長岡市医師会たより No.380 2011.11


もくじ

 表紙絵 「広場の帽子屋(ベニス)」 丸山正三
 「私にもできたフルマラソン」 河路洋一(かわじ整形外科)
 「英語はおもしろい〜その22」 須藤寛人(長岡西病院)
 「古民家再生〜カール・ベンクスハウスを訪ねて」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「広場の帽子屋(ベニス)」 丸山正三

 私の好きな画家ピエール・ボナールの絵がヴェネツィアの近代美術館にあることを聞いて、是非本物を見たいものと思っていた。三回目にヴェネツィアに行った時に、近代美術館を訪ねることは大きな目的の一つであった。ヴェネツィアでは唯一の「木の橋」アカデミヤ橋を渡り、私には初めての右岸地区の町に入った。此処も左岸地区と同じく細い小運河と小路の錯綜する町で、幾つかの橋を渡り小路に入りながら美術館を探した。美術館といっても既存の建物をそのまま利用していることが多く外観的に美術館らしい建物であるとはかぎらぬので、探すのが大変である。折から夏の日は暑く額の汗を拭きながら歩いた。歩いている人にムセオはどこですかと尋ねてみるが、みな観光客とみえて、ただ知らないと云うばかりである。そんな時、とある街角を曲がって漸くそれらしき館を見つけることができた。
 これでボナールの絵におめにかかれるかと心を弾ませながら入口を入ると、なにかがらんとして人の気配も無い。暫く待って漸く出てきた人に尋ねてみたら、今は全館修理中なので数日は中に入れないと云う。私ははるばるボナールを見に来たのだから、それだけでも見せて貰いたいと話してみたが、その大きな体の憎らしい男は駄目だと云う。私は日蔭も無い暑い道を引き返さざるを得なかった。
 サン・マルコ広場に着いて、やっとホッとした。サン・マルコ広場はいつもと変わらぬ沢山の人々、そして群れ飛ぶ沢山の鳩たち、柔和ながら美しい威厳に充ちたサン・マルコ寺院や、ドカーレ宮殿、背の高い鐘楼塔、此処までくればホテルも近い。涼しい風が吹いてきて、私は図書館の蔭で暫く休むことにした。目の前に見えていた帽子屋の店が細やかな色をみせて絵になりそうである。暑い日なので、赤い長いリボンのついた帽子がよく売れる。子供の帽子である。左側はサン・マルコ広場に通じその先に見える橋からは左手に「嘆きの橋」がみえる所。橋を渡って進めば海岸沿いにスキャヴォーネ通りがはるかに延びている。
 ボナールが目先にちらついていたのか、私は珍しく多彩に帽子屋を描いた


私にもできたフルマラソン  河路洋一(かわじ整形外科)

 平成23年10月9日秋晴れの絶好のコンディションのもと新潟市に於いて、第23回新潟シティマラソンが開催されました。前回大会に次いで、2度目のフルマラソン参加となりました。
 私はこれまでハーフマラソンの参加は何度かありましたが、フルは前回大会が初挑戦でした。それまで42.195kmも走るのは膝などの故障の元と考え、誘われる機会はありましたが拒否してきました。ところが昨年「新潟マラソン」が、コースを変えて「新潟シティマラソン」となり同時に、ハーフが無くなり、10kmとフルのみとなってしまいました。少し悩みましたが新潟のコースは起伏が少なく走りやすいこと、制限時間が5時間に延長されたことから、フルに初挑戦してみることにしました。この時は24kmあたりからガス欠になったように足が動かなくなり、少し走っては歩くことの繰り返しとなってしまいました。そのため前半は2時間でしたが、後半は2時間50分以上かかり、トータル4時間53分と制限時間まであと7分のきわどい完走となりました。それでも完走の達成感はすばらしく、今年再挑戦することとなりました。私がフルで完走したことに刺激されて、4才違いの弟も今年一緒に参加しました。
 大会当日私たちはなるべく前方のスタート位置に付こうとスタートまで1時間以上もある7時過ぎには新潟市陸上競技場に到着しました。フルには3000人近くがエントリーしているため、後方にいるとスタートの号砲がなってから、実際スタートするまで何分もかかります。私たちには完走のために、その数分が命取りになることがあるからです。しかし7時半から並んでいたにもかかわらず、申込時の自己申告タイム順にブロックを作ってのスタートであったため、スタートするのに3分半近くかかってしまいました。おまけに私は1時間あまりも、陸上競技場のレーンの上に立っていたため、スタートしてほどなく尿意をもよおし、わずか10分余りのコンビニでトイレを借りるはめになりました。
 昨年から古町(柾谷小路)を経て萬代橋を渡り県庁の方に抜けるといった、新潟市の中心市街地を走れることが、このマラソンの目玉となっています。しかしにぎやかなのはスタートから5q余りで終わってしまいます。フルの場合、千歳大橋を渡って関屋分水を超えてからは、関屋分水沿いの歩道を走って、その後はひたすら海岸沿いの風景のほとんど変わらない国道を走り、内野の新川を超えた所で折り返して戻ってくる超単調なコースとなります。すこし練習をしていれば、20km前後までは、まずまず快調に走れますが、25kmを過ぎ、30kmを超えたあたに苦しさのピークがきます。今回のコースでは関屋分水を再び超えて、マリンピア日本海のあたりに来たところです。しかしフルの醍醐味は逆にここからと思います。中間地点あたりまでは、給水サービスがあるだけですが20km以降になると、水分ばかりでなくフードサービスつまりバナナやオレンジ(昨年は温泉まんじゅうもありました!)の提供が5qごとにあります。2〜3時間も運動していればおなかも空きます。折り返しを過ぎてからはこれを楽しみに走ることとなります。また沿道で見ている人々が自主的に飴を配ってくれたりしてくれることもあり、こうした事も市民マラソン大会の楽しみの一つです。おかげで今回は、ほぼ1時間あたり10km走るペースを守ることができて、4時間30分を切ることができました。達成感は何に例えることもできません。「来年はもう2つくらいフルに出てみようか」なんて早くも考えている自分がいます。ちなみに初フル参加の弟は、4時間50分以上かかりましたが、完走できました。
 マラソンは特に難しい技術も、高価な道具も必要としません。普通に健康な体の持ち主であれば誰でも、何才からでも始められます。最近はマラソンブームで、シーズンには県内だけでもいろんなところで大会が行われています。大会に出るという目標を立てればモチュベーションもあがります。みなさまもいかがですか。マラソンの後のビールはうまいですよ。

