長岡市医師会たより No.447 2017.6


もくじ

 表紙絵 「梅雨入り」 丸岡稔(丸岡医院)
 「俳句で綴る越の四季〜その1」 江部達夫(江部医院)
 「忠臣蔵異聞〜前編」 福本一朗 (長岡市小国診療所)
 「蛍の瓦版〜その33」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ〜その1」富樫賢一(悠遊健康村病院)



「梅雨入り」 丸岡稔(丸岡医院)


俳句で綴る越の四季〜その1  江部達夫(江部医院)

 日本列島は温帯にあり、はっきりした四季がある。四季は自然、農漁業や人々の日常生活に、その折々の変化をもたらし、多様な文化を生んで来た。
 越新潟は日本列島の中央に位置し、県境は高い山で囲まれ、三百キロメートルの海岸線で日本海に面している。そのためか気象は北陸や関東、東北と異なっている。
 冬には雪が多く、梅雨の降水量は少ない。時には降り過ぎた雪や、梅雨の終りの豪雨が雪害や水害をもたらすこともあったが。
 越新潟は農業県、「魚沼のコシヒカリ」は日本一旨いお米、雪のおかげだ。新潟のお酒も旨い。上質の酒米が穫れ、水質も良く、なによりも冬の寒さが酒造りに合っている。
  私はこの越に生まれ育ち、八十年になった。越以外の地での生活はなく、越の大自然の中での生活を楽しんで来た。
  古稀を過ぎて詠み始めた俳句、師事もせず一人で楽しんで来た。越でのこれまでの暮らしを思い出すまま、各季節毎にまとめ綴ってみた。

 日本の四季では、春は二月四日の立春の日から五月五日立夏の前日までだ。平成二十九年の春は私には八十回目の春。年古るにつれ季節季節にに思い出が残り、積もって行くが、忘れてしまったものも多いだろう。しかし若い頃に体験した事は今でも鮮明に記憶に残っている。
 春は命にあふれ、躍動感がみなぎり、大自然からの恵みが多くなる季節だ。
 二月は初春の候。立春の頃、関東では梅が咲く季節、越はまだ真冬の続きだ。気象台の統計によると、日本の各地で最も寒かった日は大寒から一月末に多く、新潟は一月三十日、もう春隣りだ。
 八十年間越で暮らした私の実感では、寒さが最も厳しくなるのは二月上旬ではなかろうか。地吹雪で国道や高速道に交通規制がかかり、水道管が凍り断水となり、屋根に大きな氷柱が出来るのは二月が多かった。しかしこの現象も近年の温暖化で無くなって来ている。

寒明くも越は真冬のままにあり

水道も凍てつく寒さ越二月

立春も過ぎて七日の猛吹雪

春寒し道行く人の息白く

 二月半ばになると三寒四温(晩冬の季語)の候に。晴れた日が続き、日中の気温が上がっても、夜は放射冷却で冷えこむ。朝の風は服の上から肌を刺し、水仕事は手がまだ凍える。
 積もった雪の表層は昼の日射しで解け、夜の冷えこみで凍り、朝はバリバリに。子供の頃、この上を歩いて学校に行った。
 冷えこみの強い朝、透き通る青空から、小さな雪が舞い降りてくる。遠くの山に降った雪が風で運ばれてくるのだ。

春浅し水面を渡る風凍る

真鱈切る手に伝わるは余寒かな

登校の子ら凍み渡り戻り寒

散る花と見まがう風花青き空

 長岡に「ゆきしか祭り」と云う行事がある。二十年前から雪起こしとして始まった祭り、二月第三土、日曜日に開かれる。
 この祭りの売り物は雪山遊びと夜の花火大会。広場にダンプカーで雪を運んで来て、大きな雪の山を作り、子供達の遊び場に。

