長岡市医師会たより No.451 2017.10


もくじ

 表紙絵 「上高地の秋」 丸岡稔(丸岡医院)
 「長岡赤十字病院での初期研修について」 金子宏睦 (長岡赤十字病院研修医)
 「クリスティーナの世界」 福本一朗(長岡市小国診療所)
 「俳句で綴る越の四季〜その三」 江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜その36」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「会員ゴルフ大会優勝記」 田島健三(長岡保養園)
 「巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ〜その5」富樫賢一(悠遊健康村病院)



「上高地の秋」 丸岡稔(丸岡医院)


長岡赤十字病院での初期研修について   金子広睦(長岡赤十字病院 研修医)

 長岡赤十字病院で初期研修をさせていただいて1年と3カ月が過ぎた。当医師会の会報に寄稿するに際しテーマを確認したところ、「なんでもお好きなものを、読む方が楽しいものを」とのお話をいただいたので、この病院での研修を振り返りながら私事も含めてお話させていただこうと思う。
  昨年4月から長岡赤十字病院での研修医生活を送り、上級医やコメディカルの方々に温かく、時には厳しく指導していただいている。今もまさにその途中であり、日常診療から学ぶことが多々あり日々是勉強だと痛感する毎日である。
 その中で感じた当院の特徴、それはやりがいとタスク、そして自分の時間のバランスが絶妙であるという事である。日々の診療において、研修医は主に病棟業務に関わる事が多いように感じる。病棟で何か起きれば担当医たる研修医が病棟からのコールを受けるのが主である。少なくとも当院では基本的に first call は研修医という体制になっている病棟が多いように思う。この状況は研修医にとって担当させていただいている患者さんを“自分で診ている、自分で担当している”という自覚を形成するに寄与している。そんなの当たり前だとお考えになる上級医の先生方も多々いらっしゃるだろうと思うが、それはまさにその通りである。ただ、研修医という立場からすると自分が出した指示、自分が行った処方、処置に関してなんだか自信が持てないというのが常である。決して勉強していないわけではないのだが、如何せんそれを実践した経験がない故の不安である。そう考えない研修医もいるだろうが、よほどの勉強家で知識に長け、それに裏づけられた自信のある研修医か、そういう感覚なくふわっと医療行為をしている研修医か二分されるだろう。そのような状況の中にあっては、“あくまで指導医の患者を一緒に診ているだけ”という感覚に陥りがちであるように思う。(筆者もそのような感覚を感じた経験がある)その中で、病棟から担当患者の件で連絡が来る、指示を求められるという状況はその都度が勉強であり経験になる。それの積み重ねが「この患者は自分が診ている、担当している患者なのだ」という感覚の芽生えになるのではないかと考えている。その感覚の有無で、同じ医療行為の中で研修医の中に生まれる経験の量たるや明らかに異なるだろう。
 また、長岡市が敷いている救急輪番制も特筆すべき点の一つだろう。各病院で大きな偏りなく救急患者の対応を経験することが可能である。もちろん高エネルギー外傷など3次救急指定の当院が中心となって処置する疾患もあるが、それ以外においては大きな偏りなく対応し、研修医の救急対応の経験に寄与している。輪番制に特化していえば3日に1回という頻度も、オーバーワークにならずこれもまたちょうどいいのであろう。この恵まれた環境の中で、自分の時間がある、趣味に費やす時間も多少確保できることも大きな魅力である。筆者もまた下手ながらも写真という趣味があり、様々な場所に撮影に出かけその都度撮影しそれを公開し、時には写真コンテストや写真展などに応募する日々である。長岡市内もしくは市外のイベント等で写真撮影班として参加させていただいた経験もある。特にこの新潟県は思わずシャッターを押してしまうような風光明媚な風景がたくさんある。高田公園の桜、寺泊、出雲崎から見る日本海に沈む夕日、肉眼で天の川が見える奥只見の星空、田上の護摩堂山から田植え後水鏡となった越後平野に映る夕日、山古志の朝霧に沈む棚田、もみじ園、弥彦や中野邸美術館の紅葉、厳冬の中に雪の降り積もった越後山脈など、数を上げればキリがない。四季の移り変わりがはっきりしている新潟においては、その季節毎に美しい景色を自然に目にすることが出来る。日々の業務時間外にそのような美しい景色を愛でることが出来る、自分の時間があることにより日々の研修もより活動的に行えるというものである。(深夜に病院から帰宅しそのまま星空撮影に出かけ朝焼けまで撮影して再出勤、などということもあるが)
 これまで述べてきたように様々な面から、この長岡という地、当院をはじめとする長岡の医療機関は初期研修にふさわしい土地、体制であると筆者は考える。この恵まれた環境の中に自分がいる故に、長岡の外に出た際に、長岡での初期研修に対して汚名を着せぬよう、日々努力せねばと感じる毎日である。
 最後に、長岡赤十字病院で、またこの長岡で初期研修をする機会をいただいたこと、またその後たくさんの指導医の先生方からご指導いただいていること、その両方に感謝申し上げて、擱筆する事にする。

