長岡市医師会たより No.405 2013.12


もくじ

 表紙絵 「暮れるフェニックス大橋」 丸岡稔(丸岡医院)
 「会員旅行記〜湯野浜温泉」 青木庸子(田宮病院)
 「防災訓練参加雑感」 荒井義彦(荒井医院)
 「忘年会の“花は咲く”」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「暮れるフェニックス大橋」 丸岡稔(丸岡医院)


会員旅行記〜湯野浜温泉  青木庸子(田宮病院)

 平成25年の会員旅行は、山形県庄内方面、湯野浜温泉一泊の旅。参加者は太田裕会長以下、明石明夫、荒井義彦、石川紀一郎、大塚武司、大貫啓三、神谷岳太郎、木村嶺子、草間昭夫、窪田久、児玉伸子、小林徹、小林眞紀子、高橋暁の各先生方と、事務局の星さん、そして初参加の青木庸子の総勢16名です。
 11月16日午後2時、バスは長岡市医師会館前を出発。11月にはまれな晴天でした。太陽の光を浴びバスは暖められ、さらに後部サロン席を中心に発生するみなさんの熱気によって、またたく間に車内の温度は上昇。冷房が入りました。波のない穏やかな日本海に日が沈み始め、夕暮れの鼠ヶ関を越えて山形県へ。賑やかな歓声に包まれて、鶴岡駅から大塚先生が乗車。とっぷりと日の落ちた中、この日の宿、むかしむかし亀が見つけた温泉の「亀や」に到着。文化10年(1813年)創業という歴史を感じさせる佇まい。早速、羽衣の湯に入り、旅の気分に浸りましたが、露天風呂にはいると、今晩の料理のいい匂いが。ゆかたと亀の紋入り羽織姿でいそいそと宴会会場へ。太田会長の乾杯のご発声で宴会が始まりました。日本海の新鮮な海の幸、おしんのふるさと庄内の野菜や牛、三元豚、山の幸。もちろんお酒。そして大貫先生、窪田先生や先生方の熱唱の数々。美声に聞き惚れました。天性の喉が美酒でさらに磨きがかけられたのでしょうか。これほどのディナーショーはなかなかないでしょう。竜宮城に来たように、時を忘れるひと時でした。夢の中にまで、児玉先生の歌声が聞こえたという先生もいらっしゃいました。明石先生の場合は未明の3時に起き出し、ジョギングをしようとされましたが、鍵がかかって出られなかったそうです。宿のセキュリティ万全。
 2日目。女性軍はまず、天女の湯へ。ゆったりとした朝食の後、最初の見学コースは加茂水族館。このクラゲ水族館には驚きました。私のクラゲに関する知識は、「お盆過ぎに海に入るとクラゲに刺されるよ」しかなく、実際こどもの頃刺された記憶があります。砂浜に打ち上げられたクラゲは半透明でだらしなく、こんにゃくよりも迷惑な物質と見え、進化の道から外れた骨もない下等な生き物だとクラゲに対して蔑みの気持ちを持っていたかもしれません。しかし、クラゲ水族館は水族館どころかまるで美術館でした。水槽いっぱいに浮遊するたくさんのものらは、これが生き物であることが不思議な気がするくらいでした。華奢で透明、細い糸を長くたなびかせているもの、きらきらと光を放つもの、七色に輝くもの、優雅なゆらめき。天上から舞い降りたもののよう。いや、ふつうは海から湧き出たものたちです……。加茂水族館は山形県唯一の水族館で、長い歴史がありますが、昭和50年以降経営は低迷、建物の老朽化が進み入館者数も激減し閉館の危機に瀕していました。ところがふしぎやふしぎ、入館者数が過去最低となった平成9年突如、水槽にクラゲが湧き出たといいます。そしてこのクラゲが閉館の危機を救い、今やクラゲ展示数ギネス認定世界一の水族館になったのです。平成20年、下村脩博士がオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質発見でノーベル化学賞を受賞すると、オワンクラゲが注目を浴び、発光するクラゲを見ようとする人たちが加茂水族館にどっと押し寄せました。来年、水族館はさらに充実して新築リニューアルされるそうで、めでたしめでたし。この水族館で、クラゲは実に美しいものに見えました。私たちがヒトとなるまでに歩んだ何億年かを、クラゲらは変わらない姿で命をつなぎ続けていたのでしょうか。変わらないでいるということは強いことだという気もしてきました。
 庄内観光物産館で、庄内蔵元の日本酒、赤かぶの漬物や、だだちゃ豆、柿、ラ・フランスを使ったお菓子類などお土産をふたつみっつ、またはどっさり買った後、次の見学先は藤沢周平記念館。鶴岡公園のなかに近代的な瀟洒な建物がありました。よく晴れた日曜日で、七五三の宮参りに荘内神社を訪れた家族連れと行き交いながら、紅葉の小道を行きました。木村先生が十何年かぶりで今回、会員旅行に参加しようと思われたのはこの藤沢周平記念館が見学コースにあったからだとか。簡潔な文体で、ひたむきに生きる人々の情感溢れる世界を描き出した作品群。私はまだいくつも読んでいなくて、これからじっくりこれらの作品を味わっていけたらと思ったことでした。
 さて旅の終わりを締めくくるのが、「アル・ケッチャーノ」。奥田政行シェフが、「食の都庄内」の食材で料理を創るイタリアンレストラン。なかなか予約がとれない有名店ですが、席数36でアットホームな作りです。「アル・ケッチャーノ」とは(こんな食材が)「そういえばあったね」という庄内弁をイタリア風にしたもの。庄内平野は鳥海山や月山から流れ込むミネラルで土壌が豊かで、たくさんの野菜が生育。その日、畑や山から採ってきた作物の素材の良さをそのまま生かした料理です。ご都合がつかず参加できなかった方のため、この日のメニューを紹介します。

