長岡市医師会たより No.414 2014.9


もくじ

 表紙絵 「夜のしじまのセレナーデ」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「故 古田島昭五先生の思い出」 石川紀一郎(石川内科医院) 、「弔句と思い出」 郡司哲己(長岡中央綜合病院:編集委員)
 「私の趣味」 橋本亮子(長岡赤十字病院)
 「宝塚歌劇百周年記念 風と共に去りぬ〜その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「“悠久ネットワーク”をよろしく」 八幡和明(長岡中央綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その4」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜自己紹介〜その1」 星榮一



「夜のしじまのセレナーデ」 福居憲和(福居皮フ科医院)

不思議なことに、次元の境界にはいつも、安らぎと調和のためのセレナーデの旋律が奏でられ、溶け合いゆらめいているのです。


故 古田島昭五先生の思い出 石川紀一郎(石川内科医院)

 古田島昭五先生が平成26年8月8日にお亡くなりになられたとの訃報に接し、ほぼ同じ時代を共に生きてきた後輩として、本当に淋しく、悲しい思いで一杯です。心から御遺族様にお悔やみ申し上げると共に、先生の御冥福をお祈り申し上げます。
  私が古田島先生に初めてお会いしたのは昭和44年1月頃、厚生連長岡中央綜合病院に内科医として勤め始めた頃で、先生が同院で皮膚科医長として御活躍されていた頃かと思います。
  当時、同院には山岳部なるものがある事を知り、山に全く素人の私でも山に連れて行ってもらえそうだと思い、入部しました。当時山岳部長でおられた先生とのお付き合いは、この頃から少しずつ深まって行ったものと思います。
  ここで、簡単ですが私の知る限りでの先生の御略歴を御紹介させていただきます。
  先生は当時の北魚沼郡川口町(現在長岡市川口町)のご出身で昭和31年日本医科大学卒業後国立東京第二病院皮膚科を経て新潟大学医学部皮膚科学教室入局。昭和34年5月〜平成5年11月までの35年間の長きに亘り、厚生連長岡中央綜合病院皮膚科部長として勤務されております。
  平成5年11月8日「こたじま皮膚科診療所」を開院され平成23年4月まで皮膚科医として地域医療に貢献されております。先生の「開業一年始末記」(“ぼん・じゅ〜る”平成7年1月)など拝読しますと医療にはあまり関係のない開業医に特有の雑事に悩まされていた御様子がうかがわれます。
  それはさて置き、先生の御名前を伺えば「山と温泉」の先生というイメージが湧いてくるのは、私だけでは無いかと思います。
  長岡市医師会報“ぼん・じゅ〜る”に載せられた「山と温泉」(昭和62年11月〜平成21年7月、23年間、96回)「長岡からの日帰りハイキングコース」(平成8年9月〜平成9年8月、7回)では、その冒頭で“山と温泉を結びつけたのんびり山旅としたい”と述べておられますが、その内容を拝読しますと、その膨大さと共に、それぞれ現地を訪れられての記載が多く見られ、先生が心から山を愛されていた御様子が感じられます。
  その一部“苗場山登山道、旧和田小屋にあった「苗場の鐘」の話”などは他紙にも引用記載されています。
  私と先生との山でのお付き合いはほぼ十年位でしょうか、越後駒ヶ岳、平標山、巻機山、谷川岳などに連れて行っていただきましたが、特に雄山(立山)剣岳〜仙人池、欅平のコースでは仙人池から見た朝日に映えた裏剣の美しさは生涯忘れられない思い出となりました。
  病院勤務中の生活では、診療が終わった後、何となく各科の先生達が一部屋に集まって、診療情報の交換、その他諸々の事を語り合っておりましたが、先生も良く顔を出されており、皮膚科の事その他色々と耳学問をさせて頂いたことも、懐かしい思い出として残っています。
  御開業後も折りに触れて“山歩き”をされていた御様子ですが、それにゴルフが大変御好きで、ゴルフ場へも熱心に通っておられたなどのお話も聞いております。
  テレビなどで山の風景が出てくると、ふっと先生の事を思い出したりして思い出は尽きません。
  最後に、御遺族の皆様方のこれからのご多幸をお祈りして筆を置かせていただきます。


弔句と思い出 郡司哲己(長岡中央綜合病院:編集委員)

