長岡市医師会たより No.381 2011.12


もくじ

 表紙絵 「静かな通り」 丸山正三
 「私の山芋(自然薯)掘り」 高橋利明(吉田病院)
 「恒例会員旅行・湯野上温泉」 丸山直樹(県立精神医療センター)
 「“国際吹矢道スポーツテキスト”解題」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)
 「唐辛子もこしょうだった」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「静かな通り」 丸山正三

 一度冬の巴里を見たいと思って2月の初めに出かけたことがあった。夜半に着いたドゴール空港から暫く待ったバスの外は真っ暗闇であったが、やがて地平線の辺りの空が白み始める頃、窓外に近く大きく断崖みたいなものが見えてきた。モンマルトルの丘である。後ろから見るとこんなに切り立っているのかと驚く。淡く透明にサクレクール寺院も見えてきた。此処までくればパリの街はもう近い。
 私は翌日早速モンマルトルへでかけた。私の大好きな所である。モンマルトルは巴里の北に見える丘の街で、おおよそ70年前に此処を描いたゴッホの絵では、一面に褐色の畑地が広がり、風車もあちこちにあって農夫が働いている。麦畑、葡萄畑が点在し馬も見える。人の住む家は見えない。小屋が散在しているばかりである。巴里郊外のこの空気の美しいモンマルトルを印象派風に描く絵描きさんがだんだん多くなって、やがて住み着く人も増え、次第に町ができ歩道も整備されてすっかり今の巴里の街なかと変わらぬような街になっていったものだろう。しかし、モンマルトルは特有な魅力のある風情が今も残っている。画家のモネ、ピサロ、ルノワールなどが住みつき、またユトリロと彼の母の画家でモデルであったシュザンヌ・ヴァラドンが借りていた家も残っている。それはコルト通りでそのすぐ北側のノルヴァン通りを右手にまがると、ユトリロがよく描いていたテルトル広場に出る。
 セザンヌが1867年に描いた街角のパン屋も、その周辺は変わったとはいえ、そのままに残っていて、今もパン屋で美味しそうなお菓子もならんでいる。この店から南に下るソール街は途中に有名なラ・パン・アジールというシャンソニエがあって、ユトリロがよく描いたところである。今も変わらぬその侭ながら、左手の木だけは大きくなっている。ラ・パン・アジールの前に葡萄畑があって、小さいながら南斜面の段々畑は冬の陽射しをひっそりと受けている。背景は葉の落ちて美しく深い紫色を湛えた大きな林で、梢を越えてサクレクールが見える。今も葡萄酒が造られ、モンマルトルに住む貧乏な絵描きさんたちに飲んでもらうためにこの畑は残してあるという。ブドウ畑とラ・パン・アジールの間を左に曲がると、ヴァンサン通りで冬の傾きかけた午後の陽の中で人の気配も無い静かな通りであった。佇むとひしひしと旅の愁いが身に沁みてくる。私はスケッチブックをひらいた。


私の山芋(自然薯)掘り  高橋利明(吉田病院)

