長岡市医師会たより No.383 2012.2
表紙絵 「冬のスケッチの旅より(最上川 大淀)」 丸岡 稔(丸岡医院)
「転勤のプロ?」 加辺純雄(田宮病院)
「英語はおもしろい〜その23」 須藤寛人(長岡西病院)
「新年ボウリング大会優勝記」 茨木政毅(茨木医院)
「新年麻雀大会優勝記」 明石明夫(明石医院)
「新年囲碁大会優勝記」 遠藤彦聖(立川綜合病院)
「第4回中越臨床研修医研究会抄録」
「心筋梗塞に次いで肺塞栓症を引き起こし、抗リン脂質抗体症候群が疑われた一例」宗岡悠介(長岡中央綜合病院)
「当院におけるIgA腎症治療の近況」下妻大毅(長岡中央綜合病院)
「後腹膜線維症に間質性腎炎を合併した一例」山口峻介(立川綜合病院)
「私の経験した無菌性髄膜炎のピットフォール」石黒敬信(長岡赤十字病院)
「経管栄養により改善した上腸間膜動脈症候群の一例」波岡那由太(立川綜合病院)
「当院における餅イレウスの検討」木村成宏(長岡赤十字病院)
「人工骨頭置換術周術期に発症した脂肪塞栓症候群の二例」渋谷洋平(立川綜合病院)
「手術で救命しえた大動脈十二指腸瘻の二症例」鈴木宣瑛(長岡赤十字病院)
「内分泌療法により長期生存している多発性肺転移・骨転移を伴った乳がんの一例」岡部康之(長岡中央綜合病院)
「偏食するトキ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)
「冬のスケッチの旅より(最上川 大淀)」 丸岡 稔(丸岡医院)
田宮病院にお世話になるまで、大部分は公務員あるいはそれに準ずる仕事につき、転勤につぐ転勤をくり返し、主たる業務でも、多くの医師会員の皆様とは異なった経験をしてきましたので、自己紹介を兼ねて述べさせていただきます。
インターン制度が廃止になった昭和43年に新潟大学を出て、ベトナム戦争最盛期の立川アメリカ空軍病院で2年の研修を受け、新潟大学の第一外科に入局しました。在局中短期出張で新発田・会津若松・小出・長岡中央にもお世話になりました。その後、千葉県がんセンター消化器科とカンサス大学病理・腫瘍教室を経て防衛医大第一外科に勤務をしました。帰国から防衛医大勤務開始の間、自衛隊に採用されるための身元調査の期間中、長岡赤十字病院で外科復帰の再トレーニングをさせていただきました。防衛医大の卒業生が増加する中、現場での指導医が少ない事から、医大から海上自衛隊に(文官から制服に)転換しました。自衛隊は転勤の多い所で(平均2年で)私も転勤をくり返し、病院長3回、部長職2回(外科部長と教育部長)、練習艦隊医務長1回、行政職2回を経験させられました(当然のことながら希望ではなく命令で)。行政職は海上自衛隊衛生部門全体の現状分析から将来計画作成、予算、人事を取り扱っており、医者というより官僚そのものといった仕事でした。
海上自衛隊定年後、厚生労働省名古屋検疫所に移動になりました。ワールドカップ時の感染症対策、鳥インフルエンザ・新型インフルエンザ対策、輸入食品・健康食品違反等新たな問題の対処に加え、検疫医学会・理事長の仕事もあり、ゆったりとした定年後とは行かなくなりました。
私の医者としてのキャリアの中で、よりよき総合臨床医を目指した時期、外科医として胃癌をテーマにした時期、軍事医学をやりながら若い軍医を育てた時期、検疫医学に専念した時期を過ごし、医師として晩年何をすべきかを考えました。外科の先輩や仲間がどのような道を選んだか、外科医にとり、どのような型でメスを置くか、どの外科医も通る道でした。幸か不幸か、私は海上自衛隊から厚生労働省に移動した時点で手術を離れました。視力と手先を考えると再度外科をやる事はできず、医師として最後に関わるテーマを老人医療と決めました。検疫医学会の理事長など後任の目鼻をつけ、早期退職し、以前から話のあった田宮病院にお世話になりました。
最後の数年間は検疫感染症という限定した分野しか取り扱っていなかったため、内科と精神科を勉強しなおし、はるか以前の経験を思い出し、少しずつ経験を積み重ねています。種々の疾患を有する老人、認知症患者との係わりを通じ、患者に仲間意識を持つ事ができましたが、自分が彼らと近い事が良い事か悪い事かは皆様の判断にゆだねます。