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英語はおもしろい〜その22  須藤寛人(長岡西病院)

※一部、発音記号等が正確に記述できていない箇所があります。ご了承ください。

afebrile 無熱の、発熱無し
 忙しい朝の回診時に、簡潔に記録を progress note に書くのに最適な語の一つに "afebrile" があげられる。特に手術後の患者診察には発熱の有無が重要な他覚的所見の一つになるからである。afebrile は(形)= "having no fever" で、Dictionary. com では without fever、feverless「無熱の」、「発熱なし」の意とある。ライフサイエンス辞典では「無熱性の」と訳されている。"The patient is afebrile." 、"afebrile course"、"afebrile convulsion" とか "afebrile neutopenia" などとあるので、「発熱を伴わない」と訳すこともできるかも知れない。a- は否定型を意味する a- であるので、「有熱の」は、"febrile" である。"febrish" も同義語である。しかし、"afebrish" という英語はない。fever とか high temperature と書けば、実際の体温は何度かをカルテに具体的に書かねばならないだろう。
 afebrile の発音は〔ey-fee-bruhl〕と〔ey-feb-ruhl〕の2通りがある(Dictionary.com)。ニューヨークの医師たちは後者の発音が多かったが、使い分けの現状などについては私には分からない。この言葉を正しく発音するのは日本人には難しいが、ボソボソ発音すると "a" があるのか無いのか聞き取れないことがあるので、そのようなときは強調で〔エイフェブラ〕といっても許されるというか、良く通じる。発音上2つ目の難しさは "-rile" の発音で、舌先を前歯裏面に接するようにしなければならない。"-rile" で終わる語は他に "sterile"(不妊の)などあり、同じようなので、練習するより他にない。Dictionary.com、他インターネット検索で、「スピーカー印」をクリックすれば native の発音が無料で聞ける時代である!なんと良き時代になったのであろう。
 afebrile の共起表現検索を行うと、26例文が表示された。 "He remained afebrile and asymptomatic." 、"Patient had clinical and radiological improvement and were afebrile within 24 hours after……" 、"Patient with afebrile status" 、"afebrile period" そして "emergency treatment of acute febrile and afebrile seizures" などであった。
 「発熱」といえば、もう一つ、pyrexia〔pairéksie=fever があげられ、その形容詞は pyrexic「熱のある」= febrish である。関連語に pyrexial(形)、pyrexy = pyrexia、pyrexin「発熱因子」、pyrexiophobia「発熱恐怖症」などが書かれてある。pyrexia の語源はNew Latain, from pyrex-(from Greek pyressin to be feverish, from pyretos-fever)+ -ia yとあった。しかし pyrexia はライフサイエンス辞典には載っているが、共起表現リストの項目にはなかったので、実際に使用される頻度は少ないだろうと推測された。"apyrexia" はライフサイエンス辞典を含めほとんどの辞典には載っておらず、わずか Merriam-Webster 大辞典には載っていたくらいであったので、実際に使われることはさらに少ないのではと思われた。
 ここで、横道にそれるが、固有名詞 Pyrexは(米)Corning 社の製造する耐熱ガラス製品の商標名、「パイレックスガラス」である。硼化珪酸ガラス製で日本のホームセンターなどで広く売られている。三省堂カレッジクラウン英和辞典では〔Gk.pyr fire+rex king〕の説明が加えられていた。Corning はニューヨーク市の北西の方向で、ナイアガラ瀑布のある Buffallo 市とのほぼ中間地点にある人口1万人くらいの市である。Corning Museam of Glass は見応えある博物館で、訪館はお勧めできる。
 話はこれまでであるが、もうちょっと afebrile について書かせてもらう。私は27年間日赤病院の部長を務めた。この間、51人の共同医療従事医師(同僚産婦人科医)と一緒に働いた。私から見れば、彼らは弟子で、同僚から見て私は上司であったが、残念ながら誰も "afebrile" という語をまねして使う者はいなかったようだ。しかしである、私の最後の年に、初期臨床研修医のI君が progress note に "afebrile" と書いた! 彼は実に優秀な上に人格的にも老成しているような立派な面があった。私は彼は将来を嘱望される人物とみた。研修医の送別会の席上、地位ある先生方の挨拶は、口を揃えて「大学に戻ってよく勉強し、また私達の病院に戻って来て欲しい」であった。しかし、私の喋ったことは、彼のことが頭にあったのか、「大学に戻ってよく勉強し」までは同じであるが、「教授になってどこにでも行ってください」であった。賢明な読者なら、餞の挨拶ならどちらが良いと思われるでしょうか。(続く)

