長岡市医師会たより No.437 2016.8


もくじ

 表紙絵 「岩ヶ崎(村上市)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「理事就任のご挨拶」 七里和良(長岡レディースクリニック)
 「理事就任のご挨拶」 奥川敬祥(奥川小児クリニック)
 「よろしくお願いします」 市川健太郎(市川医院)
 「蛍の瓦版〜24」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「平成28年度ビールパーティー」 (編集部)
 「長岡今昔〜その2」 江部達夫(江部医院)
 「巻末エッセイ〜昭和三十九年六月十六日」 星榮一



「岩ヶ崎(村上市)」 丸岡稔(丸岡医院)


理事就任のご挨拶  理事 七里和良(長岡レディースクリニック)

 今回、理事を拝命した長岡レディースクリニックの七里和良と申します。元理事の小林眞紀子先生、前長岡中央綜合病院の加藤政美先生等より「長岡市医師会で、産婦人科関連の仕事と医師会の勉強をするように」との突然の電話での厳命で、即座にお断りすることもできずに、諸先輩のご苦労の後を受けて、医師会理事の任を拝命することとなりました。
 この紙面をお借りして自己紹介をさせていただきます。出身はお隣の燕市です。三条高校から新潟大学に入学。皆さんもご存じのように「付属病院が停電で休診」という名目で職員の運動会が大々的に行われる大学です。無邪気にそして熱く運動会を楽しむ先輩方を見るにつけ、「一緒に頑張る」という良き伝統を感じました。苦手な試験の方は、優秀な級友に助けられ、自分は6年間、二足の草鞋(水泳部とワンゲル部)で学生生活を満喫しました。「よく遊び、試験を落とさない程度に学ぶ」の6年間でした。「良い仕事をするにはまず体力が第一」と考えると、あながちこの選択は間違いではなかったのかもしれません。「先輩の厳命は理不尽でも受ける」はこの時の名残です。
 産婦人科に入局し、県内外で研修してきました。勤務した病院の中には佐渡の両津市民病院の3年間があります。離島診療の難しさと一人医長の心細さを感じました。その後秋田赤十字病院で7年間勤務したのち、縁あって平成13年より長岡に赴任して立川綜合病院に7年間お世話になりました。岡部正明院長、上原徹先生、阿部博史先生には大変お世話になりました。そして遅まきながら52歳で開業いたしました。
 前任者と違い、現在産科診療に携わっておりません。主たる仕事は生殖医療(体外受精を含めた不妊症治療)という狭い領域でやっております。そういう点で幅広い領域を担当する医師会活動の一翼を担う理事として、私は力量不足で不適任者と思わざる負えません。
 現在、医師会の活動の一環として産婦人科関連では、長岡市の婦人科検診、休日産婦人科輪番医、女性の性犯罪被害者の人権保護、検査協力、そして「子宮頸がんワクチン」接種事業などがあります。残念ながら現在ワクチン事業は、接種による有害事象(もちろん異論があります)がマスコミで過度に誇張され、事業がとん挫してしまいました。世界的にこのワクチンの有効性、安全性が確立されており、実際に接種国の子宮がんの発症率の低下が報告されております。
 医師会活動に無知な私は、地域包括ケア、地域医療構想ガイドラインなど聞きなれないキーワードなどに正直、困惑しております。
 長尾政之助新会長の元で勉強し、この長岡の地域医療に少しでも貢献できるよう努めたいと思います。会員の皆さま、理事の皆さま、今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。

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理事就任のご挨拶  理事 奥川敬祥(奥川小児クリニック)