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クリスティーナの世界   福本一朗(長岡市小国診療所)

 スウェーデン留学中、小さな美術館で偶然出会った一枚の絵に釘付けになった。草原に後ろ向きの女性が上半身を起こして横たわり、遠くの家を見つめているだけの構図であるが、「クリスティーナの世界」と名付けられたその絵からは、理由のわからない一途さ・不安感・悲しみが溢れていた(Fig.1)。
 絵の説明によると、作者は1917年ペンシルヴェニア州・チャッズフォード生まれのアンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth 1917〜2009)で、描かれた女性はワイエスの別荘に住んでいた当時55歳独身のクリスティーナ・オルソンとあった。彼女はポリオに冒された不自由な足を引きずりながら家族の眠る墓地に祈りに行き、腕で這って家に戻る途中だったという。クリスティーナは自分の身に降りかかった障害を克服するために、自分がまかなうべき生活をすべて自力でやってのけ、弟アルヴァロと二人きりで車椅子の助けすら借りずに質素に生きていたという。ワイエスは、その彼女の力強く生き抜く覚悟に感動し、その輝かしい生命力を賛美するためにこの絵を描いた(Fig.2)。
 しかしワイエスが本当に描きたかったものは、それだけではないと思える。彼の父親は大成功を収めた著名な挿絵画家で、小さい頃にワイエスの画才を見いだして以来、絵画の英才教育を施した。ワイエスはそんな父親に反発し、体が弱かった事もあって学校にもろくろく行かなかった。しかし父親が事故で亡くなった22歳の時に、ワイエス家の別荘近くで暮らしていたクリスティーナと彼女の弟・アルヴァロに出会って生涯のモチーフを得、自分独自の画風に目覚めた。それは「アメリカ人にアメリカはどんな国であったかを、思い起こさせる庶民の生活を描く」というものだった。それ以降彼の描くのは、社会の底辺にいる黒人・インディアンや移民達であり、あるいはみすぼらしい町角を人物無しで描きながら、そこに生活する人々の生きる悲しみを描く事であった。
 貧しくとも慎ましやかにひっそりと生きている姉弟と親交を深めたワイエスは、彼らの住まいオルソンハウスの2階にアトリエを構えた。何不自由なく裕福に育ってきたワイエスにとって、ここでの生活は自分に欠けているものを教えてくれる新世界だった。そしてオルソンという名字から分かる様に、クリスティーナもスウェーデンからの移民の子孫であり、その祖父は生きるために着の身着のままで新天地アメリカに逃れて来た人であった。
 晩年のワイエスは言う。「宗教的迫害から逃れてきた清教徒の子孫達が、インディアンを銃とガラス玉で保護区に追いやり、広大な西部に世界中から移民を受け入れて作った自由な国がアメリカであることを忘れてはならない」
 アメリカファーストを唱え、移民を排斥して国境に万里の長城を築こうとしているトランプ大統領よ、一度ワイエスの絵をじっくり眺めて自らの出自を思い起こしてみたらいかがですか?