*前菜 テリーヌ
 ヒラメとイワナの燻製 蒲萄とミックスハーブ(イワナの燻製を焼いたものが散らされている)
*きのこのリゾット
 しいたけ マッシュルーム 庄内米「はえぬき」
*メインの肉料理
 山伏豚 いとかぼちゃ 生ハム
*三種のパスタ
 ペペロンチーノ(小松菜と庄内豚ベーコン) クリームパスタ(庄内マッシュルームと生ハム) トマトソース(牡蠣とルッコラ)
*デザート
 クレームダンジュ チーズ風味いちごソース 山形ぶどうのシャーベット
*赤、白ワイン コーヒー お茶

 紙面では美味しさは伝わりませんが、実はあまりの美味と心地よさでデザートの前に眠りこんだ先生もいらっしゃったほどです。なごやかなひとときでした。この美味しさと心地よさは食材のよさとシェフの腕ばかりでなく、先生方のお人柄が醸し出す雰囲気によるところも大きかったのでしょう。
 1泊2日の旅。とても楽しい時を過ごすことができました。私は今年1月より田宮病院に勤め始め、長岡市医師会に入会させていただきました。春のJOY会に初参加しましたら、療育園の志倉佳子先生にお会いしました。その時初めてお会いしたのですが、すっかり意気投合し、小林眞紀子先生から会員旅行のお誘いを受けましたので、志倉先生といっしょに参加することにいたしました。JOY会の二次会では話しきれなかったので、ゆっくり温泉に浸かりながらおしゃべりするつもりで楽しみにしていたのです。ところが、志倉先生は8月に突然、旅立たれたのです。会員旅行は、志倉先生は参加されず、旧知の先生も間際に参加できなくなったりなどして、実のところ不安な気持ちで出かけました。しかし、帰路は思いがけないほど穏やかで豊かな気持ちになって帰ってきました。思っていた以上に鶴岡観光が充実していましたし、参加された先生方のお人柄にふれ、長岡高校時代の思い出話などができたのもよかったです。郷里に戻って仕事を続けられる幸せを感じました。事務局の星さんにも準備や細かいお心遣いをしていただき、お世話になりました。楽しい旅をどうもありがとうございました。

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防災訓練参加雑感  荒井義彦(荒井医院)

