長岡市医師会たより No.443 2017.2


もくじ

 表紙絵 「春を待つ刈谷田川」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「故鳥羽嘉雄先生のご逝去を悼む」 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「鳥羽先生のこと〜リーダーの条件」 丸岡稔(丸岡医院)
 「故鳥羽嘉雄先生の思い出」 三上英夫(三上医院)
 「見つめる先には夢がある」 渡部和成(田宮病院)
 「進撃の巨人」 須田義裕(長岡中央綜合病院)
 「蛍の瓦版〜その29」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜帽子大好き」星榮一



「春を待つ刈谷田川」 丸岡 稔(丸岡医院)


故鳥羽嘉雄先生のご逝去を悼む  齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)

 鳥羽嘉雄先生が平成29年1月25日ご逝去されました。衷心より哀悼の誠を捧げます。
 先生は昭和61年から平成4年まで長岡市医師会長を務められ、長年にわたり長岡市医師会並びに地域医療に貢献され、多大の業績を残されました。感謝申し上げます。
 私が初めて鳥羽先生にお会いしたのは昭和62年、先生が長岡市医師会長就任間もないころで、開業の挨拶に先生の自宅をお尋ねした時でありました。丁重に応接間に通され、奥様から美味しいお茶を頂いたことを覚えています。
 先生は大きなお顔で眼光鋭く精悍な面持ちで、強い存在感が印象的でありました。私のことについては既にご存じらしく細かい質問は無く、長岡市医師会の将来について情熱的に語られました。最後に「元気に頑張りなさい」と温かく背中を押して頂きました。
 その後は年賀状に励ましの添え書きを頂く程度のご厚誼でした。又たまに総会等でお会いし、会員を鼓舞する巧みな訓話を楽しく拝聴していました。しかしなかなか深く先生を理解する機会はありませんでした。平成4年私が医師会理事に参画した時には、鳥羽先生は会長職を関根先生に譲り退任されたあとでしたので直接指導を受ける機会を失いました。
 若輩で親交も浅い私が鳥羽先生を語ることは些か荷が重く、的外れとなることを怖れています。
 そこで先生が会長時代になされた業績と年頭所感や執筆などを頼りに鳥羽嘉雄像に少しでも迫ってみたいと思います。
 先生は酒豪で、豪放磊落とよく聞かされますが、私には頭脳明晰で先見性があり、粘り強く行動的な面が印象的です。交渉を進める時の迫力と粘り腰はよく知られる処です。
 これこそが膨大な医師会史の編纂・発刊、休日診療所の移転拡充、学校検診の充実など多数の業績を見事に達成された隠れた原動力と思います。先生は全方位作戦で尽力されたようであります。
 医師会史の「発刊のことば」のなかに「編纂委員会に単なる堅い歴史書というよりも一つの読み物として楽しく読めるものにしてほしい」と注文を付けています。
 本書の内容は江戸時代から昭和64年ころまでで、年表は明治元年から昭和63年に及び、その他に各時代、各分野の重要問題を詳細に選び解説しています。太平洋戦争で町が焼かれたにも拘わらず、旧医家から資料を集めて、記述が具体的であり有名な医学者も出てきて、読み物としても成功しています。なお、残念なことに本誌は出版時に会員に配布されたのみで現在は絶版とのことであります。改訂版が望まれます。
 これまで挙げた諸問題の他に准看護学校、検査センターの存廃にも大変なご助力をいただきました。長い間医師会のためご尽力を頂き感謝申し上げます。
 長岡市医師会の“ぼん・じゅ〜る”の1月号には、毎年会長が想いの丈を書き、会員に所感を述べる紙面が設けられていますので、鳥羽先生のご在任中の所感の要点を書き出してみました。

 昭和61年 「開業医と勤務医の協調」「健康を住民と共に考えよう」
 昭和62年 「理事会では報告は簡潔に、協議は活発に」「学校検診の充実」「病診連携を」
 昭和63年 「ボランティア精神をもって地域保健活動に参加を
 昭和64年(平成元年)  「今後は肥満、アレルギー疾患、いじめ、登校拒否、自閉症等へ精神科医の参加を」
 平成2年 「長岡市医師会史の発刊」
 平成3年 「全員参加の皆の医師会を」
 平成4年 「医師会員もポリシーを持って」

