長岡市医師会たより No.438 2016.9


もくじ

 表紙絵 「煙突のある風景」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「開院1年にして思うこと」村山慎一郎(喜多町むらやまクリニック)
 「わが家のアイドル」 花城恒(栃尾郷クリニック)
 「はじめまして」 宮島衛(長岡赤十字病院)
 「新しい家族」 福本一朗(長岡市小国診療所)
 「長岡市における「食物アレルギー生活管理指導表」の運用について」 小柳貴人(立川綜合病院)
 「巻末エッセイ〜中村紘子さんを偲んで」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「煙突のある風景」 木村清治(いまい皮膚科医院)


開院1年にして思うこと  村山慎一郎(喜多町むらやまクリニック)

 平成27年10月21日に開院して早1年になろうとしています。
 当院は泌尿器科・内科を標榜しています。
 私は新潟大学を卒業し、すぐ泌尿器科学教室に入局しました。卒後3年目に立川綜合病院の外科で研修する機会をいただき初めて長岡市で勤務しました。その際に私にはとても住みやすく車での移動もしやすい街に漠然と「いいところだなぁ、できれば長岡で仕事がしたいなぁ」と思った記憶があります。それから一度大学に戻りましたが卒後5年目に長岡赤十字病院の泌尿器科で勤務する機会をいただくことができました。そこでは前院長の森下先生や米山先生に診療の仕方や数多くの手術を教えていただき、泌尿器科医としての礎が形成されたと感謝しております。さらに長岡赤十字病院では仕事での礎のみならず、病棟看護師をしていた妻と出会うことにより家庭を持ち、生活面でも盤石な礎を築かせていただきました。その後、佐渡総合病院で離島での一人医長を経たのちに、立川綜合病院泌尿器科でも勤務させていただきました。
 病院では外来患者さんの数が増え待ち時間も増加しているという現状を目の当たりにしてきました。
 長岡市の人口は約27万5千人です。これに対して、泌尿器科標榜の医院は少し前までは三医院でしたが、一医院では皮膚科へ継承しており、泌尿器科診療は縮小しておりました。病院と医院との役割分担を考えたときに、一次医療を担うプライマリーの医院が少なく、患者さんも、また軽症患者を外来に抱えることになる病院も困るのではと思いました。困っている患者さんの一つの選択肢になるようにということと、やはり長岡で働きたいという希望がありましたので、長岡市で開業することとさせていただきました。
 私は開院前の9月25日までは大学医局の派遣医師として村上市の村上総合病院泌尿器科の一人医長をしておりました。いわゆる落下傘開業をして開院初日こそ20人ほどの方に来院いただきましたが、その後は開業直前の慌ただしさとは一変し時間を持て余してしまう日々が続きました。病院勤務医時代には半日で50名ほど診察をして患者さんと世間話をする時間も限られていましたが、開業後現在に至るまで症状の聴取だけでなく生活環境などをお伺いする時間も増えて会話している時間が長いせいか、「いい先生だ」などと言われることも増えました。話をしているとお待たせしている患者さんのことが気になってそわそわしてしまうこともあるのですが、仮に医院が混んで忙しくなっても人と人との会話ができるように、この期間のことを忘れないようにと心がけようと思います。泌尿器科医になった当初、ある先輩から「泌尿器科医は聴診器を捨ててエコーによる診療を手に入れた」というようなことを教えていただきました。結石や前立腺肥大症などの排尿障害の際には自らエコーを行いますので一番身近なデバイスと言えると思います。当院にもエコーはありますが、尿路結石症診療ガイドライン第2版では尿路結石の確定診断には、グレードAで単純CTが推奨されています。病院に勤務している際にはレントゲン(KUB)で明らかな尿路結石と判断できるもの以外の急性腹症では結石の有無の確認に検尿・KUB・エコーをしたのちに単純CTを躊躇なく撮っていただいていました(被曝についても考慮して必要と思われればですが)。当院にCTはありませんので自分の診療技術を磨かなければと再確認しております。それでも必要があれば病院にCTを予約でお願いさせていただき快く受けていただいておりますので安心して診療ができて助かっております。
 聴診器を手放したかのように書きましたが、開業後は専門の泌尿器科にこだわらず、前述のように内科も併記標榜させていただいており、風邪や高血圧、脂質異常症など内科的疾患の患者様にも相談いただいております。聴診器を再び手に取り、かかりつけ医として知識を広げなくてはと思っている次第です。また、特別養護老人ホームと認知症グループホームの施設医もさせていただき、泌尿器科専門にこだわっていると関われなかった部分で様々なことを学ぶ機会を頂きました。
 私は40歳で開業しました。論語には「40にして惑わず」と不惑の年とされています。自分で事業を起こしたのだから惑っている暇はありません。誕生日を迎え41歳になり、今度は「50にして天命を知る」知命までひた走るのみです。
 当院のある左岸バイパスはこれから発展が期待される地域であり、この秋冬には食料品店をはじめとしたショッピングセンターが近くで展開され、さらなる人の流れが生まれるかもしれません。その中で当院も困っている方のお力になれるように頑張っていく所存であります。
 皆様には今後のご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。

