長岡市医師会たより No.439 2016.10


もくじ

 表紙絵 「百フ堤」 丸岡稔(丸岡医院)
 「故 阿部滋夫先生の思い出」茨木政毅(茨木医院)
 「江部医院三代目襲名、早一年」 江部佑輔(江部医院)
 「第46回長岡市医師会会員ゴルフ大会」 吉田正弘(吉田医院)
 「蛍の瓦版〜25」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「平成28年度全体懇談会」 (編集部)
 「巻末エッセイ〜里山の恵み ムカゴ」 江部達夫(江部医院)



「百間堤」 丸岡 稔(丸岡医院)


故 阿部滋夫先生の思い出  茨木政毅(茨木医院)

 阿部滋夫先生は平成28年9月15日、ご病気のため91歳にて、ご逝去されました。謹んで御冥福をお祈り致します。
 脳梗塞にて療養されておられると御長男の映一先生より、お聞きしていましたが、最近はお見舞いにも伺っておらず失礼致しておりました。阿部先生に初めてお目にかかったのは、はっきり覚えておりませんが、私の父も眼科医でしたし、共通の趣味であるゴルフで常に父と一緒にプレイしておられ、私の自宅にもしばしばおいでになっていました。
 きちんとごあいさつに伺ったのは父が心筋梗塞で倒れた昭和47年の秋でした。当時先生は長岡市医師会理事や裁定委員、副議長、そして長岡眼科医会会長として御活躍しておられました。父が倒れて急いで眼科を継承し、西も東もわからない私には唯一、何でも相談して御指示を仰ぐことのできる先生でした。特に長岡眼科医会会長として会をまとめ、特に学校医の担当には不公平にならないように気を配っておられました。先生はお酒をあまりめしあがらないので、二次会には参加されませんでしたが、会長を退りぞかれてからも長岡眼科医会には必ず出席されて、我々に御助言をされ、会の発展につくされておられました。
 先生は旧南蒲原郡中之島村、現長岡市中之島の御出身で、昭和32年6月新潟医科大学専門部を御卒業になり、昭和32年新潟大学にて学位を取得されました。昭和34年厚生連中央綜合病院(現長岡中央綜合病院)眼科医長に就任され、昭和35年8月長岡市神田に眼科医院を開設されました。そして平成22年度秋の叙勲で、50年に及ぶ学校医活動の功績にて瑞宝双光章を受けておられます。
 このように私は眼科開業医として、先生にはたいへんお世話になり、御指導を受けました。
 それからゴルフについてです。先生と私の父とはゴルフにおいても常に一緒で、いろいろとエピソードがあったことは、先生が書かれた私の父への追悼文(平成5年9月号)にもありますが、父がゴルフ場で倒れたため、私はゴルフをなかなか始められませんでした。
 しかし私が50歳になった時、そろそろゴルフを始めたらどうかと、私の背中を押していただき、長岡メジカルゴルフクラブに入会する時に推薦人になっていただきました。
 ご存知のようにゴルフは初心者にはなかなかむずかしいところがあります。プレイはもとより、ルール、ローカル・ルール、マナーについていろいろ取り決めがあります。その指導者になっていただき、しばらく同じ組でプレイさせていただきました。なんとか会員の方と一緒にゴルフができるようになりました。残念ながらゴルフは全く上達せず、いつも下位をうろうろしており、先生の御期待にそえませんでした。
 メジカルゴルフ例会では故下田四郎先生が「茨木君、ゴルフはボウリングのようにはいかないね。」と少し皮肉のように言われましたが、阿部先生は決してそのようなことは言われませんでした。私の努力が足りなかったと大いに反省しております。
 とりとめもない事を書きましたがもう一つ、先生の御子息が医学部に入学された時、父がお祝いを持っていってくれといわれ、お伺いしました。私の娘が医学部に入学した時はお祝いをいただきました。現在長岡市新保で眼科開業をされ、盛業中の映一先生も覚えておられました。阿部滋夫先生、映一先生そしてお孫さんの駿先生(立川綜合病院に勤務された時)にお会いして三代にわたり親しくしていただきました。また、御次男の阿部博史先生は立川綜合病院副院長・脳神経外科主任医長として御活躍され、私どもの職員の病気の件では大変お世話になっております。
 このように私が長岡に戻ってからいろいろ御指導を受け、またゴルフでも貴重な御助言をいただいた阿部滋夫先生とお別れしなければなりません。
 このたび先生があちらの方に行かれ、父も再び先生とゴルフができると喜んでいるのではないでしょうか。拙い文章ですがお別れの言葉といたします。