立秋の翌日「山と温泉」の古田島昭五先生逝かれる

夏山の果て追ひかけて登られし

 古田島先生は長岡中央綜合病院では医局長で医局のまとめ役でおられました。開業後も小児のご紹介の電話をくださいました。

「溶連菌感染みたいだけど、熱でぐったりだから頼みますて。あんただと親も私も安心だしね。(笑)」

  「かしこまりました。(笑)」

目次に戻る


私の趣味 橋本亮子(長岡赤十字病院)

 初めまして。長岡赤十字病院研修医1年目の橋本亮子と申します。
  “ぼん・じゅ〜る”の原稿依頼のお話があり、研修医みんなであみだくじをしたのですが、2年目の先生から端を選ぶといいと聞き素直に端を選んだところ、見事に引き当てたため今この原稿を書いている次第です。ちなみにその先輩も端を選んで引き当てていました。
  特に文才があるわけでもなく何を書こうか悩んだのですが、私の趣味のお話をさせていただこうと思います。
  突然ですが、合唱と聞くとみなさんどのようなイメージを持つでしょうか。一番多いのは中学校や高校時代の合唱コンクールかと思います。やる気なく小さい声で歌っていて怒られたなんて嫌な記憶をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
  私の趣味は合唱です。前回のJOY会で、大学合唱団を卒団となり、どこかで再開したいと思っているというお話をさせていただきましたが、その後大学の先輩の紹介で長岡市内を中心に活動する合唱団に加入し週1回歌っています。パートは一応ソプラノですが、場合によってはアルトの上パート当たりまで歌うこともあります。
  合唱を始めたのは大学1年生。大学入学後、部活は何にしようかと迷っていたところ、友人に誘われて、合唱部の見学に行ったのがきっかけです。もともと、高校3年生までピアノを習っていたことや、中学時代は吹奏楽部でクラリネットを吹いていたこともあり、音楽は好きだったのですが、合唱はそれこそ校内の合唱コンクールや音楽の授業程度、それも伴奏を弾くこともあったため人よりも少ないかもしれないくらいでした。引きずられるように入部してからも、最初は大学の部活なんて息抜き程度にそこそこの力の入れ方で、と思っていたのですが、気づいたときには学生指揮者となり、一般の合唱団でも歌うようになり、すっかりハマってしまいました。
  何にそんなにハマったのだろうと自分でも不思議ですが、結局みんなで声を合わせる気持ちよさに尽きると思います。良い演奏を作り出すのにはそれ相応の苦労がありますが、それだけにお互いの声が溶け合って、和音がぴったりとはまった瞬間、ユニゾンがきれいに揃った瞬間は本当に気持ちよく、これが大学合唱団を卒団して社会人になっても合唱を止められずに続けている理由なのだろうと思います。
  先日いただいた夏休みの2日目、全日本合唱コンクールの新潟県大会に参加してきました。コンクールは課題曲4曲の中から1曲と8分30秒以内での自由曲の演奏で審査され、金賞・銀賞・銅賞の賞が与えられます。一般の部には、24人以内の室内合唱に6団体、25人以上の混声合唱に1団体が出場し、私たちの団は金賞をいただくことができました。
  コンクールは8月ですが、練習は5月、6月の段階から始まります。時間にしてたった10分強のステージのために、そのステージに立つ全員が何十時間もの時間を費やし本番を迎えるのです。本番のステージはもちろん緊張しますし、実際歌い始める前私の右頬はなぜかぴくぴくとけいれんを起こしていましたが、いつもの練習会場よりも断然音響の良いホールでお客さんの前で歌うのは不思議な高揚感を感じますし、多少上手くいかなかった箇所があっても歌い終わった後の達成感は何にも代えがたいものでした。そして、結果発表で金賞をいただき、みんなで喜びを分かち合えた瞬間は本当に嬉しかったです。
  学ばなければならないことが山積みで忙しい研修生活の中ではありますが、週1回のこの時間が生活に張りを与えてくれているように感じます。少しでも興味を持った方がいらっしゃれば、ぜひ演奏会に足を運んでいただき、合唱の魅力を感じていただければ幸いです。

目次に戻る


宝塚歌劇百周年記念「風と共に去りぬ〜その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)