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古民家再生〜カール・ベンクスハウスを訪ねて  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 めっきりと寒さを増した11月の土曜日。午前の診療が終わってから十日町市、松代を訪ねた。長岡からは小千谷の山本山大橋を渡り左折するコースが普通と思うが、カーナビは直進を指示している。この道は山のなかを抜けるんじゃないの、と思ったが紅葉のころでもあるし、と直進して峠を越える道を行く事にした。思ったとおり、紅く黄色く紅葉した山々が眼前に迫り来る。小千谷の名のとおり山あいの沢山の小さな谷。そこに点在する小さな湖が秋の陽に輝いている。あの湖は私の地元に江戸時代から伝わる言い伝えの、高山(当方の長岡市十日町の隣の高島町の旧名)の龍神池から龍が移り住んだという小千谷の吉谷(よしだに)の湖に違いない。
 改めて辺りを見渡すと一面のすすきの野原。供木枯らし紋次郎僑の世界だ。(私達の世代なら分る。笹沢左保原作、市川崑監督の時代劇のあの映像美だ。)すすき野原の上を木枯らしが吹きぬける。もうすぐ雪が来るぞ。……それはともかく、景色に見とれて道路からあの沢に車が落ちたら春まで発見されないかも、と思っているうちに十日町市となり程なくお目当ての松代カール・ベンクスハウスに着いた。
 松代の旅館「松栄館」をドイツ人建築家のカール・ベンクスさんが再生されたという。もし見学できたら、と訪れたのだが、予約もせずに行ったにもかかわらず運良くカールさんご本人がいらして、にこやかに“どうぞ”と招き入れてくださった。松代の豪雪に耐えてきた何本もの太い通し柱と梁を見せたひろびろとした大空間が広がっていた。今日は6時からの地元の方達の小パーティーがあるとのことで、それに備えて30分前に火を熾したばかり、というドイツ製の薪ストーブは赤々と燃え、暖かく人々を迎え入れるばかりとなっていた。トイレにはドイツ大使館から譲り受けたという新品のトイレを設置してあるそうだ。
 カール氏から古民家の再生についてお話を伺いながら(カール氏の日本語は完璧でした。)松代の湧き水で煎れたコーヒーを戴き、至福のコーヒータイムを過ごした後には庭を案内して戴いた。カール氏の作ったひょうたん池には鯉が優雅に泳ぎ、奥の煉瓦でできたちょっとヨーロッパアルプスの岩壁を思わせるような高台の上から竹を伝って小さな滝のように水が池に流れ落ちてくる。和の瓢箪池がどこか洋風であった。
 カール・ベンクスハウスを後にして、せっかく十日町に来たのだからと入った蕎麦屋が偶然にも上越の築150年の古民家を移築した建物であった。広く新しく綺麗な造りで、純日本的な建物である。これはこれで素晴らしい。が、カール・ベンクスハウスは古い旅館を再生しただけではなかった。カール氏のヨーロッパ的感性が松栄館を和と洋の融合された旧家でもない、洋館でもない新しい建物に生まれ変わらせていた。上手く表現できない。……百聞は一見に如かず。ぜひ一度そこを訪れてみて下さい。
 カール氏の建築した建物は巻のカーブドッチ内にある薪小屋や弥彦神社前の庵、豊栄駅前のお菓子やさん、長岡のカレー・ハウスなど沢山あります。
 私はまたカール・ベンクスハウスを訪れたい。その入口の戸には蔵戸が使われており、内戸として黒鉄の網の格子戸まであった。私の家にも中越地震の前までは戊辰戦争以前からの蔵が残っていた。そのせいだろうか。蔵戸を開けて建物内に一歩足を踏み入れた時に懐かしい何かが私を包みこんでくれたから。

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