長岡市医師会たより No.408 2014.3


もくじ

 表紙絵 「ニンフェンブルク宮殿」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「土浦市医師会との交流」 会長 太田裕(太田こどもクリニック)
 「平和の勇士〜マンデラ元南ア大統領とやなせたかし蓋棺録」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「第6回中越臨床研修医研究会講演録
 「巻末エッセイ〜春の風に吹かれて」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「ニンフェンブルク宮殿」 木村清治(いまい皮膚科医院)


土浦市医師会との交流  会長 太田 裕(太田こどもクリニック)

 昨年5月土浦市医師会の川島会長、小原、宮崎両副会長、事務長の4名の訪問を受けました。そして今年の2月1日長岡市医師会より私をはじめ、大塚、長尾両副会長、小林徹理事、草間理事そして星総務の総勢6名で土浦市医師会を訪れました。この交流が始められたきっかけは3・11の東日本大震災に遡ります。震災後、新潟県医師会は被災された各県の医師会に対して義援金を送ることとなりました。当時、日本医師会会長が茨城県出身の原中氏だったこともあってか、茨城県医師会に対し義援金を直接持参し、水戸市で懇談を行いました。その会合の挨拶の中で私も発言し、長岡市医師会がとった対応について説明を申しあげました。その内容は長岡市医師会の会員の皆様に義援金をお願いしたところ実に1,000万円を超える義援金が集まり、被災された全ての郡市医師会、検死で苦労された法医学教室に対して、総額1,300万円に上る義援金を送ったことをお話ししました。私の隣に土浦市医師会の川島先生がお座りになり色々と話をさせていただきました。その後だいぶ経ってから土浦の川島先生より長岡市医師会に電話があり、医師会同士の交流を行いたいとの申し出がありました。東日本大震災が結んだ不思議な縁ではありますが、被災された皆様に対する長岡市医師会会員の思いを受けとめ、我々医師会と交流を持ってみたいとの考えに至ったのではないかと思われます。私も最初は少し戸惑いましたが長岡市がフォートワースやホノルルと姉妹都市の関係にあるように、医師会も姉妹医師会があっても良いのではないかと思うようになりました。
 昨年の5月土浦市医師会の訪問を受け、お互いの医師会の現状や問題などの意見交換を行いました。主な内容は中越地震の時の当医師会の対応、土浦医師会では准看学校を経営しているため、長岡市医師会の運営していた准看護学校の廃止に至る経緯、長岡の救急医療体制、新しい取り組みのABC検診などについてでした。その後、山本五十六記念館、河井継之助記念館を訪れ長岡の幕末から昭和に至る歴史の探索をしていただきました。
 偶然というか不思議な縁で2つの医師会が繋がりましたが、土浦と長岡には多くの共通項があります。一番は花火です。土浦市も日本三大花火の一つです。土浦で花火が打ち上げられるようになったきっかけは、予科練で亡くなられた人への鎮魂の花火でした。そしてこの花火を長岡の花火師が打ち上げたとの事です。この経緯を長岡の郷土史家である稲川明雄さんから伺いました。次には山本五十六です。土浦には予科練を初め海軍の施設が多くありました。五十六も足繁く土浦へ通ったようです。現在長岡市内の公園に五十六の半身像がありますが。全身像は土浦にあり終戦の時に上下に分けられ、上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身は行方不明でした。ところが最近、銅像のすぐ傍の地中に埋められている事がわかり掘り出されましたが、再び地中に埋められたとの事でした。
 土浦を訪れ最初に案内されたのは、戦災にも合わず当時の面影を残す由緒ある料亭、霞月楼でした。玄関に入ると脇の一室に、吉田茂、リンドバーグ夫妻をはじめ著名な方々の写真が展示されており、特に山本五十六元帥の写真が真ん中に大きく張られていました。またドイツのツェッペリン伯号が土浦に飛来し、その時の歓迎の様子も伺われました。案内された部屋は当時と変わっていないとのことで、この場所で五十六をはじめ多くの歴史に残る人々が談笑したのかと思うと感慨深いものがありました。また初期の頃の特攻隊員の寄せ書きの襖が保存されており、そこには悲壮感など微塵も感じさせない、自由闊達な青年の姿が映し出されていました。翌日、新しくできた予科練平和記念館を訪れました。土門拳の撮った写真が大きく展示され、その訓練の厳しさが伝わってきました。そして他の展示場では戦争の経緯と市民生活の変化が示され、戦局の悪化とともにその戦術も変わり、特攻へと向かって行った様子が窺われました。最後に案内された部屋は、真っ暗な部屋で2万数千の光陰が差しこみ、そのひとつひとつが「後は頼む」と云って散っていった精霊の魂との事でした。戦争の実態と悲惨さについて改めて考えさせられました。
 今回私たちが土浦市医師会を訪れるにあたり、姉妹医師会の一環として災害時の協定を結ぶ事となりました。これは災害時に相互に協力し合う体制を作るという内容です。今後いろんな面で協力し合い、友好を深めていこうと思います。不思議な縁の出会いですが、その縁を大切にしていきたいと考えています。皆さまのご理解宜しくお願いいたします。