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わが家のアイドル  花城 恒(栃尾郷クリニック)

 4月より皆様の長岡市医師会に入会させていただいた花城(はなしろ、旧姓・渡辺)恒と申します。
 小生は、昭和28年11月9日生まれの62歳です。県立三条高校、昭和53年に金沢医科大学を1回生として卒業しました。内科研修医、呼吸器内科勤務後、昭和57年4月より新潟大学第二病理学教室(大西義久教授)に入局させていただきました。8年間の病理での生活は病理解剖、プローベ、学位研究と大変に充実した毎日でした。特に、長岡赤十字病院江村巌先生、立川綜合病院小林寛先生には、厳しくそして温かみのあるご指導をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。昭和62年8月に、「胎児肺の神経内分泌細胞」の研究で医学博士の学位を取得させていただきました。
 その後、平成元年9月より父の跡を引き継ぎ、三条市(旧下田村)で下田渡辺医院を今年3月まで開業しておりました。今回、一身上の都合により、断腸の思い、苦渋の選択ではありましたが、長年住み慣れた下田の地を離れ、今後の人生を栃尾でお世話になる決断をいたしました。
 今年4月よりJA新潟厚生連長岡中央綜合病院附属栃尾郷クリニックの診療所長として、勤務させていただいております。8月より金町に新築移転し、小生と妻、4匹の愛犬(トイプードル)とともにクリニック2階に住んでおります。日々の外来診療、栃尾地区と下田地区の訪問診療、3か所の特老の診療(看とりも含む)、警察医の仕事と毎日忙しくしておりますが、何とか老体に鞭を打って頑張っております。そんな中、下田地区からの外来患者さんも増えており、懐かしさから診察室で昔の思い出話にふけっております。
 大学時代はテニス部に、卒業後はゴルフに一時熱中しておりましたが、腰を痛めたこともあり、ゴルフは年に数回程度で、今の運動は4匹の愛犬の毎日の散歩であります。お酒は大好きで、ビール、赤ワインが日々の活力源となっております。下田と違って栃尾地区は歩いていける美味しいお店が多く、毎日、毎夜楽しんでおります。
 小生の今の癒やしに欠かせない4匹のトイプードルについて少しお話をさせて下さい。最初に現在5才のオスのトイプードル(名前はホッペル)が家に来てから、2年間であっという間に4匹となりました。小生の亡き父は産婦人科医でしたが、その時から働いてくれていた看護師さんの協力を得て、2匹を取り上げました。犬の妊娠期間は63日で、取り上げてからずっと育てているので、可愛くてしょうがありません。また、最後に生まれた3才のメス(名前はエルマ)は、生後しっぽと肛門が無い先天性疾患で動物病院では安楽死を勧められましたが、無理を言って生後3週と5週に手術をしてもらい、今は4匹の中で一番元気に走り回っています。こんな4匹に囲まれて毎日楽しく、癒されて暮らしている今日この頃です。
 人間の世界では核家族化が進んでおりますが、祖父母・子供・孫の三代に渡り一緒に暮らしている犬達を羨ましく、幸せに感じています。今後も妻とこの4匹と共に、栃尾で楽しく暮らしていきたいと思います。

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はじめまして  宮島 衛(長岡赤十字病院)