 このたび、長岡市医師会理事として新しく務めさせていただくこととなりました奥川敬祥(おくがわ・たかよし)と申します。長らく医師会長、副会長を務められた太田裕先生、大塚武司先生の勇退に伴い、お二人から引き続き地域医療に貢献せよとの命を受け、理事職を拝命いたしました。これまで日常の診療の忙しさにかまけ、何かと医師会の活動には疎遠ではございましたが、お引き受けしたからには精一杯務めさせていただく覚悟でございます。早速、救急医療(中越こども急患センターなど)、学校保健(心臓検診、児童生徒結核対策委員、学校保健研修会など)、地域医療感染症対策、地域保健健診、予防接種、健康教育、母子保健、社会保険指導立ち会い、また対外委員として県医師会予備代議員、感染症危機管理体制、県学校保健会長岡支部、長岡市予防衛生専門委員、予防接種健康被害調査委員会などの担当理事を任せられ、不慣れな段取りながら少しずつ仕事に取り組んでおります。たくさんのお仕事をいただき、少し不安な気持ちもありますが、せっかくのこの機会を楽しませていただく考えでおります。
 さて恒例とのことですので自己紹介をさせていただきます。出身は愛媛県宇和島市です。父が銀行員でしたので、小中学校時代は神戸や東京など日本各地をいろいろと転居しました。高校は愛媛の愛光学園高校を卒業しました。1年間東京で予備校に通い、ここで現在の家内と出会いました。大学は北の大地にあこがれて北海道大学に入学し、学生時代は漕艇部で毎日地獄のトレーニングに明け暮れ、平成元年に大学を卒業しました。家内が新潟県柏崎市の出身で、義理の父に「北海道は寒いから嫁にはやらん」と言われ?新潟大学小児科学教室に入局しました。大学病院で研修後、県内の国保水原郷病院、県立小出病院、労働福祉事業団新潟労災病院、国立療養所新潟病院(当時)などに勤務し、大学に戻りました。大学では5年間、小児腎臓病を中心に診療し、小児腎炎、ネフローゼ、透析、腎移植などの医療に携わりました。開業前は小千谷総合病院に4年間勤務しました。平成15年秋に長岡市古正寺に小児科医院を開業して12年余りになります。こうして人生を振り返りますと何事もあるがままを受け入れる性格なのだなと思います。
 これから理事として長岡の地域医療の発展や医療の充実に少しでも貢献できますよう努める所存です。医師会のみなさま方にはいろいろと教えていただくことも多いと存じます。今後ともみなさまのあたたかいご支援、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

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よろしくお願いします  理事 市川健太郎(市川医院)

 このたび長岡市医師会理事を務めさせていただくことになりました市川健太郎と申します。慌しい医院継承でしたが、医師会の先生方、事務局の方々に支えていただき気がつけば15年以上が経過しました。早いものです。当初は、まじめに講演会などにも参加していましたが、製薬会社主導?の講演会はどうも気がすすまず、最近はご無沙汰しております。
 日本の医療は世界でもトップレベル、国民皆保険制度は世界一と評されています。しかし、膨れ上がる医療費にいつまでこの制度が持ちこたえられるのか一小関係者として心配であります。私たちは国民の納めた税金や保険料をたっぷり使いながら、患者さんに医療を提供しています。製薬会社から支援を受けることは、役人が公共事業に参入したい企業から援助を受けるようなもので、あまり爽やかな関係とは思えません。景気の減速や綱紀粛正も進み20年前から見れば随分マシになってきてるでしょうが、先日辞任された某都知事さんのように“法に触れないからいいじゃないか”という考えはいかがなものかと思います。自らが襟を正していかねば、週刊誌の格好のネタになってしまうでしょう。
 話がそれましたが、特定健診、予防接種等、知らないところで、長岡市医師会の恩恵にあずかってきました。これからは、極めて微力ではありますが、2年間恩返しのつもりで働かせて戴きたいと思います。
 私は平成2年に埼玉医科大学を卒業後、新潟大学第二内科にお世話になりました。信楽園病院、長岡赤十字病院、糸魚川病院と出張後、医員として大学で働いている時に父が他界し、急遽医院を継承しました。当初は病院の患者を持ちながら、長岡の医院で外来をこなし、在宅も診て回りましたが、生活基盤が新潟では医院の仕事はとても続かず、腰を据えて取り組もうと実家に帰ってきました。戻ってきた一番の理由は在宅患者でした。不定期の往診要請と、在宅の看取りが遠方からでは大きな負担となりました。父が置いていった患者さんが歩けなくなり、通院できなくなる事も多く、訪問診療は自然と膨れ上がってゆきました。人間慣れというのは恐ろしいもので、新潟から通っていた頃から見れば今の負担は軽くなっている筈なのですが、加齢の影響もあるのか、看取りや検視、不測の往診要請が億劫になることも増えてきています。
 国の方針で在宅医療が今後の重点課題の一つになってくるようですが、24時間365日主治医一人で在宅患者の責任を持つことは訪問看護をはじめ、種々の介護サービスが充実した現在においてもなかなか難儀なことだと感じます。幸い長岡市は救急3病院の輪番が整っていること、太田前会長が立ち上げたICTによる、在宅患者の情報共有システムにより、現在は救急隊、搬送先の病院にまで患者情報閲覧が拡大しています。環境の整備は比較的順調です。今後は医師同士、特に開業医間での連携をどのように進めていくのかが課題かと考えています。どうぞ宜しくお願いいたします。