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平和の勇士〜マンデラ元南ア大統領とやなせたかし蓋棺録  福本一朗(長岡技術科学大学)

 2013年は二人の“不戦の勇士”が天国に召された。一人は6800万部の大人気“正義のヒーロー”アンパンマンを生み出した漫画家詩人やなせたかし氏(1919.2.6〜2013.10.13)であり、もう一人は地球の裏側南アフリカのマンデラ元大統領(1918.7.18〜2013.12.5)である。
 やなせたかし(柳瀬嵩)氏は、1919年2月6日に東京都北区に生まれた。父方の実家は高知県香美市にある伊勢平氏の末裔で300年続く旧家であった。1924年に東京朝日新聞社記者であった父親がアモイで客死したため、遺された家族は父親の縁故を頼りに高知市に移住する。弟は南国市で開業医を営んでいた伯父に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも同じく伯父に引き取られて育てられる。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学した。卒業後、田辺製薬宣伝部に就職するが、1941年に徴兵されて、野戦重砲兵として日中戦争に出征する。乙種幹部候補生に合格し、主に暗号の解読に携わった。また宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。最終階級は陸軍軍曹。従軍中は戦闘のない地域にいたため一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。なお第二次世界大戦では弟が戦死している。終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、漫画家を目指して1947年上京、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。1953年3月に三越を退職し専業漫画家となる。1969年に発表したアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表。飢えた人に自分の顔を食べさせるという設定は子供には受けいれられないとして、当初は評論家や保護者・教育関係者からバッシングを受けた。子供向けに書いた作品だったが、幼児層に絶大な人気を誇るようになっていった。1988年(昭和63年)には、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』として日本テレビで放映される。東日本大震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソングとなり、笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻したため、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作し、奇跡の一本松をテーマにしたCDを自主制作するなど被災地復興に尽力した。
 バイキンマンやドキンちゃんのような“悪者”をも、その存在を頭から否定することなく仲間として受け容れるアンパンマンの優しさは、やなせたかし氏の悲惨な戦争体験と飢餓体験から生まれた。「太平洋戦争は正義の戦争と信じていたが、実は自分たちが侵略者としてアジアの人々を迫害していたことに気がついた。戦争に絶対正義はない。正義を行う人は自らも傷つく覚悟がなければならない」「本当の正義はミサイルを発射することでなく、飢えた人に食べ物を与えること、みんなが空腹でないことだ。」