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俳句で綴る越の四季〜その三  江部達夫(江部医院)

 秋

 八月八日立秋の日から十一月七日立冬の前日までが日本の秋。秋は台風も多いが、一年の中では天候が安定し、透き通る青空の日が多い季節だ。しかし寒さが厳しくなる冬を迎える季節でもある。
 初秋は九月七日までの一カ月間。まだまだ真夏日の日も多いが、稲の稔りに連れて気温も下がり出し、過ごし易い日も次第に多くなって行く。
 立秋の頃早朝の庭に出てみると、清々しさを覚える。風に涼しさが混ざり出して来ている。蝉の声はまだ朝から暑さを誘っている。

秋立つ日蝉のしぐれはなお激し

秋らしき風は見えねど音はあり

秋立つや尾花は穂先のぞかせり

 私は小学校の頃から昆虫少年、中学生になると春から秋、休日は捕虫網を持って山に出かけていた。蝶の採集が目的、トンボや蝉にも興味があった。
 子供の頃は家の裏を流れる川で、川面をゆうゆう飛んでいるヤンマを捕まえようと網を振っていた。捕まえたヤンマに糸をつけて飛ばしたり、ハエを餌に飼ったりしていた。
 街ではすっかり姿を消したトンボが、関川村を流れる川には今でも棲んでいる。オニヤンマやギンヤンマが川面を行ったり来たり、虫を探して飛び回っている。山女を釣りながら、ヤンマの行動を観察するのも楽しみだ。

おにやんま千尋の空をひとり占め

やんま追う子らの姿無き平成

 お盆の墓参りは越では八月十三日。日中は暑くても朝夕は涼しさを覚えるようになり、日没頃家族でお寺に出かけている。八十年続いた慣習だ。年一、二回の墓参りが祖先との縁を保っているようだ。

朝新涼覚えし昼の暑さかな

日は落ちて静かな祈り夕蝉や

新秋の風が灯を消す墓参り

 お盆には藪入りの風習があり、何日かの休日がある。古里への帰省ラッシュでJRや高速道は混雑。
 海の漁師はお盆には海に出ない。川の釣り師はこの休日は清流に足を運んでいる。新潟県下の川でも鮎の友釣り客で賑やかになる。
 魚野川の簗場には家族連れが押しかけて来る。炭火で焼き上げた鮎が旨いのだ。子供達は簗に上がって来る魚を掴まえようと夢中だ。

夏惜しむ子らに簗場の水しぶき

簗跳ねる鮎掴まんと子らも跳ね

酌み交わす囲炉裏の鮎の香も肴骨

酒を飲み干し眺む盆の月

 お盆も終わる頃には、梅雨入りの頃からうるさい程鳴いていた油蝉の鳴き声も疎(まば)らになり、秋の虫の音がだんだん勢いづいて来る。
 七月末からお盆過ぎまで、渓流にはメジロ(小型のアブで刺されると痛く、かゆい)が発生し、釣りはお休みしていたが、処暑の頃には姿を消し、山女釣りも再開。渓を吹く風には秋の気配があり、草花にも秋が広がって来ている。
 九月に入る頃、時には強い風が吹き、稔り始めた稲を倒してしまう。早生の稲の刈り取りはもう始まっている。野や山や、街の中でも虫の音が勢いづいて来る。

蝉しぐれ降り止む頃に虫の音が

初風に乗りて虫の音届けられ

処暑も過ぎ渓吹く風に早冷気

木立ち抜け吹き来る風に秋の音

去り行きし夏への思い咲く尾花

渦巻きに稲穂を倒さん初嵐

 九月八日は白露、この日から一カ月が仲秋の候。月が一年で最も輝いて見える。日本の自然の移り変わりの中で、仲秋が月に最も相応しいのであろう。尾花や萩は月に合う。日増しに賑やかになる虫の音も月に合っている。

九月入り野には虫の音揃い踏み

月照るもどこか淋しき九月かな

良寛も眺めし月か越の里

佐渡ヶ島浮き上がらせる今日の月

萩と月吾老妻と一つ家に

 私の好きな渓流釣り、八十才になっても楽しんでいるが、十月からは禁漁に。産卵期を迎えた岩魚や山女を保護するため。鮎も産卵期に入る。新潟県の河川では鮎は十月一日から十日までが禁漁に。
 九月は夕暮れが早い。喜寿を迎えた頃から、私の釣りは彼岸前には終わりにしている。五カ月間楽しんだ渓流、来年は来れるだろうかと思いながら帰途につく。夏に大物を釣り上げた流れを静かに眺め、黙礼をして渓を後にする。