 1977年まで宝塚では、老人役の脇役で髭を付けることはあっても、二枚目男役トップスターが髭を付けることは無かった。初演では、主演の榛名由梨がレット役を演じた際にヒゲをつけたが、それ以来、男役スターの付けヒゲに抵抗は無くなった。通常男役トップスターはレットを演じるが、1978年雪組・1978年花組・1994年雪組以来、男役トップスターをスカーレット役にあてた「スカーレット編」が上演されることも多くなった。
  なお宝塚版最大の特徴は、ヒロインの分身であり「スカーレット II」という彼女の本音を語る役の存在が原作に追加され、スカーレットが自分の本当の心と会話することである。この「スカーレット II」は娘役が配役される例も少なくなく、男役とのダブルキャストの場合もあるが、今回は月組男役ナンバー2で中国系の凪七瑠海(なぎな・るみ)が演じた。またメラニー役の比重が重くないことも特徴のひとつであったが、2002年版では脚本が改作され、メラニーがレットの愛人で娼婦宿の女主人ベル・ワットリングに親切に声をかけたことから「あの人は神様だ、スカーレットはどうなってもメラニーだけは助けたい!」と言わしめ、またメラニーは自らの臨終の場でスカーレットに対して「レットはあなたを本当に愛しているのよ、親切にしてあげてね」とかすれ声で訴えて観客の涙を誘って、南部夫人の理想像を日本人に知らしめた。
  “風と共に去りぬ”はマーガレット・ミッチェルの生涯唯一の作品であり、米国建国以来最高の国民的文学である。それは丁度「源氏物語」・「平家物語」が日本人の感性と思考の形成に寄与した“民族の宝”であるのと同様に、歴史が短い多民族国家である米国人の心を一つにするとともに、“アメリカ人気質”の存在を世界に印象づけた。
  神ならぬ身の“人”がつくった国も、また人と同じく過ちを免れない。広島・長崎・ソンミ村・アフガニスタン・バクダッド・シリアでの一般市民虐殺は米国の歴史上の汚点となっている。しかしまた一方ではベトナム反戦運動・環境保護運動・ウォーターゲートなど、文明人の理性と良心に突き動かされた地球環境・人権擁護運動もまた同じ米国のなし遂げた功績である。さらに電話・自動車・飛行機・コンピューター・インターネットなど人類の科学の大部分を産み出し、人類史上始めて月に人を送った米国は、また徳川幕府の鎖国を廃して日本の眼を世界に開いてくれたのみならず、第二次世界大戦中の困難な時期にクラーク・ゲーブルとビビアン・リー主演の総天然色映画 "Gonewiththewind" を世に問い、戦後はGHQを通じて、世界ではじめて戦争放棄を詠った日本国憲法第九条の制定を助けてくれた“素晴らしい国”と言わざるを得ない。その憲法前文第三段には「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と宣言している。
  我々はこの古くからの友人を大切にすると共に、またそれ故にこそ、いたずらに事大主義者とならず、丁度幕末の小林虎三郎が火事見舞いに来た河井継之介に「今は何も差上げるものとてないが、せめてものお返しに貴殿にご意見を差上げよう」と厳しい意見をした如く、また奇しくも世界の指導者たる国は“愚かな戦争”はしてはならないとレットが喝破した様に真の友人として、友が誤った道に進まぬよう諫言すべきであろう。
  「戦争をしているばか者に、雄弁家どもがどんな景気のいい標語をあたえようと、どんなに崇高な目的をこじつけようと、戦争にはただ一つの理由しか絶対にありません。それは金銭です。戦争はすべて実は金の奪いあいです。けれども、それを悟っている人はほとんどいません。彼らの耳は、太鼓やラッパの音、銃後にあってただ大言壮語する雄弁家どもの美辞麗句などでふさがっているのです。景気の良い呼びかけが『キリストの墓を異教徒より救え!』となることもあれば、『ローマ法王を打倒せよ!』となることもあり、時には、「自由のために!となり、また『綿花、奴隷制、州権のために!』となることもありますがね」注3

注3)マーガレット・ミッチェル著 大久保康雄・竹内道之助訳「風と共に去りぬ」、河出書房新社刊世界文学全集別巻1ミッチェル I、p289,1960 (完)

目次に戻る


“悠久ネットワーク”をよろしく 八幡和明(長岡中央綜合病院)