 マンデラ元大統領は、1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォート・ヘア大学で学ぶ。在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。1952年8月にフォート・ヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共にヨハネスブルグにて弁護士事務所を開業する。同年の12月にANC副議長就任。1961年11月ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監される。1982年ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。マンデラはこの時期に結核を初めとする呼吸器疾患になり、また石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた。収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。27年間に及ぶ獄中生活の後1990年に釈放される。翌1991年にア1フリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退したが、2007年マンデラ大統領の呼びかけで、世界の紛争解決のために結成された“エルダーズ Elders”は、カーター元大統領やアハティ元フィンランド大統領など各国の元首経験者12名で結成され、その合計年齢は千年に及び、“千年の智彗”と称される。これまでシリア紛争や北朝鮮問題など紛争当事国の首長に直接談判することで世界平和に貢献してきた。それはマンデラ大統領の「たとえ敵でも戦わずに対話することよって味方になる」との絶対平和主義に基づくものである。
 「お・も・て・な・し♪」「いまでしょ!!」「じぇじぇじぇ!!」とともに2013年度の流行語大賞となった最近のテレビドラマ「半沢直樹」の台詞「倍返しだ!!」は、“自分に悪を為すものに対して、やられたら徹底的にやり返す報復”という意味に取られているようである。しかし原作の池井戸潤「オレたち花のバブル組」文春文庫2010には、「基本は性善説。しかし、やられたら倍返し……それが半沢直樹流儀だ。P137」とあるのみで、実際には半沢直樹は相手を完膚なきまでに叩き伏せず、最後のとどめを刺すことを控えている。大体「倍返し」とは、お礼をするのが日本文化におけるマナーと考えられており「祝儀は【倍返し】」とか「お賽銭が二倍になって戻ってくる【倍返し神社】」と言うように良い意味で使われてきたはずである。また民法557条でも「倍返し」は規定されているが、そこには「買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解除をすることができる」とあって、決して報復・懲罰の意味などはない。さらに刑法36条1項における正当防衛は、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為をいい、罰せられない。ある行為が正当防衛とされるためには、その反撃行為が権利を防衛するために必要かつ相当な程度で行われなくてはならない。これは刑法の「やむを得ずにした行為」という文言の解釈から導かれた要件で、「必要性と相当性の要件」といわれる。この必要性と相当性から逸脱した、行き過ぎた防衛行為は過剰防衛といわれる。過剰防衛は正当防衛の場合と違って、刑を軽減したり免除したりすることは出来る(刑法36条2項)が、犯罪の成立は否定されない。つまり刑法上は「倍返し」は許されていないのである。
 報復は新たな報復を生み、戦いは停まることを知らない。人類が共存しえたのは、ひとえに「愛」と「許し」あればこそである。「我らに罪を犯すものを我らが許す如く、我らの罪をも許したまえ(主の祈り)」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ福音書5:44)」
 そして“不戦の誓い”こそが人類が地上で生き続けるための必要条件であることを意味していることを、やなせたかし氏とマンデラ大統領は、二人ともその類い希な熱意と忍耐をもって我々に教えてくれたといえよう。

「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。(イザヤ書2:4)」

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文第二段)」

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第6回中越臨床研修医研究会

 「長期透析患者に発症した急性腹症の一例」 藤田 恵(立川綜合病院)

 症例は69歳男性。昭和48年7月、血液透析導入となり、以後40年間維持透析されていた。平成10年頃より血圧は常時100mmHg以下と低めであった。平成24年某日、透析終了直前に腹痛を自覚、帰宅後も改善しないため当院救急外来を受診、入院した。入院時、体温36.2℃、血圧86/58mmHg、右腹部を中心に圧痛、軽度の筋性防御を認めた。血液検査ではWBC6500/ml、CRP1.71mg/dlと軽度上昇。腹部造影CTでは回腸終末に造影剤の取り込み不良と周囲脂肪織の濃度上昇を認め、小腸虚血が疑われた。禁食とし、補液と抗生剤を開始したが発熱、腹痛に改善は見られなかった。第4病日、透析後に腹痛の増悪あり、腹部造影CTで回腸終末に壁内気腫を認めた。壊死および穿孔が疑われたため、緊急手術となった。腸管の主幹血管に閉塞を認めなかったが、終末回腸には回盲部から約50cmにわたって島状の壊死が散在していた(写真)。術後診断は非閉塞性腸管虚血症(non-occlusive mesenteric ischemia:NOMI)であった。壊死部の病理組織では、正常腸管粘膜の完全脱落・欠損および粘膜下層の出血を認め、NOMIに矛盾しない所見であった。術後、創部およびストーマの離開や褥瘡を合併し治療に難渋したが、一時は経口摂取が可能なまでに回復した。しかし、術後3ヶ月頃、肺炎を合併し永眠された。本症例では血圧の低下、動脈硬化および透析後の循環血液量減少がNOMIの発症要因と考えられた。NOMIは予後不良な疾患であり、透析患者においては発症危険因子を有していることが多く、特に注意が必要である。

 「当院における肥満関連腎症の予後」 中野応央樹(長岡中央綜合病院)

