長岡市医師会たより No.377 2011.8


もくじ

 表紙絵 「遊園地(チュイルリー公園 Paris)」 丸山正三
 「故 斎藤寛先生を偲んで」 関根光雄(関根整形外科医院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その7」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「英語はおもしろい〜その19」 須藤寛人(長岡西病院)
 「お玉杓子蛙の子」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「遊園地(チュイルリー公園 Paris)」 丸山正三

 宿はオディオン座の近くでルクサンブルグ公園に近く、チュイルリー公園は散歩に程よい距離にあって、私はよくチュイルリー公園まで歩いた。コンコルド広場に面して印象派美術館があり、反対側にオランジュリー美術館があるので、雨の日はこれらの美術館が雨宿りとなってゆっくりモネやセザンヌを鑑賞することができた。
 ひろいチュイルリー公園はいつもひと気も少なく、唯ペタンク(鉄球転がしのゲーム)をする数人の男連仲を所々に見かけるだけで、一体巴里の子供達は何処を遊び場にしているのか、町中にも一向にその姿を見かけない。
 そんなある日、いつもの静けさとは一寸違って何か温かな和らいだ空気が漂ってくる様な感じがあるのに気付いた。特に人影が多くなったとは思えないが、何処か空気の動く快さがあった。
 私が度々スケッチしていたいつもはひと気のないメリーゴーランドの馬達は子供が群がり、皆お母さんやお婆さんと一緒で、いつもはまるで見放されているようなメリーゴーランドにも違った絵心を感じた。五、六頭の小形の馬を引いて、背に子供達を乗せ公園を一回りする馬屋が通りかかる。
 馬好きな私は可愛い子供達を乗せた姿に見とれてこの馬達を描いた。
 今日は日曜日であった。


故 斎藤寛先生を偲んで  関根光雄(関根整形外科医院)

 非常に呆気ない最後であった。7月9日、長岡赤十字病院にお見舞いに伺った際は、やせてはいたがまずまず元気でおられた。
 その後、私自身が中耳炎を患い、耳鼻咽喉科斎藤医院で治療を受けていたところ、19日になって同院玄関に墓標が立っており、先生の亡くなられたことを知った。翌日お宅の方へお邪魔をして直接お参りさせて頂いた。奥様がしっかりと御遺体につきそっておられた。思えば齋藤寛先生とのつき合いは古く、遠く昭和35、36年頃にさかのぼる。
 当時私は直江津の新潟労災病院の整形外科の医員として故倉田久介先生のもとで働いていた。赴任した翌年ごろ、病院の長屋続きの社宅の隣へ耳鼻咽喉科部長として齋藤先生が赴任してこられた。年令も同じでお互い若い夫婦同士で、すぐ奥様とも意気投合し、一緒に食事をしたり、年に一回旅行に行くということであちこちに出かけた記憶がある。
 然し親しいつき合いもそこそこで昭和36年に私は県立加茂病院に転勤となり、一旦そこでつき合いはとざされた。
 その後私は長岡赤十字病院勤務を経て昭和45年に現在地で開業、齋藤先生も昭和39年に御尊父のあとを承けて開業され、引っ越し等を経て昭和61年に現在地に移転、現在に至っている。
 再び近くにお互い住むようになったせいか、おつき合いは再開したが、以前ほどではなかった。開業の科も異なり、それぞれの立場もあり、お互い独立したものであったせいであろうと思われる。
 昨年の暮れの医師会西部班の忘年会の席上、御子息の斎藤修先生より先生のご病気のことをきかされ、暗然とした気持になった。いずれ今日のことは防げないとしても一日もおそいことを願ったものである。
 今日とうとうその最後の段階を迎えて改めて先生の元気な頃が思い出され、親しさと懐かしさを込めて御冥福を心から祈るのみである。 合掌


「紅葉」 斎藤寛

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忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その7  福本一朗(長岡技術科学大学)