 近年次々と糖尿病の新薬が開発され治療は大きく様変わりしてきました。今まではダオニールやグリミクロンといった強力なSU薬に頼っていたのですが、最近はインクレチン製剤が主役を占めるようになり、さらには過剰な糖分を尿に捨てて血糖を下げるといったSGLT2阻害薬も登場してきました。新薬のおかげで外来患者のHbA1cは平均してよくなって来た印象があります。しかしそれでも糖尿病患者の増加には歯止めがかからず、最新の統計では糖尿病患者は950万人、予備軍を合わせると2000万人を超えると報告されています。この人たちが毎日のように医療の現場に押し寄せてきます。残念ながらどんなにいい薬を使っても現時点では完治には至らず通い続けるので、必然的に病院の糖尿病外来はどこでもパンク状態が続いています。
  毎日のように朝から夕方まで外来をやってもなかなか終わらず、先日外来最後の患者を診察し終わったら6時半が過ぎ、あたりは薄暗くなっていました。せっかく先生方からご紹介いただいた患者さんでもお待たせして申し訳ありません。次はもっと早く診て欲しいと希望されるのですが、病院の外来は3か月先まで予約がびっしりです。こんなに混雑している外来ではいい診療ができるわけはないと思い、コントロールが良くなった人から外来診察を3か月おきにすると、気が緩んでしまうのか再びHbA1cが悪化してしまう人も少なくないのです。あるいは診察日を忘れて中断してしまう人もいます。
  厚生労働省の統計でも治療中断の多さが問題であり、中でも40歳代の働き盛りの人たちでは約半数が治療していないことが判明しました。結局こういった治療中断が何年も続くことによって腎不全、失明といった重症合併症が発症し医療費を圧迫することになります。国の医療政策の最重点課題として慢性疾患の重症化予防が取り上げられています。
  長岡地区でも糖尿病患者を病院と診療所で連携しながら上手に診ていくシステムづくり、糖尿病診療連携を考える会 【悠久ネットワーク】 を開始しました。8月25日たくさんの医師会の先生方に参加していただき、診療連携のあり方などで貴重な意見をいただくことができました。この会を通じて診療所と病院で糖尿病患者さんを効率よく診療していくシステムづくりを目指します。
  まず手始めに「糖尿病診療連携情報提供書」を作成しました。この用紙に紹介目的、罹病期間、合併症の程度、治療内容などを簡単に記載すれば糖尿病患者さんの情報交換が効率よくできるようになります。診療所から病院へ、病院から診療所へ患者紹介をする際にお使いください。またお使いになって不便な点や問題があれば、ぜひそのご意見もお寄せください。みんなでこの増え続ける糖尿病患者を治療中断させることなく、診療連携のシステムを利用してどこでも適切な医療を提供し、合併症の発症をできるだけ抑制していくことを目指して頑張っていきたいと考えています。このシステムが上手に稼働していくように、ご協力をお願いいたします。

目次に戻る


蛍の瓦版〜その4 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.胃がんリスク検診ほか
  5月から始まった検診は、5〜7月の3カ月で2988名が受診し、そのうち任意の受診者が78名でした。市の検診受診者のうち集団と個別の内訳は、5月が集団326・個別193で、6月は集団750・個別446あり、7月は集団843・個別352でした。
  長岡市内全域における5歳きざみの受診対象者数は2万6千余人ですが、市では対象者の20%である5千人程度の受診者を見込んでいます。
  昨年度の長岡市のがん検診受診率は、40歳以上が対象で集団検診だけの胃がんと肺がんが9.8%と21.8%でした。その他の大腸・子宮・乳腺・前立腺は集団と個別検診の併用で、対象年齢等は若干異なりますが、それぞれ16.3%・17.1%・20.4%・10.2%でした。
  昨年11月に、長岡市はがん検診に関する郵送によるアンケート調査を行っています。無作為に抽出した40歳から74歳の男女3000名が対象で回収率は49.5%でした。職場検診やドックを含めた5大がん(胃・大腸・肺・子宮・乳腺)検診の受診率は、47.5%から56.1%と、国が目標とする50%にほぼ到達しています。
  しかし、胃・大腸・肺では国保加入の働き盛り世代(40〜50歳代)の受診率が男女ともに低いこと(33.5%〜)が問題です。40〜64歳の子宮・乳腺は国保加入でも50%近くあり、国保以外では70%近く受診していました。国保以外の就労世代では、職場の健康診断と一緒に受ける人が多いことが特徴的でした。
  また、全国的にはがん検診を受けない理由として、1.時間がない、2.がんと分かるのが怖い、3.費用となっています。長岡市では、“心配なときはいつでも受診できる”が未受診理由の1位でした。
  アンケートの回収率は、国保加入の高齢者では70%代と高く、40歳代の男性では31.5%でした。このアンケートでは、胃がんリスク検診の認知度は25%でした。