 近年、肥満自体が慢性腎臓病(CKD)の危険因子と注目され、肥満関連腎症(ORG:Obesity-Related Glomerulopathy)とされている。ORGは、高血圧による腎硬化症や糖尿病性腎症を除外し、腎生検で糸球体肥大と巣状分節性糸球体硬化病変を認めることで診断される。一般にORGは腎機能の低下の他、心血管イベントや脳血管障害が生じやすいとされる。我々は、経皮的腎生検を行い、ORGと診断に至った症例に対し、腎機能などの経時的評価に加えて体重や食事などの経過についても評価した。
 1994年1月1日から2013年4月30日までの間に、(1)光学顕微鏡上、全糸球体の半数以上に肥大が認められ、(2)組織学的に糖尿病性腎症や他の慢性糸球体腎炎が否定的で、(3)観察期間中BMI25kg/m2以上であった症例を後ろ向きに検討した。
 記録点を、(1)腎生検前(2)1年後(3)2−3年後(4)4−7年後(5)8−12年後とし、変数を、(1)BMI(2)血圧(3)血清クレアチニン(Cre)(4)eGFR(5)Ccr(6)尿から推定した食塩・蛋白摂取量として検討した。腎生検前の例数は、男性20名、女性8名であり、観察期間の平均は64.6ヶ月、最大143ヶ月、最小0ヶ月、中央値60.5ヶ月であった。
 観察期間中の変数の平均を経時的に見ると、全体としてBMIは28kg/m2前後、収縮期血圧は140mmHg程度と高めだった。Creは0.9mg/dlから1.4mg/dlと微増、一日あたり尿中蛋白質は0.7gから1.0gと軽度増加傾向であった。24hrCcrは変化なかったが、eGFRは10年間の観察で約15ml/min低下し、有意差をもって低下した。推定食塩摂取量と蛋白摂取量は生活指導にも関わらず、それぞれ一日あたり15g以上、80g程度と過剰摂取傾向であった。この傾向は、男女とも同様に認められた。なお、経過中に心血管関連死、腎不全死、脳卒中死に至った例は認められなかった。
 本研究から、ORG患者は通常よりeGFR低下が早く進行する可能性があること、また生活指導に関わらず食塩や蛋白質を含め食物を過剰摂取していることが推測された。食塩の過剰摂取や蛋白質の過剰摂取が腎機能にどの程度影響するか、今後の研究が待たれる。

 「脳梗塞を合併した側頭動脈炎の一例」 高村紗由里(長岡赤十字病院)

 側頭動脈炎は頭頸部の中〜大動脈に生じる巨細胞性の肉芽腫性血管炎である。頭痛、視力障害などを来たし、初期治療が遅れると、失明に至ることもある疾患である。一般的に予後は良好だが、脳梗塞合併例では致死的となり得る。初期臨床研修中に脳梗塞を合併した側頭動脈炎の一例を経験した。症例は71歳男性。両側側頭部から後頭部の頭痛と視野障害で神経内科に入院した。血液検査で炎症所見があり、小脳と両側後頭葉に多発する脳梗塞を認めた。左側頭部に痛みを伴う肥厚性の結節があり、生検で巨細胞性血管炎を認め、側頭動脈炎と診断した。MRAでは頭蓋内の主幹動脈の描出は良好であったが、左椎骨動脈は閉塞しており、血管造影CTで両側椎骨動脈の動脈壁に造影効果の増強を認めた。側頭動脈炎に伴う椎骨動脈の血管炎により、血管が閉塞し、後方循環領域に多発脳梗塞を来したと考えられた。プレドニンの経口投与で、すみやかに頭痛と炎症所見は改善し、造影CT上も動脈壁の造影効果は消失した。側頭動脈炎は、3%〜7%に脳梗塞を合併する。危険因子は、男性、喫煙、高血圧であり、椎骨脳底動脈系の梗塞が多く、内頸動脈系の脳梗塞は稀と言われている。責任血管は頭蓋外の血管であることが多い。また側頭動脈炎による急性期死亡の50%は脳幹部梗塞との報告がある。本症例は、側頭動脈炎により椎骨脳底動脈系の脳梗塞をきたし、閉塞血管は頭蓋外の血管である左椎骨動脈であった。男性、喫煙歴、高血圧などの危険因子を有していることも既報と一致した。また側頭動脈炎の血管炎像を造影CT画像で初めて捉えることができた貴重な症例であった。

 「急性期および慢性期の心室性不整脈の治療に苦慮した劇症型心筋炎の一例」 風間絵里菜(長岡中央綜合病院)