 去る平成25年9月29日、栃尾地区の防災訓練に参加いたしました。当日は快晴。まさに訓練日和です。実はこの日は他の誘いもありましたが、そちらに未練を残しながらの参加でした。会場は栃尾の刈谷田中学校をメイン会場としその周辺で、当日は地理に不案内のこともあり少し早めに乗り込みました。会場付近は物々しく検問しており参加証をみせ無事通過、目指す指定駐車場につきました。そこから中学校玄関で受付をし、8時45分の開会式まではなにも予定がないので、会場をひとしきり見学したところ、自衛隊車輛、NTT車輛等も来ており、かなり大がかりな訓練であることを実感しました。また開会式会場の体育館の外では長岡市社会福祉協議会の方々が、非常食炊き出し訓練の一環として大鍋でお湯を沸かしておりました。また体育館内では日赤等参加団体の展示ブースができており、過去の災害時の活動状況を紹介していました。そうこうしているうちに8時45分になり、長岡市副市長の開会宣言、担当者からこの地区選出の市議会議員等来賓の紹介、その後訓練内容の説明があり、各種訓練に入りました。民間の訓練参加は刈谷田中学校区の九町内会の住民が主体の簡易トイレ組立、三角布を使用した応急処置、毛布使用で簡易担架をつくっての患者搬送訓練を行っておりました。内容は各コミニティセンターで行われる町内会の自主防災会で実施している訓練と、ほぼ同じものでした。そうこうしているうちに、グランドにエアーテントが設営され、中には簡易ベッドが6脚設置されておりました。この時点でもこれから始まる訓練内容についての打ち合わせは全くなく、救急隊の方に聞いてもはっきりした返答はありません。先日の市職員のおいて行った資料では我々医師会会員は、全31項目ある訓練のうちの、6番目の避難所及び救護所開設運用訓練と、8番目の土砂災害現場における救出救護及び搬送訓練の参加医療機関に名前が載っていたのですが、搬送されてきた模擬患者4名のうち3名は、外傷部位の記載されたゼッケンを胸に付けており意識、バイタルサインは問題なく応急処置が施行されており、すぐに何かする必要ない症例と判断されました。またその後、搬送されてきた1名はトリアージがなされており、もちろんルート確保酸素投与もされた状態での搬送であり、最重症と判断され後方病院に緊急搬送が必要の症例でした。ここでは救急搬送を待つ間寝かせておくだけで、結局大したことをしたわけでもなく、緊張感を感じないまま終ってしまいました。同訓練に参加された栃尾郷診療所の小島秀男院長、樋口醫院の樋口英嗣先生も多分同じような感慨をもったことと思います。実は当日朝、会場に医師会の事務の星さんも来ており、さっそくこの原稿執筆を依頼されました。資料として数年前に参加された医師会の先生方の体験記が同封されており、読んだところ、今回の訓練とかなり趣が違い、緊張感が随所に感じとられ実践的であったようでした。今振りかえって考えると会場内アナウンスで各々の参加医療機関を紹介され、この地区選出の市会議員も全員見学にきており、また防災関係のヘリコプターが3機も飛来したことからも、デモンストレーションを主体とした政治的なものと感じました。次回参加される先生には事前の状況設定をはっきりさせ、具体的にトリアージや処置をするのか、それを誰が指示するのかまで、参加者間で打ち合わせをしっかりしておくことが必要でしょう。
 医師会の震災時初動マニュアルは、現在改訂中ですが、緊急時には自分の診療所での患者対応を考えているとのことです。これを栃尾地区にあてはめて考えるといろいろ課題が見えてきました。まず栃尾地区のほとんどの先生方は、地区外からの通勤です。緊急事態が夜間や夜中の場合は、自分の診療所に向かう交通手段を考えねばなりません。DMATが24時間以内に展開するのでしょうが、全てをまかせてよいとは思いません。自分のお世話になっている地域ですので先頭に立つ気持ちで、できるだけ協力はしたいものです。その場合、特に外傷患者に対してのシーネや切開、縫合の機材等は内科系の診療所にはありません。栃尾郷診療所の設備、備品を使用する前提で考えていく必要がありそうです。また緊急時のリーダーシップをとる人、その次の人も含めてある程度非常時の体制を決めておくことは、必要ではないでしょうか。そのため栃尾郷診療所と災害時の協定を結ぶことも、考えております。
 中越地震時、川口の温泉施設に2日間閉じ込められました。この時の体験から48時間は、自力でなんとかしなければならないと肝に銘じ、以後車の中にはペットボトルの水と懐中電灯、寝袋を常備しております。実際役に立つ日の来ないことを祈りながら。以上いろいろと考えさせられた訓練でした。