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江部医院三代目襲名、早一年  江部佑輔(江部医院)

 お盆休み明け、机の上を整理していたらこの原稿依頼を発見した。
 父からも言われていたので、そろそろ来るだろうとは思っていたが、すでに来ていたとは。
 私は父ほどではないが、文章を書くのは嫌いではない。詩もよく綴るし、俳句も読む。また祖父ほどではないが絵も描く。作文も作画もする点では父や祖父よりマルチではあるが、両者のように長けた能力はなく、あくまで自身が楽しむだけのもの。やるときは一晩中やっているのだが、ただ、気が向いた時だけなのである。締め切りは8月31日。あと2週間。隣にいた父が“ぼん・じゅ〜る”の連載原稿のゲラを僕に見せて「どうだ」という顔をしている(僕にはそう見える)。困った。僕は気が乗らないと全く文章が書けない性質(たち)なのである。病理学教室で仕事をしていた時も、長岡赤十字病院雑誌や県医師会の投稿も、ともかく気が乗らないと全く書けない。なんともならないのである。僕は決まり事で文章を書くのが苦手なのである。時間も、内容も、文字数も。今までそれなりにはこなしてきた。しかし、それはたまたま気が乗ったからである。ことに夏は文化的活動などからっきしダメで、知力より筋力・体力を鍛錬する時期となっているため、筆が進みようもないのである。
 江部医院を継いで(継いだといっても、父は毎日医院に来ている)、もう直ぐ一年になる。大学病院の日雇労働者や長岡赤十字病院みたいな大組織の歯車の一つでいたときとは違って、小さいながらも一国一城の主、江部医院院長三代目を襲名してしまったのである。従業員や家族を食わせていく義務がある。医者になって四半世紀、数字の計算といえば%やら有意差がどうとやらばっかであったのが、今は否が応にも毎日のように点や円の計算をしなければいけない。毎日「医科診療報酬点数表」とにらめっこである。レセプトの確認も以前とは違う。病院勤務医の時なんて申し訳ないがまじめにレセプトなど確認していなかった。事務方から付箋をあらかじめ入れられた所のみの修正だけして終わり。今は自分がしっかり目を通さないといけない。気が乗らないは許されないようである。
 昔はよかった。医者として唯々患者と向かい合っていればよかった。莫大な医療費がかかる診療をして、たまには病院の管理職から注意されたこともあったが、ダメとは言われなかった。今はCPAP管理料一人分の請求が漏れても「あ、しまった」なのである。保険請求の事はまるで無知であった。なんとか管理料は取れるのか、そのためには施設認定をどうするのかなど考える日々。あー、嫌だ。そんなことするために医者になったんじゃない。
 祖父や父の後ろ姿を見て育った。幼少のころから医者になるもんだと思っていた。だから、何年浪人してでも医学部に入った。医者という仕事は好きだ。肺癌やCOPDなどに興味があった。しかし、僕が駆け出しのころにはまだいい薬がなかった。しばらく病理学で勉強して、21世紀になって臨床に戻った。そうしたら驚きである。進行肺癌の患者が1年以上も元気で過ごせる薬が出てきた。しばらくするとCOPD患者の症状が楽になる薬が出てきた。睡眠時無呼吸なんて学生時代勉強もしたことがない疾患が注目を浴びるようになった。そんな時に長岡赤十字病院に来た。そりゃあ臨床が楽しくなる。人工呼吸管理の世界も進化した。敗血症・DIC治療成績も劇的に改善した。救急の仕事も楽しくなった。DMAT隊員にもなった。その2年後に未曽有の災害を経験することになった。自分らの無力さを知ることにもなるが、しかし、人間の逞しさも同時に知ることにもなった。日本赤十字社の災害対応能力の高さにも感動した。
 そして8年があっという間に過ぎた。
 父も80になろうとしていた。自分も50を過ぎた。調度いいころ合いだと思って長岡赤十字病院を辞した。未練はあった。でも、これから在宅医療が見直される時代だと気合満々で医院に入った。そう、だから毎日嫌々ながら、保険請求関連の書類に目を通している。考えてみれば、この制度は、患者が適切な医療を受けられるための制度でもある。私が患者と真摯に向き合い、診療を継続するために必要なことなのであると考えるようになった。
 家業を継ぐときの目標の一つが、我が国の在宅看取り率の向上であった。フェニックスネットも始まった。これから多くの人に周知され、しっかり運用されてほしい計画であるし、自分も一緒になってやっていきたい。長岡赤十字病院時代、肺癌末期のある患者さんの希望で自宅にてお看取りをしたことがある。訪問診療以外でも、仕事の帰り、鋸山に登った帰りに自転車で患者さん宅に立ち寄り顔色を見て帰ることもあった。そして最期の日、ご家族から感謝の言葉をいただいた。そうだ、その時から僕も最期は自分の家で迎えたいと考えるようになった。だからそういう医療をやろうと決心したんだ。あ、この原稿のおかげで自分の決心を思い出した。よかった、よかった。それに乗り気でなかったのに依頼趣旨にあった文章らしいものが出来てきた。長岡市医師会の皆さん、こんな気分にムラの多い私ではありますが、これからも末永くよろしくお願いします。

