長岡市医師会たより No.436 2016.7


もくじ

 表紙絵 「ムササビが飛ぶ時」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「長岡今昔〜その1」 江部達夫(江部医院)
 「開院して1年になりました」 吉川秀人(あたごこどもクリニック)
 「理事就任のご挨拶」 新国恵也(長岡中央綜合病院)
 「4年間の充電期間を経て」 高木正人(高木内科クリニック)
 「蛍の瓦版〜23」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「平成28年度定時総会報告」 
 「巻末エッセイ〜梅雨の苔寺」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「ムササビが飛ぶ時」 福居憲和(福居皮フ科医院)

ある物事が起きる時は、まさにクライマックスの時であり、かつグッドタイミングの時でもあるのです。


長岡今昔〜その1  江部達夫(江部医院)

山川の自然は同じ長岡に 育ちし吾は傘寿迎えて

 平成二十七年数え年で八十歳、傘寿であった。
 私の人生、大学生の六年、大学院生とその後の研究生として過ごした八年、計十四年間の新潟市での生活を除けば、全て長岡の暮らしであった。
 昭和二十年八月一日の空襲で長岡の市街地の大半は灰燼に帰した。私の家もすっかり焼けてしまった。
 戦後の復興は目覚ましく、町並みはすっかり変わってしまったが、長岡を取り巻く山や川は八十年姿を変えていない。
 子供の頃から見て触れて来た長岡の自然やその中での生活を思い起こし、短歌にその思い出をこめてみた。

歌心芽生えさせたる信濃川 流れに吾の生涯を見る

 古来、川の流れは大自然にあって、多くの人々に感動を与えて来た。
 絵に、随筆に、詩に、短歌に、俳句など、数多くの作品となって残されている。
 信濃川の流れを見ていると、「方丈記」の書き出しの名文が何時も頭に浮かんで来る。美空ひばりの晩年の名歌「川の流れのように」は、川に人生を例えている。
 日本一の大河信濃川の辺で生まれ育った私は、この流れを見つめていると、子供の頃からの記憶が甦って来るのだ。

信濃川流れは大きく変わりたり 流れる水も清さ失う

 信濃の流れは悠久変わらぬように見えるが、戦後の七十年間で大きく変わった日本の社会や経済情勢に合わせて、流れや水質は大きく変わってしまった。
 子供の頃に見ていた川の本流は、長生橋の上流五〇〇メートル位の所で、左に大きく曲り、市街地側の堤防を洗うかのように流れていた。
 水流も強く、その流れから堤防を守るべく橋の上、下流に十基ほど沈床が造られ、その大きな沈床は子供達の遊び場にもなっていた。
 昔から川沿いには砂利屋という商売があり、川砂利や砂を取って販売していた。戦後の復興で、コンクリートの建造物や道路造りに、資材としての砂利や砂の必要性が急速に高まり、大型の機械が河底を掘りまくり、川沿いには大きな砂利の山が何か所も造られていた。信濃川の河底はどんどん下り、平成に入る頃には流れがぶつかっていた沈床は陸に上がってしまった。今日では川の本流は、長生橋の所で中央部四〇〇メートル程の中で流れ、両側の遊水地は畑や運動場になっている。
 流れる川水は子供の頃は澄んでおり、三メートルの川底もよく見えた。今や透明度は五〇センチ位か。
 合成洗剤を含む家庭からの生活排水で、川の自浄作用は失われ、水源地の山梨県や長野県の山林開発で林道が造られ、宅地造成も加わったりし、少しの雨でも土砂が川に流れ込み、川水は泥濁りし易くなった。川は死にかけているのだ。