 秋の紅葉とともに山芋(自然薯)の葉がイチョウのようなきれいな黄色となると、いよいよ山芋の季節だなぁと自然に心ワクワクしてきます。山芋の収穫時期は葉が黄葉する10月20日前後から11月10日までと考えています。というのは黄葉する前の山芋はまだ十分熟成されてないこと、芋を擦り下ろしたときに黒色が強く出やすいことです。また、11月に入ると年によっては強い雨風で葉が落ちて目印がなくなってしまうからです。(もっとも名人?は葉が落ちる前にマーキングを行い、葉が落ちてからゆっくりと掘りに行くとも聞いております)
 実質3週間ほどですが私にとっては休日しか行けないこと、そして天侯が悪く雨では行けませんので実際に行けるチャンスは1〜2回しかありません。
 今回11月3日文化の日に友人3人と行きました。行先は旧越路町の山の中。(もちろん友人の山です)
 朝は雨が降っていましたが気持ちが天に通じたのか途中から雨は上がり、うっすらと青空が顔を出すまでに。車を止めて、農作業用の不織布製の繋ぎを着用。(といってもスーパーで298円です)小道具とおにぎり・缶ビールを持っていざ出陣。まずすることは山芋の蔓探しです。
 山芋の葉はスマートなハート型です。このハート型の黄色の葉を目印に「太い」蔓を探すのが第一の仕事です。「ムカゴ」と言われている山芋の蔓にぶら下がっている実も目安になります。やはり「大きいムカゴ」を付けているのは蔓も太いのが多いようです。
 山芋に似た「トコロ」も黄色の葉ですが山芋のハートより丸みがありますので区別がつきます。
 蔓の太さは少なくとも3〜4mmは欲しいところです。5mmあればかなりの大物が期待できます。逆に蔓が細ければ芋も細いです。
 そして目的の蔓を見つけたら次の仕事はこの蔓が最後まで掘りきれるかが問題になります。掘る深さは約1.5mこの深さを掘るためには場所の選定が非常に重要です。まず斜面であるか否か、周囲に木などの邪魔物があるかどうかこの2点に絞って決めます。1.5mも深く掘るには斜面であることが絶対必要です。そして蔓の近くに木がないのもポイントになります。
 このことは掘ってみればすぐに分かる事です。木の根が多かったり、平地に近いととんでもなく辛く長い仕事になります。
 さて、掘る蔓が決まったら掘りに入ります。まず蔓を注意深く観察し地下に入るところを確認。これをいい加減にやると蔓が簡単に折れて切れます。そうなると、どこから地下に入っているのか全くと言っていいほどに分からず、せっかく見つけた蔓も何にもなりません。そして、蔓を追って地下に掘っていきますが、ここで大切なのは蔓の全周を掘るのでなく前方のみを掘ることです。芋を最後まで折らないで掘るためには前方以外の土を残します。掘る穴の幅は1.5cm〜2.0cmです。
 地下に潜ると蔓は細い茎状になり、これが芋となるわけですが、なかなか芋にはならず長いときは50cmほど掘ってやっと芋らしくなることもしばしばです。
 ここで小道具の説明をします。(写真1)このように全ての道具は小さく、細いです。作業をするにも持ち運びにも最適です。種類も少なく4点だけです。
 これらの小道具を適宜、使い分けながら芋を深く下へ下へと掘っていきます。山芋は畑の「長いも」と違ってどこで曲がるか予測がつきません。固い岩や石、木の根でも容易にその形を変化させます。芋の前方部分だけを掘っていきますが芋の変化に対応できるように道具は原則芋から2〜3cm離して用い、残った土は指でやさしく剥がすようにして取り除きます。
 徐々に深くなるにつれて、芋も太くなり気持ちも高ぶってきますが反面、掘る姿勢がだんだんきつくなり、足腰も痛くなり、手首から指の節々がこわばったような腫れたような感覚を覚えます。気温16〜17度くらいなのに汗が噴き出てきています。
 深さ1mくらいからが勝負どころというか芋の太さを眼と手で感じながら「折らないぞ」との気持ちをさらに強くして掘り続けます。山芋は深くなるにつれて徐々に太くなりますが終わりに近くなると急に太くなるところが出てきます。そうするともう少しだ、あと2〜3cmで終わりだと自分に言い聞かせてより慎重に芋の先端を指で意識しながら全長を掘りだします。(写真2)
 先端が見えたら今度は芋の左右の土を慎重に落としながら、芋の後面だけを残して下方から遊離状態にします。そして最後に地面直下に張った細かい根を外し、両手でしっかり芋を支えて後面の土から剥がす感じで取り出します。ここは一番緊張するところです。丁寧な作業をしないといとも簡単に折れるので最後の最後まで気を緩めずに行います。いつも掘りながら思うことは、山芋掘りは「手術」操作と似ているということです。傷付けず、折れないで掘り上げた時はちょっとした感動ものです。そして最後は掘り起こした穴を埋めて完了です。一本掘るのに要した時間は1〜1.5時間。ともかく根気のいる作業です。
 1〜2本掘って休憩、紅葉の山の中での缶ビールとおにぎりの美味しいこと、何とも言えない至福の時です。今年も収穫はたった4本でしたが十分に満足した山芋掘りでした。最後は友人たちと掘った山芋の品評会です。自分の掘った山芋を誇らしげに自慢してお開きです。(写真3、4)