 最後に先生の晩年の句を味わい、新医師会館の鍬入れ式の写真を見ながら先生を偲びたいと思います。

 平成25年  五十年の医院を閉じて初暦
 平成26年  八十路坂越えて五年(いととせ)初日の出
 平成27年  恙なく米寿迎え初日の出
 平成28年  子や孫が集いて楽し屠蘇の膳
 平成29年  紅葉散り雪の花咲く楓かな

 先生長い間御苦労様でした。まだ心残りのことも沢山あった様に拝察します。先生の生き方の中から沢山のことを学ばせて頂きました。
 鳥羽先生 本当に有難う御座いました。安らかにお眠り下さい。合掌

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鳥羽嘉雄先生のこと〜リーダーの条件   丸岡稔(丸岡医院)

 「鳥羽先生はロマンチストですね。」と一緒に酒を飲んでいる時に申し上げたら、「えっ、おれが? アハハ。」と笑いながら「そんなことを言われたのは初めてですよ。」と、途惑ったような、照れたような顔をされました。私が長岡市医師会の理事になって、親しく鳥羽先生の言動に接している中に、医師会と長岡市の医療の在り方に、先生の並々ならぬ想いが感じられていたからでした。私情を交えず、理想に情熱を傾ける姿に、ロマンを感じられたからに他なりません。
 昭和40年代の終わり、長岡市の休日と夜間の救急医療をどうするかが大きな問題になっており、これには密なる病診連携が不可欠であります。これについて何度も何度も会合を重ねましたが、いつも総論は賛成でありながら各論で足踏み状態が続いていました。ある日のこと、日赤病院に赴任されて間もない和田寛治先生が会に出席されました。いつもの空気の中で、先生が突然立ち上がり、「先生方、それでも医者ですか。目の前に具合の悪い患者さんが居るのですよ。」急転直下というのは、この時のことを言うのでしょう。和田先生のこの一言で、長岡市の救急医療体制が確立したと思います。
 このようなことがあって数年後、私は和田先生と共に、鳥羽会長の下で理事の一員として仕事を共にすることになるのですが、和田先生は病院代表の副会長になりました。
 ある日、和田先生と飲んでいる時、「おれは鳥羽先生の言うことなら何でも聞く。」と言われました。豪放磊落のように見えて、実に繊細な神経の持ち主である和田先生が、このようなことを言われたのは驚きでありましたが、充分に納得するものがありました。
 和田先生のこうした気持ちは、毎月の理事会で鳥羽先生の考えに全面的に協力する姿勢に現れていました。鳥羽先生の医師会長時代の特筆すべき業績の一つに、長岡市医師会史の発刊があります。このような仕事の常として、成否には“時”と“人”が大きく関係します。すでに鈴木宗前会長時代に副会長として鳥羽先生は共に構想を練って来ておられました。同時代に長尾景二先生、市川豊樹先生という、地域の歴史に特別なアンテナを持ち、しかも健筆家であったお二人を得て始めた“ぼん・じゅ〜る”の「医院界隈」のシリーズは、医師会史の作成に極めて大きな力となりました。私は密かに、この鈴木、鳥羽、長尾、市川の諸先生のコンビネーションの絶妙さに胸を躍らせていました。いつか、誰かが、必ずやらなければならなかったこの事業が、互いに響き合う4つの魂が核になって、完成に導いたものと考えます。
 医師会史が完成して間もない頃に何か大きな会がありました。鳥羽先生が、私の前に来られ、「申し訳ありませんでした。絵を逆さにするなんて、あってはならないことだったのに……。」と深々と頭を下げられました。実は医師会史のカットのことで、当時“ぼん・じゅ〜る”の表紙を担当していた斎藤寛先生と私の作品の何点かがカットに使われていました。斎藤先生の作品は兎も角、私のは全部版画で、満足の行く作品は出来ていなかったので、カットに使うなら事前に相談してくれればよかったのにと思っていたのでした。逆さになっていたのは信濃川に降りしきる雪がモチーフでした。出来上がった本のカットを見て、この信濃川のカットは考えていたより面白いなと感じて実は逆さになっていることに気づいていませんでした。鳥羽先生に頭を下げられて、私はあわてて、「どうか気になさらないで下さい。あれは逆さの方が却って面白かったのですから。」と申し上げたのですが、「そんなことを……。」と言われた途端、大粒の涙がぽたぽたと畳の上に落ちたのでした。この時、私は且ての和田先生のように、「この先生の言うことなら何でも聞こう。」と思いました。
 90年近く生きて、沢山の人を見、いろいろな人と接して来ましたが、その中でリーダーの条件として三つ挙げることが出来ます。「理想」「愛情」「責任」です。そこから自ずと情機熱機も決断機機も、品格機機も生まれると信じています。私は戦争末期の一時期、海軍に籍を置いていたことがありますが、そこで優れたリーダーに出会い大きな影響を受けました。ある日鳥羽先生に「世が世なれば先生は一流の艦長になれましたね。」と申し上げたことがありますが、又一人、かけがえのない人を失ってしまいました。