長生橋流れ見つづけ八十年 色は変われど姿変わらず

 長生橋、長さ一キロメートル、長岡市のシンボルの一つになっている。
 長岡を流れる信濃川は江戸時代、舟で東西を往き来していたが、明治の初めに木造の橋が造られ、有料であった。川の中州の中継地にはお茶屋があり団子が名物であった。
 その橋が現在の鉄橋に生まれ変わったのは昭和十二年十月、私が生まれた一年後であった。
 子供の頃の記憶では、橋は赤茶色をした巨大な建造物であった。橋は錆止めと再塗装が二十年毎に行われているようだが、これは大変な工事だ。車時代になってからは工事は主に夜間に行われており、完成までに四、五年かけている。
 塗り変えの度に色は変わり、現在の淡い黄緑色になったのは十年前だ。
 長生橋はその姿を変えず、八十年信濃の流れを見続けて来た。時代と共に姿を変えて行く流れを見届けて来たのだ。

帆掛け舟行き交う信濃水清く 川面に白き帆映し流るる

 明治五年から始まった日本の鉄道造りは全国に広がり、昭和六年に上越線の開通で、中越地区の陸上交通の便は良くなったが、新潟と魚沼地方を結ぶ和船の帆掛け舟は昭和二十年代まで見られた。
 江戸時代から信濃川は水上交通の要であった。古くは帆掛け舟が主体であったようだが、明治時代は川汽船が活躍した。鉄道の発達で明治の終わりには川汽船は姿を消したが、帆掛け舟は残っていた。
 大きな白い一枚帆をふくらませ、ゆっくりと川を遡って行く姿は今でも懐かしく思い出される。
 川漁師が清い流れに網を入れ、川魚漁をやっていた。春には大きなサクラマスが捕れた。千手八幡さまのお祭りの夕食にマスの焼き物が食卓を飾ったものだ。
 川の汚れが目立ち始めた昭和三十年代には川漁師の姿はなくなった。

子の頃に川ガニ捕りし沈床は 河床下りて今や陸地に

 春、信濃川の堤防の雪が解けると、沈床は子供達の遊び場になった。沈床に上がり釣りをするのだ。大きなフナやコイが釣れた。
 雪解けの頃の楽しみに川ガニ捕りがあった。沈床の大きな石の間をモクズガニが棲(すみか)にしていた。
 近所の遊び友達四、五人でこのモクズガニ捕りをやった。焼け跡から自転車の輪を探して来て、網目の大きな金網を張り、縄で長い竹竿に吊しただけの仕掛け。
 町内の魚屋からイワシの頭を貰って来て、金網に括(くく)り付け、沈床の側に沈めておくのだ。
 一時間位して揚げると、大きなカニが数匹、多い時は十数匹がかかっている。網の目に脚を取られて逃げられないのだ。水から揚げても、まだイワシの頭に食いついているやつもいた。多い日には午前中で四、五十匹は捕れた。
 河原で流木を集め、一斗缶にお湯を沸かし、塩茹でにして食べたものだ。
 その沈床、砂利取り業者のお陰で、平成の世になると、河床が大きく下がり、流れも変わって陸上の建造物になってしまった。

カゲロウは朝霧の中群れ飛びし 信濃の流れ清き頃には

 お盆も過ぎ早朝大気に冷たさを覚える頃になると、信濃川には川霧が立つようになる。
 この季節になると、かってはカゲロウが大発生する日があった。
 私の家は川から二〇〇メートル位の所にあるので、川面に立った霧が西からの風に乗って流れて来る。
 信濃川の流れが澄み、きれいであった昭和二十年代までは、カゲロウが大発生し、霧に乗るかのように、街の中まで大群で飛来したものだ。
 カゲロウの幼虫は清流にしか棲めないので、川水が汚れ出した昭和三十年代になると大発生はなくなった。
 東北地方の汚れのない河川では、今日でもカゲロウの大発生があり、その死骸で車がスリップして事故の元になると報じられたりしている。
 信濃の流れも、再びカゲロウが大発生する清さを取り戻して欲しいものだが、現在のような人の営みが続く限り、無理な願いであろうか。