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恒例会員旅行・湯野上温泉  丸山直樹(県立精神医療センター)

 噂には聞いていた会員旅行に初めて行ってきました。8月の役員会の席で隣に座った事務の廣田さんの一言、「先生、予約しますね。秋の旅行。」それが始まりでした。
 今回は、福島応援と言う事で、会津若松近くの湯野上温泉に行ってきました。この季節にしては、少し汗ばむような11月11日午後2時半出発で、参加された先生方は、太田会長以下、大貫前会長、荒井栄二先生、加辺純雄先生、中村敬彦先生、明石明夫先生、小林眞紀子先生、小林徹先生、大塚武司先生、高木正人先生、児玉伸子先生、窪田久先生、草間昭夫先生、そして事務の星さんと丸山の計15名でした。車内後部がサロン風になっているバスに乗り込み出発となりましたが、同時に宴会のプロローグも始まりました。ドリンクメニューも用意されていて、それには大吟醸から各種ビール、焼酎、カクテルとあって、小さな飲み屋顔負けのものでした。途中、大貫先生と合流して、長岡ICより高速に入り湯野上温泉へ出発となりました。
 車中では、話も弾み、お酒の方もグイグイと各先生方がいっていました。朝日酒造の純米大吟醸「洗心」、「越州」と次々と空になっていきました。それにしても「洗心」は、旨かったですね。
 途中、三ヶ所で休みをとって、湯野上温泉に着いたのは、暗くなった6時過ぎでした。旅館は「藤龍館」で、比較的こじんまりとした所でした。割当てられた各部屋で浴衣に着替え、早速に温泉入浴タイム。大浴場と露天風呂のお決まりコースを楽しみました。そして、7時からは楽しみな宴会となりました。会津若松市からの3名の美女(?)コンパニオンも来て、ボルテージが次第にあがったところで、カラオケの始まりとなりました。歌の皮切りは、明石先生。歌はなんと、AKB48の曲、楽しそうに歌っておられました。その後は、窪田先生が安全地帯の歌を、大貫先生が自慢の歌を次々と披露され、多いに盛り上がってました。ホテルのサロンに場所を移して二次会となり、そこでもカラオケにダンスと楽しい時間を過ごしました。
 2日目は、7時からの朝食開始。なんと、そこに中村先生が御持参されたシャンパンがあって、一同で「朝シャン」を楽しませて頂きました。中村先生に感謝。
 天気は、生憎、曇天で少し寒い感じでしたが、旅館前で記念写真を撮って次の目的地へ出発。向かった先は、会津若松市の「会津武家屋敷」で会津藩家老・西郷頼母の屋敷を復元したもので、なかなか立派なものでした。頼母の養子である西郷四郎(姿三四郎のモデル)が柔術・山嵐を仕掛けている像を見ながら屋敷内に入ると戊辰戦争で自刃した頼母の妻女子の人形場面があったりと観光地らしい光景でした。次は、会津の名城・鶴ヶ城にとバスは向かいました。観光客が思った以上に多くいて、城の中の狭い階段も混雑してました。鶴ヶ城は、1593年に七層の天守閣を持つ城として完成し、戊辰戦争後に明治政府により取り壊された歴史を持ち、昭和40年に再建されています。その一番上の階に上がると秋の会津の町並みや山々が見渡され、お殿様気分に少し浸った感じです。お城から降りた後には、会津酒造歴史館へ移動しました。ここは、宮泉銘醸(株)と言う酒蔵が酒造りの行程を展示したり、その銘酒を試飲させてくれたりして、酒飲みには、はずかしながら楽しめる場所でした。その後は、場所を移して昼食タイムでした。会津若松の昔の肥料問屋の建物を利用した御食事処で、会津の郷土料理を楽しみました。ここでもビール、日本酒が出て、身欠き鰊の料理や新潟の「のっぺ」に似た「こづゆ」等々を肴に各先生方楽しく飲んでおられました。食後は、街を散策したり、土産を求めたりと会津を楽しみました。再びバスに乗り、向かった所は、柳津町にある版画で有名な斎藤清美術館です。「会津の冬」をテーマにした多くの作品が展示され、素朴な作風の中に画伯の心情を感じさせられました。素敵な作品を鑑賞した後、再びバスに乗り、一路長岡市へ。その車中でもミニ宴会となって、先生方はお元気でした。小林徹先生、眞紀子先生とは、各々自宅近くでお別れし、バスは小雨降る中、無事に医師会館到着。思いがけない一言で始まった旅でしたが、実に楽しかったです。次回もと思いながら、廣田さんに感謝。