雪が舞う火の粉も舞うや大花火

うず高く積みし雪山子ら滑り

 ところで祭りの名の「ゆきしか」、昔から長岡には冬、田に積もった雪を集め、大きな雪山を作り、稲わらで覆い、夏まで貯蔵し、魚屋や家庭に切り売りしていた商売があり、その店の屋号が「ゆきしか」であった。私の通っていた小学校の近くに雪山があり、戦後昭和二十年代中頃には製氷屋に変わり、雪山はなくなった。
 二月も末になると温かくおだやかな日和が多くなる。日本海の荒波も静まり、浅瀬の岩場では岩海苔摘みをしている姿がある。私もかつて摘みに行った。新鮮な岩海苔、茶漬けで食べると絶品だった。

岩海苔を摘む母子あり春の海

 日脚が伸びた夕暮の空を、クックッと声を立てて白鳥が群れ飛んでいる。夕暮の信濃川、南西に沈む日が水面を赤く染めている。二月ならではの光景だ。

旅立ちの支度か白鳥群れて飛び

沈む日に大河燃え立つ越二月

 三月中春の候になると、越はようやく春めいて来る。雪解けも進み、梅の花が咲き、里山は新たに息吹き始める。しかし、三月初めには昔から春の寒波がやって来て、越は一晩で三十センチの積雪をみることもあった。三月三日は雛祭り、かつては国立大学一期校の試験日で、東京は雪のため受験に遅れたりするトラブルも多々発生した。

春雷がもたらす今朝の大雪や

寒き夜はいかに過ごさん段の雛

 三月は猫たちの恋の季節。飼い猫は家に閉じ込められ、のら猫も殆どいなくなった街では、昭和の時代によく聴かれた雄猫の耳に突きさすような恋の歌は聴かれなくなった。

おぼろ夜に春を迎えし猫の声

 三月は私には山遊びの始まりの季節。雪のしまった里山を歩くスキーをはいての散策だ。目的は冬に弱った足腰の鍛錬とヒラタケ採りだ。
 木々の太い幹は太陽の熱を吸収し、貯めておくので、真冬でも樹木の囲りの雪は解けているが、陽射しが強くなり出す春は、急に大樹の周りの雪解けは早まり、大きく開け出し、やがて地表が現れて来る。

雪解けは静かに木々の回りから

木々根明け日々に広がる里の山

 雪解けが進むにつれ、村里を流れる川は日毎水嵩(かさ)が増し、瀬音も激しくなる。カジカは浅瀬へと寄って来る。男達はカジカ捕り専用の網でカジカを捕っている。この時期のカジカ、卵をおなか一杯抱いており、竹串に刺し囲炉裏で焼いて食べると卵がおいしい。カジカ酒が旨い。
 山里はまだ寒くカジカ捕りをやっていると雪に変わる日もあり、時雨れることもある。しかし男達は夢中でカジカを追っている。この光景、平成の世になると関川村では殆ど見られなくなったが、カジカ好きの私のために、私が出かける時には串焼きのカジカは何時も用意されている。

日々瀬音増しくる川や里の春

カジカ捕る手に春の雪落ちて解け

温かさほのかにありか春時雨

旧交をあたため合うやカジカ酒

 彼岸の頃晴れた日の夕方、車を三十分走らせ海岸によく出かける。太陽が海に沈んでゆく光景が好きだ。海は赤く燃え立ち、日は落ちても佐渡の雪山はしばらく赤く映えている。
 海岸まで来る途中、百五十メートルの山を越えてくる。山の中は雪がまだ残るが、山に続く里の田は雪は消えている。黒い田の畦にはフキノトウが顔を出している。

日は沈む佐渡の雪山赤く染め

里山は残雪里の田は黒く

雪消えの黒き畦にはフキノトウ

 三月博多に出かけると水炊きと一緒に注文する料理がある。踊り食いだ。シロウオ(素魚)を生きたまま丸呑みする料理だ。鉢の中に泳いでいる一寸ばかりのシロウオ、ハゼ科の魚で、春産卵に海から川に登って来る。それを河口で捕らえる。そのシロウオ、酢醤油につけ一気に呑み込む。ビールと一緒に一気に呑もうとし、ビールに入れたとたん浮いて来た。酸欠だ。
 新潟ではこの魚をイサザと呼び、桜の季節に県内あちこちの川に登って来るようだが、漁をする人は少なくなった。私は毎年三面川を登るイサザを踊り食いと炊き込みごはんで楽しんでいる。漁獲量が少なく、今や一合一万円はする高級魚だ。