日常扱う疾患がけっこう多彩な事もあり、講演会の話が日常診療の役に立っています。ただ食べる事が大好きな私にとって、情報交換会のおいしい食事を、体重や血圧のために、途中でやめて早く帰るのはつらい事です。
本文のタイトルに戻りますが、転勤・引っ越しが多かったため、荷造りがうまくなり、単身生活が長かった事から、料理・洗濯・裁縫・栄養管理等々たいていの事はやってきましたが、今女房と一緒に暮らし、これらの家事一般から開放されてみると、仕事だけすれば良いとは何と気楽な事かと、転勤、単身生活をもっと早く終わらせておればと思うこの頃です。
〔カット 丸岡稔〕
laborist 分娩専門医
今回は、未だ一般の英和辞典には載っていない "la-borist" について書いてみる。イギリスの「労働党員」のことではなく、また、私たちは "laborer" が「肉体労働者」で、"worker" は「頭脳労働者」であると習ったことがあるが、その意味でもない。前回書いた "Hospitalist" よりさらに新しく使われ始めた英語である。labor が「陣痛」、delivery が「分娩」で、アメリカでは「labor and delivery」が広い意味で「お産」を表現する言葉である。"Labor & Delivery Suite" は日本語では「分娩棟」になるであろう。labor & delivery の最初の labor の方だけをとって "laborist" という成語ができたものと思う。「分娩取扱専門医」というより単に「分娩担当医」、「分娩専門医」の日本語訳でいかがであろうか? 権威ある、アメリカ産科婦人科学会誌の巻末の方に「laborist / OB hospitalist」(注:OB は Obstetrician 産科医の略)の求人広告も出ているくらいである。Laborist は「病院職種の中で最も新しい専門職」とみなされているとのことである(ama-assn.orgより)。
ニューヨーク市の産婦人科医の malpractice insurance(医療過誤保険料)が高騰し、今年は、ついに、最低額が年間、なんと$120,000となったそうだ。約1,000万円にまちがいない!「そうしないと、入院も手術もお産も出来ない」と Queens 区で開業している旧友のDr. Marina Guerrero が嘆きのメールを送ってきた。去る8月に開かれた日本産科婦人科学会で招請講演をしたニューヨークの Weill Cornell Medical Center の Frank A. Chervenak 主任教授は自分の malpractice insurance は今年は20万ドルであると話された。Dr. Guerrero の annual income がいくらかは知らないが、かっては保険料は収入の30%くらいを占めていた。前回、「Hospitalist」のところに書いたように、hospitalist の年収が$170,000〜250,000くらいであり、病院が malpractice insurance を払ってくれるので、OB hospitalist や laborist も悪くない、と考える産婦人科医師も出てくるかも知れないと推測される。
連綿として続いてきたアメリカの産科医療も、実はシステムの中に、多様な問題点を有していると言えよう。ある典型的な産婦人科開業医の仕事ぶりを振り返ってみると、週の複数回、早朝より病院に出向いて予定産婦人科手術を行い、その後にオフィスに戻り外来診療。もし、妊婦が陣痛に入ると、医者は病院に向かい、その患者につきっきりにならなければならない。時には、外来患者の予約の変更をしなければならない。週の半日は関連大学の検討会にも出なければならない。お産は洋の東西を問わず、夜間忙しくなり、眠れない時も多いのは産婦人科医の宿命であろう。そこにレジデントの活躍の場がある。レジデントは attending doctor の病院内の補助を行い、その代わり、手術などを経験させてもらう、アメリカ人好みの give and take の関係が成立する。産科関係でみると、attending doctor が分娩に間に合わず、レジデントが全てを行うことも希ではなかった。