 私は日赤町にあった長岡赤十字病院で生まれた生粋の長岡人です。高校卒業まで長岡で過ごし、新潟大学を卒業しまして、以後も人生のほぼ全ての期間を新潟県内で過ごしております。大学卒業後は、大学医局ではなく新潟市民病院にすぐに入職し、ずっと救急医療を続けてきました。「救急医以外のご専門は?」とよく尋ねられますが、いつも「ありません」とお答えします。実際、私に専門はありませんが、見た目からも「無礼な奴」と思われてしまうので、救急医に関心や不信?がある先生方には「ER、ICU、重症疾患、外傷、中毒、熱傷、何でも診ます」とお答えします。内科系ですので手術はしませんが、術前・術後の全身管理は診療科に関わらずご要望に応じて担当します。これまで様々な重症例・問題症例を経験してきましたので、どこかでみなさまのお役に立つことが何かあるでしょう。新宿で働いていた時期もありまして、暴力団関連の銃創や覚醒剤中毒から左第5指切断まで経験しました。逆に、経験したことがない症例を目にすると私は闘志が湧きますので、ご心配なさらずにいつでもご相談ください。
 2000年前後から医療の標準化とその教育コース開催が叫ばれるようになりまして、私は日本各地に修行や見学に出かけました。そうして2001年から新潟県内のシミュレーション教育を始め、様々な教育コースの指導を担当してきました。また、教育コースの指導内容が限られた世界だけの理想論で終わってしまわないように、病院の内外を問わず救急医療や医療安全の体制作りを担当してきました。今や救急医にとって教育コースの指導は、診療の次に重要な業務になりました。実際の現場を守るために、微力ですがこれからも様々な角度から尽力いたします。
 長岡赤十字病院では来春からドクターヘリを運用開始します。「ドクターヘリ長岡は、上越や魚沼に出動して、長岡市内は無関係」とお思いかもしれません。しかしドクターヘリは、陸路搬送で20〜30分かかる距離にいる重症患者の転帰を改善する搬送手段です。長岡市内でもそのような地域が実に広く存在しますので、お勤め・お住まいの地域が該当するようでしたら、緊急時はぜひご検討ください。ちなみに私は前院でドクターカーを担当しておりましたので、一般住宅やお店の中、事故現場に出動して治療を開始するプレホスピタルケア(病院前診療)が日常でした。その延長に災害医療がありまして、柏崎や宮城・福島へもDMATとして出動しました。病院内のみに留まっている方が、非日常かもしれません。
 救急医の生態?がなかなかご理解いただけず、さらに正体不明になってきたと思いますが、誰もやらないことに広く何でも取り組む「医療の隙間(すきま)」の担当者と言えます。誤解を受けそうですが、このたび私が長岡に来た理由は重症例を助けたい気持ちが第一です。ただ実際には、重症例を私一人で治療するのではなく、いつも多くの診療科の先生方にご協力いただいています。私はただ全身を診ているだけでして、それがいわゆる集中治療なのですが、もちろん必要ないことも多いです。私はラグビー部出身で、ひたすらスクラムを組んでいる「縁の下の力持ち」的なポジションでした。ボールに1回も触れることなく試合が終わることはたびたびありました。それでもこのポジションは代替ができない専門職なので、実は現状とよく似ています。
 多くの先生方から「なぜ、救急医になったの?」とよく尋ねられます。その答えは「臓器別でなく、全身を診たいから」、「自分の対応によって、すぐに患者が変わるから」とお答えします。「そんなのは嫌だ!」とお思いになる先生が多いかもしれません。
 新潟県は全国で最も救急医が少ない県(人口比)です。少ないながらも前院では救急医を養成していまして、1人ずつ私のように県内に分散してきています。救急医に興味を持った先生、新しいことをやってみたい先生がおられたら、いつから始めても遅くありませんのでご連絡ください。
 最後に、私はイタリアングレイハウンド(略して、イタグレ)という小型犬を飼っています。グレイハウンドはドッグレースに出場する大型の競争犬で、イタグレはその小型犬です。よってイタグレも脚が速いのですが、犬に引っ張られながら一緒に走ったり、山に登ったりするのが、私の今の趣味です。富士山や弥彦山は犬お断り(入山禁止)でして、7月には守門岳を一緒に登りました。登山中に犬を見かけたら、犬もがんばっていますので褒めてあげてください。