塩焼きの鮎は卵ではち切れん

秋淋し日毎日暮れの早まるは

釣り終えて渓静かなり秋の暮

月登り虫の音聴きつ山下り

月もまた酒の友なり山女焼く

 環境破壊が深刻化してゆく地球、異常気象の温暖化、平成の世は秋のお彼岸の頃でも真夏日だ。しかし十月の声を聴く頃には、毎年庭の金木犀は香を放ち始める。
 仲秋の候、群を成して山から戻って来るアカトンボ、平成になってから空を埋めつくすような大群は姿を消した。稲刈りが終わると田の水を抜き乾田にするため、アカトンボの産卵する場所がなくなったのが原因。

残暑まだ厳しさ残る彼岸入り

真夏日の中墓参り秋彼岸

木犀花香り漂う秋の庭

赤とんぼ群れ飛ぶ姿昭和まで

赤とんぼ白露に濡れて日の出待つ

 彼岸過ぎる頃から空の青さは増し、大河の水温も下り出し、川水は澄んで来る。子供の頃、流れの穏やかな川辺で石を投げて遊んでいた。

空は澄み水また澄みし里の秋

水切りの波紋を残す水は秋

一、二葉もみじ葉浮かべ水流る

 十月八日は寒露、この日から一カ月が晩秋だ。秋晴れの日が多くなるも、朝夕の冷え込みは日増しに強くなり、大河には川霧が発生する。

秋晴れや荒海浮かぶ佐渡近し

大河より霧立ち登る夜寒かな

 里山の紅葉、日本列島は南北に長いため、その盛りは南と北では一カ月以上の差がある。越は晩秋半ば過ぎて色付き出し、温暖化の今日、盛りは初冬に。日本の秋の美しさは紅葉が醸し出してくれる。

もみじ葉は日毎色づく夜寒かな

紅しじみ草紅葉の中見失い

 紅葉の盛る中、渓川の支流を岩魚が産卵のための上流へと上って行く。群をなして登る光景も時に目にする。

深みゆく秋岩魚群れ沢上り

 この季節は野鳥の生態にも変化がある。夏鳥の燕や郭公、時鳥など多くの野鳥は日本での子育てをすませ南へ渡って行く。
 代わりに冬鳥の鴨や白鳥、雁などがシベリアで産まれた幼鳥を連れて、冬を過ごすため日本に渡って来る。各地の湖や沼は賑やかになる。私の庭でもツグミが十羽程の群で羽を休めに寄ってくれる。
 越には白鳥が越冬する湖はいくつかあるが、中でも瓢湖が有名。

夏鳥の去りし後にも法師鳴き

白鳥の来たりて瓢湖活気づき

 秋はキノコ狩りのシーズン、温暖化によりキノコの発生にも変化が起きている。マツタケやマイタケ、越では五十年前は秋分の頃にはそろそろ盛りに。里山の紅葉も始まり出していた。今では彼岸の頃の里山はまだ夏山の状態だ。
 日本では五十年前から松食い虫による赤松の立ち枯れ被害が九州から始まったが、年々北上し、今では青森県にも及んだ。新潟県は昭和五十年代に被害が始まり、十年足らずで県内の赤松は殆ど枯れ果て、マツタケは採れなくなった。
 関川村には松食い虫の被害を免れた赤松が生えている松山が何カ所かあり、今でもマツタケが少しは採れている。昭和四十年代は九月末には盛りを迎えたものだが、今では十月中頃に。
 この季節、私の大好きな食材の一つムカゴ採りがある。ムカゴご飯、ムカゴ粥など、冷凍保存で年中楽しんでいる。

秋深み里山賑わす茸狩り

手をつなぐ如く舞茸楢古木

倒れ楢茸群れて地に帰す

木々は燃え松茸いよよ盛りへと

秋深み無心になりてむかご摘む

 秋の虫、温暖化の今日、秋も終わろうとする頃にも鳴き止むことなく、むしろ勢いづいて来る。今や小雪の候(十一月二十二日)でも虫の音は聞こえて来る。

虫の音を勢いづけるそぞろ寒む

命つきる知りてか虫の音いよ高し

虫の音も途絶えとだえの夜寒かな

 十月も終わる頃、里山の荒れ地に栽培されていた蕎麦の刈り入れも終わり、新蕎麦の季節だ。蕎麦はきれいな畑でつくるよりも山の荒地で育てた方が旨いのだ。
 五十年も前、関川村で診療をしていた頃の事、晩秋か初冬の夕刻に往診に行った農家で、石臼で挽いた新蕎麦をご馳走になった。一粒々々臼に入れ、手で廻しながら挽いた蕎麦の味、今でも忘れない。