初鴨の舞い来る信濃水は澄み 秋も終わりか冬の始まり

 晩秋も過ぎ冬を迎える頃、鴨や白鳥、雁が夏の間子育てをしていたシベリアの地から、越冬のため日本に渡ってくる。
 新潟県では瓢湖や福島潟が渡りの場として有名だが、信濃川にも多く鳥たちがやって来るのだ。
 信濃川に渡って来た鴨たちは、流れのおだやかな所で長旅の疲れを癒している。冬に入り水温が低下した川は、夏の頃に比べ澄んでいるようだ。鴨たちの中には盛んに頭を水中につっこんだり、潜ったりしているものがいる。川底の水草を食べているのだ。冬は枯れた水草の根が大切な餌となる。
 白鳥や雁は保護鳥だが鴨は狩猟鳥、十一月十五日から翌年の二月十五日までが狩猟期。昭和の時代、解禁日の夜明け、信濃川の川筋で羽を休めていた鴨たちは一斉に打たれ、その銃声は街の中まで響いて来た。
 解禁前日まで長生橋の上、下流の流れのおだやかな所に群れていた鴨たちは、銃声と共に姿を消した。
 平成の世になると、街の近くでの猟は禁止に。橋の上、下流二キロメートルは禁猟区に。橋が五本も架かっている長岡市、河川での狩猟は全面禁止地区となった。
 今では鴨たちは冬の間中、安心して過ごせる信濃川を塒(ねぐら)にし、日中は刈田に落穂を探しに出かけている。
  三月になると群れごとで一斉に北へ向かって旅立って行く。

目次に戻る


開院して1年になりました 吉川秀人(あたごこどもクリニック)

 昨年7月1日にオープンした「ながおか医療生協あたごこどもクリニック」に勤務しております。今回「開業1年目の感想について」ということで原稿の依頼をいただきました。いつもなのですが「開業」と言われると、ながおか医療生協にとっては開業だけど個人としては開業じゃないよねとか、いろいろ考えてしまいます。違うけど、半分正しいという感じでしょうか。良く誤解されるのですが、いわゆる個人開設者としての開業ではありません。ながおか医療生協の診療所の所長という立場です。このような立場は当然のことながら、いい面、悪い面、両方あります。診療所の勤務医であり管理者であるという立場をどうとらえ、どうモチベーションを高めていくかという点が、今後の事業継続に大切なのだと思います。臨床医の働き方も、病院勤務医、開業医だけでなく、このような働き方も第3の選択肢になるのではないかと思います。医師会員も、個人開設者、病院勤務医だけではなく、私のような診療所の勤務医も都市部を中心に増加しているようです。このような診療所の勤務医も今後増えて、新たな会員区分もできればいいと思います。
 仕事に関しては、患者数の9割は一般小児科診療および予防接種、健診です。残り1割は、今までの経験を踏まえて、発達障害や小児神経に関わるお子さんを診させていただいています。数でいうと1割ですが、労力でいうと3割くらいを費やしている感じがします。主に、自閉スペクトラム症、ADHD、愛着障害、てんかん、チック、心身症、発達の遅れなどがあるお子さんを、少しずつですが診させていただいています。中越地区の小児科クリニックでは始めて脳波計も設置しました。「少し発達で気になることがあるけど、病院や専門施設に行くほどでもないし、町のクリニックだから気軽に行ってみようか」というような理由で受診される方も多いように思います。学校や幼稚園・保育園の先生方から紹介いただくこともあります。もちろん、リハビリや療育が必要な方は、それらができる施設へ紹介させていただいています。てんかんに関しましても、診られるのは良性てんかんのみと言ってよいかもしれません。救急搬送される可能性があるようなてんかんのお子さんは、病院へ紹介させていただいています。アレルギー外来も金曜日にアレルギー専門医の先生に来ていただいて行っています。主に食物アレルギーが主体で、経口負荷試験も細々とではありますが始めました。小さなクリニックでできることは限られていますが、無理をせず地域の先生方や行政の協力を仰ぎながら頑張っていきたいと思っております。将来的には、発達障害のお子さんの療育、重症心身障害児の在宅医療、往診、デイケア的な支援も地域の中でできたらいいなと思っています。こどもの発達障害や神経疾患に特化したクリニックというのも一つの考え方だと思いますが、一般小児科診療も楽しんでいますので、どのように両立していくのかも今後の課題だと思っています。
 また、勤務医と開業医では、参加できる学会が違うのだということも初めて知りました。今までは木−土曜日に開催される学会に平日に出張できたのに、開業後はなかなか休診にできません、日曜にやっている学会にしか主に出席できないことがわかりました。今までは、講演などで話す立場が多かったですが、今は講演を聴く立場になりました。大した趣味もないのですが、ちょっとした週末の旅行などに行きづらくなり、週末の庭仕事がなかなかできなくなったのは悩みの種です。
 小さいとげが刺さったらからとってくださいという赤ちゃんが、時々来院します。病院勤務だとあまり経験できないのではないでしょうか。なんということはないのですが、「ここは地域のよろず相談所なんだね」って思えて、少しうれしい瞬間です。たんこぶができた、蚊にさされた、37.1度で心配など、ちょっとしたことでも心配なお母さん方も多く受診されます。「心配ないよ、大丈夫だよ」って声かけするだけで安心して笑顔になる瞬間も好きです。Easy access の弊害、医療費の問題もあろうかと思いますが、地域のお母さん方に少しでも安心を与えることができるクリニックになれるようにがんばりたいと思います。まだ開院して1年しか経っておらず、わからないことばかりです。今後ともご迷惑をおかけするかもしれませんが、ご指導よろしくお願いいたします。