遅れてきた開業医は、胎盤の血液を手袋につけ、それを白衣に塗ったくりながら、さも今産まれたばかりと家族に話すことに遭遇したこともあった。分娩は所要平均時間はざっと言って8〜16時間くらいであるが、attending doctor は通常はじっくりと待つ。それは自分と契約を交わした大切な患者であるからである。ところが、中にはじっくり待てない医師もいて、早めに帝王切開を選択してしまう人もいる。そこで、1970年代当時ニューヨーク医科大学では既に、帝王切開を一人の医師だけでは最終決定できず、必ず、もう一人の医師の同意を得なければならない仕組みになっていた。これこそ、医師側から見た場合、本当の "Second Opinion" ということになるであろう。
solo private practice の弱点をカバーするように、partnership practice や group practice が台頭してきたわけである。ある地区でバリバリ活躍してきた産婦人科医がある年齢になると、専門医になったばかりの若い産婦人科医と一定の契約を結ぶ方式が partnership practice であった。group practice は多くの場合は3〜4人と理解していたが、先月ニュージャージーから帰国したある患者の紹介状用紙は7人の産婦人科専門医の名前が印刷されているものであった。医師を取り巻く環境が大きく変わってきているように感じられた。かっては外科系医師は50歳を過ぎればそれなりの蓄財は出来ているといわれ、産婦人科医はまず産科を止めて、婦人科診療単独でいくような経過が一般的であった。
OB Hospitalist Group, Inc のホームページには、この新しい laborist のシステムは「患者の安全と満足」、「医師の責任の減少」、そして「医師の burn out を減少させる」等良い点を掲げている。この会社は現在450人の登録があり、実際は60人が Florida、Texas、Virginia、California、Wyoming、North Carolina、Kentucky の病院で働いているとのこと。OB Laborist. Org のホームページには、夜間あるいは週末にレジデントの代わりとして集中して働く人が多いと書かれている。General Health Blog に E. Evans 女史が「これまでの groggy Obstetrician(へとへとに疲れ果てた産婦人科医)より fresh and alert な laborist が新しい model として求められているのではないか」と意見を誘導していた。
ニューヨーク市 The Bronx 区の隣接地 Westchester 郡 White Plains で産婦人科を開業してきた同級生の Dr. Barry Meisel は62歳で私と会ったとき、医療過誤保険料が高すぎることもあり、ちょうど分娩・手術を止めた。今は、かってのパートナーであった医師の手術の助手をもっぱらしているとのことであった。それに伴い、ストレスが取れ、すがすがしい毎日を送れるようになったと話していた。62歳という年は、くしくも、アメリカ産科婦人科学会では専門医(Fellow of American College of Obstetricians and Gynecologists:FACOG)の称号に、規定上、"SeniorStatus" を附ける年齢であり、年会費、学会参加費もおよそそれまでの70%に減額になる時であった。
話を laborist に戻さなければ。アメリカは契約の国。これまではお産を引き受けたら、分娩が終了して初めて費用の請求となる。正しくは産褥1ヶ月検診費までを含む。そのような診療形態のなかで、妊婦検診は通常の産婦人科医で、分娩は laborist でというような非連続(discontinuity)の診療をアメリカ人は受け入れられるのであろうか、私には疑問が残る。一方、ボストンの大手保険会社のスポークスマンが「laborist の出現によって、果たして医療補償額が少なくなるかどうかの判断は時期尚早である」と述べている。
