応力を有していることを知った。そしてトルコの首都イスタンブールが16世紀になるまでは、ギリシャの植民都市ビザンティオン(BC.7〜)・東ローマ帝国の都市コンスタンチノープル(AD.4〜)であったことを、トルコ国民の大部分は学校で全く教えられていない事を知ったのも新鮮な驚きであった。我が国も例外ではないが、都合の悪い歴史的事実を隠蔽するのは時の政府の常であると、情けなく思った事であった。(つづく)

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英語はおもしろい〜その12  須藤寛人(長岡西病院)

unborn まだ生まれない
 David Shobin, M. D. の処女作の小説の題名は "Theunborn"、日本語訳「アンボーン胎児」である。竹生淑子訳でハヤカワ文庫から1981年に出版された。当時、New York Times で bestseller(best-sellerでも可)の書評を得ていた。胎児は私達が想像するより、脳が発達しており、胎児に「心」があるとした……、胎児は巨大なコンピュータと話をして医学知識を吸収し、母親の言動を操ることが出来る……、というような物語である。モダンホラーセレクションのうちの medical horror story に属しているとのことであった。
 私は、"inborn" という英語は、「もって産まれた、生まれつきの、先天的の、天性の( innate、natural )」という意味であることを、"inborn error of metabolism"「先天代謝異常」という医学用語で知っていた。しかし、"unborn" は、(1)「まだ生まれない」、「胎内にある」( an unborn child 胎児)、(2) unborn generation「後世の人々」、「未来の世代」(三省堂辞典)は、お産の専門分野に身をおいていながら、お初の言葉であった。
 David は私達、産婦人科レジデント6人の同期生の一人であった。私達は、4年間、まさに寝食を共にし、助け合いながら、艱難を一緒に乗り越えて、専門医の資格をとった。彼は一言でいうと、優秀で、切れ者であった。彼は院内検討会の時に、「死産児の取り扱い方」のまとめを発表したことがあったが、既に歴史的となった過去の方法や器具を含めて、見るだけで気分を悪くするようなスライドを含んで、詳細なプレゼンテーションをしたことがあった。
 3年生になったある日より、David の顔をプッツリ見なくなった。一大事が起こっていた。レジデントの日々の勤務の過酷さは筆舌に尽くしがたいものであった。病院当直は3日に1回で、当直はまず眠れなかった。アメリカ人が弱音を吐かずに頑張るのは、その向こうに、中くらいではあるが、いわゆる「アメリカンドリーム」が待っていることを知っているからである。一大事とは、ある日、看護師が彼を呼べど叫べど返事はなく、産直室のベッドで彼を揺り動かしても目覚めず、やっとのことで目を覚まさせたはよいが、しどろもどろで全く起き上がることさえできなかったということであった。丁度、Diazepam がこの世に出始めたばかりの頃であった。私は今に至っても、そのことに関してこれ以上の文章をここに書くことは出来ない。毎年6人の産婦人科のレジデントが選ばれて入って来ると、毎年、一人くらいは dropout していった現実の厳しさを目のあたりにしていた。Stone 主任教授のこのようなときの判断はいつも迅速で、「彼は産婦人科医になる適正を欠く」ということであった。
 David は謹慎の身になっていた。正しくいえば"その身に留まっていた"。その期間は4ヶ月にも及んだ。後で聞いたことではあるが、彼は大学に来てはいたが、ほとんどの時間を教授室で過ごした。主任教授から与えられた仕事は、なんと教授に代わって、医学部学生や産婦人科専門医試験用の問題を作成することであったと後で聞いた。
 その年のレジデント卒業記念パーティは、ニューヨーク博覧会の開かれた敷地(野球場シェイスタジアム〔Shea stadium〕の近く)に残っていた Top of the Tower で開かれた。"Jesus Christ Superstar" をもじった "Dr. Stone is a Superstar" の寸劇が、大がかりのセット付で催された。シナリオは David で、演出は Dr. D'Amico、役者はレジデント多数であった。並み居る教授たちを impersonate(動詞;まねる)し、大喝采を博した。Davidは確かに才能豊かな逸人でもあった。彼は卒業試験の筆記試験では当然最高点をとった。(続く)