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蛍の瓦版〜24   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 長岡市医師会では、会員相互の懇親を深めることを目的に、様々な行事を企画しております。
 今回はそれらの行事を列記してみました。懇親会形式のものでは、1月下旬の新年会と夏のビールパーティーがあります。新年会には長岡市の市長や市議会議長、福祉保健部長、消防本部消防長、保健所長、警察署長、歯科医師会長、薬剤師会長等を来賓として御招待しています。
 先の7月22日のビールパーティーには118名が参加され、来賓は長島忠美衆議院議員と森民夫市長のお二人で、会員の出席は62名でした。残りの54名は外部関係者の方々で、皆様からは会費を頂戴して御参加頂きました。
 平成19年度までのビールパーティーは会員だけに御案内していましたが、その後は市役所や保健所の関係部署の方々にも御出席をお願いしてきました。行政の実務に携わる方と直接お話しできる機会が増えたことで、医師会業務が円滑に行えるようになっております。日常の診療では、特に健診業務や予防接種また介護保険や救急関連等において行政との良好な協力関係は不可欠です。
 また、診療に関する“連携パス”が本格的に稼働し始めた平成22年度からは、市内の病院の病診連携室にもビールパーティーへの出席をお願いしております。さらに今年からはフェニックスネットの一端を担って頂く訪問看護ステーションにも参加頂きました。
 会議や研修会の終了後に開催される懇親会として、6月下旬の定時総会と秋の全体懇談会の終了後に会員が参加する会が予定されています。今年の全体懇談会は9月7日に開催され、まず休日・夜間急患診療事業研修会が行われる予定です。また社会保険研修会後にも講師を囲む会が用意されています。
 この他新年はボウリング・麻雀・囲碁大会を行い、9月にはゴルフ大会を準備しております。また秋には一泊二日の会員旅行を毎年企画しており、今年は10月15日〜16日に福島県の岳温泉方面です。
 医師会行事に参加されたことのない方々へお願いします。私も、20年以上昔実際に参加する前は“きっと面白くない”と思い込んでいました。実際に参加してみると、旅行では信州の美術館や酒田の水族館等予想外の所に連れていって頂き良い経験でした。そして日頃お話する機会のない方々とお話しできたことが最大の収穫でした。是非一度ご参加下さい。

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平成28年度ビールパーティー

 7月22日(金)午後7時より長岡グランドホテルにて開催されました。
 来賓として、長岡市長 森民夫様、衆議院議員・復興副大臣 長島忠美様からお越しいただきました。また、今年も例年同様に、会員以外にも長岡市や長岡地域振興局健康福祉環境部の関係部署の方々、病院の病診連携室等関係部署の方々、訪問看護ステーションの方々など多数の方々にご参加いただきました。
  高橋暁理事の進行のもと、長尾政之助会長の挨拶に始まり、来賓の森市長様、長島衆議院議員・復興副大臣様よりご挨拶を頂戴し、関係機関の方々の紹介の後、太田裕監事の乾杯で開宴となりました。
  参加者全員、当地域の保健・医療・福祉関連事業等において最も大切な連携を推進するため、お互いのコミュニケーションを図りながら、楽しいひとときを過ごされ、盛会裡にビールパーティーは終了いたしました。
  出席者は、職員を含めて124名でした。(編集部)

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長岡今昔〜その2  江部達夫(江部医院)