話は少し飛ぶが、アメリカに遅れること35年、平成22年に日本でも、日本周産期・新生児医学会の認定において「周産期医療母体・胎児専門医」が誕生した。言うなれば OB perinatologist である。私たちの年齢の者は、この制度の過渡期のため、その「暫定指導医」であり、日本の周産期医療の発展のための「捨て石」になることを誓わされた。新 perinatologist 誕生バンザイ!しかし laborist はハンタイ!である。
(続く)
新年ボウリング大会優勝記「アンチエイジングとボウリング」 茨木政毅(茨木医院)
平成24年長岡市医師会ボウリング大会は1月16日月ドリームボウル長岡で開催され、平成8年以来実に16年振りに優勝することができました。若い時はボウリング場主催の大会に毎週参加していました。そのため練習量は充分でしたのでこの新年の医師会大会も、しばしば優勝していました。しかし平成12年心内膜下梗塞を患ってから、無理は禁物と練習もしなくなり月一回の月例会しか投げなくなっていました。
古稀を過ぎ体力も気力も日に日に衰えを感じるようになり、このままだともう先はあまりないなあと感じていた矢先、NHKテレビで長寿遺伝子のことが放映され、アンチエイジングに興味を持ちました。
元気で長生きする長寿遺伝子は誰でも持っているが、それを活性化するためには、まず第一に厳重なカロリー制限が求められ、なかなか実行できない場合はレスベラトロールというサプリメントを摂取するということでした。また慶応大学の眼科教授坪田一男先生はアンチエイジング医学の研究家で、体重のコントロール、適度の運動、充分な睡眠、そして最も協調されるのは、ごきげんな時間をできるだけ作る等々がんばれば百二十五才まで生きられると提唱しておられます。その模範が昨年満百才を迎えられた聖路加病院の日野原重明先生の生き方です。
話は横道にそれましたが私はそれにまじめに取り組んでいるわけではありません。もう古稀を過ぎてからでは遅すぎることは充分承知していますが、少しでも実行すればあと十年何とか頑張れると思い、体重のコントロールと充分な睡眠、レスベラトロールの摂取、そして適度の運動としてのボウリングの練習を再開したのです。その結果の一つとして今大会の優勝をもたらしたと思います。
かんじんのボウリングのスコアのほうですが177、176、180、196とアベレージ182でした。200アップも一度もなく同じレーンで投げていた明石先生が3ゲーム目に247のビッグゲームを出し、隣のレーンでは廣田さんが200アップ、191という高スコアで気持ちよく投げられているので優勝など全く考えることなく、プレッシャーもありませんでした。それどころかフォースのあとスプリット、スペア、スプリットと200アップができるゲームなのに簡単に投げてしまいました。終わってみればピン差での優勝とびっくりしてしまいました。古稀を過ぎての優勝は少し嬉しかったのですが、新潟県医師会報を見ると新潟市の光永喜衛先生は昨年9月に米寿を迎えての新潟県大会で優勝されました。その成績は4ゲームで735、アベで183ハンデなしでも6位という驚異的なスコアでした。健康とボウリング、長寿とボウリングの関係が証明されたことと思います。
来年は後期高齢者の仲間入りをします。予期せぬ病に遭遇するかもしれませんが、アンチエイジングに興味をもって(藁をもすがるということかもしれませんが)頑張ってみます。
尚今年6月22日より3日間、横浜市で第12回日本抗加齢医学界総会が開かれるので出席してみようかと思っています。
1月21日午後2時より雀荘「トップ」で長岡市医師会の麻雀大会が開催されました。お手伝いの1人を加え、3卓に別れてのスタートです。
私は昨年初参加で、ダントツの最下位という惨たんたる成績に終わり、せめて今年は「最下位脱出」が目標での参加でした。
1回1時間の全3回戦での勝負です。開局前からビールで喉をうるおしながら1回戦。春谷先生、小林先生、佐藤先生と強豪ぞろいとの対戦。春日先生のスタートダッシュで東の2局目から2飜しばりとなり、なかなか聴牌できず悪戦苦闘しましたが、なぜか一度も振り込むこともなく、最後に満貫をあがることができ、プラス13,000点の2位と上々のスタートをきれました。