3.1980年代民主化の嵐と誣告の民
 筆者がスウェーデンに滞在していた1980年代は、東欧をはじめとして世界中に民主化の大波が打ち寄せていた時代であった。そして社会の急激な変化は、命を賭してそれを押し進めようとした人々のみならず、政治的には全く無色透明でただ日々の生活を市井で営んでいる民衆をも容赦なく巻き込み、数多くの難民や亡命者を生み出す。彼等は言葉も風習も風土も異なる外国で、最初は全く無所有の寄留の異邦人として、無から生活を立て直し、新しい国に適応してゆくことを余儀なくされる。それは大海に孤立した島国で二千年もの間、供単一民族国家僑として平安に生きて来た日本人には想像もできない困難と苦痛を伴うものであり、彼等の物語は書物に記載される事も、テレビで放映される事もほとんどなかったため、日本では知られなかったものと思う。
 滞瑞中に語学学校・学生寮・職場で知り合ったカ国にも及ぶ全ての人々のことを記すには紙数がいくらあっても追いつかない。お互いの国は戦争していても同じイスラームとして異国で助け合って生きているイランとイラクからの亡命者達、国は違っても強固な郷土意識で連帯し肩を寄せ合って生きている中国・ベトナムからの移民達、そしてスウェーデン海員達によって供買われて僑妻となったタイの女性達、国際養子縁組によって心優しいスウェーデン人夫婦の子供となった韓国人少年少女達など、記す事のできなかった様々な友人達のことは、生涯忘れる事のできない思い出である。
 ただ言葉も膚の色も異なる多国籍の友人達に交わってみると、人間は一皮むけば全く同じで、収入の安定した職業につき、家族揃って平安に暮らしつつ、異性・同姓の友人達と仲良くつきあって行きたいと願っている存在であることを痛感させられた(Fig.13)。そして本来は民族・社会制度・国・法律・道徳・宗教・風俗・慣習の全てが、その市井の人々のささやかな願いを叶えるためだけに生まれ、存在しているはずであり、そうならねばならないと実感した次第である。
 戦争のなかった100年の間に労働党政権によって実現された、世界最高の社会福祉制度を享受しているスウェーデンと異なって、明治維新以来営々と築き上げて来た社会資産を太平洋戦争によって一瞬の間に失った日本は、その勤勉性によって奇跡の戦後復興をなしとげた。だが、オイルショック・バブル崩壊・金融危機・借金財政・原発災害によって、国民は再び塗炭の苦しみに喘いでいる。世界に誇る戦争を放棄した憲法たる日本国憲法は国際協調・平和主義・民主主義を三本柱として憲法前文に次の様に宣言する。「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する(前段)」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(中段)」これはまさに戦争・圧政・貧困が、人間を不幸にしている三大要因であることを自覚し、それを少しでもなくそうと努める事が人間として生まれた者の義務であると宣言したものであるといえよう。
 ただ人間は理性と共に感情の動物である。「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない(後段)」といっても、他国のことを本当に考えるためには、外国人と対面し、言葉を交わし、人間として交流しなければ国際交流は理念だけのお題目となってしまう。そのためには就職・留学・文通などの「草の根国際交流」に少しでも関与するよう努めるとともに、海外旅行においてもお仕着せの「駆け足パック旅行」だけでなく、自ら計画し自分の足で異国の街を歩くことが大切なのではないかと考える今日この頃である。

■付記〔1980年代の東欧民主化略年表〕
ソ連
 1985 ゴルバチョフが新書記長に選出・ペレストロイカ政策
ポーランド
 1956・1970 反ロシア暴動
 1978 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド人として初)
 1980 レフ・ワレサの独立自主管理労働組合「連帯」結成
 1982 ワルシャワで10万人抗議集会
 1987 全国で食料品・燃料価格引上げ反対ストライキ
 1989 マゾビェッキ政権誕生(非共産党・カトリック信者)
 1990 連帯ワレサ大統領就任
チェコスロバキア
 1989 市民フォーラム誕生
 1990 自由選挙で市民フォーラム圧勝
ハンガリー
 1956 ハンガリー動乱
 1985 自由選挙開始
 1988 カーダール退陣・価格統制廃止・会社法制定
 1989 改革派の社会主義労働者党が一党独裁体制放棄
 1989 国名を「人民共和国」から「共和国」に変更
 1989 オーストリアとの国境解放(=鉄のカーテン崩壊)→汎ヨーロッパ・ピクニック運動へと発展
東ドイツ
 1989 数万人の東独市民が西側に亡命
 1989 ホーネッカ政権からクレンツ政権に
 1989 ベルリンの壁崩壊
 1990 西独が東独を併合
ブルガリア
 1989 民主勢力同盟結成
 1990 自由選挙・大統領制導入・市場経済移行
ルーマニア
 1989 ティミショアラで反政府牧師逮捕の抗議デモ
 1989 チャウシェスク夫妻銃殺(東欧唯一の流血革命)
 1990 自由選挙で救国戦線評議会勝利