 最後に

ヒグラシの 音に筆を止め 吾に帰す

 お粗末。

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第46回長岡市医師会会員ゴルフ大会  吉田正弘(吉田医院)

 平成28年9月18日、長岡市医師会会員ゴルフ大会が行われました。長岡カントリー倶楽部東コーススタートで参加者は12名でした。私は1組スタートで柳京三先生、西村紀夫先生、田辺一彦先生と、回らせていただきました。今年は日曜日に晴れの日が多かったのか、雨に降られてのラウンドは今年初めてでした。天気予報も雨となっていたので、いつもより飛距離が出ないと思いアイアンをあまり馴れていない、2クラブは飛ぶといわれているヤマハのRMX2+に入れ替えてきました。(普段はゼクシオのアイアンを使っています)。しかしこれが仇となって、アプローチのミスが多く出て、私としては良いスコアの出やすい東コースで49を叩いてしまいました。前半を終わって、クラブを変えて失敗したと後悔しましたが、西コースは調子を取り戻して何とか43で回れました。
 この日は雨で芝が強くラフに捕まるとボールがくわれてなかなか思うように飛んでくれないし、バンカーはまるでベアグランドのようで、同伴の先生方も苦労している様子でした。(長岡カントリーには、もう少しバンカーに良い砂を入れるなど手入れをしてもらいたいと思います!)
 表彰式と懇親会は例年通り魚藤で行われました。参加者は7名で残念ながら全員参加ではありませんでしたが、和やかな雰囲気で楽しく親睦を深める事ができました。
 競技は運良くダブルペリアのハンディに恵まれて優勝させていただきました。賞品で果物を頂きましたが、たまたま孫の家族が遊びに来ており、非常に喜んでおりました。ありがとうございました。
 話は私事で申し訳ありません。私は昨年まではあまり練習場には行きませんでした。何故なら、我流でいくら練習しても、悪い癖がつくだけで上手くならないと思っていたからです。ですが、やはり練習しなければ上手くはならないのも事実だし、年齢的にも(うまくなるには)今が最後と考え直し、春先から一生懸命練習場に通い、コースにも家庭を顧みず積極的に出るようにしました。(週2回は練習場に通い、今年のラウンド数も30回を超えました。)スウィングも自分なりに改良し(たつもり?)、練習場では、比較的安定したショットが打てるようになりました。が、相変わらずコースに出るとミスショットが多く、返り討ちに遭った気分で家に帰る事が大半です。しかし今を逃せば、上達できる条件がさらに厳しくなるので、あきらめずに練習場に通っています。長岡のゴルフシーズンも、もう少しで終わってしまいますが、来年には一皮剥けたゴルファーとなって、ゴルフ生活を満喫したいと願っています。これからも会員の皆様とも楽しくラウンドさせて頂ければ幸いです。