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ふるさとの春秋  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 11月に入ると庭の紅葉は赤に黄色に色付いて秋は一層深まった。夏の猛暑から一転秋は駆け足でやってきて、早々と過ぎ去るつもりか。つるべ落としの秋の暮。日ごとに早まる夕暮れに、木枯らし到来の予感。早や、冬囲いの支度の心配をする日々である。
 我が家にはご先祖さまが植えた柿の木が数本ある。が、いずれも巨大化し、手の届かないところにしか実をつけない。これじゃあカラスしか食べれない。「柿が赤くなる頃、医者は青くなる。」と言われるほど柿は健康食品で、ビタミン、タンニン、カロチンなどを豊富に含み、高栄養価で、私は柿が大好きである。
 と言う訳で、4年程前ムサシで次郎柿の苗木を購入し植えてみた。昨年から実をつけ始め、今年は結構立派な実を十個ほど付けたので、甘く固い実の歯ごたえを楽しんでいる。
 実は、同じころにりんごと栗の苗木も植えたのだが、栗の木はあまりに小さい苗木であったため、草刈り機の『まさおくん』を走らせた際に背の高い雑草と間違えて刈ってしまったのだ。りんごの木はしゃきっとした歯ごたえの良い「ふじ」でかなり大きくなったにもかかわらず、こちらはまださっぱり実をつけない。
 無農薬と大自然の恵みを大切にしているので(要するに、何もしないと言う事?)、柿は実をつけるが、はて、りんごは消毒や堆肥をあたえないとならない、と言う事か。それとも青森などもう少し寒いところが良いのだろうか。
 仕方がないので、長野まで供ふじ僑を買いに行こう、と珍しく晴れた日曜日、家内とドライブに出かけた。
 途中、新井のパーキングエリアに立ち寄ってびっくりした。昼飯を食うつもりで寄ったのだが、パーキングエリアから細い通路をぬけて、階段を下って外に出られる。そこには鮮魚センター、すし屋、青果店、数件のラーメン屋、レストラン、めし処などが立ち並び、大勢の観光客と地元の買い物客で賑わっている。
 小奇麗なレストランで昼食をすませ青果店で念願のりんごを買い込み、鮮魚センターでころころした生きのいいいわしや岩ガキ、女がに等を買い込み魚の鮮度が落ちないうちに、と結局長野までは行かずに家に帰ってきた(要するに無精なのだ。)。
 その日の食卓は、醤油、酒、みりんを加えただし汁に梅干しと生姜を加えて煮含めたいわしと、牡蠣はロースターであぶって殻をあけたところに酒を加え、レモン汁をたらし、女がにはもちろん味噌汁に。デザートはもちろんりんご。やはり秋は実りの秋、食べ物が美味しい。食欲の秋だから。
 いやいや春一番に雪の下から顔を出したふきのとうのふき味噌、庭に自生するとげのあるタラの芽のてんぷら、木の芽(あけび)のおひたし、掘りたて、ゆでたてのたけのこの刺身など春の味覚も秋に決して負けるものではありません。
 源氏物語に描かれる紫の上と秋好中宮の春秋対決のように春秋の優劣を競う風流な挑みあいもありますが、春と秋、さて皆さまはどちらがお好きでありましょうや。
 春、秋それぞれおもむき深く源氏の昔から変わらない競い合いを見せてくれる。そして源氏物語も永遠か。文学は時を超える。人は変わらない?。一方、科学技術の進歩は……、などと思っていた所に供はやぶさ僑が持ち帰った微粒子がイトカワの物質、とのニュースが聞こえてきた。
 やったね、供はやぶさ僑。それでも人類は進歩しているのだ。君には日本人の魂が込められていたのだから。

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