長岡市医師会たより No.393 2012.12


もくじ

 表紙絵 「雪の左近」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「宝塚歌劇ロミオとジュリエット随想〜その3」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「会員旅行記」 高橋 暁(高橋内科医院)
 「サンライズ出雲で神の旅?」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「雪の左近」 丸岡 稔(丸岡医院)


宝塚歌劇「ロミオとジュリエット」随想

〜その3「シェークスピアのロメジュリ」  福本一朗(長岡技術科学大学)

3.ウィリアム・シェークスピアの「ロミオとジュリエット」
 1595年にロンドン・グローブ座で初演されたウィリアム・シェークスピア(1564〜1616)作の悲劇「ロミオとジュリエット」は、その美しさと切なさで人類史上最高のラブロマンスといえよう。その後シェークスピアは、四大悲劇「ハムレット(Hamlet,1600)」「オセロー(Othello,1606)」「リア王(King Lear,1605)」「マクベス(Macbeth,1606)」を発表しているが、そのすべてが透徹した人生哲学と深い人間観察によって、“人生に翻弄される弱い人間”を描いたものであった。ただロミオとジュリエットでは周りの人々の無理解や偶然などの“運命”が悲劇的結末へと導いているのに対して、四大悲劇では“登場人物の性格”が悲劇を引き起こしていることが異なっている。それは作者の人間観が“受動的なもの”から“能動的なもの”に変化している事を意味しているのではないだろうか?
 ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)は1564年にイングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれた(Fig.11)。父ジョン・シェークスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、市長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリ・アーデンは非常に裕福な郷紳(Gentleman)の娘であった。二人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。シェークスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558)、マーガレット(1562〜1563)、ウィリアム(1564〜1616)、ギルバート(1566〜1612)、ジョーン(1569〜1646)、アン(1571〜1579)、リチャード(1574〜1613)、エドモンド(1580〜1607)である。シェークスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。
 シェークスピアは15世紀初頭に開校され、ストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校(King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に通ったであろうと推定されている。エリザベス朝時代のグラマー・スクールではラテン語文法・文学がラテン演劇とともに教えられていた。シェークスピアがそれ以上の高等教育を受けたかどうかは不明である。1582年11月29日、18歳のシェークスピアは26歳の女性アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)と結婚した。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、挙式を急ぐ必要があったといわれる。1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れた。ハムネットは1596年8月11日に夭折した。シェークスピアが結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間の記録はほとんど現存していない。特に双子が生まれた1585年から1592年までの7年間、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかは一切不明となっており、「失われた年月」(The Lost Years)と呼ばれている。
 ただ1592年頃までにシェークスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時はエリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されていた。その中でシェークスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていた。1594年の終わりごろ、シェークスピアは俳優兼劇作家であると同時に、“宮内大臣一座”として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため“国王一座(King's Men)”へと改称することになるほど、シェークスピアの劇団の人気は高まっていた。シェークスピアの著作の中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及からも、彼が実際に俳優であったことがわかるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている。
 シェークスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている。1616年4月23日にシェークスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンによる感染症であるといわれている。シェークスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、息子と、2人の娘スザンナとジュディスを残した。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェークスピア家の最後の1人となった。しかし今日、シェークスピアの直系の子孫は存在しない。シェークスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬された。シェークスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェークスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられるシェークスピアの記念碑には、シェークスピアが執筆する姿をかたどった胸像が据えられている(Fig.12)。
 毎年シェークスピアの誕生日には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェークスピアみずからが書いたものと考えられている。

Good friend, for Jesus' sake forbear,
To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.

「良き友よ、願わくば(=イエスにかけて)
 ここに葬られし遺骸を掘りおこすことなかれ
 これらの墓石に触れざる者に恵みあらんことを
 わが骨を動かす者に呪いあれ」

 シェークスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェークスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。
 シェークスピアの遺言状(Fig.13)には、“妻には二番目に良いベッドを残す”と書かれているため、8歳年上の姉さん女房との不仲が推測されている。
 小田島雄志先生はこの点を強調されて、シェークスピアの透徹した人生観はアンから与えられた試練の賜物であろうと推察されていた。それはイブがいなければアダムが地上の人となって人間の祖とならず、悪妻といわれているクサンティッペがいなければソクラティスの哲学は生まれず、ジョセフィーヌがいなければナポレオン皇帝は生まれなかったのと同じであると、説かれた。
 「ロミオとジュリエット」は悲劇ではあるが、「死を越えた愛」がある事を後世の人に示した人類史上最高の“純愛物語”であるともいえよう。そしてそれはシェークスピアの年上妻への愛とともに結婚生活の苦さを反面教師として生まれ出たものと言えるのではないであろうか?「月に誓わないで、月は形を変える、あなたの愛も変わる。(ジュリエット)」「変わらない愛を、二人で育んで行こう。(ロミオ)」シェークスピアの悲劇は、人生の不条理と人間の醜さを描いていることは否めないが、ヒーロー達は自分ながら誠実に人生を考え、懸命に生きているため、苦さの中にも爽やかな読後感が漂うこともまた事実である。それについてシェークスピアが最後に言いたかった事は、「人間は捨てたものじゃない」ということではないかと小田島先生はおっしゃっておられた。
 すべてが変わって行くこの世であるからこそ、ロミオとジュリエットの時空を越えた「変わらない愛」の存在は人間の素晴らしさを示していると言えよう。