ビールから芋焼酎の水割りに変え、いい気分での2回戦。対局者は中島先生、佐藤先生、高橋先生とやはり強者ばかり。だがこの局もプラス8,200点の2位となり、小計で全11名中3位という好位置につけることができ、このままプラスでいけばいいぞと思いながらの3回戦となりました。この時点では1位の西村先生との差が15,800点もあり、優勝なんて夢にも思っていませんでした。今回は鈴木先生、高橋先生、それから特別参加の某氏との対局。
とくにこの局は配碑もまずまずで、ツモにも恵まれ、またアルコールの手助けで気持ちも大きくなり、終わってみればプラス34,400点の1位となり、トータルプラス55,600点のダントツの1位で優勝でき、昨年のリベンジを果たすことができました。最下位からの優勝という、なにか奇跡的な結果に自分でもびっくりです。ツキ以外のなにものでもありません。
大会終了後は、小林先生、佐藤先生、高橋先生と夜の街にでかけ、美酒を充分に味わうことができ、本当に楽しい一日となりました。
1月16日に行われたボウリング大会では優勝はのがしましたが、40年来のボウリング歴での自己ベストの247点をだすことができたし、また今回の優勝と今年はできすぎの感じですが、このまま良い一年を過ごせればと思っています。
新年囲碁大会優勝記「囲碁と親父の榧の碁盤」 遠藤彦聖(立川綜合病院)
立川綜合病院小児科の遠藤と申します。今回たまたま長岡市医師会新年囲碁大会に優勝してしまい、何か囲碁に関する文章を書くように、ということで、内輪話で誠に申し訳ないのですが、幼少時、私が親父と囲碁を始めた頃のことを書いてみようと思います。
私が囲碁と初めて出会ったのは、幼稚園の頃、まだ八王子市にある実家に住んでいた頃のことです。親父が囲碁好きで、家にあった折りたたみ式の碁盤の上で黒石、白石をごちゃごちゃと混ぜて、お料理ごっこみたいなことをしていたのが、私の最初の記憶として残っています。そのうち知らず知らずに親父と碁を打つようになり、自称五段だった親父に最初は25子に風鈴をつけて打ち始め、17子、9子、4子……と徐々に置き石が減っていったことを思い出します。
そんな親父のもうひとつの趣味が山登りでした。別に特別な訓練を受けたわけではないようでしたが、どんな山にもひとりで出掛けてしまうようなワイルドな人間でした。ある日のこと、私が小学校低学年の頃だったでしょうか、いつものように一人で南アルプスに出掛けた親父が、夜遅くなっても帰って来ないことがありました。その当時はもちろん携帯電話などなく、全く連絡がつかない状態で、何もできないお袋と伯母(親父の姉)がただただ家の中で狼狽えていたことを覚えています。そして親父がのこのこと家に帰ってきたのは次の日の夕刻、かなり遅くなってからのことでした。親父は全く悪びれた様子もなく、
親父「いや〜参った、天気が悪くてなんにも見えなくて、野宿しちまった。」
親父が言うには、悪天候で視界がゼロになり、山の鉄則で動くのは危ないので岩場で一晩野宿した、ということでした(今思えば山麓のバーで朝まで飲んでいただけかも?)。
親父「何も食うもの無くて胃を壊した(酒?)。でもほんと動かなくて良かったよ。朝起きて見たら一歩先は断崖絶壁だったしな、ハハハ……。」
お袋「笑い事じゃないわよ、どれ程心配したと思ってんの!」
親父「悪い、悪い、でもその絶壁を自然のカモシカが昇って来たんだよ(それはバーのママ?)。凄い勢いで恐かったけど(飲み代請求?)、後足なんかキュッと締まってて奇麗だったなあ〜(ママの足?)。」
お袋「胃も悪くして(酒?)、もう山登りは絶対に禁止ですからね。」
親父「俺の趣味なんだから仕方ないだろ。休みの日に何してろってんだよ。」
お袋「大人しく囲碁でもしてなさい!」
親父「そうか、じゃ、榧(かや)の碁盤買ってくれ。そうしたらもう山行かない。」
お袋「……。」
結局、自分の身の危険と榧の碁盤を天秤にかけた巧妙な取引きのあげく、もう山登りはしないとの約束で、お袋と伯母が出し合って、榧の碁盤を買うことになりました。それから1ヶ月くらい経った休日の朝だったと思います、親父は末っ子の私の手を引いて京王線に乗り都心の碁盤店へ向かいました。終日親父がニコニコ顔だったことは言う迄もありません。あらかじめ下調べしていた碁盤店に着くと、その店の奥からは乱れ髪の今でいうおタクっぽい風貌の店主が現れました。子供の私にはどう見ても死神博士にしか見えず、不気味な印象しか残りませんでした。