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「国際吹矢道スポーツテキスト」解題  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 フキヤマンこと樋口皮膚科医院の樋口裕乗先生が今年、スポーツ吹矢についての最新の御著書(発売元:真珠書院)を出されました。(写真)「伝統の武術を健康スポーツに」と長岡技大福本一朗先生の推薦文があります。以下の引用はネット検索で発見した「スポーツ吹矢」についてのウィキペディアの記述ですが、まず創案者としての樋口先生のお名前があります。

【スポーツ吹矢】
 スポーツ吹矢とは、腹式呼吸法を積極的に用いる健康法と日本古来の吹き矢を融合させ、定められたルールでのスポーツ性を持たせた競技のこと(造語)。
【誕生の経緯】
 1988年頃、長岡市の開業医・樋口裕乗が試行錯誤の末、吹矢を現代風にリニューアルしたものを考案。肺機能を活性化する健康法として1991年「吹矢健康法」を出版し紹介した(絶版)。また、著者考案の競技用規則も併せて紹介されている。前後して、気功による呼吸法の有用性を理解しつつも継続性の低さに悩んでいた青柳清が樋口と出会い、スポーツ吹矢としての下地が出来上がる。1995年「スポーツ吹矢健康法」(林督元、樋口裕乗共著/ぶんぶん書房)出版(絶版)。(中略)1998年、「スポーツ吹矢健康法」の出版にも関わった青柳によって「日本スポーツ吹矢協会」設立。特に中高年層に支持され、競技人口も増加していく。2007年、日本スポーツ吹矢協会が文部科学省より社団法人として認可される。

 ちなみに本書にも紹介されていますが、スポーツ吹矢の楽しく遊びながらの健康効果がブームとなりつつあり、この(社団法人)日本スポーツ吹矢協会はすでに現在は会員数2万3千名で、支部数も550をこえ世界最大の吹矢団体に成長しているそうです。全国的にすごい人気なんですね。
 吹矢をオリンピック競技にしたいとおっしゃる樋口先生のご著書ですが、個人的には本書のご紹介で鈴木春信の浮世絵の吹矢の情緒を観賞できたのもワンポイントでした。
 全140頁の本書のおよそ半分は矢・筒等の具体的な用具の作り方のていねいな解説にあてられています。
 これは安易に用具を市販品で購入せず、もともとこどもたちが遊び道具を手作りしたように、吹矢もまず道具作りから楽しんでやろうよという意図だとうかがいました。つまり伝統の手作り吹矢の技術と文化を再興普及したいというのが樋口先生のお考えです。ちなみに先生はそのオリジナルな矢の作り方をネット上 YouTube で公開されていて、そこはたいへんな人気で再生回数は2万回近くと驚異的なのでした。それでもわたし同様に工作はどうも苦手という方は、まずは購入でスタートでもお許しいただけるかも。