(おわり)

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英語はおもしろい〜その19  須藤寛人(長岡西病院)

※発音記号等一部標記ができない部分があります。ご了承ください。

Stigma 斑点、症状、標徴、恥辱
 Stigma という単語は、私達が医学を学ぶ中で時々出会ってきた。しかし、私にはいまいち理解しがたい言葉に感じてきたので、ここで整理してみたい。
 stigma は、元々は(1)皮膚の斑点(spot、dot、impression)をさす語で、語原はラテン語で mark で、ギリシャ語では tattoo mark(入れ墨)を意味したらしい。Oxford Concised Dictionary of English Etimology(語源辞典)によれば、" stig as in stizein prick:stick"とあるので、刺すことに由来するようだ。「英和医学用語集」によれば stigma は第一に「紅斑」、「出血斑」と訳されている。
 私が "stigma" と最初に出会ったのは、(2)follicular stigma で、卵巣の Graafian follicle(グラーフ卵胞)が破れるであろう表面個所をさす「卵胞破綻口」であった。次に出会ったのは(3)"stigmata of Turner's syndrome" で、これは「ターナー症候群の徴候」と訳されている(小林充尚著医学英語慣用表現集)。すなわち stigma は、同定や診断の条件に役立つ「身体的特徴」の意味で、sign の意味をもつと言えよう。さらに、(4)「精神的な特徴」という意味を含んで hysteric stigma、hysterical s.(ヒステリー標徴)、psychic s.(精神病標徴)、neurasthenic s.(精神衰弱標徴)(南山堂医学英和大辞典)などと使われている。
 医学用語以外では、(5)聖痕(十字架にかけられたキリストの傷と類似した傷跡で、熱心な信者に現れるという)。(6)柱頭(めしべの先端)。(7)その他、昆虫などの「気門、眼点」という専門用語の意味があると書かれてある。
 stigma には社会学的用語として(8)汚名(disgrace)、烙印(stain)、恥辱(shame)という意味もある。実は、Merriam-Webster 大辞典では、これらの意味を第一番目の第一項目においている。その次に上記(3)と(4)を含み、"a symptom of a physical or mental disorder" と説明し、例文として "stigmas of the riboflavin defficiency state include ocular changes……" を載せている。岩波英和辞典に、「(古)として(奴隷・罪人の身体に印した)焼印」と書かれていたのでこれが「汚名」に転じていったのかと類推した。
 stigma の共起表現検索をみてみると、例文189例のうち約60%が「柱頭」に関するものであった。次に多かったのは、"the stigma of a chronic menta ldisorder"、"the stigma associated with epilepsy"、"the stigma of mental illness" あるいは "stigma of hearing loss" など精神疾患の「標徴」に関する使用であった。また "Financial barriers may be more important than stigma as impediments to appr opriate care." にみるごとく「恥辱」という意味でも使われていた。
 stigma の複数形は stigmas でも良いが、一般的には stigmata である。ギリシャ語やラテン語では単数の語尾が -e または -a であれば、複数の語尾は -ae となる。たとえば theca(膜,鞘)は thecae、ala(翼)は alae の如く。しかしギリシャ語の単数が m に続く -a で終わるならば、複数形は -ata に終わることを原則としている。例 papilloma は papillomata で、condyloma は condylomata、myoma は myomata である(Dorland's Medical Dictionary)。そうすると、enigma(不可解なこと、謎)の複数形は enigmata になるようだ。stigma には20以上の派生語があげられるが、代表的なものとして、stigmal、stigmatic「斑点の」、「不名誉の」、stigmatize「汚名をきせる」、stigmatization「汚名をきせること」など。stigmatism はレンズや鏡の光学的状態で、光などが一点に収斂することを言い、眼科用語では「正視」で、その異常が astigmatism「乱視」である。金原出版の医学英和辞典には stigmatometer「眼屈折検査計」と載っていた。
 stigma は多彩な意味をもつ英語といえよう。実に英語はおもしろい。