親父「榧の碁盤が欲しいのですが。」
店主「ほれっ、そこにあるよ。」
店にはいくつかの榧の碁盤が無造作に置いてありました。親父は嬉しそうにしばらくそれらを眺め、これっ、という一品をみつけたようでした。
親父「これおいくらですか?」
店主「ん〜、お目が高いな、それは今店にある中で一番いいものじゃ。百万は下らないなあ。」
親父「ひゃ、ひゃくまん……。ちょっと家内に相談してみます。」
それから親父は公衆電話に走り、お袋と最終交渉に挑んでいました。その内容はよくわかりませんでしたが、きっと命助かったんだから百万くらい安い買い物だろ、などと脅し文句を言って、お袋を説き伏せたのでしょう。
親父「それください!」
店主「ん〜、この盤と別れになるのは惜しいが、仕方ない、あんたになら売ってやろう。」
親父「ありがとうございます!」
高飛車な死神博士に操られたような空気の中、大切な碁盤を持って帰るのだから電車じゃ無理だろう、家まで車で送ってやろう、ということになり、店主と親父と私の3人で店の車で八王子へ向かいました。道中店主は何度も何度も、「これはいい碁盤だ。」「別れが惜しい。」を繰り返し、八王子の自宅に着き、最後になんとも意味深な表情を浮かべて、都心へ戻っていきました。その表情は、本当にその碁盤との別れを惜しむものだったのか、その日一日の名演技に対する満足感だったのか(天本英世さんも名優でした)、その真意を知る術は何もありませんでした。まあしかしこの分不相応な榧の碁盤が我が家にやってきたお陰で、その何ともいえない香りに家族皆癒され、私自身も親父の部屋へ碁を打ちにいく機会も増え、それと共に少しずつ棋力が向上したことだけは間違いのない事実となりました。
その後、中学生以降になると私は野球に没頭するようになり、反抗期が重なったりもして、親父と囲碁をする機会はめっきり減っていきました。しかし高校卒業と同時に新潟の地で暮らすようになると、帰省時には再び碁盤を囲む時間を持てるようになりました。現在に至り親父も70半ばを越え、
親父「もう自分には重くなったから、この盤新潟に持って行っていいぞ。」
私「まあそのうちもらうから、まだここに置いといてくれよ。」
なんて話をする年にもなりましたが、今でも親子水入らずで囲碁を楽しむことができています。思い返してみますと、私にとっての囲碁というものは、勝ち負けということにはあまり興味はなく、ただただ親父と過ごす時間をスムーズに共有するためのひとつの手段であったのかなと思います。囲碁をしながら私が学校のことを話したり、親父が家族への思いを話したり、腹を割って話せる空間、時間を絶妙な間合いで提供してくれるひとつの素晴らしい方法だったのかもしれません。遊びとは、本来そういうものなのかもしれません。
私も40半ばとなりましたが、今になっても碁盤を囲むだけで、大先輩方ともゆっくりお話することができますし、一緒にお酒を楽しむこともでき、囲碁という遊びに大変お世話になっています。今回ほんとにたまたま新年囲碁大会に優勝してしまいましたが、それ自体にはあまり大きな意味は無く(賞品の牛そぼろ煮は美味しかった)、いつものように囲碁を通して、皆様と楽しく交流できることが、一番意味のあることなんだろうなと思っている次第です。
第4回中越臨床研修医研究会抄録(平成24年2月1日 於 長岡市医師会館)
「心筋梗塞に次いで肺塞栓症を引き起こし、抗リン脂質抗体症候群が疑われた一例」 長岡中央綜合病院 宗岡悠介 症例は33歳男性。主訴は動悸・呼吸困難。H18年に後下壁の急性心筋梗塞(AMI)で#13=99%狭窄を認め、血栓吸引療法を施行した既往あり。 |
「当院におけるIgA腎症治療の近況」 長岡中央綜合病院 下妻大毅 IgA腎症は最も一般的な原発性慢性糸球体腎炎であり、末期腎不全の主要な原疾患として認識されている。 |