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会員旅行記〜糸魚川姫川温泉   高橋 暁(高橋内科医院)

 11月17日から一泊二日の長岡市医師会会員旅行に参加してきました。今回は糸魚川市姫川温泉の旅です。参加メンバーは太田裕会長以下、明石明夫、荒井義彦、大塚武司、加辺純雄、神谷岳太郎、河路洋一、草間昭夫、小林徹、長尾政之助、丸山直樹の各先生方と、事務局の星さん、そして私を含め総勢13名です。自他ともに認める雨男の星さんのせいでしょうか、あいにくの寒い寒い雨の日でしたが、定刻どおりサロンバスは医師会館を後にしたのでした。
 発車と同時に缶ビールが配られ、太田会長の乾杯のご発声とともに宴会の開始です。ロケットスタートは明石先生で、長岡インターから高速に乗るころには缶ビール3本目。軽くのどを潤した後は日本酒です。越乃景虎大吟醸、八海山大吟醸、長陵大吟醸壷中天地と、瞬く間に旨い酒が空になってしまいました。ふくよかなバスガイドさんが同乗し、なにやら一生懸命に説明してくれているようですが、誰一人として聞いちゃいません。神谷先生が異様にでかい声を張り上げます。後部座席で盛り上がっている一方、前の座席はというと長尾先生と荒井先生が「認知症が……」「在宅が……」などとお話し中のようです。なんて真面目なんだこの二人は!しょうがないから、神谷先生差し入れのボジョレーヌーボーを飲ませちゃいました。長尾先生、一本全部飲み干してくれましたよ。
 あっという間に2時間が経ち、車内に加齢臭とアルコール臭の混じった強烈な香りを残して、ホテル国富翠泉閣へ到着。まずは温泉へ。毎分1500リットルの源泉掛け流しという温泉は、塩化物・炭酸水素塩温泉とのことで、臭いはあまりしませんが、なめらかで、体の芯から温まることができました。露天風呂は残念ながら大雨で、屋根がないため楽しむことはできませんでしたが……雨男め!
 6時からは夕食です。加辺先生の乾杯に続いて3人の若いコンパニオン登場!今年は女子が参加しなかったからなのか、皆さんの目がギラギラと輝いていたように感じました。小林眞紀子先生差し入れの洗心や、草間先生のお友達の真部一彦先生差し入れの地酒とともに、コラーゲン入りのキノコ汁や、ズワイガニをはじめとした海の幸、山の幸を楽しみました。
 ひとしきり盛り上がった後は、場所を変えてカラオケ三昧です。太田会長に「おい若いの、お前から歌え!」と、おっかない顔で言われて歌わないわけにはいきません。私、いきなりクイーンを歌わせていただきました。案の定、全員ドン引きの重苦しい雰囲気で2次会の始まりです。続いてロマンス・グレーがお似合いのダンディーな大塚先生とコンパニオンのデュエット「居酒屋」です、かっこいいぜ!。銀縁の眼鏡からキラリと光る眼差しと、丁寧に整えられた口髭が素敵な丸山先生の「新潟ブルース」もよかった!。口髭は口髭でもワイルドな草間先生はニック・ニューサの曲です。その後も次から次へと歌を披露していただき、夜は更けていくのでした。
 2日目は「翡翠園」からスタートです。紅葉した木々を背景に3つの滝、池、数多くの石を配置した優雅な回遊式庭園です。正面にコバルトブルーの70トンのヒスイ原石があり、撫でるとパワーが注入されるとのことでした。それから「谷村美術館」へ移動です。日本最高峰の木彫芸術家・澤田政廣氏の仏像「金剛王菩薩」「光明仏身像」など10点が展示されています。砂漠の中の遺跡をイメージした、建築界の巨匠・村野藤吾氏による建築物は、作品を引き立たせるために自然の光を巧みに取り入れ、影までもが計算されていて、その美しさに大変感動しました。続いて新潟県最古の酒蔵として名高い「加賀の井酒造」の見学です。承応元年(1652年)に加賀前田家の本陣が屋敷内に置かれ、その時宿泊した前田利常公が「加賀の井」の名付け親といわれています。仕込み期間中だったため、仕込蔵内部の見学はできませんでしたが、大吟醸を試飲させてもらいました。石の博物館、「フォッサマグナミュージアム」を見学した後はランチタイムです。まさかのフランス料理に小林徹先生は「キャンセルせいや!ブラック焼きそばにしよーれ!」とご立腹です。でもとっても美味しかったですよ。みんなで赤白ワイン合わせて6本、どんだけ飲むんだこの連中は……。そういえばお食事途中に居眠りの明石先生、メイン料理が運ばれてきたので声をかけたのですが、「星くん、代行呼んでくれ!」のひとことに一同大爆笑。長岡で飲んでいる夢をみていらっしゃったようです。分刻みのタイトなスケジュールのせいか、それとも飲み疲れてしまったのでしょうか、帰りのバスではお休みになっている方が多かったようです。強風で舞い上がる波の花を車窓から眺めながら、帰路に就いたのでした。
 10年前に長岡に戻ってきた時に、大貫啓三先生から会員旅行に誘われたのですが、子供が小さいことを理由にお断りしてから、毎年のように何かと理由をつけて参加を拒んできました。しかし今年はついに参加せざるを得なくなってしまいました。で、感想はというと、これがまたとっても楽しかったのですね。もっとたくさんの方が参加されることを期待して、それではまた来年!

