長岡市医師会たより No.415 2014.10


もくじ

 表紙絵 「10月の河川敷」 丸岡稔(丸岡医院)
 「集団的自衛権論争に思う」 」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「会員ゴルフ大会の記」 大塚武司(大塚こども医院)
 「私を変えてくれた場所」 山田慧(長岡赤十字病院)
 「蛍の瓦版〜その5」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜自己紹介〜その2」 星榮一



「10月の河川敷」 丸岡稔(丸岡医院)


集団的自衛権論争に思う 福本一朗(長岡技術科学大学)

 安倍政権は従来の憲法解釈を変更し、日本国憲法の元で集団的自衛権を許容した。これに対しては北朝鮮・中国の武力威嚇に対する抑止力となる積極的平和主義に資するものと評価する人々がいる反面、平和主義・国際協和を標榜する憲法に反するものとして厳しく糾弾する「9条の会」を始めとするグループも存在する。確かに日本国憲法前文第二段の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言からみると集団的自衛権はおろか個別的自衛権をも否定したと読める。また旧植民地諸国で平和的支援活動を続けて来たグループの「これまで日本の援助が受け入れられて来たのは、戦争放棄を唱った憲法の存在が大きい」という意見にも説得力がある。
 しかし現在の自衛権論議は、年1970代の筆者の学生時代の憲法論議と比較すると、論点が“微妙に”移動した様に思われる。安保闘争の嵐でゆれるキャンパスでの議論は「中立か同盟か」とともに「武装か非武装か」の論争も激しかった。駒場の友人の多くは「丸腰では危ないから武装中立派」であり、現在のように「日米同盟を軸とした武装同盟派」は少数派であったように記憶している。ただその中でキリスト教系大学の友人達は、聖書には「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左頬を差し出せ」「刀を鋤に打ち替えよ」とありますと言って、敢然と「非武装中立」を唱えていたことが異彩を放っていた。確かに当時の世界情勢は、ベトナム戦争・東西ドイツ冷戦・中国の核武装などを見ても、ガンジーの無抵抗主義の成功を唯一の例外として、「非武装」は非現実的であると思うのが当然でもあった。その中でその友人の主張は首尾一貫し勇敢で立派であった。
 ただその後、東西ドイツの無血統合、東欧の緑の革命、ロシア共産政権崩壊など、「非武装市民の勝利」が相次いだ。そして武力と戦争を放棄した日本は一時GNP世界第二位にまで上り詰めた。この事実は国の存立と繁栄は必ずしも権力と軍隊によって保障されるものではなく、人々の不屈の思いと不断の努力によっていつかは得られるものであることを証明したといえよう。「猛きローマをギリシャが征服した」といわれるように、力では心まで征服されることはない。
 本来、「武」という文字は、二つの「矛(ほこ)」を「止」(とめる)」と書くように、戦いではなく宥和を意味していた。ただ実際の戦いになれば命のやり取りに情けはなく、供峰打ち僑で相手を傷つけずに自らを守ることは困難なことが多い。しかし武士は自らの誇りを命懸けで守ると共に、敵も自らと同じ武士であることを片時も忘れず、勝ち負けに関わらず相手の名誉を守ることが、最終的な勝利に繋がることを常に自覚していた。そして全ての武道は「押忍(おす)」と自らを自重し、「人に打たれず、人打たず、全てことのなきことを旨とする」と、最後まで武技を用いないことが最高の理想としている。そのため武道では個別的自衛権を認めるものの、その使用は自らの命を懸けて決意すべきものとされているといえよう。
 先日、横須賀に行く機会があり、“軍港クルーズ”に参加した。平日の午後であったので米軍基地入口前のドブ板通りには米兵の姿はなく、あどけない少年少女の顔をした海上自衛隊員がグループで散策しているだけだった。他国に駐留する軍隊を抱える“基地の町”は横須賀も沖縄も、同じく刹那的享楽的でどこかもの佗しい。祖国を守るための自衛隊員の住む、静かで規律正しい雰囲気に溢れる呉や舞鶴の軍港とは全く異なっている。ギリシャ神話の“無敗の盾”の名をもつイージス艦は百の飛来ミサイルを瞬時に認識して迎撃する能力を持っているという。しかし音速を超えて飛来するミサイルを空中で%破壊することは至難の業100であり、たとえ一発の核ミサイルでも討ち漏らせば核爆発により基地は近隣の町と共に消滅する。特に中性子爆弾は、戦車の装甲・地下要塞・トーチカ・防空壕など全ての防護壁を貫いて中の人々を焼き殺すので、今の防衛技術では逃れ様がない。スーツケースに仕込んだ小型核兵器は一つで広島・長崎の数十倍の破壊力を持っている。このように近代戦となれば、兵士も市民も区別なく殺されることを忘れてはならない。反撃力と戦意を失わせるために敵は必ず基地の町を攻撃してくることは必至なので、一旦戦端が開かれたなら、“専守防衛”は意味をなさない。“同盟国を守る”ということは、そのリスクをも同時に引き受けることを覚悟しなければならない。
 今日の集団的自衛権の議論に万人が納得する正答はないかもしれないが、ただ一つ忘れてはならないことがある。それは、日本国憲法第一段に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と明記されている様に、先の大戦で万人の尊い命を失った210日本国民に二度と戦争の苦痛を味あわせてはならないことである(Fig.1)。そのためには昔の武士の様に、自衛権の行使される相手のことを常に考えて、本当の意味で戦いを避けるためにはどのような方法が最善か、国民全員でじっくり考える時ではないであろうか?