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新しい家族   福本一朗(長岡市小国診療所)

 大学を定年になった昨年、新しい家族が増えた。生後一週間ほどで雨の三条の道端に捨てられ、運良く動物愛護センターに保護された姉弟の子猫達だ。初めて合った時、ふたりとも痩せて400gほどしかなく、ケージの隅に踞って職員の呼びかけに低くうなっていたのが、手を差し入れたとたん「お迎え、遅かったね!」とばかりゴロゴロと掌に乗って来た。「雄の方は下痢して肛門脱もあるので育たないかも……」といわれていたが、漢方薬で回復し、今では6.2kgの巨大猫となった。おっとりとしたこの弟はロシア皇帝ミハイルの愛称“ミーシャ”と名付け、別嬪さんの姉は、オーストリア皇后であったエリザベートの愛称“シシィ”の名前を貰った。ふたりはとても仲がよく、食事も一つの皿からお互いに譲り合って一緒に食べ、決して争わない。シシィが再不妊手術のため入院したときミーシャは鳴いてばかりいて食欲が落ちたが、帰ってくると手術創を嘗めて治して抜糸までしてあげていた。家内が亡くなった時には、ふたりで涙を舐めとって慰めてくれた。私が“独居(虚弱)老人”となった今では、猫達が柿山荘の主人となり、キャットウォークを張り巡らせたログハウスを毎日巡回して、侵入を試みる野生動物や害虫を退治してくれている。毎朝定時に起こしてくれるので、猫達のトイレを掃除し朝ご飯をあげてベランダでブラッシングをするのが日課となった。出かける時には、ふたり揃って三つ指突いて見送ってくれ、帰宅するとどこにいても玄関に飛んで来てお迎えをしてくれ、仕事をしていると机にミーシャ、椅子の背にシシィが寝そべってきて離れない。言葉を話せない猫達の心を少しでも理解しようと、老骨に鞭打って「愛玩動物飼養管理士」の資格も取った。人は一人では生きて行けない。命ある限り健康な家族でいてくれることを!
 可愛いペット万歳!!

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長岡市における「食物アレルギー生活管理指導表」の運用について  小柳貴人(立川綜合病院)

国の食物アレルギー対応方針

 平成24年12月、食物アレルギーを有する児童が、学校給食終了後にアナフィラキシーショックの疑いにより亡くなるという事故が発生しました。そこで、文部科学省はこうした事故を二度と起こさないよう、平成25年5月に「学校給食における食物アレルギー対応に関する調査研究協力者会議」を設置し、再発防止のための検討を進め、平成26年3月に最終報告を取りまとめました。この最終報告では、ガイドラインに基づく対応の徹底、教職員に対する研修の充実、緊急時におけるエピペンの活用、関係機関と連携体制の構築等々、学校における食物アレルギー対応について各機関が取り組むべき事項が記されています。
 この最終報告で示された考え方を踏まえ、平成27年3月に各学校設置者(教育委員会等)、学校及び調理上が地域や学校の状況に応じた食物アレルギー対応方針やマニュアル等を策定する際の参考資料として『学校給食における食物アレルギー対応指針』が作成されました。

『学校給食における食物アレルギー対応指針』の要点

(1)食物アレルギーを有する児童生徒にも、可能な限り給食を提供する
 給食は食事の大切さを学ぶ『食育』の場であり、児童の教育に欠かすことのできないものです。クラスメートと一緒に楽しく食べることにより親睦を深める機会でもあります。一人だけ別室で食べたり、給食ではなく自宅から持参した弁当を食べたりすることが『いじめ』につながってしまう懸念があります。そのため、可能な限り友達と同じ教室内で同じもの(給食)を提供するのが推奨されています。
 但し、極微量を摂取しただけで重度のアナフィラキシー症状が出る、こぼれた牛乳に触れただけでアナフィラキシー症状が出る、多品目でアレルギーがあり給食を作ることが困難など、給食提供が困難な例では弁当対応が必要になります。(詳細は後述)