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忘年会の「花は咲く」  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「あれ、めずらしいね。楽譜なんか見てるのね。」と家人。
「うーん。なんか、みんなで歌うことになってさ。知ってる?『花は咲く』って歌なんだけど。」
「有名じゃん。あの大震災の復興応援ソングとかって……。」
 やっぱり有名なんだった。……この勤務先の大忘年会の余興を企画し、参加に勧誘してくれた同僚のT医師もそう言ったんです。
「ああユーミンとかが交替で歌うやつね。」よく知らなかったけれど、曖昧な記憶をたどる。即座にT先生は首を横に振りました。
「えっ、ユーミンは出ませんけど。ネットで動画が見られるのでチエックお願いします。」
「オッケーです。」と生返事して帰宅したのでした。

 家人もそう言うくらいだからね、どれどれ。PCを起ち上げ、ネット検索。西田敏行の顔のアップのオリジナル版がヒットです。中村雅俊が歌い始める。なるほどーなるほどー。この歌ね、たしかに聞いた記憶はある。とくにサビの部分。花は咲くのリフレインですな。他は全然なじみのないメロディーでした。まあ楽譜とあわせて練習開始としますか。その前にネット検索しておく課題がもうひとつ。ユーミンの出るやつもあったはずだがなあ?……ありました。ありました。ああ、こっちのは「春よ来い」でしたな。これと勘違いしかけたのでした。

 さてその合唱曲ですが、ソロで歌うパート(2番の「わたしはなつかしいあの日々を思い出す」)を実際はソロもどきで、ふたりで歌の分担。同僚のM医師とユニゾンで歌えばよいのです。「ステージで歌うのは20年ぶりだね。」とふたりで苦笑。じつは大きな声では言えませんが……ここだけの話ですが……わたしたちは新潟大学時代には医学部男性合唱団だったのです。ただしふたりとも声域がバスなのでめったに合唱曲のメロディー部分を歌うことなぞなく、もっぱら低音和音を担当したのでした。外部のひとには説明が面倒で「前川清のバックのクールファイブみたい、ワワワワーなのさ。」と言っておりましたが。

 本番の忘年会は数日後。翌朝出勤前にネットの画面を見ながら、歌の練習を始めました。そこへ家事の合間に家人がわたしの担当の歌い始めの直前部分を歌ってその箇所のつなぎを練習してくれました。女性ソロから男性ソロのオクターブ違い。
 病院では午後から新潟出張でしたが、なんとか昼休みにM医師と数分音合わせできました。
「G先生、これでばっちりですよ。」
「この低く歌う音階でいいんだね。」
 よかったよかった。やはり持つべき者は友と妻ですね。その翌日の夕方の全体の予行演習でも、自分たちのパートはなんとか合わせられました。
 Nホテルでの500名を越える参加者の恒例の大忘年会。余興の部に入り5番目のステージでした。リーダーのT先生のソロに始まる産科、小児科の医師、研修医と看護師ら総勢25名の混声合唱。全員でシンボルのガーベラの花を胸元に掲げて、東日本大震災復興応援歌「花は咲く」を真心をこめて歌いました。

 その前後は別のグループによる賑やかな仮装での歌や踊り。歌唱後の黙祷で終わったこの合唱は、忘年会に異色の演目。なにかを伝えられたらさいわいなのでしたが。
 ちなみに余興部門の最優秀組に金一封が贈られます。これは例年通りに若い研修医グループがゲットして、残念ながらわたしたちに花は咲きませんでした。

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