秋深み蕎麦挽く音や里の家

 深まってゆく秋の里山では、タテハ蝶の仲間たちが少なくなった花に集まり蜜を吸ったり、翅を大きく広げて陽を浴びている。冬を越す仕度をしているのだ。

冬越しに備え陽を浴ぶ赤立羽

 晩秋は冬に備えての仕事がたくさんある。スーパーが近くにない里山では、雪に閉ざされると今でも買い物は不便。冬越の野菜を蓄えたり、日当たりのよい軒には柿や大根を吊りしている。昭和の頃は町中でも見られた光景だが、農村でも年寄がいなくなると無くなる風習であろう。

軒下の大根白さ目立つ里

 昭和の頃は十一月三日文化の日は晴の日が多かったが、平成になってからは天気に恵まれない日が多くなった。私はこの日は長岡郊外の山に車で出かけている。標高六百メートルだが、そこから眺める紅葉が美しい。様々な色を織り込んだ絨毯のようだ。

五色にも六色にもなる山紅葉(もみじ)

 越は立冬近くになっても、冬の気配を感じないこの頃である。

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蛍の瓦版〜その36 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 クラウド型EHR事業

 長岡市医師会は、総務省管轄の供クラウド型EHR(個人健康情報)高度化補助事業僑を進めています。“クラウド”は雲という意味で、ここでは複数のパソコンやタブレット内の情報を統合することです。この事業では個々の病院や診療所・調剤薬局の電子カルテ内に保存されている医療に関する情報を個人別に統合するシステムの構築を目的としています。
 医師会では医療データの統合と保存を行う基本のシステムとして「青洲リンク」を選択しました。「青洲リンク」は和歌山県医師会が南海トラフに備え,地元のサイバーリンクス社とともに開発活用しているもので、災害時の対策に優れ簡便かつ導入維持費がリーズナブルです。また当初からこのシステムに参加予定の長岡赤十字病院と長岡中央綜合病院は富士通の電子カルテを使用されており、同社のシステムである「ヒューマンブリッジ」も活用し、さらにデータの統合保存を充実させることを目指しています。
 「ヒューマンブリッジ」と既存の「フェニックスネット」からの情報を「青洲リンク」に集め、関係部署の端末から閲覧できるようにします。医療機関からの情報は処方内容と一部の検査データ程度に限りますが、さらに制限を設けることも可能です。他社の電子カルテを使用されている診療所や病院からも「青洲リンク」に接続可能で、今後徐々に対象を拡大していく予定です。

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第47回長岡市医師会会員ゴルフ大会優勝記 田島健三(長岡保養園)

 平成29年度の長岡市医師会会員ゴルフ大会は、9月18日敬老の日に長岡カントリー倶楽部東西コースで開催されました。大型台風が新潟を直撃する予報もあり開催が危ぶまれましたが、直前に通り過ぎ、やや強い風が吹きましたが大雨にもならず、長老田中政春先生を筆頭に17名の会員が参加し無事全員ホールアウトできました。
 そして懇親会及び表彰式が割烹『魚藤』にて行われましたが、まさかの結果が発表され、図らずも10年以上たっての2度目の優勝の栄誉に輝きました。スタート前には優勝は2度とすまいと思っていたのですが、ペリアの隠しホールがことごとくはまりHDCP22・8をいただき、この名誉ある優勝記を書く羽目に陥りました。一緒にプレーをしていただいた柳京三先生、太田裕先生に厚く御礼申し上げます。
 前半に50を超える多叩きをしてしまい、密かに台風のせいにしての中止を願いましたが次第に天候も回復し後半に突入せざるをえませんでした。救いは最終ホールでやっとパーが取れて、「あー、これでまた次回ゴルフをやる気になれたな」と自分を納得させて終わりました。今シーズンはラウンドの回数は飛躍的に増えていますが、つくづくゴルフは何回やってもうまくいかないものだと思った次第です。
 年も重ね、いつまでゴルフが出来るかわかりませんが、ボケ防止、寝たきりにならないように、社会と少しでも繋がっていたいと願って、スポーツジムに通い筋力をできるだけ落とさないよう体を動かし、その後サウナに入り帰って家でお酒をたしなむことが日課になっている今日この頃です。来年以降はもう優勝できないと思いますが、また参加できればと思っています。
 最後に今回私に優勝を譲ってくださった16名の皆様と、お世話になりました幹事の荒井先生、事務局の星さん有難うございました。
 “長岡市医師会会員ゴルフ大会”が永遠に続きますように!!