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故鳥羽嘉雄先生の思い出   三上英夫(三上医院)

 先月、1月25日鳥羽先生の突然の訃報に接し、ビックリし言葉が出ませんでした。少し前に腰痛がある、降圧剤を服用しているとは伺っておりましたが、他に体調不良とは聞いておりませんでしたので本当にショックでした。謹んで御冥福をお祈りします。
 私は昭41和年に開業しましたが、その後間もなくしてある先生に我々の勉強会に入らないかとお誘いを頂き出向いてみました。そこに野本安行先生、鈴木宗先生、窪田武久先生、鳥羽嘉雄先生らの中央病院におられた大先生方が出ておられ、日赤病院出の若輩の私は果たして先生方についてゆけるかどうか心配でした。でも、先生方の専門のお話をお聞き出来ましたし、小生の難渋する患者さんの相談にものって頂きましたので毎月出席しておりました。先生方とのお付き合いはこの時から始まりました。この会の主体は学問でしたがその時代の流行にのって皆でボウリングも楽しみました。熱心な先生は日曜の早朝から練習をやっておられた様でした。数年後……野本、鈴木、窪田先生が相次いで亡くなられ、この勉強会は自然消滅しました。
 鳥羽先生とは一緒に旅行もしました。他の先生とその家族、薬剤師、プロパー等と四国へ行った時の事、高知県の景勝地桂浜を散策、次いでその近くの鍾乳洞を見廻って昼食となりました。地元の海でとれた魚介類を頂戴し、その日の宿泊地高松市へ向かったが、夕方から腹痛、悪心、下痢が始まりました。暴飲、暴食のためと思っておりましたが、同行者の大半が同様の症状を訴えており、これは食中毒だということになり、高松保健所に連絡をしておきました。この時も鳥羽先生は何ら異常を訴えられず胃腸の大変お丈夫な方だなという印象を受けました。忘れられない思い出です。
 この鳥羽先生が急逝され、とうとう独りとり残されてしまい、憂鬱な毎日を送っております。
 鳥羽先生、長い間お付き合いいただき、いろいろ御指導賜りまして有難うございました。改めて厚く御礼申し上げます。

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見つめる先には夢がある   渡部和成(田宮病院)