 症例は47歳男性。H24年11月に感冒様症状を認め、近医で内服治療を受けたが呼吸苦が増悪し、2日後に同院を再受診した。心電図でU、V、aVF、V5、V6のST上昇(2−5mm)およびV1〜V3でQ波と、心エコーで下壁中心の壁運動低下を認め、急性心筋炎が疑われ当院に救急搬送された。心臓カテーテル検査で冠動脈に有意狭窄はなかったが、左室造影で下壁を中心にびまん性壁運動低下(EF=23%)を認め、心筋生検を施行した。当初、心係数(C.I)は3.0l/min/m2で大動脈バルーンパンピング(IABP)を挿入したが、その後急激にC.Iが低下し、第2病日に経皮的心肺補助法(PCPS)を挿入し、昇圧剤も併用し全身管理を行ったが、血圧低下が遷延し、心機能はさらに増悪した(EF=7〜15%、C.I=0.5〜0.7)。持続性心室頻拍(VT)も頻発し循環動態の維持が困難であったため、電気的除細動と、V群抗不整脈薬を併用した。はじめに血圧が低いため塩酸ニフェカラント点滴投与を開始したが、非持続性心室頻拍(NSVT)がかえって増加したため、中止した。病理診断で、好酸球性心筋炎が確定し、第6病日よりステロイドパルス療法に引き続いてステロイドの点滴を行った。一旦は血圧の改善と心機能の回復傾向が見られた(EF=30%、C.I1.5)。しかし一方で2日後よりNSVTが再び増加したため、アミオダロン点滴を行ったところ、VTの頻度は減少した。第15病日にPCPS、第17病日にIABPから離脱できたが、アミオダロンの点滴を中止するとNSVTが増加したため、アミオダロンの経口投与を継続している。慢性期心電図では、肢誘導でlowvoltage、T〜V、aVF、V5、V6で陰性T波、U、aVFでsmallq、V1〜V2でQSパターンが見られるが、急性期に比べて改善しており、QT延長は認めなかった。心エコーおよび心臓カテーテル検査を再度行ったところ、他の部位の壁運動は回復したものの、下壁から後壁の一部で菲薄化・瘤様変化と壁運動低下を認めた。ICDの適応と考えられたが、本人が植え込みについては拒否しており、抗不整脈薬内服で外来管理を行っている。
 劇症化した好酸球性心筋炎に合併した心室性不整脈の治療に苦慮した一例を経験した。劇症型心筋炎では、病型に合わせた全身管理に加え、急性期および慢性期の不整脈管理が重要な症例があると考えられた。

 「当院におけるB型肝炎患者に対するエンテカビルの有用性と問題点」 五十嵐秀人(立川綜合病院)

【はじめに】核酸アナログ製剤は、血清中のHBVウイルス量を減少させることにより、B型慢性肝炎の炎症沈静化はもちろん、肝硬変においても肝予備能の改善、最近では再活性化予防に対しても広く有用とされている。とくに、エンテカビルは、その安全性から一般病院での導入も年々増えている。
【目的】当院でエンテカビルを投与した症例について安全性と効果、問題点について検討した。
【方法】2006年12月から2012年8月まで、当院でエンテカビルを投与した28例(男17例、女11例)の臨床的背景と副作用、血中HBVDNA量の変化と陰性化率、さらに各種の検査値の変動について検討した。
【結果】臨床背景は、平均年齢54.9才。慢性肝炎17例、肝硬変11例(ChildA23例、B4例、C1例)。平均投与期間は27.6ヶ月(6〜60ヶ月)。抗HBe抗体は陽性19例、陰性8例であった。投与後の血清HBVDNA陰性化率は、1ヶ月後7例(25%)、6ヶ月後14例(50%)、1年後以上25例(89.2%)例であった。また、ALTの正常化率は、1ヶ月後20例、6ヶ月後で26例(92%)、1年後以上で28例(100%)であった。投与前後の各種検査値は、投与前が、ALT78.6±74.0IU/l、Alb3.86±0.6IU/l、血小板13.6±4.7万/μlに対して、投与後は、ALT22.5±14.0IU/l、Alb4.03±0.5IU/l、血小板16.0±7.8万/μlであった。全経過中において、新規の肝細胞癌は1例もなく再発例もなかった。投与中のbreakthrough肝炎も認めなかった。副作用出現例は、28例中6例(21.4%))で、いずれも軽度であり副作用による投与脱落例は認められなかった。
【結論】核酸アナログの安全性と有用性が当院でも確認出来た。特に、投与中における問題点はなかったが、導入のきっかけは、紹介例が少なく自己判断での受診例が多い点は問題と思われた。今後は、HBVキャリア患者を積極的に専門医へ紹介していただくための啓蒙が重要と思われた。