「後腹膜線維症に間質性腎炎を合併した一例」 立川綜合病院 山口峻介 【症例】59歳男性。H23年7月、排尿困難、頻尿、下腹部痛を主訴に近医を受診し、尿路結石を疑われ NSAIDs(ボルタレン坐薬)の処方を受けた。その後当院泌尿器科に紹介され、CT で大動脈周囲の脂肪織混濁と両側水腎症を認め、後腹膜線維症の疑いで入院した。保存的治療で一旦軽快退院するも、8月下旬、発熱、悪感、背部痛を認め、再入院となった。 |
「私の経験した無菌性髄膜炎のピットフォール」 長岡赤十字病院 石黒敬信 【症例1】37歳、男性。 【症例2】48歳、女性。 【考察】症例1は髄液検査における初圧に注目することから、症例2は合併症状に注目することから診断に至った。無菌性髄膜炎において「髄液検査における初圧」及び「合併症状」がピットフォールとなりうることが考えられた。 |
「経管栄養により改善した上腸間膜動脈症候群の一例」 立川綜合病院 波岡那由太 〔症例〕60歳女性。主訴は便潜血陽性。既往歴は高血圧。家族歴は特記すべきことなし。生活歴は、ビールを機会飲酒程度。 引用文献 |
「当院における餅イレウスの検討」 長岡赤十字病院 木村成宏 餅は摂食の機会の多い食べ物であるが、時に餅による腸閉塞(以下餅イレウス)をきたす症例を経験する。今回、当院における餅イレウスの治療方針を検討したのでこれを報告する。 |
「人工骨頭置換術周術期に発症した脂肪塞栓症候群の二例」 立川綜合病院 渋谷洋平 【症例1】79歳女性。転倒し右大腿骨頸部骨折を受傷。翌日人工骨頭置換術を施行した。術後2時間、意識レベル200、SpO2 92%(酸素2L)まで低下し、頭部 MRI(DWI)で両側大脳半球に点状多発高信号を認めた。術翌日に眼瞼・前腕に点状出血を認め、脂肪塞栓症候群と診断した。酸素投与などの対症療法のみで加療した。徐々に意識レベルは改善し、JCS2-3でリハビリ施設に転院した。 【症例2】83歳女性。転倒し左大腿骨頸部骨折を受傷。受傷後6日、人工骨頭置換術を施行した。インプラント挿入直後、意識レベル300、SpO2 83%(酸素2L)、血圧80台まで低下したため気管内挿管を行った。循環動態管理が困難のため集中治療室に入室し、経皮的心肺補助装置等を用いて加療した。術直後の頭部 MRI で特記すべき所見を認めなかったが、翌日に眼瞼・前胸部に点状出血がみられた。5日目の頭部MRI(DWI)でびまん性に高信号が確認され、脂肪塞栓症候群と診断した。徐々に循環動態は改善したが、6か月後の現在も意識レベルは200とほぼ不変である。 【考察】我々が渉猟しえた範囲で、長管骨骨折やそれに伴う手術により発症した脂肪塞栓症候群では全例で意識障害の改善がみられていたが、MRI拡散強調像で広範囲に高信号を認めた症例では意識障害残存の報告もある。症例1では JCS200 が2〜3に改善したが、広範囲に高信号を認めた症例2では JCS200 と不変であった。脂肪塞栓症候群においては根本的な治療法はなく、予防が非常に重要である。山田らは人工骨頭打ち込みなどの手術操作が、脂肪塞栓発症のリスクとなると報告し、Kropfl らは、塞栓物質が手術操作に伴う髄腔内圧の上昇により血管内に移動すると報告している。また Koessler らは、心臓超音波検査でインプラント挿入時に90%以上の症例で塞栓物質を検出すると報告している。今回の2症例は、髄腔に対しインプラントがタイトで、挿入が極めて困難であったため、髄腔内圧がより高まり、脂肪塞栓の危険性を高めたと考えられた。現在、脂肪塞栓症候群の確立した予防法は存在しないが、今後髄腔内圧上げずに手術をするために、インプラントの形、サイズ等をより慎重に検討する必要があると考える。 |
「手術で救命しえた大動脈十二指腸瘻の二症例」 長岡赤十字病院 鈴木宣瑛 【症例1】80歳男性。吐血あり、近医で内視鏡検査が行われたが出血点不明であった。2日後に大量の吐下血を起こし、ショック状態となり当院に搬送された。体温39.8℃。造影 CT で感染性腹部大動脈瘤の十二指腸水平脚への穿破を認めた。大動脈閉塞バルーンを挿入された後、人工血管置換、瘤切除、十二指腸切除、大網充填術が施行された。術後に心不全、呼吸不全、敗血症を起こし長期間の全身管理を要したが、徐々に全身状態は改善し、第91病日にリハビリ目的で転院となった。 【症例2】64歳男性。腎動脈下腹部大動脈瘤の手術歴あり。