田起こしの頃合い教える山の雪 今や温暖雪消え早し

 長岡市の東側に連なる峰々、東山と呼んでいる。その最高峰は鋸山、鋸の歯のように頂きがぎざぎざしている。その右に花立峠があり、栖吉町に登り口がある。ここから登り着いた尾根が花立峠、尾根伝いに鋸山に到達する。
 花立峠から鋸山に向う尾根の市街地側下方に三本の沢があり、春、雪解けが始まると「川」の字を逆さにした雪文字が現れる。通称「川逆さま」と呼ばれている。長岡の農家はこの雪文字の形を見て、春の農作業を始めて来たと言う。
 雪解けの頃、山肌に現れる雪絵や雪文字は、日本の各地で農作業を始める目やすにして来た。代表的なものとして妙高山や白馬岳の馬の形をした雪絵であろう。
 平成に入ってからの小雪、温暖化は雪消えを早くし、田起しの適正な頃合いを教えているとは思われなくなっている。
 平成二十八年の春は、東山の「川逆さま」は四月初めには消えてしまった。今やテレビが詳しい気象情報を教えてくれている。

四百年越し来る桜のしだれ枝 地に届かんと未だ伸びおり

 春は桜、長岡市内で花見と言えば悠久山か福島江が名所に。
 長岡市には樹齢四百五十年になる大きな桜がある。雲出の香林寺の境内にある紅しだれ桜だ。
 昭和四十六年三月、長岡市の指定文化財、天然記念物になった。高さ二〇メートル、幹回り三メートル近い巨木、その時の樹齢推定四百年であった。
 豊臣秀吉が天下を取った天正時代に香林寺は建立された。その際、仙台藩の伊達城から移植されたものと言う。
 老木となった現在、幹には大きな空洞もでき、痛みは激しく、上半分は枯れ木となって折れている。今では高さは一〇メートル、しかし下半分はまだ元気。そこから出ているしだれ枝は未だ伸び続け、先は地に届かんばかりだ。花は見事、大勢の人達が花見にやって来ている。

飛ぶ燕姿見られぬ平成は 鴉が群れて街に棲みおり

 燕は人の生活に密着して暮す野鳥の代表。雪国の長岡、主な通りには冬の交通の便のため、家並みに雁木が造られている。雁木の屋根裏は燕の巣造りの場になっていた。
 五月になると越冬のため南の国で過した燕達が続々と帰って来た。番で戻って来た燕は去年と同じ巣で子育てを始める。新しい番は泥を運んで来て新しく巣を造っている。
 泥と枯草で造られた巣が雁木の屋根裏にたくさん見られ、燕の子育てを住民は温かく見守って来た。子燕の食欲は旺盛で、四、五羽の子を育てている親鳥は町中を飛び回り、盛んに虫を追っていた。
 しかし町に飛び交う燕の姿がよく見られたのは昭和まで。平成の世になると、年々その数は減り、今では町に飛ぶ燕の姿は殆んど見られない。
 この原因として考えられる事は、燕の餌となる虫の発生する場所が町の中から無くなって来ているためであろう。町中に増えている鴉による子燕の捕食も大きな原因だ。
 雁木の屋根裏に造られた巣が鴉に襲われているのだ。鴉が羽をばたつかせて、巣の中の幼鳥をくわえて捕ってゆく光景を目撃した。
 燕が減っている現象は長岡だけのものではなく、全国的なものだ。燕を増やすためには鴉対策と共に、餌となるトンボなどの昆虫が育つ環境造りも大切。ハエが増えるのは困るが。

今や子はディズニーランドに出かけるも 吾子の頃は成願寺なり

 三十年前、千葉県の浦安に東京ディズニーランドが生まれた。今や世界の遊園地となり、中国、東南アジアからも多くの人達が来ている。日本の子供達の多くは一度は出かけているのではないだろうか。
 私が子供の頃は長岡で遊園地と言えば成願寺温泉か悠久山公園だけだった。遊具は山の斜面を利用した大きなスベリ台とブランコ、池のボートくらいのもの。
 それに小さな動物園、猿とウサギがいた。悠久山には熊もいた。そんな小さな遊園地でもそれなりの楽しさがあったようだ。成願寺の遊園地は大人も鯉料理を楽しめたので、平成十六年の中越地震まで続いていたが、地震の被害が大きく経営は終わってしまった。
 昔は山椒味噌のおにぎりがおいしく、よく食べに出かけていたのだが。