 目次に戻る


理事就任のご挨拶  理事 新国恵也(長岡中央綜合病院)

 この度、初めて理事を務めさせて頂くことになりました。長岡中央綜合病院外科の新国恵也と申します。
 長岡市医師会への入会期間は、平成元年4月に当院に赴任して以来ですので4半世紀を超えました。この間、医師会関連の仕事に多少関わらせていただいたことはありましたが、今般理事会に出席してみて、役員の先生方の業務が余りにも多く、また多岐にわたることを知りとても驚きました。日常の診療をこなしながら、これだけの仕事をされている諸先生方の能力と地域医療を担うという気概には唯々脱帽致しております。
 浅学非才の身ではありますが、長尾会長、荒井、草間副会長のもと、お役に立てるよう頑張りたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。
 私は、福島県奥会津只見町の出身です。新潟県境の町で長岡からは道のりで70kmほどです。子供の頃のテレビ放送は新潟のものしか入らず、新潟県民にはずっと親近感を抱いておりました。
 会津高校を経て新潟大学を卒業致しました。中学ではバレーボールと野球部、高校と大学ではボート部でしたので体力だけは人一倍自信がありましたが、還暦を超えた今では体力ばかりか視力、気力、あらゆる能力が衰えております。
 こんな私ではありますが、医師会活動を通じて長岡地域の医療に微力ながらでも貢献できればと考えております。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

 目次に戻る


4年間の充電期間を経て 理事 高木正人(高木内科クリニック)