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会員ゴルフ大会の記 大塚武司(大塚こども医院)

 今年の長岡市医師会会員ゴルフ大会は9月15日、敬老の日に長岡カントリークラブ東、西コースで行われ、15名が参加しました。昨年のこの大会は豪雨のため競技は中止、懇親会席上でのビンゴゲームで賞品を分けあった残念な大会でしたが、今年は好天に恵まれ、風も穏やかで、初秋の一日楽しくプレーすることが出来ました。競技はダブルぺリア方式でしたので、幸いにも運に恵まれグロス94、ハンデキャップ20.4、ネッ73.6で優勝することが出来ました。同伴競技者の河路洋一先生、青柳竜治先生、戸内英雄先生に心から感謝致します。ベストグロスは加藤政美先生で東42西40の素晴らしい成績でした。「魚藤」での懇親会も大いに盛り上がり、親睦を深めることが出来ました。来年もこの大会が盛大に開催されることを願っています。
 話は横道にそれますが、先日別のコンペで新しいゴルフボール「カエデ」の話で盛り上がりました。新しい形状のテンプルで飛距離も伸び、斬新なカラーバリエーションと相まって人気のボールとのことです。ゴルフの道具の進歩には驚かされます。私がゴルフを始めた35年前は、シャフトはスチールでウッドクラブはパーシモンでした、その後ヘッドはメタルヘッドが主流になり、シャフトもカーボンが加わり進化、ボールも糸巻ボールからソリッドコアタイプに変化、飛距離も耐久性も向上しました。あまりの進化にヘッドの容積や反発性能に制限が設けられましたが、アマチュアゴルファーにとっては、飛距離が伸びるというのは、何事にも変えられないゴルフの爽快感そのものなのですし、クラブ重量の軽量化、キャビティバックやユーティリティクラブの出現などで、ゴルフがかなり易しくなりました。そして最近では光学機器やGPSを利用したグリーンやハザードまでの距離を教えてくれる道具も出現、人気があり、私も使うことがありますが、ビジターで訪れるコースでのセルフプレーには必需品になっています。登場当初論議を呼んだ乗用カートも市民権を得て普及、山岳コースでは高齢者にとって有難い存在で、ゴルファー寿命を延ばしています。
 現在、福祉分野で自立動作支援ロボットスーツが話題で、障害を持つ方々や脚力が弱くなった高齢の方々の脚力・歩行機能をサポートする装具ですが、この調子ですと近い将来このような装具が発展、進化してゴルファー向けに改良され、「70歳のあなたでも300ヤードは夢でない」などのキャッチコピーで「豪打、松山英樹モデル」、「精悍、石川遼タイプ」と銘うったロボットスーツが販売されるかもしれません。何れにしろ、道具の進歩と上手に付き合いながらこれからもゴルフを楽しんで行きたいと思っています。

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私を変えてくれた場所 山田慧(長岡赤十字病院)