アカシジミ未だ舞いおる悠久山 自然の姿後へ残さむ

 中学生の頃、梅雨に入り晴れた日の放課後、よく悠久山公園に出かけていた。悠久山にはパラダイスと呼んでいる小山があり、大きな松の木のある雑木林になっていた。
 この林にはクヌギやコナラなどブナ科の木も多く、これを食草とするアカシジミやミズイロオナガシジミが生息していた。
 この両種は日本全国に分布している。アカシジミはオレンジ色の小型の蝶、その色から雑木林で飛翔してもよく目立った。日中は殆んど飛ぶことはなく、夕暮れが近づくと飛び舞った。
 二年前の六月のある夕方、悠久山公園に菖蒲を見に出かけた。菖蒲が咲く畑からパラダイスを登る遊歩道が整備されており、頂上まで続いていた。登り始めるとあのオレンジ色の小さな蝶、アカシジミが数匹飛んでいた。
 パラダイスの頂上にはゴルフの練習場が造られるなど、雑木林が切り開かれ開発されている。今以上の開発は止め、自然の姿を残しておきたいものだ。昆虫や野鳥のためにも。

柿川に四つ手網繰る川漁師 子らは集まり魚数えた日

 長岡の市街地を、東山の水を集めて流れている川がある。郊外の柿集落から流れ出ているので柿川と呼んでいる。明治の頃までは水上交通路として活躍していた。その名残りに、この川岸の石垣には所々石の階段がある。
 柿川は吾が家の庭に沿って、大きく曲がりながら流れ、庭を過ぎた所が深みになっている。子供の頃この深場に、四メートル四方程の四つ手網を組み立て漁をしている川漁師がいた。近くに住んでおり、一日四、五回網を上げに来ていた。六〇才位だったようだが、かなりの年寄りに見えた。
 網を上げる時には子供が何人か集まっていた。魚が網の中で跳ねているのが面白かった。フナ、ハヤ、オイカワが主であったが、時に大きなナマズやコイもかかった。
 網を上げてくると見えてくる魚、子供達は一つ、二つと数え、二十匹いれば大漁であった。漁師のじいさんは長い柄のついたたもで魚をすくってバケツに入れていた。
 四つ手網の仕掛け、長岡の空襲の際に焼けてしまい、その後は再び造られることはなかった。

柿川に蛍火消えて五十年 昔の流れ取り戻したし

 子供の頃柿川は清流であった。水量も多く、川底には水草が生え、夏は子供達が水浴びをして遊んでいた。両岸は石垣が高く積まれ、石垣の間には魚が潜み、大人達は手を入れて魚を捕っていた。
 川底や石垣には蛍の餌となるカワニナがたくさん生息、梅雨の中頃、川筋にはたくさんの蛍が飛び交っていた。
 私の庭にも蛍はやって来て、家の中まで入って来たりしていた。庭で捕まえた蛍、蚊帳の中に放し楽しんだりした。
 昭和二〇年代の終り頃、戦後の復興と共に柿川の汚れが目立ち始め、カワニナの数も減り出し、昭和三〇年代には川底はヘドロ化し、カワニナは姿を消し、蛍もいなくなった。
 昭和四〇年代に入る頃には、蛍火は全く消えてしまった。家庭から流れ込む生活排水に含まれる中性洗剤が川の自浄作用を失わせたのだ。
 以来五〇年蛍火は消えたまま。現在各地の川で蛍が増えている。長岡市も下水道が完備、柿川も清らかさを取り戻しつつあり、その内カワニナが増え出すであろうが。