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巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ(その5)  富樫賢一(悠遊健康村病院)

 いよいよクルーズ最終日。この日は終日航海、さて何をして過ごそうか。まずは6時に開く15階ガーデンカフェで朝食。朝食後同じ階のキッズプール脇を通り抜け、船首の卓球台に。船はほとんど揺れないので普通にやれる。しばらくすると若者達が隣の台でやり始めた。その内順番待ちの列。待たせては申しわけないので早々に退く。今日はいやに混むなと思ったら午後から卓球大会があるようだ。

 船室に戻り水着に着替えた。ザ・へブン(富裕層向けの特室)のある16階に上がり、ジャグジーを目指す。誰が使ってもいいのよとトミイは言うが、物怖じする夫。滝のように頭上から流れ落ちる水の中を通り抜けると、目指すジャグジーがあった。だが泡が出ていない。故障かなと思って入っていると後から来た女性が入ったとたん泡が出てきた。う? 何とスイッチを押さないと泡が出ないのだ。む!

 気分を変えて15階のアクアパークへ。この船のアトラクションの目玉、ウォータースライダーに挑戦。降り口まで眩暈がするような急階段を上る。降り口には係員が居て合図するまで待てと言う。まずトミイが滑り落ちる。その着水を見届けゴー。急なコースをぐるぐる回転しながら落ちる。振り落とされて海にドボン、ではなく無事着水。日本では途中で止まることもあるがそんな心配は全く無い。

 スリル満点だが心臓に悪いのでこれまで。と、トミイが更に高い所からやろうと言う。今落ちてきた所から5mは高い。止めておこうと言うと一人で上って行った。コースが錯綜していて何処から落ちてくるのか分らない。と、何処からか現れて面白いと一言、また上って行った。そのトミイもさすがにフリーフォール(バンジージャンプ)への挑戦はパス。

 プールサイドで休んでいると急に起き出したトミイ。卓球大会に行くという。バカなことは止めろと言っても聞かない。しばらく経って様子を見に行くと、一回戦は勝ち上がったという。2回戦の相手は地元?のギャル。年寄り対ギャル。周りの応援は圧倒的にギャル。トミイが勝つとシーン。たまにギャルが勝つとヤンヤヤンヤ。結局トミイが勝つには勝ったが、余りのバカらしさに3回戦は棄権。

 何となく眠れない夜。ふと気が付くと隣のベッドに寝ているはずの者が居ない。おやっと思って見回すとベランダに人影。もうマイアミ港に入ったのか、遠くでネオンがチラチラ。そこからトミイが手招きしている。寝ぼけながら歩いて行くと指差す方向にポリス艇の灯り。何だろう?

 下船後はマイアミ市内観光。夕方から混みだすというマイアミビーチ。行ったのは午前中で人影はまばら。野生のワニが見られるエバーグレーズ公園。湿地帯をエアーボートで駆け巡ったがワニはお休み。イチローが所属するマーリンズ球場。早朝体操老人が最も楽しみにしていた所。その日はイチローの3千本安打記念試合の予定だったが中止。その日先発予定のフェルナンド投手が急死したからだという。そう、暗闇の中で目撃したのは彼の事故現場だったのだ。登板前の真夜中に豪華クルーザーで何をしていたのか。球場の閉じられた扉の前に置かれた追悼の花束を見て退散。こんな偶然もある。

 エーゲ海クルーズに比べ気軽な船旅だったが、戸惑う事も多かった。アメリカは自己責任の国。そして決まりは決まり、融通が利かない。とはいえ、医者に見られなかったせいか、飛行機内で引っ張り出される事もなく無事帰国。(おわり)

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