  「見つめる先には夢がある」—写真をご覧ください。猫の絵が真っ直ぐ立てられた高さ20センチほどの平らな石に描かれています。猫の透き通った緑の目が力強く遠い未来の遥かな夢を見据えています。きりりと前を向く猫の顔の横にこの言葉が記されています。夢を追って生き続けることの素晴らしさが伝わって来ます。
 この石は、2年程前、名古屋から長岡に移って来た翌年の秋に、ハイブ長岡前で、展示販売している40代と思しき女性の作者から私が値を尋ねることなく即断し購入したものです。この作者は石に猫の絵を描くことを得意としている方のようです。猫の姿を描いた数々の石を展示販売していました。
 たまたま作者の販売ブースを覗いた私は、この写真の猫の姿と添え書きに強く胸を打たれました。私がこの石を見つけるや否や躊躇することなく購入したい旨を販売していた作者に伝えたとき、この女性は傍にいた夫と思われる男性に「この石、ようやくお嫁に行けることになったよ。良かった。良かった」と笑顔で語りかけていました。長い間この石は売れなかったようでした。この作者の感慨深げな素振りから、恐らく、この作者は石に猫の絵を描くことで世の中に出て行きたいと、自分の人生の生業を定めた始めのころに、この作品を制作したのだろうと思われます。夢を持って活動し始めた作者が、自分の想いを込めてこの作品を作り上げたのだろうと思います。どうしてそんなに長い間売れなかったのかはよく分かりませんが、この石だけがよく売れている他の石(石の平らな面を横にして、暖かそうに体を丸くし目を静かに閉じている猫を石の全面を使って描き添え書きはない)とは制作スタイルが大きく違っていたのは事実で、このことが影響して売れることがなかったのかもしれないと思われました。ともあれ、その時、この石の猫の目は、還暦を疾うに超えていた私に若者に対する如く「夢を忘れるな」と語り掛け背中を押してくれるように感じ取れました。以来、夢を追い続けることを止めないこの猫と一緒に毎日、私は理想の精神医療、真の精神医療—患者の人生に寄り添い患者の自立と社会参加を援助していく病院内にとどまらない医療、SDM(シェアード・ディシジョン・メイキング:患者と医療スタッフが情報を共有し、患者がスタッフと一緒に治療法を選択していくこと)による計画的医療—を作り上げるという夢を追い続けています。いつとはなく、この猫の澄んだ目を見るたびにハッとさせられ、無意識に前を向かせられているように思います。この猫は、私の人生の遅くやって来た相棒となっています。
 さて、今私が夢を追い続けていくうえで現実的な支えとなっていることを紹介したいと思います。
 私は、外来でたくさんの患者—80%以上が統合失調症患者です—と話をしています。患者の中には、統合失調症という病気を受け入れていないが病院には来ている人、病気を受け入れてはいるが病気を乗り越えようとしていない人、病気を乗り越えようとはしているがうまくできていない人、病気を乗り越えようと頑張れている人など、色んな人がいます。私は、一人でも多くの統合失調症患者に何とか病識を持てて病気を管理して社会参加して行ける人になってもらえるようにとの想いで、外来で患者と話をしています。外来での患者一人当たりの診察時間は短くなってしまいがちですが、患者がそんな短い時間であっても病気に振り回されない時間を過ごせるように、きょう病院に来て良かったと思ってもらえるように、患者の話から伺える患者が病気の症状に対処しようとしている日常での様子を笑顔で褒め、患者に安心と自信を高めてもらうようにしています。その時の私はというと、外来での患者の微笑みに、多くの患者を診て外来時間が長くなることからくる辛さを忘れさせてもらっています。外来で毎日、私は患者の未来を感じることができ、患者にほのぼのとした楽しい時間を過ごさせてもらっています。
 先日、ある会合で大学の先生が「医学生は、学んでいる間に外科、小児科、精神科の3つの科を敬遠するようになっていくようだ。その理由は、これらの科は責任が重く難しい科だからだ」と話されていました。私も精神科は人の心を扱い、人の尊厳に関わるわけですから難しい臨床科の一つだと思っています。しかし、精神科では、私が経験しているようなほのぼのとした外来をすることができますので、多くの医学生、若い医師にぜひ精神科に来てもらえればと思います。

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進撃の巨人   須田義裕(長岡中央綜合病院)