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蛍の瓦版〜その25   理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.看護師
 3か月お休みを頂戴しておりました他職種紹介シリーズです。医療に関わる職種の中で、最も人員が多いのが看護師で平成26年の就業者数は160万余人あり、年々3万人程度増加しています。同時期の医師31万人、歯科医師10万人、薬剤師は29万人です。平成14年に法律の改定があり、それまでの看護婦と看護士であった名称が看護師に統一されました。現在男性の割合は7%弱ですが増加傾向です。
 看護師は3千時間以上の養成教育を受け、国家試験に合格すると厚生労働大臣から免許を公布されます。一方准看護師は2千時間弱の教育を受け、都道府県知事試験に合格すると知事から免許を公布されます。准看護師として就業されている方は現在34万余人ですが、この制度は70年前の看護師不足への対応で設けられた経緯もあり、年々減少しています。准看護師が減少する一方、各地に4年制の看護大学が新設され、昨年の看護師国家試験合格者の4割が大学の卒業者でした。長岡でも平成30年度には、田宮病院に隣接する長岡看護福祉専門学校が看護大学へ移行します。
 公衆衛生に関わる保健師と、正常分娩の助産行為が認められている助産師は、いずれも看護師免許取得が必須とされ、さらに養成教育を受け国家試験に合格する必要があります。平成26年の保健師の就業者は5万9千余人あり、その内6割の勤務先は保健所や市町村役場でした。助産師は約3万8千人弱で、9割が医療機関に勤務し、助産所での就業は2千人足らずです。
 看護師全体では、82%の人が病院や診療所で就労され、この比率は10年前と変わりません。近年増加している介護保険や福祉関連の施設の多くは看護師の配置が義務付けられています。現在看護師全体の10%の方が就労し、毎年少しずつ比率も増加しています。その他居宅サービス(ケアマネ)には5万5千人、訪問看護ステーションには4万人が所属しています。

2.看護協会
 看護協会は昭和29年に設立され、医師会同様に任意加入です。昨年度の会員数は7万1千人と就業者の半数弱が加入し、医師会同様に、郡市レベル・県・全国の三層構造となっています。新潟県は11の支部と1万5千余人の会員で、長岡市は小千谷市とともに長岡支部に属し会員数は3110名です。

3.専門看護師と認定看護師
 看護協会では研修制度の充実を計り、平成8年から独自に“専門看護師”、“認定看護師”、“認定看護管理者”を認定しています。医師の学会が独自に認定する専門医と同様に、5年間の臨床経験後に一定の研修を受け試験に合格し、5年ごとに資格更新する必要があります。
 “専門看護師”にはがん看護・精神看護・慢性疾患看護等11の分野があります。看護学の修士課程修了者を対象とし、全国では1678名が認定されています。さらに資格更新には研修の受講だけではなく、日常の業務や教育活動に関するレポート提出等かなりハードルの高いものです。長岡地区でも2人の方が“がん看護”の分野で、活躍されています。
 同時に始まった“認定看護師”は、全国で約1万6千人が21の分野で認定されています。長岡地区は、感染管理や救急看護等の17分野において44名の方が資格を取得されています。看護部長等の管理者を対象とした同様の資格が“認定看護管理者”で、長岡地区にも1人が認定されています。

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平成28年度全体懇談会  (編集部)

 9月7日(水)午後6時45分よりホテルニューオータニ長岡にて開催されました。
 高橋暁理事の進行のもと、長尾政之助会長の挨拶に始まり、急患診療事業の報告事項として、「長岡休日・夜間急患診療事業」について高木正人理事より、「長岡市中越こども急患センター事業」について奥川敬祥理事より報告が行われました。
 続いて、講演として、1題目に「胃がんに対する内視鏡検診」と題して、胃がん検診ガイドライン、新潟市の胃がん内視鏡検診、長岡市での取り組みについて長岡中央綜合病院 富所隆先生よりご講演をいただきました。2題目に「在宅医療連携システムについて」草間昭夫副会長から改めてのこのシステムの概要と現在の登録機関数や患者数等について説明がありました。3題目に「地域医療構想に係る中越地域の検討について」長岡地域振興局健康福祉環境部部長 片桐幹雄先生より、制度の概略や中越地域の検討結果報告書(案)の内容等についての詳細な説明をいただきました。
  その後、会場を移し懇親会が行われました。齋藤良司顧問の乾杯で開宴となり、大貫啓三顧問の中締めにて盛会裡に終了いたしました。出席者は、72名でした。