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唐辛子もこしょうだった  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 未曾有の東日本大震災のあった今年ですが、各地が立ち直り、一歩ずつ平常に向かいつつ、ようやく師走となりました。我が家の庭先も雪が積もり、硝子窓も結露しがちです。「そろそろこの唐辛子も保存用の籠に移しましょうか?」と家人。竹笊に深紅の唐辛子がしわしわになっています。よし、合格。「そうだね、もう十分乾燥したね。今年の唐辛子干しはこれで完了。」
 窓の張り出しの日当たりに、竹笊を置き、家庭菜園で収穫した赤い唐辛子を並べては、乾燥させていました。畑で熟して赤くなった実だけを選んで小分けして摘むため、これが三回目だったかも。農家ならこんなチマチマした作業はせずに、株ごと収穫し、結わえて束で軒先に干すでしょう。晩秋・初冬で雨がかからぬよう、ときに取り込み、また晴れ間に干す作業を詠んだ有名な俳句。

今日も干す昨日の色の唐辛子 林翔

 唐辛子には鷹の爪なぞの名前もあり、名前は唐ですが、南アメリカ原産の到来物の植物。でも山葵、生姜、山椒などとともに日本の薬味の代表でしょうね。
 それに比べ、コショーと表記するせいか、胡椒はどこか西洋料理の感じがずっとしていました。たぶん漢字が難しいため、料理本等で「肉に塩・コショーを振り……」などの記述ばかり見てきたせいでしょうか。あるいは歴史で大航海時代のインドのコショウ等を求めての欧州の貿易を学習したせいかも。たしかにラーメンに振り入れるのもコショーですが、どこかインド原産で洋風の調味料との思いこみがありました。
 十数年前、九州の学会出張の折りに寄ったお土産店で「ゆずこしょう=柚子胡椒」を購入しました。帰宅して食べてびっくり、なんと柚子風味の唐辛子ペーストでした。なんでも九州では昔から唐辛子はこしょうと呼ばれていたんだそうです。グルメ番組等で取り上げられ、その後すこしは全国普及したかも。ほんとのペッパーの方は、洋こしょうと呼ぶそうです。
 「日本国語大辞典」を繙くと、西日本を中心に、新潟も妙高高原などでは唐辛子をコショウと呼んでいた。コショウの伝来は古く、正倉院記録文書に胡椒の記載がある。(なお古代ローマ等では紀元前にすでに利用されていたほど)しかるに唐辛子の渡来は遅く、慶長の秀吉の朝鮮出兵を機会に蕃椒の名で、とうがらしは日本に持ち込まれた。ここでこの新たな香辛料もこしょうと呼ぶ地域が西国を中心に生じたようです。胡椒の胡も、蕃椒の蕃も異民旅の意、いずれも「異国の」山椒に似た香辛料でした。(山椒は日本原産の香辛料)
 肝心の保存した唐辛子の使い道ですが、家人は辛いのが苦手。我が家の料理への唐辛子の登場は多くありません。わたしの好物の蓮根の炒めものとスパゲティ・ペペロンチーノくらいかな。(キムチ鍋は市販の熟成キムチを使用。)
 数年前からの韓流ドラマやKポップスのブームの影響もあり、キムチに代表される料理での唐辛子の本場はやはり韓国でしょうか。

たうがらし言ひ値で買はぬのが市場 越野蒼穹

 シジャンと仮名をふり、唐辛子の売られる韓国の市場の景を詠んだもの。恥ずかしながら、最近でた「角川俳句大歳時記」秋の季語「唐辛子」の例句に採用された拙句なんであります。

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