Sangria サングリア
 Sangria はもともとはスペイン語で赤ワインを甘いソーダやオレンジジュースなどで割って、一口大に切った果物(レモン、イチゴ、バナナ、オレンジなど)とシナモンを少々加えた飲み物を指す。フレーバードワインの一種、清涼感があるため夏場によく飲まれる(Wikipedia)。アメリカ人のホームパーティで、大きなガラスのボールに入って、良く出されるのでご存知の方も多いであろう。
 Mary Jo O'Sullivan M.D. は私たちの時に NewYork Medical College の Assistant Professor になった。容姿端麗、才色兼備のまだ若い(30代後半)独身女医であった。Dr. A. B. Weingold が George Washington 大学の産婦人科の主任教授に栄転してからは、彼女が事実上の産科の指導教官長になった。毎週月曜日午前に行われる、Martin L. Stone 主任教授の Grand Round(総回診)を前にして、毎週金曜日の午後に彼女の回診が行われた。私たちレジデントは概ね彼女に好感を持っていた。指導の方法は、質問を投げかけて、自らは回答せず、私たちに考えさせて、自然に正解に至らせるというやりかたであった。レジデントの朝は早く、7時ミーティング開始であるので、午後3時半には引き継ぎ開始となる。問題は、金曜日になると議論が白熱してなかなか回診が終わらないということであった。当時は周産期医学の黎明期であった。尿中エストリオールが測定されるようになったばかりで、分娩監視装置上の Non stress test 検査も、その評価も定まらず、stress test(=Oxytocin challenge test)が全盛の頃であった。回診で O'Sullivan 助教授が聞いてくる、「明日から土・日だ。どうする?」。私は経過観察でも良いのではないかと思いながら、「羊水情報が得られればさらに良いと思う」と答えると、「それではすぐやってみなさい」という具合であった。結果、羊水はやや緑っぽく混濁して見え、緊急帝王切開となった例もあった。いつしか、産科班では「魔の金曜日」といわれるようになった。
 回診時間が長引いて、Mary Jo のテンションが次第に高くなってくると、Chief Resident の Dr. D'Amico が私に目配せをくれる。私はその場をそっと離れて、病院近くの酒屋で赤いワインを1本買ってくるのであった。それが合図となり、病棟での立ち話はひとまず止めて、改めて分娩棟の Doctor's Lounge のソファーにリラックスしながら、さらに新しい産科学・周産期医学の知識を学んだ。酒に弱い私はコーラ割りで飲んでいたようで、特製の Sangria であった。
 Sangra はスペイン語で「血液」であり、英語でも sangui- は「血」の意の連結形である。sanguinous は(形)「血性の、(色)血のような」で、私たち医師は書き言葉としてよく使う。sanguineous discharge(血性帯下)、massive sanguineous effusion(大量血性胸水)、sanguineous material など。serous、mucinous とくれば bloody ではなく sanguineous の方が良い。語原的にはL. sanguineus from sanguis、sanguin-、blood である。sanguinary は(形)「流血を伴った、血なまぐさい、血を好む」。sanguine は、福武英和辞典では、(形)「(1)快活な、(2)楽天的な、(3)血色の」の順に書かれているように、あまり「血性の」という意味には使われないようだ。日本医学会医学用語辞典に sanguine urine「血尿」とでているが、妙な英語のようで、血尿なら "hematuria" で良いと思う。
 ある時、妊娠高血圧症候群患者の分娩誘発例に母体死亡が起きたことがあった。病理解剖はニューヨーク大学の Vellevue Hospital で行われ、O'Sullivan 助教授と私が2人で解剖に立ち会った。死因は水中毒(water intoxcation)であったことを学んだ。Oxytocin には極弱いとはいえ抗利尿作用があり、以降、陣痛誘発剤の使用時には5%D/Wではなく、必ず電解質輸液に溶解することに徹底された。
 私が4年の時、MaryJo は突然フロリダの Maiami 大学に准教授として移ってしまった。彼女が私たちに残した言葉は "challenge" であった。来月はその後の MaryJo O'sullivan 医師の話を書かせてもらおう。(続く)