 始めまして、研修医1年目の須田義裕です。まだまだ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします。
 今回書かせていただく内容は、タイトルでお察しの通りプロ野球チーム・東京読売ジャイアンツについてです。以前、同じ病院の研修医の先輩がここで書かれた名作「お片付けの極意」とは違い、何にも役には立つ情報はないので、私の個人的な趣味をグダグダと書かせて頂きます。時間を無駄にしても構わないよという人だけ読んで下さい。
 小さい頃から、野球が大好きで、見るのもプレイするのもどっちも好きです。僕が小学生の頃には毎日テレビでは巨人の試合をやっており、松井・清原などといった有名な選手を毎日見ていました。当時の巨人はよく4番ばかり集めたチームといわれ、プロ野球界の大正義でありヒールでもありました。毎日スター選手を見られるといった点では野球ファン獲得に貢献していたのではと図々しく思っております。当時の戦績はというと、毎年優勝していたわけではなく、1997年から2006年の10年間では意外にも2000年と2002年しかリーグ優勝していません。長嶋監督終期や第一次原政権、堀内監督時代ですね。このころからテレビ中継の数が減り、巨人の毎年恒例の大型補強は比較的倹しいものとなり、しだいに、できるだけチーム事情にあわせて、的確な人材を補強するようになりました。その結果2007年から2016年の間では6回も優勝しており、高いお金でスター選手をかき集めるよりも良い結果が出てしまいました。思えば楽しいばっかりの時期でした。
 けれど良いことばかりではありません。現在、巨人のスタメンには26歳以下は一人もいないという、超若手不足の状態です。なぜならチームの穴はすぐに他チームの選手で埋めてしまうので若手がのんびりと育つ時がないのです。ここ最近の巨人は100試合はおろか50試合以上でた若手野手はいません(1シーズン全144試合)。2軍で活躍している選手は多いのですが、毎年優勝争いをしている巨人は1軍でゆっくりと試してみる余裕がないのです。そして今年のオフに、巨人はまた日ハムから陽岱鋼、横浜から山口俊、ソフバンから森福允彦を獲得しました。皆良い選手ばかりでシーズン通して活躍してくれるでしょうが、また若手の出番は減り、そして来年も若手が出てこないと嘆くことになるでしょう。もう諦めることにします。
 一方で昨年、一昨年と優勝したのは若手が大活躍したヤクルト、広島です。外からの補強をせず、チームは何年もかけて生え抜きのスタメンを育ててきたのです。かたや大金をかけ優勝を逃し、かたやコツコツと若手を育てて優勝、どちらがファンは楽しいでしょうか。それでも前者が好きというのが巨人ファン。他チームのファンに嫌われても、私は巨人のファンでこれからも巨人のファンです。
 最後はかなり端折ってしまいましたが、今年の巨人に期待し、若手の活躍を夢見て、今回は終わりにさせてください。駄文に最後までお付き合い頂き有難うございました。

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蛍の瓦版〜その29 理事 児玉伸子(長岡中央綜合病院)

 訪問看護ステーション

 多職種紹介シリーズです。今回は看護業務の内、訪問看護についてご紹介します。訪問看護自体の歴史は古くはナイチンゲールの時代から患家に赴いての看護は行われていました。
 我が国で訪問看護が保険医療制度に組み込まれ、診療報酬の点数化されたのは昭和58年です。その後老人保健法の改定によって、平成4年には看護師にも開業権が認められ、“老人訪問看護ステーション”と名付けられました。
 現在訪問看護は老人保健法だけではなく、健康保険法や介護保険法の対象となり、名称からも老人が取れ“訪問看護ステーション”となりました。厚労省ではその充実に力を入れており、医療機関からの訪問看護に比べ、ステーションからの訪問にはより高い点数を設けています。
 また厚労省は、訪問看護を介護保険制度内の居宅サービスに位置づけ、介護保険の利用を医療保険に優先させています。この点は訪問リハビリや慢性期のリハビリも同様です。医療保険の対象は、神経難病や末期のがん患者及び特別指示書の対象患者(医師が特に頻回の訪問看護の必要性を認めた患者)と、介護保険認定外の患者(小児および精神疾患等)に限られています。平成26年度の訪問看護利用者数は、介護保険35万人に対し医療保険は10万人程度でした。
 いずれの保険制度を利用する場合も、ステーションの看護師は主治医からの指示書に基づいて患家に出かけ看護業務を行います。その内容は、病状や全身状態の把握や居住環境の整備、清拭、排泄介助および家族への援助等多岐にわたります。特に服薬管理は看護師と医師・薬剤師に限られ、ヘルパー等の介護職員には認められていません。また医師の指示によって、検査のための採血や点滴注射を行うことも認められ、診療報酬も定められています。
 現在長岡市内には15のステーションがあり、理学療法士が在籍し訪問リハビリに力を入れるステーションや、精神疾患の患者さん中心に対応する等の特徴があります。24時間対応や緊急時訪問を標榜しているステーションもいくつかあり、患家からのファーストコールへの対応をお願いできます。またフェニックスネットを通して、双方向のやり取りも瞬時に可能で、在宅診療における心強いパートナーとなります。
 介護保険における訪問看護の利用者数はここ10年で1.4倍に増加していますが、介護保険全体の利用者数の伸びに比べると低く、要介護者の6%程度です。厚労省が平成11年に策定した“ゴールドプラン21”では、全国で約1万か所の訪問看護ステーションの整備を目指していましたが、9千弱から増加することなく現在も推移しています。
 介護保険では、個人が利用できる保険の総量枠が介護度に応じて制限されています。また一般に介護報酬は医療報酬に比べ厳しく、介護保険関連の事業所はいずれも経営的に厳しい状況です。訪問看護ステーションも例外ではなく、経営の安定化には利用者数の増加が不可欠です。訪問看護ステーションの機能をよく理解し、上手にお付き合いしていただければ、お互いの幸せに通ずると思います。