(2)学校給食では「安全性」を最優先する
(3)安全性確保のため、原因食物の完全除去対応(普通に提供するか、全く提供しないか)を原則とする
 以前は施設毎または児童毎に原因食物の除去の度合いがバラバラでした。(例えば、“卵のつなぎ食品までは提供するが卵料理は提供しない”“調味料も含めて完全除去を徹底する”など)これは個々の要望に合わせた理想的な対応のように思われますが、どのくらいの量で症状が出てしまうか(閾値)の判定がしっかりとなされていない児童が多く、アレルギー症状が出てしまう例が度々あったようです。また、児童毎に提供度合いを変えると調理室での手順が煩雑となり、誤提供などのミスにつながりかねないため、今回の指針では『食物アレルギーのある児童にはその食物を全く提供しない(完全除去対応)』『アレルギーが治ったら普通に提供する』の二者択一で対応することが推奨されました。

(4)学校及び調理場の施設設備、人員等を鑑み無理な(過度に複雑な)対応は行わない
 学校の調理室および調理場の規模によっては代替食品の提供が困難な場合があります。この場合、保護者と相談の上で弁当対応を考慮します。

(5)医師の診断による「学校生活管理指導表」の提出を必須とする
 今までは「保護者から口頭連絡のみ」「血液検査結果の提出のみ」などで対応されている学校が散見されました。しかしこれは「過去にアナフィラキシーを起こしたことがあるか」「どの食物を除去する必要があるのか」「誤食発作時にどのように対応するか」などの情報が不足しており、適切な対応が困難です。
 このため、『学校における食物アレルギー対応指針』では全国で統一した書式を用い、医師の診断の基に「学校生活管理指導表」の提出を必須としました。

学校生活管理指導表(アレルギー疾患用、小中学校が主な対象)
・全国で統一した書式が使用されている。
・気管支喘息、アトピー性皮膚炎、アレルギー性結膜炎、食物アレルギー、アレルギー性鼻炎の5項目
・『学校における食物アレルギー対応指針』の発表を受け、平成年274月から多くの自治体がこの書式を使用開始した。けれども記入個所が多く煩雑であるため、長岡市では文部科学省に認可を得て食物アレルギー欄のみを使用することになった。

学校生活管理指導表記入のポイント

(1)空欄を作らない
・「病歴・治療のA〜D欄」および「学校生活上の留意点A〜E欄」はすべて記入して下さい。(アナフィラキシー既往が無い場合のみ「病歴・治療のB欄」は空欄)
・「病歴・治療のC欄」には除去が必要な食物をすべて記入して下さい。番号に丸を付け、除去品目は右側の括弧内に記載してください。(果物類に○がついているが、どの果物を除去する必要があるのか記載がないなど、不備が散見されます)学校給食でほとんど提供されない食物についても記載をお願いします。(修学旅行中の食事など、学校給食以外で摂取してしまう可能性があるため)

(2)「学校生活上の留意点E.その他の配慮・管理事項(自由記載)」には必ず追加情報を記載する
E欄に記載すべき事柄
・弁当対応が必要か否か(弁当対応の基準は後述)
・微量のコンタミや油の共用でも症状が誘発される可能性があるか否か
・鶏卵アレルギー児において、加熱卵およびマヨネーズの摂取が可能になれば給食での提供が可能とされていますが、半熟卵および生卵の除去がまだ必要である場合はその旨をしっかりと記載して下さい。(修学旅行中のすき焼きなど、生卵を摂取する可能性はゼロではないため)

弁当対応が必要な児童

(1)極微量で反応が誘発される可能性がある
・調味料、だし、添加物の除去が必要
・加工食品の欄外表記(注意喚起)の表示に対して除去が必要
・多品目の食物除去が必要・食器や調理器具の共有ができない
・油の共用ができない
・その他、上記に類似した学校給食で対応が困難な状況

(2)給食施設の設備状況や人員等の対応が困難な場合
・給食を作る設備が不十分で代替食の提供が不可能な場合など
※「アナフィラキシーの既往がある」「エピペンが処方されている」だけで弁当対応を指示するのは止めてください。