一寸の魂呑み込むおどり食い

 三月初めはまだ山の雪解けが進まず、信濃川の水量も少ない。流れも弱く、川のよどみに鴨たちが集まって来る。その数日々に増し、百羽、二百羽の集団があちこちに。えさを採りに行く様子もなく、ゆるやかな流れの中で遊んでいる。シベリアに帰るための準備、冬の間皮下に溜まり過ぎた脂を落とし、旅立ちのため体重を減らしているのでは。
 三月下旬、雪解水で川が増水して来ると、鴨たちは一斉に北へ向かって旅立って行くのだが、どの群の中にも数羽は川に残ったまま。体をどこか痛めているのだろう。しかし何時の間にかいなくなる。遅れて旅立って行くのだ。
 彼岸が終わっても越にはまた寒さがやって来る。冷えの強い日は雪が舞うことがある。春の雪、大きな雪でゆっくりと舞うように降って来る。

診察の手休め眺む春の雪

風に舞い庭木とたわむる雪の花

 四月は晩春の候だが越はこれからが春本番。木々の芽は急に伸び出し、野山には早春の花が一斉に咲き始め、山菜は旬を迎える。
 冬の間は体の動きも鈍かったが、桜の開花に合わせるかのように私は活動的になる。カレンダーのスケジュール欄は予定がいっぱいに。

囲い取れ木々のびのびと春日浴び

 冬囲いの取れた庭の木々、色々な鳥たちがやって来る。ウグイスは花のまだ咲かぬ桜の枝から枝へと飛び廻っている。

聴診を止めて聴き入る初音かな

 四月の天候はまだ安定せず、雪をもたらす寒波がまだやって来る。寒波は一夜で通り過ぎ、花は一気に開く。花の盛りにまた寒波が来て花冷えになったりする夜も。

催花雨もみぞれに変わる春寒波

開かんとする花萎ます雪の果

先ず一輪咲きたる知らせ庭に出て

花満つも雨恨めしき一人酒

夜桜も盛りは過ぎて春炬燵

 四月は朝の目覚めも早くなる。五時には家を出て山に向かっている。吾が家から車で十分も走れば、山菜の豊富な長岡郊外の里山に。私しか知らない穴場があちこちにある。
 休日には関川村に出かけている。ここは山菜の宝庫、五十年間歩いて来た所だ。春の山は天候も変わり易い。全天候型の仕度で深い山にも入っている。地に生える山菜は沢沿えに、木に生えるものは尾根すじに多い。

御仏と拝みし花やザゼンソウ

雪消えし沢はワサビの花で満つ

雪解けの渓はウルイの緑映え

モミジガサ雪消え待たず赤き芽を

コゴミ摘む春のみぞれに手は凍え

尾根のタラ一番芽早摘み取られ

 長岡郊外の里山、雪解け水を湛(たた)えた沼があちこちある。冬は鴨がやって来ている。三月末には鴨は北へと立って行く。この沼の囲りにはコシアブラやタラ、キノメ(アケビの新芽)などの山菜がたくさんあり、沼は蛙たちの産卵場となる。

鴨立ちて沼は蛙の恋の場に

 春の終わりに山深く入ると、山桜が盛りとなり、楓(かえで)の若葉は秋を思わせる紅葉で一際美しい。遠くの?林は紫に煙って見える。

紅葉と見まがう楓の若葉かな

紫に山染め上げるの萌え

行く春を惜しみて下る里の山

 足腰の弱って来た昨今、後何回春の山行を楽しめるか、夏、秋にゴルフ場を歩いて鍛えるつもりだ。芝の上に寝そべり見上げる晩春の空は美しい。

大の字に空見上げやるみどりの日

 明日からいよいよ夏だ。

 

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忠臣蔵異聞〜前編   福本一朗(長岡市小国診療所)