 大学病院で約一年間過ごした後、長岡赤十字病院へ異動して八ヶ月経ち、研修生活も残り僅かになってきました。私は生まれも育ちも新潟県ですが、縁あって熊本大学を卒業しました。知人も所縁もない土地でしたが、外様の私も暖かく迎え入れてくださいました。いつかは県人会を開催したいと同郷の輩を六年間待ちましたが、叶いませんでした。皆様にとってあまり馴染みのない地域かもしれません。
  世間では黒い熊が、ゆるキャラブームの代表として有名になりましたが、皆様は熊本県をご存じでしょうか。今年の日赤総会が熊本で開催されるということもあり、簡単にご紹介させていただこうと思います。熊本県は、九州地方の中央に位置し、阿蘇山にカルデラを有し、天草地方は有明海に面しており、水道水に地下水が使われている程、自然豊かな地域です。平成二三年には九州新幹線が開通し、大阪から熊本まで最速三時間で移動することができます。県庁所在地である熊本市は、新潟市同様、平成二四年に政令指定都市に移行しました。個人的な意見ですが、九州内では福岡県に次いで栄えており、新潟よりも都会だと思いますが、意外でしょうか。
  日本三大名城のひとつである熊本城は市内の中心部にあり、街から天守閣を眺めることもできます。周辺の一帯は当時の城下町の町割りが今もそのままになっています。春は敷地内の桜が咲き乱れ、日本さくら名所百選にも選定されています。
  ご当地グルメとしては太平燕(たいぴーえん)、馬刺し、辛子蓮根などがあります。太平燕は春雨スープにエビ、イカ、豚肉、白菜、筍、きくらげ、揚げ玉子などの五目炒めを合わせたもので、中国で発祥し、熊本に伝わったと言われています。馬肉の刺し身である馬刺しは、おろし生姜・にんにく・醤油につけて食べます。長野県など、他県でも馬肉を食べる習慣があるようですか、生産量は熊本が日本一となっています。辛子蓮根というと、医療関係者の方はボツリヌス中毒を連想する方もいらっしゃるかもしれません。郷土料理を食べるのであれば、中心街にある「むつ五郎」というお店がオススメです。その他、上記の料理も取り揃えており、なかでも「馬にぎり」が絶品です。一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
  また、九州の温泉といえば大分県の別府温泉が有名ですが、熊本の黒川温泉も大変情緒ある温泉郷となっています。市内からは離れていますが、阿蘇へドライブし壮大な景観を堪能した後に、ゆっくり温泉に浸かってみてはいかがでしょうか。
  さて、すっかり熊本信者になってしまった私ですが、独りで見ず知らずの土地へ赴き、過ごした時間はとても貴重な体験となりました。この経験がなければ、今の私はなかったと思います。進学・就職が人生の転機になることは多々あると思いますが、私はこの経験を機に、日常の小さな選択・行動も転機になると考えるようになりました。言い換えれば、自分を変えるチャンスは日常にいくらでもある、と言えると思います。予想し得ない結果や失敗になったとしても、成功への糧にするかどうかは次の自分の行動次第だと言い聞かせるようにしています。
 また、自分の未熟さを痛感し、落胆する日が多いですが、同時に周囲の方々に感謝し、尊敬し、刺激を受けています。今は無力な自分も、いつかは支える側の人間になれたらと思います。
 最後になりましたが、長岡での研修を振り返ってみると、まだまだ努力が足りないことばかりだと反省しています。名残惜しいですが、残りの時間も有意義に過ごせる様、研鑽を積んでいきたいと思います。

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蛍の瓦版〜その5 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.地域包括ケア推進協議会
 瓦版その3でご紹介しました“地域包括ケア推進協議会”の進行状況です。
(1)在宅ケアに関する実態調査
 先日長岡市内の医療機関あてにアンケートへのご協力をお願いし、全医療機関の151機関から回答を頂きました。ありがとうございました。全医療機関のうち、在宅医療は56%、“看取り”は46%で実施されていました。詳細は来年の3月に報告書ができ上る予定です。この調査とは別に、医師会では高齢者の福祉施設(特別養護老人ホームやサービス付き高齢者住宅等)と医療機関との連携について、アンケート調査中です。その他同様の調査を、市内の訪問看護ステーションや在宅支援事業所に対しても行っています。
(2)栃尾・小国地区でのタブレット活用モデル事業
 筆者の診療所でも理学療法士がモデル事業に参加していますが、医療サイドからは情報発信が主体となっています。
(3)先進自治体の視察
 10月5日(日)に地域包括ケア推進協会のメンバーなど約40名が、柏市の視察へ行ってきました。医師会からは太田会長、大塚・長尾両副会長、草間理事、本田雅浩先生の5名が参加されました。柏市は東京のベッドタウンで、市全体の高齢化率はまだ20%代ですが、市内に高度成長期のマンモス団地が在り、そこの高齢化率は40%を超えています。この団地を在宅医療システムのモデル事業の対象地区として、厚労省と東京大学が力をいれており、毎月全国からの多数の見学者が訪れているそうです。それでも、現在の在宅での看取り数を比べると長岡の方が多い状態です。市からの正式な報告は後日あります。
(4)多職種連携に向けた勉強会及び地域ケア会議
 医療介護に関わる多職種を対象に、7月19日に第1回目が開かれ、地域ケア会議の説明や、新潟県の在宅医療や長岡市の訪問看護の現状紹介がありました。10月1日の第2回目でも地域ケア会議の説明があり、小規模多機能型介護サービスの紹介もありました。介護側にとって、医療との連携は敷居が高いようですが、本田雅浩先生はその重要性について強調されたそうです。皆様方もケアマネからの問い合わせに出来るだけ応じていただけると、医療側、介護側、当事者の三者にとって有益と考えます。
(5)認知症対策推進
 9月14日中之島文化センターにおいて、認知症と診断された方がご自分の経験談を披露されました。実体験に基づくお話は、やはり迫力があります。