保育園等における生活管理指導表(アレルギー疾患用)
 平成28年9月より、小中学校の学校生活管理指導表に倣い、長岡市公立保育園/幼稚園でも生活管理指導表に統一した書式を使用する運びとなりました。
 記入方法は学校生活管理指導表に準じますが、一部項目が異なっています。

「園での生活上の留意点B.アレルギー用調製粉乳」
 乳アレルギー児でアレルギー用ミルクを利用している場合は記入して下さい。

「園での生活上の留意点D.除去食品で摂取不可能なもの」
 ここに挙げられた食品はアレルギーがあっても、ほとんどの症例において摂取が可能です。極微量の摂取で症状が誘発されるような重症例のみチェックが入ります。

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巻末エッセイ〜中村紘子さんを偲んで 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 世界的ピアニストの中村紘子さんが7月に亡くなられました。数年前に音楽活動休止されて闘病生活に専念(消化器腫瘍)、快復でいったん演奏を再開されたものの、72歳の誕生日を夫の庄司薫さんとともに過ごした翌日にご逝去されたそうです。「もっとよい演奏法を試すわ」と希望を語られたのが最後の会話だったそうで、さすがであります。

 音楽好きな姉が中学生になり、ようやく買ってもらったピアノを弾いていました。小学生の自分も真似事を始めたが、左右の手が別々には動かないため、ピアノはすぐにあきらめました。音楽は聴くだけ派。

 高校の音楽の期末試験の一問が印象的でした。担当の美人教師のバンカラ男子高校生相手の大サービスだったかも。「あなたの知る現代日本の音楽家(作曲家・演奏家等)の名前を書きなさい。」「質問でーす。クラシックじゃない歌手でいいですか?」先生……絶句。
 昭和44年当時、ここで筆頭に挙げたのが、15歳のわたしは中村紘子でした。今計算すると、この頃彼女は25歳。もちろん知るよしもないが、結婚することになる作家の庄司薫と交際開始した頃らしいです。

 「赤頭巾ちゃん気をつけて」がその代表作、昭和44年芥川賞。わたしは高校生でしたが、原作を読まぬままに、翌年公開の映画を見ました。癒し系の青春まっただなかな感じの主役の薫クンを岡田裕介が演じ、彼女由美ちゃんは森和代というキュートな女優。長く心に残る映画でした。

 その後大学時代に、薫くん4部作は読みました。電子本(字を拡大でき老眼向け)でも購入してときに読み返します。その「赤頭巾ちゃん……」にこんな一節があります。
 「中村紘子さんみたいな若くて素敵な先生について優雅にショパンなんか弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ。」
 これを編集者に教えられた中村紘子は、作者の写真を見て、さらに小説をじっくり読む。……ピアノ弦ならぬ心の琴線に響く、当時25歳です。「……私、この人と結婚するわって。なぜそう思ったのかは今もわからない。だが確かなのは、すでに恋に落ちていたということだ。」と新聞特集の本人の後日談です。

 彼女は自分で電話をかけ、本を持参でサインをもらいに会いに行ったのが初回デートです。お付き合い五年で結婚にゴールイン。その後も仲の良い夫婦で有名だったようです。

 家に溢れる本をときに処分するが、絶対手放さない一冊です。庄司薫『ぼくが猫語を話せるわけ』(昭和53年発行、当時、庄司41歳、中村34歳、結婚5年後)この表紙の月を見上げるシャム猫の挿絵、文中の瀟洒なカットも中村紘子の手になる。この韜晦混じりの文章によれば、犬派だった彼がピアニストの海外演奏旅行の際に頼まれ、飼い猫を預かり、なかよく暮らす。そのシャム猫ダンクにお手を教えたらしっかり覚えたそうで、犬みたいになったと帰国した中村を驚かせたとか。しょっちゅう猫を預かっているうちに、いつのまにか飼い主も引っ越してきたんだそうです。

 数年前、中村紘子のデビュー50周年記念CD集が発売されました。最新の録音。BDのピアノ協奏曲『皇帝』も最新録画、こっちは古めの動画(お太りになる前の)がよかったかも。写真集付きで、若いご夫婦と飼い犬や飼い猫の写真が数枚ありました。才色兼備なピアニストの「押しかけ女房」が、しあわせな家庭にも恵まれたのがよく伝わりました。

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