 元禄15(1702)年12月15日未明、本所の吉良邸において赤穂浪士の討入りがあった。2時間の激闘の末、仇・吉良上野介を討ち取って、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に首を供えた。この元禄赤穂事件を、江戸庶民は太平の世に珍しくすがすがしい義挙と喝采し、また四十七士を武士の鑑として誉め称えて泉岳寺に祀り、現在でも参拝者が絶えない。この討入りの日、吉良邸の周りでは町人たちが普通に歩いていて、かなりの数の支援者や見物人がいたという(堀部安兵衛の従兄弟佐藤條右衛門の手紙による)。しかし武士の間では、当時から幕末まで“赤穂浪士は義士か否か”という大論争が続いていた。
 赤穂市に隣接する兵庫県姫路市は筆者の故郷であるが、義士達の血縁者の子孫という友人達も多く、艱難辛苦の末目的を達した義士達にあやかろうと、赤穂神社に合格祈願に行く受験生もよく見かける。あるとき姫路西高校の日本史の教諭が、“各自の家紋を調べてくる様に”との宿題を出された事があった。筆者は父母の家の家紋を調べたところ、鎌倉時代からの土豪士族の父方が“違い鷹羽”と“二つ巴”、姫路藩城代家老の子孫の母方が“五三の桐”であった(Fig.1)。それを見られた先生が「それは珍しい!赤穂と吉良上野介という敵同士の家紋とは!」と驚かれて以来、直接の血縁はないものの、義士達ととともに吉良家にも興味をもち、赤穂事件について関心を持ち続けてきた。
 ところで法学を学んだものにとって、赤穂事件(俗称「忠臣蔵」)には、法律的・道義的・社会的の3つの問題がある様に思われる。
 まず法律的には、現在の刑法からみれば赤穂側の違法行為は明らかである。それは、(1)夜間他人の住宅に無断で押し入った家宅侵入罪(刑法130条)」、(2)吉良家家臣17名に対する殺人罪(刑法199条)、28名に対する傷害罪(刑法204条)、(3)2人以上の者が他人の生命身体又は財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って集合した場合に成立する凶器準備集合罪(刑法208条3第1項)、およびそれらの併合罪(刑法45条)が成立すると考えられる。もっとも「法律なければ刑罰無し」の罪刑法定主義の考えからは、事件当時に施行されていなかった刑法は適用されないので、上記の罪を義士達に問う事はできない。これに対して元禄時代でも、武士が守らねばならない成文法である「関東御成敗式目」・「武家諸法度」の他に、戦国時代の分国法を起源とする様々な慣習法が誠実に守られていた。その中で、赤穂藩大石内蔵助が特に重視したのは「喧嘩両成敗」の慣習法であった。ただし「喧嘩」とは双方が口論もしくは物理力を行使して闘争する場合を言うのであって、「松の廊下」では口論もなく、浅野内匠頭が突然小刀で斬りつけただけで、相手方の吉良上野介は一切手向かいせず一方的に手疵をおわされたのであって、「喧嘩」には当たらない。とすれば「江戸城内で刀を抜いたものは死罪との御布令」が適用され、時の将軍綱吉が浅野のみを「殿中を憚らず切り付ける段、重々不届至極」として切腹・御家断絶の処分して、吉良はおかまい無しとしたことは当然であった。