 「薬物治療が奏功せず外科手術を要した腸間膜脂肪織炎の一例」 阿彦友佳(長岡中央綜合病院)

 腸間膜脂肪織炎は原因不明の非特異的炎症性疾患である。ステロイドなどの薬物治療が有効との報告もあるが確立した治療法はない。今回我々は外科手術を要した一例を経験したため報告する。症例は66歳男性。下痢、腹痛を主訴に入院し、腹部CTにて左側結腸から直腸に著明な壁肥厚と腸間膜脂肪織の濃度上昇を認め、CFでは同部位に浮腫状粘膜を認めた。腸間膜脂肪織炎を疑い抗生剤やステロイドを投与するも改善を認めず、入院39日目の注腸では腸管の高度狭窄と不整鋸歯像を認めた。外科手術の適応と判断し、入院65日目に手術を施行した。術中所見で横行結腸の肝彎曲から直腸S状部までの間膜が高度に炎症性に肥厚・硬化し、下行結腸からS状結腸は壁肥厚と狭窄が著明であった。通過障害による口側結腸の拡張を認めたが悪性所見は認めず、左側結腸切除、横行結腸直腸吻合を行った。腸間膜の病理所見では腸間膜の脂肪変性、線維化、脂肪細胞を貪食する組織球を多数認め、脂肪織炎の所見であった。術後は胃排出遅延と急性胆嚢炎を発症したが、いずれも保存的に軽快し、術後45病日に退院した。その後再発なく経過している。
 腸間膜脂肪織炎は本邦でこれまでに約120例の報告がある。発症年齢は4〜83歳(平均52歳)、男女比は7:3であった。発症部位は大腸が約6割、小腸が約4割を占め、S状結腸に最も多く発症していた。保存的治療が第一選択であるが、再発例、腸閉塞例、悪性腫瘍との鑑別が困難な例では手術適応となる。過去の報告では約6割の症例で病変を摘出されていた。本症例は薬物治療で改善せず腸管の高度狭窄を認めた症例であり、適切な外科的治療を行うことが出来たと考える。

 「右肩痛を主訴に受診した野球少年の第一肋骨骨折の一例」 坂井知倫(長岡赤十字病院)

【症例】15歳男性、野球部員【主訴】右肩痛、右腕が上がらない
【現病歴】20]]年10月、野球の試合中に特に誘引なく右肩に痛みを自覚し、右腕を上げられなくなった。試合終了後も改善がなく、当院救急外来を受診した。【身体所見】肩甲骨内側に響く叩打痛と鎖骨下の圧痛、呼吸困難感があった。鎖骨や肩関節には自発痛や圧痛はなく、上肢の知覚障害などもなかった。
【検査所見】胸部レントゲン写真で右第一肋骨に骨折線をみとめた。(図1.の白矢印)
【考察】第一肋骨の骨折は稀であり、その過半数が疲労骨折であると言われている。10〜20代のスポーツ選手に好発する。解剖学的に、第一肋骨は短く急激に弯曲し、幅広で平坦な形態で、また鎖骨下動脈溝という厚みが薄い解剖学的脆弱部位がある。同部位を挟んで内側に前斜角筋、外側に中斜角筋が、その他に内肋間筋と前鋸筋という筋群が付着している。野球やラケット競技のスイング動作やサッカーのヘディング動作といった、肩甲帯を引き上げたり頸部を回旋して肩甲帯を引き付ける動作を行うと、これらの筋群の収縮により鎖骨下動脈溝に剪断力が生じる。この力が繰り返しかかることでストレスが集中し、同部位に疲労骨折が好発すると考えられている。本邦では野球、柔道、バレーボール、テニスなどで報告されることが多く、野球が最多との報告もあった。肩甲骨周囲の局在不明瞭な鈍痛を訴え、また鎖骨上窩の圧痛がほぼ全例で認められるとの報告がある。その他に外転時の肩関節痛、上肢への放散痛、知覚異常、呼吸苦などがあり、気胸や肺塞栓症、肩関節のスポーツ障害などが鑑別に挙がる。
【まとめ】10代の野球部員の部活動中に発症した第一肋骨疲労骨折を経験した。10〜20歳代のスポーツ選手の呼吸苦、肩甲骨・鎖骨周囲の疼痛をみた場合、本疾患を鑑別に挙げる必要がある。