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お玉杓子は蛙の子   郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 7月下旬の土曜午後の電話です。佐渡の実家の母の見舞いで、家人は留守。ひとりでアルコール飲料付き(付けた?)昼食を取り、うたた寝中でした。受話器からはO夫人の明るい声です。「Gさん、こんにちは。Oです。……」在宅を確認し、これからご主人と拙宅にお玉杓子の宅配に来られるとのこと。
 庭に水やりをしながら待つことしばし、車の止まる音で宅配便ならぬO先生ご夫妻の登場。奥さまのお手にはお土産。「これ梅干しと焼き鱈子、召し上がってください。」かたやO先生(某市医師会長)の手にはプラの飼育ケースです。「けっこういっぱい居るから、半分分けよう。このバケツね、よし。」と大きなオタマジャクシを10匹あまりのお裾分け。「残りはA先生のとこにこれから届けてくる。エサはなんでも食べるけど、金魚用エサで十分だよ。」
 お二人を我が家の庭のビオトープもどきの瓢箪池に案内しました。睡蓮が咲き、今年も親メダカから産卵孵化させたたくさんの赤ちゃんメダカが泳いでいます。「おおトカゲまでいるんだね。これはいいぞ。」とO先生はケータイを取り出すと、……そばの草の上で昼寝中の蜥蜴を撮影、まるで少年の笑顔です。
 2、3週間後にこのオタマジャクシは変態し、3センチの小さい蛙になるであろうとのご託宣です。「この庭ならエサになる昆虫はたくさんいるし、きっと蛙も生きていけるな。ではよろしく。」と言い置いて、去って行かれました。
 改めてネットでオタマジャクシの飼育法の情報収集開始。えーっと、モリアオガエルの飼育はっと……そうなんです。このオタマジャクシはかの樹上産卵で有名なモリアオガエルのお子様たちなのです。蛙好きのO先生が、知人の長岡の東山界隈のR寺境内の裏山から白い卵塊を枝ごと採取して自宅で孵化するのを観察したそうです。
 まずは20センチ径の瓶2個の底に赤土を敷きます。塩素中和剤を混ぜた水道水を注ぎ入れ、水草を浮かべました。バケツから5、6匹ずつ分けて移しました。その頭腹部が直径1センチ大のお玉、細い尾が2センチで柄にあたり、なるほどお玉杓子そっくりです。
 帰宅した家人は話を聞いて、「盲導犬のパピーブリーダーみたいなもんね。」と笑います。
 朝夕にメダカのエサを与えると猛烈な食欲で、順調に大きく育ちました。“やがて手が出る、足が出る”と歌にありますが、実際は後ろ足がずっと早くて、成体への変態間近にやっと前足が出ます。水槽飼育では、この最終に呼吸システムが鰓から肺に切り替わる際に(両生類の名の由来!)、なんと水に溺れることがあるそうです。飼育にあたり、水は少なめ、大きめの石に蛙が上れるように、一定面積が水面上に出るように調整して置きました。
 オタマジャクシたちは、前足が出たと思うと、その夜のうちに飼育瓶を出て姿を消しました。その前足は「逃げ足」だったようです。誕生日は同じでも発育の個体差はあり、十日間ほどで全員が成体に変態して、巣立ってゆきました。
 その後はときおりメダカの飼育鉢周辺に姿を見せています。もともと住むアマガエルよりも細長・足長の体型で判別できます。
 その特有の鳴き声が聞こえてくる日が楽しみだし、無事に冬越しできて、R寺さんからの棲息域の分家がうまくゆけばと願っております。

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