柿川の瀬音激しき吾が庭は 初蝉の声かき消されたり

 私の庭には大きな桜と椎の木があり、毎年油蝉がたくさん発生する。梅雨の半ばを過ぎる頃から鳴き始める。
 庭に沿って流れている柿川、私の庭の少し上流で急に流れが早くなり、渓流のようになっている。梅雨の雨で川水が増すと激流となり、瀬音も大きくなる。家の中でこの瀬音を聴いていると、庭の緑も手伝って山の中にいるような気分になれる。
 油蝉の初音がこの瀬音に掻き消されながらも聴こえて来る。これから始まる蝉たちの大合唱の前触れだ。この蝉時雨が降り出す頃に、長岡の暑さは本格的となる。子供の頃から変わらない自然の営みであった。しかし近年の異常気象、六月から猛暑日がやって来ている。

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巻末エッセイ〜昭和三十九年六月十六日 星 榮一

 その日は薄曇りで蒸し暑い日であった。僕は医学部最上級生の六年生で、火曜日の十時半からは第一内科の松岡教授のポリクリだった。松岡先生から厳しいご指導を受け、十二時半過ぎまでかかってしまった。池原記念館の学生食堂では品切れで、昼食が食べられなかった。仕方なく学校町一番町の村田蕎麦屋に行き、「お待ちどうさま!」と蕎麦が出てきた途端にグラグラ揺れだした。十三時二分、新潟地震だった。(震度五、現在の六相当、M七・五)。
 急いで店を飛び出し、学校町のバス通りに出た。狭い道路の両側の二階建ての建物が、今にも倒れそうに揺れ、電線はパチパチと火花を発し、危険極まりなく、大堀幹線に逃げた。地面が見る見る間に地割れして、真っ黒い水が吹き出してきて、あっという間に膝下まで道路は水浸しになった。この地震で液状化現象という言葉が初めて使われた。
 裸足で医学部のキャンパスに戻ると、各教室の木造の建物の近くにある防火用水池の水は、地震の揺れで五分の一位溢れて減っていたが、建物などの被害はないようだった。
 北東の空を見上げると、キノコ雲が立ち昇っていた。咄嗟にソ連に原爆を落とされたかと思った。火曜日の午後は小児科の臨床講義で、この日も余震の中で、小林収教授の患者を供覧しての講義があった。講義には出ていたが、講義どころではなかった。
 衛生学教室の屋上には展望台があり登ってみると、丁度信濃川を津波が遡上するのが見えた。完成したばかりの昭和大橋は数か所でバタバタと落ちていた。南の方には県営アパートが横倒しになっているのも見えた。
 当時、僕は昭和大橋の東詰、下所島に住んでいた。昭和大橋は落ちてしまい通れない。八千代橋は、橋そのものは大丈夫だったが、橋の東西の取り付け部分が大きく沈下して、長い梯子で八千代橋に登り降りして帰宅した。
 十六日の夜は停電で余震が続き、明かりのない闇夜のなかで、昭和石油のタンクが次々と引火して爆発し、今にもこちらに迫って来るようで恐ろしかった。十七日からは、学校は休校になり、夏休みに突入した。寄居町の日本赤十字社に連日詰めかけ、市内の避難所を巡回した。
 ライフラインの復旧は、電気は翌日には点灯した。水道は約一か月後、ガスは約二か月かかった。
 地震から二か月後の八月中旬、解剖学の小片ミノール先生が粟島の巡回診療に行かれるというので、同行させてもらった。岩船港から漁船に乗り、莚を敷いて寝転んで行った。トビウオが船と競争するように飛んでいた。震源に近い粟島は、島全体が約二メートル近く上昇して、海の深い所に生息していたアワビなどが、膝位の浅瀬で採れた。
 新潟地震前の六月六日(土)から六月十日(水)までは、第十九回春季国民体育大会(新潟国体)が県内で開催された。国体に向けて、道路や施設の整備や美化が徹底し、街には塵ひとつなく綺麗になっていたが、新潟地震で目茶苦茶になってしまった。
 この年の十月十日から二十四日までは第十八回東京オリンピックが開催された。入場券は一年前より新潟ではJTBだけで売り出していた。神永の柔道、チャスラフスカの体操、日紡貝塚とソ連の女子バレーなどを東京の会場で観戦した。その後、学生最後の卒業試験が始まった。
 昭和三十九年は何かと思い出深い年であった。

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