編集部注)当日発表されました清野あずさ先生(長岡赤十字病院)の発表演題「カルシウム感知受容体に対する自己抗体を検出し得た後天性低Ca尿性高Ca血症の一例」は、学会誌等に掲載不可のもののため、掲載しておりません。

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春の風に吹かれて  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「風に吹かれて」の原曲は米国のボブ・ディラン。むしろパフ(魔法の竜)……うーん、懐かしい……のヒット曲で有名なPPM(ピーター・ポール&マリーの三人組男女)で人気が出ました。年代の反60権力の主張のある歌の代表です。当時は日本ではこのジャンルをフォークソングと呼んでいました。ところで個性派俳優となった泉谷しげるが昨年のNHK紅白で歌ったのが、その頃の曲「春夏秋冬」。柄の悪いおっさんですが、虐待防止、東日本大震災援助などに積極活動しその姿勢は一貫していて偉いもんです。

 あまり懐旧蘊蓄の脇道に逸れないうちに、今回の話題にもどります。今朝の地元紙N日報に「『赤ひげ先生』の姿浮かぶ」と岸裕先生を偲ぶ投稿記事が掲載されていました。この二月に奥様が岸先生の遺稿エッセイ集(楽しい写真、絵など配してすてきな編集)を出版されました。その本の題名が「風に吹かれて」。本誌に掲載の同名エッセイが収録されていてそこからの命名でしょう。この本をきっかけに敬愛した岸先生を偲んだ地域の方からの投稿でした。

「G先生、おはようございます。岸先生のこと日報に載ってますよ。」

 休日勤務でしたが、コーヒーを飲みに寄った医局ラウンジで顔を合わせたS医師が新聞を見せてくれます。

「おっ本当だね。こんなふうに亡くなってからも患者さんに慕われる医者はぼくらの人生の目標ですね。」

「たしか葬式直後にも惜しむ投稿ありましたよね。ぼくは医局の先輩ですが、世代的に直接の面識はないんですが。」と消化器内科のS先生。

「ぼくは例の医師会報でご一緒だったのでよく飲み会もあり、なんとかお通夜や葬儀にも出られたんです。ここに出てくる遺稿集の本も奥様がお送りくださったんですよ。」

 岸裕先生はここ数年は自身でしんどいがん闘病生活をしながら、医院での診療をお続けだったのでした。わたしは手術後は会合で会食もなさり、快復順調だったと思い込んでおりましたが。昨年十一月初霙の降るある朝に故人となられました。

 開業される前にわたしの勤務するC病院で消化器内科の専門医として勤務され一緒の数年間を医局で過心者同士でした。医局のコンペの前日に付け焼き刃練習に宮内のMゴルフ練習場に夕方ゆくと、よく長身の岸先生の笑顔がありました。とくに手術後お痩せでしたが、腕も長いのでドライバーをモーメント大きく振られ、お元気な日々でした。

 平成8年には長岡の十日町……無医村もとい無医町だった……に念願の内科医院を開業されました。なんでも家代々のご出身地で近隣の摂田屋の有名醤油屋は姻戚関係と語っておられました。今日の投稿記事によると、先生の祖父は古志郡十日町の大地主で村長として村民に尊敬され親しまれていたとのこと。岸先生の医師としての地域への貢献も一種のその血筋に伴うノブレス・オブリージュでもあったのでしょうね。

 その後医師会報の編集委員に就任され、わたしには本欄の僚友かつ途中からは編集長に就任されてのお付き合いになりました。この十年間はふたりで交互に巻末エッセイを担当させていただきました。

 年金が来年から希望すれば受け取れる通知が先日届いたとき、わたしが思い出したのは「いただける年金は低額からでももらっておくことですよ。」といつか岸先生がにこやかにおっしゃられた笑顔でした。

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