2.在宅医療関連の研修会
 日本医師会では10月13日に東京の日本医師会館にて「第2回日医在宅医リーダー研修会」を開催しました。長岡から今年は草間理事が参加されました。昨年の第1回は長尾副会長・石黒理事・本田先生が参加されています。来年の研修会に興味のある方はご一報ください。
 「在宅ケアを考える会 in 越後」が9月28日にハイブ長岡で開催され、医師60名を含む300名が参加されました。これは、厚労省のオレンジプラン(認知症施策推進5カ年計画)に基づいて新潟県医師会が行っているものです。

3.研修会いろいろ
 在宅医療関連以外にも毎月沢山の研修会が開催されています。薬剤に関するものでは、製薬会社の主催共催によるものが目白押しです。それ以外に、赤十字病院等の病院主催のものや、各専門分野の症例検討会等があります。
 内科セミナーは27年前に始まり、現在も年に4回のペースで開催され、そのうち3回分の内容と講師は世話人会が決定しています。
 その他医師会独自のものとして、社会保険や学校保健に関するものや認定産業医に対する研修会もあります。これらの中には長岡市医師会で内容や講師を選定できるものもあります。興味のある事案や講師のご推薦があれば、是非ご連絡下さい。

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巻末エッセイ〜自己紹介〜その2  星 榮一

 私は学生時代から、形成外科を志望していました。広島の原爆乙女25名のケロイド治療や、美空ひばりが顔面に濃塩酸をかけられた事件があり、これからは生死の問題も大切であるが、QOLも大切ではないかと考えていました。昭和41年ころには形成外科は、東京大学、慶応大学、東京警察病院にしかありませんでした。整形外科の田島達也助教授や耳鼻咽喉科の荻野洋一助教授に相談して、とりあえず新潟大学の整形外科に入局して、形成外科的な要素が多い手の外科を研修することにいたしました。
 昭和41年4月に新潟大学整形外科学教室に入局しました。整形外科全般と手の外科を研修しました。昭和46年に新設医科大学が認可され、聖マリアンナ医科大学も開学しました。昭和49年4月より附属病院で学生実修が始まるということで、聖マリアンナ医科大学形成外科の荻野洋一教授からお声掛けがあり、昭和49年2月より聖マリアンナ医科大学形成外科に移籍しました。家族そろって1月31日、雪の三国峠を車で越して川崎市に行きました。聖マリアンナ医科大学では、4月から附属病院を開院する準備で大変でした。
 病棟も50床一単位ずつ数か月おきに開棟して行きました。新しい病院ですので、活気にあふれていました。病院と形成外科の体制が一応整ったところで、昭和54年8月に新潟大学整形外科に戻りました。
 9月より整形外科外来で毎週月曜日に、「形成外科外来診療」を開始いたしました。田島教授が附属病院長でしたが、なかなか形成外科新設は認められませんでした。
 新潟大学形成外科では形成外科全般を対象としておりましたが、特に漏斗胸の手術に力を入れておりました。
 米国の小児外科医 Ravitch が考案した手術法を改良した胸骨拳上法を行っていました。年に30例も手術したこともあります。県外からも患者さんが受診して、450例ほどの手術経験があります。長岡中央綜合病院では、長部敬一先生のお力添えもあり、昭和56年12月から月に一回、形成外科診療を開始いたしました。昭和57年4月よりは毎週火曜日に週一回の形成外科診療となりました。お陰様で中越と魚沼、柏崎の形成外科の患者さんを診せていただきました。
 平成8年10月に私と吉川哲哉君が、長岡中央綜合病院形成外科に常勤医として赴任いたしました。形成外来スペースは、リハビリと共用でフルに使用できませんでした。このころすでに立川綜合病院には高橋博和先生が形成外科を開設されておられました。長岡中央綜合病院形成外科は二人体制ですので、大概のことはできました。しかし、手術室には余裕がなく、形成外科の入院病棟は、小児と女子は産婦人科病棟に、成人男子は外科病棟にお願いいたしました。途中からの形成外科開設ですので、多くの方々にご迷惑をおかけいたしました。
 平成17年10月、川崎町に新病院が新築移転して、手術室も外来も病棟も形成外科用が用意されました。
 私は平成8年に長岡市民となり、長岡郷土史研究会に入り、長岡の歴史や地理を勉強しています。「長岡まちなかキャンパス」の講座もできるだけ受講し、異業種の方々と交流するようにしています。また、毎年「米百俵まつり」では小金井良精に扮して人力車に乗せていただいています。平成10年に長岡市前田の星野製菓の跡地に自宅を新築し、市営墓地にお墓もできたので、長岡に骨を埋めるつもりです。今後ともよろしくお願いいたします。

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