2.放射線漏えい測定
  8月20日付けで県の福祉保健部から出された“無床診療所の自主点検”にもありましたが、放射線装置のある診療所では定期的な漏えい測定が必要です。医師会に貸出可能な測定器が2台あり、簡単に測定できます。必要な方は、前もってご連絡をいただき、ご利用ください。

3.公益目的財産額
  一般社団法人移行に伴い、長岡市医師会の公益目的財産額約4億8900万円が確定しました。これは現在医師会が所有する非営利目的の財産の総額で、主に医師会館の土地や建物と積立金です。財産額を、現在の公益事業の規模で除すると、17年間で償却される予定です。

 目次に戻る


巻末エッセイ〜自己紹介〜その1  星 榮一

 はじめまして。昨年3月まで長岡中央綜合病院形成外科に勤めておりました星榮一と申します。どういう風の吹き回しか、私もこの欄を年2回執筆しなければならなくなりました。郡司先生や故岸先生のように、会員の先生方に興味をもって読んでいただけるような文章をかけるかどうか、はなはだ自信があませんが、よろしくお願いいたします。
  今回は第1回目ですので、自己紹介をいたしたいと思います。昭和13年5月に会津若松市で生まれました。昭和20年4月、父の実家である奥会津の会津田島町立田島国民学校田部分校に入学いたしました。1年生から4年生まで1人の先生が教える4部授業でした。1年生の8月に終戦を迎えました。奥会津の山の中までも、進駐軍がジープに乗って巡回にきました。5年生からは約5キロ離れた町の本校に通学しました。中学校は田島町立田島中学校で、元衆議院副議長の渡部恒三氏は中学、高校の6年先輩です。私が中学生の頃の夏休みには毎年、早稲田大学の雄弁会が夏の合宿で、中学校の講堂で町民を集めて弁論大会をしていました。森喜朗氏や海部俊樹氏も参加していたのかもしれません。
  高校は学区制がありましたが、越境入学で会津若松市の会津高校に入学いたしました。高校の3年間は会津若松に下宿していました。2年生から生徒会(会津高校では学而会)の役員をして、勉強はあまりしていませんでした。現役の大学受験には見事に失敗し、東京の予備校に2年通いました。この2年間は猛勉強をしました。私の人生で、最も真剣に生活した2年間で、有意義であったと思っています。
  昭和34年4月に新潟大学医学部医学進学課程に入学いたしました。ちょうど4月10日が現天皇のご成婚でした。2年間は一般教養課程で、主に西大畑の理学部や人文学部(現在の附属小・中学校のところ)の教室で授業をうけました。昭和35年は安保闘争の年で、デモ行進にも参加しました。
  昭和36年4月より医学部専門課程に進み、10名の新しい仲間が入り80名になりました。昭和39年6月16日(学部4年生)13時2分に、震度5(平成8年の震度改正前)、M7.5の新潟地震が発生しました。地震の後で、小児科の小林収教授の臨床講義がありました。翌日の6月17日からは急遽夏休みに入りました、日赤に奉仕して避難所の巡回もしました。
  8月中には、新潟地震の震源地に近い粟島に、解剖学の小片ミノール先生と離島診療に行き4〜5日滞在してきました。
  この年の10月には、東京オリンピックがあり、上京して神永とへーシンクの柔道や、日本代表の日紡貝塚とソ連の女子バレー決勝、体操の試合などを観戦しました。10月下旬からは卒業試験があり、昭和40年3月に卒業を迎えました。その頃新潟市には大きなホールがなく、全学部の卒業式は北越商業高校(現・北越高校)の体育館で行われ、霙の降る寒い日でした。
  4月からはインターンでしたが、我々の学年はインターン闘争をおこし、ほとんどの同級生は大学でインターンを行いました(大学病院立籠り闘争)。インターン制度は私どもの3年後輩から廃止されました。インターン修了後は、医師国家試験があり、その後各自が希望する専門の医局・教室を決めることになります。
  紙面が残り少なくなりましたので、後半は次回に譲りたいと思います。
  会員の皆様よろしくお願いいたします。

 目次に戻る