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サンライズ出雲で神の旅?  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 先月の初旬、日本農村医学会なるのどかな学会が島根県松江で開催され、わたしも勤務先の業務のひとつで演題発表をして来ました。
 お気に入り番組「秘密の県民ショー」からの知識では、松江といえばお堀の松江城と蜆、鱸など「宍道湖七珍」のグルメでしょうか。
 近くに有名な出雲大社があり、新潟と長岡の距離くらいの感覚。

「松江で学会でね、出雲大社が近いようだけど、行ってみたい?」 「もちろんよ。ぜひ連れてってくださいな。」と家人は即答です。「一生に一回は出雲大社にもお参りしたいと思っていたんです。」

 ふーん、感心な心がけだなあ。そういえば数年前に伊勢神宮や春日大社へ参拝したときも、うれしそうな家人でした。御朱印帳を買おうか迷っていました。日頃は無宗教の夫婦ですが、伝統文化への表敬訪問で、旅先の神社仏閣によく参拝します。「そうだ、出雲に行こう!」ですな。
 日勤勤務後に新幹線で上京、東京駅から夜22時発の寝台特急。その名も「サンライズ出雲」。寝ながら翌朝に松江や出雲に到着が人気とか。実際の乗り心地は新幹線と異なり、振動と音で熟睡できなかったなあ。明け方やっと眠りに落ちたら到着駅の案内の車内アナウンス。これまで、いびきで周囲を不眠にしても、自分だけはどこでも絶対眠れる自信があったのに……、加齢のせいでしょうかな。

 自分の飛行機嫌いと日程で時間の有効利用からの選択だったが、まあこの車中泊は二度は経験しないでもいいか、が正直な感想。隣接する特別個室を夫婦で各々使用できたので部屋サイズは十分でしたけれど。なお別室での朝のシャワーは気分良かったです。
 朝到着で松江のホテルに荷物を置き、まず市内観光に出発。舟での松江城堀巡りは山陰に多い時雨に遭いました。学会開催地の松江に連泊、そこを拠点に半日空き時間を作り、家人と出雲大社に参拝しました。境内では「あれー、先生も奥様とお参りですか?」「おう、あなたがたも参拝に来たんだね。」など同僚看護師さんのグループとばったり遭遇でした。

 来年が六十年ごとの遷宮にあたり、工事中ながら、新本殿の大屋根が後ろに聳えています。出雲大社は大きな注連縄が有名ですが、偉容を誇っておりました。また簾越しに神官が雅楽を奏でるのを見聞でき、幸運でした。

 ところで陰暦の月名なんてお忘れですかね。睦月、如月と高校時代に暗記なさいました? 陰暦の十月が神無月(かんなづき)で今の十一月。これは神々が出雲に集まるので、諸国には神がいなくなる月の意味です。神の留守、また神の旅も関連の季語です。その出雲地方に限り、逆にその月名を神在月(かみありづき)と呼ぶわけです。出雲には神迎えの伝統行事もあるんです。その集まった神達は人間の男女の縁結びの組み合わせを合議するという伝承から、出雲大社は縁結びの神様とされています。たまたま時期が十一月で開催地が出雲なので、神在月を体験。……と言っても気分だけで。

−神在月の出雲大社にて  大注連を揺らせる合議神集め 蒼穹

 学会日程終了は週末で、帰りは途中下車の旅。倉敷と岡山の後楽園に寄り、新幹線乗り継ぎの帰途につきました。……出雲への神ならぬ身の旅はながーい電車の旅でした。

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