 次に道義的には「君辱められれば臣死す(越語)」と信じられていたため、赤穂藩江戸留守居役の堀部安兵衛が主張する様に、「亡き内匠頭様に忠義を尽くすことが本意であり、主君の仇の吉良を見逃すのは命を惜しむことになる。そのため討入りは武士の道にかなう行為であり、奉公すべき内匠頭様の怨念を晴らすことが何よりの忠義である」と考えられていた。ただ当時の儒学者の中でも意見は別れていたようで、林大学頭信篤は、「命を惜しんで仇敵を見逃すことは武士道に外れるものであり、47人の義士の討入りは褒められて当然である(復讐論)」と讃えている。これに対して同じ儒学者の荻生徂徠は「幕府による正式の仇討許可もないのに江戸で騒動を企てたことは、武士といえども許されないことであり、厳罰に処すべきである」と糾弾している。さらに赤穂事件から47年後に大阪の竹本座で人形浄瑠璃芝居「仮名手本忠臣蔵(Fig.2)」が江戸時代の庶民に大人気となった頃、弘前藩勘定奉行の乳井貢は「不幸にして取り潰された赤穂浅野家の家臣には、武士として職分はなくなったが、人間としての職分はなくなったわけではない。妻子を養い、家族を維持していく責務が残っていたはずだ。」と義士達を批判している。明治になって、新渡戸稲造は「武士道(1899)」の中で、「赤穂四十七士の主君は、切腹を命じられた。彼は控訴する上級裁判所を持たなかった。彼の忠義な家来たちは、当時存在した唯一の最高裁判所である復讐に訴えた。そして、彼らは法によって罪の宣告を受けた。しかし民衆の本能は違う判決を下した」と、海外に紹介している。(つづく)

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蛍の瓦版〜その33 理事 児玉伸子(長岡中央綜合病院)

 がん診療あれこれ

 日本人の死亡原因の30%を占め、40歳から89歳までの死因第1位は、悪性新生物です。厚労省では平成19年に“がん対策推進基本政策”を策定し、がんによる死亡者数の減少や、がん患者の苦痛の軽減とがん療養の質の維持向上、さらにがんになっても安心して暮らせる社会の構築を、目標に掲げています。

1.がん診療連携拠点病院
  日本のどこでも質の高い医療を受けられるように、厚労省では全国400か所の病院を、一定の基準を満たす“がん診療連携拠点病院”として指定しています。新潟県では8か所あり、長岡市内では長岡赤十字病院と長岡中央綜合病院が指定を受け、立川綜合病院は“がん診療連携拠点病院に準じる病院”の扱いとなっています。指定には、診断や治療に関する専門医(放射線診断・病理診断・放射線治療・手術治療・化学療法)や、それぞれ専門の看護師・薬剤師・放射線技師等のスタッフの配置が必要です。また一定の患者数と治療実績を満たし、キャンサーボード(患者に関わる複数の専門医や医療スタッフによる合同カンファレンス)の開催や、緩和ケアの充実等、少なからぬ要項が必要条件となっています。

2.連携パス(地域連携クリティカルパス)
 急性期の治療を行った専門病院と地域の病院やかかりつけ医が、円滑に連携して診療を行うために作成されたものが、連携パスです。現在長岡市で活用されているのは、脳血管障害と大腿骨近位部骨折および一部のがん疾患です。
 脳血管障害と大腿骨近位部骨折の連携パスは、急性期病院からリハビリを目的に転院する際の、ゴール設定等に活用されています。長岡赤十字病院と長岡中央綜合病院に立川綜合病院を加えたパス活用の件数は、昨年度は脳血管障害が423件あり、大腿骨骨折は254件でした。
 新潟県がん診療連携協議会では、患者数の多い五大がん(胃・大腸・肺・肝臓・乳房)について、医療連携ノートを作成しています。現在長岡市医師会内で活用されているのは、長岡赤十字病院からの乳がんと、長岡中央綜合病院からの胃・大腸がんだけです。長岡赤十字病院の乳がんパスは平成24年に運用が開始され、当初の40件から昨年度は131件と増加しています。長岡中央綜合病院からの大腸がんも昨年は15件あり、両病院ともその他のがんに関しては対象が無かったそうです。“がん診療連携拠点病院”と医療機関がこのパスに従って連携して診療を行った場合は、双方にがん連携指導料の算定が可能となります。

3.追記
 厚労省ではがん対策推進のため、診療報酬上、がんに関連するものには若干の加算や特例を設けています。一方供がん診療連携拠点病院僑の指定要項のように、算定には厳しい条件を付けてきています。
 そのため会員の皆様が、がん診療連携拠点病院へ供がん僑を疑って患者さんを紹介される場合は、紹介状だけではなく自院レセプトの病名等にもその旨を明記されるようお願いします。
 また通常の訪問看護は、医療者の裁量巾が大きい医療保険ではなく、様々な制約が多い介護保険の使用が優先します。しかし、末期のがん患者に対する訪問看護は、頻回訪問等が可能となる医療保険の適用が認められています。その場合も訪問看護への指示書には、必ず末期や終末期と明記して下さい。単なる進行がんや転移だけでは不適切となりえます。
 細かいことですが、御留意下さるようお願いします。