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巻末エッセイ〜里山の恵み ムカゴ 江部達夫(江部医院)

秋深み無心になりてムカゴ摘む

 私の年間の行事の一つに、秋はムカゴ採りがある。十月下旬、十一月上旬の三週間の期間限定。

 ムカゴ(零余子)は植物体上に生じる芽の一種、成熟すると母体から離れて新しい個体に成長するもので、胎芽とも言う。色々な植物に生ずるが、私が食用として採っているものはヤマノイモとミズのムカゴだ。
 ヤマノイモは里山に広く分布し、冬を越した地下根の親薯や前年に落ちたムカゴが、初夏に芽を出す。一日四、五センチの早さで伸び、雑木に蔓性の芽を左巻きにからませて、羽状複葉の形で葉を出して四、五メートルの大きさに生長する。蔓の上方で葉腋に一ケずつのムカゴを付ける。
 ムカゴは十一月、木枯らしが吹くとからんでいた雑木が大きく揺れ、地に落ちてしまう。その前に採らなければ野ネズミの冬越し餌となる。私のムカゴ採り、以前は一つ一つ摘んでいたが、二十年前から茎から落ち易くなった晩秋、初冬に、コウモリ傘を逆さに広げ、鉤の付いた棒でヤマノイモの蔓がからんでいる木の枝をゆすって落とす。バラバラと音をたてて落ちてくる。多いと一回に百ケのムカゴが採れる。

 長岡近郊の里山、豊作の年は一シーズンに三、四キロのムカゴが採れる。冷凍庫で保存しておくと一年中おいしく食べられる。

 ヤマノイモは年により殆どムカゴを付けず、花穂だけで終わることがある。どこの山でも同じ現象、遺伝的に周期があるのか、七月までの天候に左右されるのか不明。
 昨年秋は?がたくさん実を付け、関川村では熊が里に下りて来なかった。里山ではヤマノイモがムカゴをたくさん付けた。この秋は?の実は不作、熊が里に現れ始めているようだ。この秋はムカゴも生りが悪いかもしれない。

 ムカゴの食べ方、簡単なものは茹でるか、電子レンジで加熱して塩を少量振りかけて食べる。ビールのつまみに合っている。
 十月にゴルフコンペをすると、私と組む仲間達、山菜採りをする仲間、コースを廻りながらムカゴ採り。ゴルフ用の大きなコウモリを広げ、アイアンで枝を揺すって集めて来る。ゴルフが終わる頃には一キロは採れている。夜の打ち上げの会、料理屋で空揚げか、掻き揚げにしてもらう。山程のムカゴ料理、二十人の手が伸びるとあっと言う間に無くなってしまう。それ程の人気料理だ。

 近年、秋に里山にある温泉旅館に泊まると夕食にムカゴご飯を出してくれる。都会からの人達に喜んでもらえるご飯だと。子供の頃はムカゴは農山村の代用食位に思っていたが、今や高級食材になっている。

 吾家でのムカゴ料理の定番は、ムカゴ粥だ。週一回は朝作っている。ムカゴと焼いた塩鮭を一緒に粥に炊きこむ。冷凍したムカゴを使って一年中食べている。子や孫達の好物だ。

 コウモリ傘でのムカゴ採り、時にびっくりする事がある。木を揺すっていると蛙が落ちてくる。これは驚かないが、この二十年間で二回、蛇がどさっと落ちて来た事がある。二回とも青大将であった。
 これも食物連鎖なのだ。ムカゴを食べに虫が寄って来る。それを狙ってカエルがやって来る。更にカエルを食べようと蛇が登って来るのだ。人は更に蛇を狙っているわけではないのだが。

 さあ秋だ。秋の山は楽しい。皆さんもムカゴを探してみませんか。近頃、長岡の山も熊が出て来るので十分注意しながらですよ。

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