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巻末エッセイ〜帽子大好き  星 榮一

 僕は帽子が大好きだ。若い頃から帽子を好んで被っていたが、髪が薄くなってからは外出時には必ず被るようにしている。
 帽子もTPOが大切で、スーツの時には中折れハットで、夏はパナマ帽、他の季節はフェルトのソフトハットだ。和服の時も中折れハットや、時にはチャップリンが被る頭頂部が丸いポーラーハット(山高帽)を被ることもある。日常のカジュアルな外出時には、鍔のあるベースボールキャップが多い。これも何種類かあり、適当に使い分けている。
 冬は雪と風のためにニット帽が多い。これも何種類かあり、その日の気分で使い分けている。家内に編んでもらったニット帽は40年も使っている。セミカジュアル時にはイギリス製のハリスツイード・エルジンハットも愛用している。
 ボーイスカウト活動では、セレモニーの時は皆さんご存知の、あの幅の広い鍔のついたハットを被る。あれは元々は南アフリカの軍隊の正帽で、現在ではカナダやアメリカの警官も被っている。ボーイスカウトの副帽は、グリーンのベレーで子供達には恰好よく被るのは中々難しい。キャンプでの作業時はベースボールキャップを使う。このボーイスカウトのベースボールキャップも、いろいろな大会や行事で制作するので、40〜50個はあると思う。その中でも気に入って使用するのは数個である。
 時にはハンチングも被ってみるが中々恰好がつかない。
 家庭菜園の農作業時には、麦藁帽子や菅笠を被る。菅笠は頭と笠の間に空間ができるので、涼しい。
 防災訓練時には、ヘルメットを被る。我が家では家族数のヘルメットを用意してある。
 我々の高校時代(昭和20年代後半)には、先輩から引き継いだ油でペカペカに凝り固められた破帽を被り、朴歯の高下駄で腰に手拭をぶら下げて通学した。大学生になってからは、角帽は被らなかった。この角帽は17世紀のイタリアで枢機卿や知識階級が被ったビレッタ(biretta)に由来するという。現在でも大学の卒業式でガウンと四角の帽子を被るところがある。
 帽子の効用は、実用的には防寒・防暑・防災などがあるが、礼装としてやおしゃれやフアッションとしても重要である。
 我が国の帽子の歴史は、古くは手拭の頬被りや頭巾や笠、冠、烏帽子、などなどで、明治になってから西洋の帽子が入ってきた。大部分の西洋の帽子はイギリス生まれで、ベレー帽はフランスとスペインの国境にまたがるバスク地方の生まれである。明治4年に散髪脱刀令により髷を切る人が増え、帽子が普及したという。
 大正時代や昭和初期の映画や写真を見ると、男性のほとんどが何らかの帽子を被っている。昭和初期には男性の95パーセントが日常的に帽子を被っていたという調査結果も残っている。ところが最近では、東京で山手線に乗っても帽子を被っているのはほんの数人だけである。
 我々が子供のころは、帽子をシャッポと呼んでいた。フランス語だと思うが、最近はシャッポという言葉も聞くことはない。
 ここまでは主に男子の帽子のことを記した。ご婦人の帽子は大変幅が広く奥深く、到底私には及ばないところである。
 これから益々髪が薄くなってゆくと思われる。帽子は一層身近に、手放されないものとなるだろう。

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