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巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ(その1)  富樫賢一(悠遊健康村病院)

 結婚の時、「必ず連れて行く」と言ってしまったエーゲ海クルーズは、平成20年8月に行って来た。当時は海外旅行も今ほど盛んでなく、クルーズに行く人も多くなかった。仕事も忙しく長い夏休みは取れなかった。5泊6日、それも中継地ドバイ空港で足止めをくった半日も入れての強行軍。それでもトミイはクルーズ狂になった。なにかにつけ「クルーズはいい」と言い出したのだ。

 そして近頃、「世界で人気ナンバーワンのクルーズに行きたい」とつぶやきだした。それは年寄りの耳にも嫌でも届いた。定年退職し時間に余裕が出来たらとなだめているうちに、遂にその時がやって来た。カリブ海といえば南北のアメリカ大陸の中間、メキシコ湾の南東、西インド諸島と中央アメリカの間という位置。何といっても長岡からは遠い。

 羽田空港に午後10時30分集合、午前1時出発。アメリカン航空で中継地のロスに向かう。格安航空会社ではない。機内食も出るし、アルコール類も無料。だが食事が不味い。初めてロスに行った時はノースウエスト航空だったが、それよりも悪い。今までで最低。しかもメニューも配られない。とはいってもビールとワインを多飲し、うつらうつらしているうちに10時間は経ってしまった。

 ロスからマイアミまでは5時間。マイアミに着いた時は羽田から18時間が経過していた。米国の入国審査は厳しい。写真を撮られた上に両手の指紋も取られる。誘導員が自動審査でやれとうるさく言う。添乗員が自動審査だと入国証明印がないから乗船手続きができないと反論。だが大丈夫だからやれと高圧的。仕方なく自動審査を受け、さらに通常審査を受けるはめに。添乗員がしつこく言っていたので、スタンプを押すように頼むと審査官は、にやっとしてポン。

 最初の予定はここで1泊して疲れを取ることになっていた。船会社の都合で当日乗船に変更。マイアミ国際航空ホテルでは4時間だけの休憩。朝食後部屋でくつろぎ、ひげを剃ろうとすると電動シェーバーが動かない。貴重な休憩時間をさいて、T字の髭剃りを求めて空港内を歩き回った。

 空港から乗船場までは近かった。あっという間。乗る船はマイアミが本拠地のノルウェージャン社のゲッタウェイ約14万5千トン、全長324mの豪華客船。乗客定員数は約4千人。これだけの人数が一度に乗ろうというのだから混雑具合が分ろうというもの。待合室は2箇所に分かれていて、係員が仕分けている。添乗員が団体だと言っても聞き入れてくれず、仕方なく2派に分かれる。空港係員もそうだったが、全然融通が利かない。

 何時になるか見当もつかない長蛇の列。健康質問書を書きながら気長に待つ。やっと順番が来た。旅行社から渡された乗船許可書とパスポートを提示。VISAがない場合はESTAを取得しパスポートに入国スタンプがないと乗船できない。突然VISAかと聞かれ、クレジットカードのことかと勘違いし、そうだと答えると、係員がパスポートを見ながらぶつぶつ。そうそう、クレジットカードがないと乗船できないのでご注意。

 手続きを終え乗船。エーゲ海クルーズの時は小さい丸窓しかない一番安い部屋だったが、今回はバルコニー付きの部屋。ガラス戸を開けてバルコニーに出ると暑い日差しのもとマイアミの潮風が心地よい。午後4時(現地時間、時差はマイナス13時間)、出航のアナウンス。二人で埠頭のみえるデッキに行き、船がゆっくり動き出すのを見つめる。いよいよ念願のカリブ海クルーズの始まり。(つづく)

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