 4年間の充電期間を経て、6月1日より再度長岡市医師会理事に就任いたしました高木正人と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 充電期間といいますと聞こえが良いのですが、実際は両親の介護、看取り、子供の受験や結婚がありました。それに付け加え、糖尿病の新薬が多数上市されたため、講演、症例提示、司会と今までに経験したことがないくらい多忙な4年間でした。お陰様で、子供として、親としてもきちんとけじめをつけられたことに大変感謝致しております。
 今から10年前に初めて医師会の理事に就任した時は、新潟県医師会報の編集委員を仰せつかり、毎月第1木曜日に新潟市で開催される会報編集委員会に出席し、内容の検討、漢字の間違いを見つけ出す校正などの他に、「喫茶室」「編集後記」「会議のルポ」などの文章を書くという、文系ではない私にとっての苦手な分野に取り組まなくてはならず、とても苦労したことを思い出します。しかし、この会のおかげで、文章を書くことにも少しは慣れたばかりではなく、新潟県医師会の流れや色々な情報を得ることができました。さらに、6年間の最後の2年間は、長岡市医師会の総務を担当し、医師会の財政、財力、人事をしっかりと勉強させていただきました。
 今年度からの2年間は、学校保健、健診、予防接種、健康教育、休日夜間急患診療所(内科)、『糖尿病を知るつどい』の担当理事となりました。可能ならば糖尿病対策で何か改善できることを行なってみたいと思っております。
 さて、私が医師会にかかわって、ちょっと感じたことを書いてみたいと思います。たぶん医師会の運営に関わったことがない先生方の多くが、医師会は何をしているのか、何をしてくれるのか、何にお金を掛けているのかをご存知ないと思います。それを解決する方法の一つとして、現在いる13人の正規の理事のほかにもう一人、新規開業した会員から順番に、理事会の推薦により1年間で交代する、議決権や担当がない定例理事会などにのみ参加できるオブザーバーもしくは仮免許理事を作ってみいはいかがでしょうか。そうすれば、医師会の取り組みや仕組みを知っていただけるので、長岡市医師会の今後の発展に寄与できるのではないかと考えます。医師会の理事をできるだけ多くの先生方に経験していただくことで、自分の趣味や家族、自分の医院のことだけを考えるのではなく、これからの長岡市医師会のあり方、長岡市の医療、ひいては日本の医療についても考える、広い視野を持っていただけるのではないかと思います。
 やはり、理事の再登板は良いことではなく、多彩な能力を隠し持っている多くの医師会員が、参加することに意義があると考えます。若い先生方(自分も若いと思っていましたが、知らぬ間に還暦になってしまいました)にはまず、医師会の行事に積極的に参加して頂きたいと思います。そこから医師会を知る糸口がきっと見えてくると思っております。

 目次に戻る


蛍の瓦版〜23   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 保育園等における生活管理指導表(アレルギー疾患用)

 今まで保育園や幼稚園等では、食物アレルギーに関してそれぞれ独自の様式を用いて保護者との情報交換を行っていました。本年度9月1日以降は、食物アレルギーのある保育園児や幼稚園児についても、長岡市が厚生労働省の様式を基に定めた生活管理指導表(アレルギー疾患用)が用いられることとなりました。この表は既に学童に使用されてきたものに準じており、当該食物の摂取が可能か不可かの二者択一となっています。
 平成24年調布市の小学校で学校給食の誤食によるアナフィラキシーショック死がありました。この不幸な事故をきっかけに、食物アレルギーやアナフィラキシーに関する啓蒙が進められています。平成27年には製薬会社から5万本のエピペントレーナー(エピペンの練習用キット)が寄贈され、各地の教育委員会を経由して全国5万校に配布されました。長岡市内でも現在エピペンを学校に持参している子供は、小中学生と園児を併せて80余名いるそうです。
 市の保育課と学務課では、10月ころに新しい指導表に関する説明会を予定しているそうです。小児科を標榜されている医療機関への受診が予測されますが、今回の指導表への記載については有料となります。詳細は医師会事務局へ御連絡下さい。
 なお、次号ではこの件に関する詳細を掲載する予定です。

 目次に戻る


平成28年度定時総会

 6月1日、長岡グランドホテルにて開催されました。
 太田会長の挨拶の後、平成27年度事業報告並びに平成27年度公益目的支出計画実施状況報告が行われ、議事に入りました。
 第1号議案 平成27年度決算の認定について
 第2号議案 役員の選任について
 第3号議案 議長、副議長の選任について
 第4号議案 裁定委員の選任について
 第5号議案 顧問の委嘱について
 (いずれも提案通り承認されました。)
 続いて懇親会に移り(この懇親会から新役員体制)、長尾新会長の挨拶、叙勲御祝、功労会員表彰、健康慶祝、新規入会・開業会員紹介の後、開宴となり、盛会理に終了しました。出席会員は75名でした。