下血を自覚していたが放置し、3日後に大量の吐下血を起こし当院に救急搬送された。上部内視鏡では出血点を指摘できず、造影 CT でも造影剤の血管外漏出は認めなかった。入院後、複数回内視鏡検査を施行するも病変を指摘できず、造影 CT を再検したところグラフト吻合部直上の仮性瘤の増大による十二指腸水平脚の圧排を認め、切迫破裂の状態にあった。同日人工血管再置換、十二指腸切除、大網充填術が施行され、術後27日目の退院した。 【考察】大動脈十二指腸瘻は動脈硬化性動脈瘤、感染、外傷、消化性潰瘍等が原因で生じる一次性と、人工血管置換後に生じる二次性に分類される。本疾患は非常に稀ではあるが、重症度・緊急度が高く、死亡する例も多いため、ショックを呈するような消化管出血の鑑別の際には念頭に置くべきである。 |
「内分泌療法により長期生存している多発肺転移・骨転移を伴った乳がんの一例」 長岡中央綜合病院 岡部康之 症例は52歳の女性、主訴は特になし。閉経前。1996年に胃癌で胃全摘術を施行され、術後再発なく以後近医にて経過観察されていた。2007年5月に近医にて CEA の上昇を指摘され精査目的に当科を紹介受診された。 |
福島原発の再度の原子炉の急速な温度上昇が報道され、ありがたくないホットな話題。温度計が故障での誤報だったらしいが(……それも?かも……)、笑いごとでありません。
年頭も暗いニュースの多いなか、なごんだのは、お正月明けに佐渡で飼育中のトキがビタミン不足に陥ったが注射治療で回復した話題です。日本では絶滅したトキ。最後に捕獲され、長年ケージで飼育され老いた雌のキンが数年前に亡くなったのをご記憶のかたも多いでしょう。人工飼育・保護に賛否両論があったその頃、こんな俳句を新潟県に在住の著明俳人が詠んでおりました。
日本の朱鷺をしづかに滅びさせよ 斎藤美規
現在のトキの生息概況を調べると、総数二千羽近くまで増加したそうです。大半は中国(我が国がそのトキの本家の座を奪われた)にいて、自然生活と飼育の二本立ての保護。日本では佐渡を中心に飼育中で、その総数は二百羽近く。長岡市も寺泊地区で黒トキでの練習も終え、昨年10月より本物のトキの分散飼育が始まったようです。
中国のトキをそっくり借りてなんとか産卵、増殖に成功した佐渡。一応ヒトなみに出生場所からの日本国籍取得で、国産のトキの判定。中国から大金を払い借りたパンダとは異なり、すでに毎年孵化に成功したトキのうち数羽ずつを、父母の実家の中国に返却し続けている実績があります。
さて飼育されているトキのビタミン不足の話でした。これがなんと好き嫌いで、偏食する個体にだけ起きたそうです。栄養バランスを考え、与える餌を工夫しているのに飼育係泣かせ。首振りなど不自然な行動、池に落ち溺れかけたりの症状が出た今回の二羽のトキがそうです。好物のドジョウばかり食べた偏食が原因と断定されました。
ドジョウを生食すると、ビタミンB1(チアミン)の破壊酵素が含まれ、その欠乏をきたすそうです。自然界では、この酵素チアミナーゼは淡水魚(コイ、フナ、ドジョウなど)、二枚貝(アサリ、ハマグリ、シジミなど)、シダ類(ワラビ、ゼンマイなど)に含まれます。ただし加熱でその活性を失うので、わたしどものふつうの食生活ではこの害はないのことで、ひと安心。
このビタミンB欠乏症の正式病名1は“脚気”ですね。古典的三徴は、(1)多発神経炎、(2)浮腫、(3)心不全。
むかし米食中心の時代、ビタミンB1の摂取の不足(破壊でなく)による欠乏は、よく起きたようで、医学史的には有名であります。
まだわたしの学生時代(30数年前)に新潟大学の臨床講義で多発性神経炎の若年成人男子症例を前に、“脚気”の講義を神経内科の泰斗、椿忠雄教授から拝聴した覚えがあります。その青年の発病誘因が偏食だったかまでは記憶がありませんが。「今日の治療指針2012年版」に『衝心脚気(脚気心を含む)』の項目で解説あり。
「今日では過激なダイエットや偏食のほか、アルコールの過剰摂取・高炭水化物食品の摂取などが原因となりうる。」と記載。
やはりヒトもトキも偏食はよくないんです。似た字でもあまねく食べる、遍食ならいいんですね。
「ただし適量をね。」すかさず(山の)神の声が、いずこかよりわたしの耳に聞こえてきました。