太田会長挨拶

総会

長尾新会長挨拶

退任役員に感謝状贈呈

懇親会(乾杯)

 目次に戻る


巻末エッセイ〜梅雨の苔寺 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 京都の苔寺を先月末に、数十年ぶりに訪問しました。某医学セミナー参加のついでに、平日の前後で年休を取得して出かけました。

「京都に研究会でとんぼ返りだけど……。」と家人を誘いました。
「梅雨時の苔寺あたりどうかな。」
「荷作り係も必要だしね。」と笑いながらの即答です。

 京都観光のガイド本を読むと、なんと苔寺見学は事前予約申し込みが必要との記載。ネットで調べると、苔寺は自由拝観での景観の傷みの防止のため、1977年から予約制で、往復はがきでの事前申し込みと、また拝観前の写経が条件でした。相応の熱意がなければ来ないで欲しいということのようです。
 往復葉書で申し込んだ数日後、さいわい平日の希望がよかったのか、拝観許可の返信葉書が届きました。
「参拝証」 G様 二名 平成28年6月○日午後一時に本証持参のうえ御参拝ください。当日、参拝冥加料御一名様三千円をお納め願います。(後略)

「出頭するべし」のようで、時間指定も一方的。また庭園拝観だけは不可で、必ず写経してから、と明記されていました。

「写経なんか経験ないけど、できるかな。書き終わらないと庭の見学できないかも?」と心配するわたし。
「こういう場合は、紙に下書きが印刷されていて、筆でそれをなぞって書けばよいからだいじょうぶよ。」と家人が教えてくれました。

 その日はまず歩いてホテルそばの某旅行専門誌の京都定番スポットに選定されている養源院へ。風神雷神図の俵屋宗達の描いた杉戸絵(唐獅子、麒麟、白象)を見に寄りました。その後はタクシーで苔寺へと早めに移動。昼食を門前「苔の茶屋」名物のとろろ蕎麦をいただきました。ここから降り始めた雨脚が強くなり、天気予報どおり「曇りのち雨」でした。女将が「三十分前の入場開始だから、ぎりぎりまでここで雨宿りすればよいですよ。」と客一同(全員が拝観予定)に親切に声をかけてくれました。

 傘を手にゆるりと歩き、苔寺こと西芳寺の行列に並びます。数分で開門、かの「参拝証」をわたして入場し、受付で料金を払い、大講堂の机を前に座ります。すでに各自の前に墨の硯、細筆、また机上に見本の経典と薄く下書きが印刷された写経用紙が置かれていました。参集した一同は百名ほど、まず僧の先導で般若心経を三回唱和し、写経開始です。
 静寂のなか、障子戸を開け放っているので、庭から涼しい風と雨音が入ります。いい雰囲気でした。
 般若心経二百六十六文字。なんとか書き上げましたが、疲れました。ちなみに勤務先病院も今年から電子カルテに移行し、手書き作業がさらに激減です。生来の金釘流ですが、下書きをなぞり我流の文字そのものになったのには我ながら呆れます。
 書道の心得のある家人は細筆を立てて、丁寧に書くためやや遅れて終了。写経の末尾の所定の欄に名前、住所、願い事を書き添えて、ひとりずつ仏前につつがなく奉納できました。小一時間の経過でした。
 順次写経を終えた者から、傘をさして、およそ九千坪の庭園の回遊を開始です。暦応2年(1339)に夢窓国師が再建した枯山水の庭と池泉回遊式の庭の上下二段の造りです。雨で緑の苔が光り、美しさが際だちます。梅雨の苔寺を満喫しました。

 家人が思い出したように……
「帰ったら庭の草取りをしなくちゃ。」

 目次に戻る