長岡市医師会たより No.454 2018.1


もくじ

 表紙絵 「八海山新春」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「2018新年を迎えて」 会長 長尾政之助(長尾医院)
 「新春を詠む
 「典座教訓と良寛和尚」 福本一朗(長岡市小国診療所)
 「巻末エッセイ〜雪の下のナメコ採り」 江部達夫(江部医院)



「八海山新春」 丸岡 稔(丸岡医院)


2018新年を迎えて  会長 長尾政之助(長尾医院)

 あけましておめでとうございます。
 諸先生方におかれましては、健やかに新春を迎えられたこととお喜び申し上げます。
 本年は医療と介護の報酬の同時改定があります。すでに報道でご承知のように、わずかなプラス改定とは言うものの、点数加算の要件緩和がなければほとんど変わりはないといったところでしょうか。ただ、ネットワークを通じた紹介・連携・遠隔診療が評価されるようで、フェニックスネットには追い風?とも思いましたが、ふたを開けてみないとわからないといったところです。
 胃癌リスク検診は5年目を迎え、3年を経過した中学2年生のH.ピロリ検診もあわせて順調に推移しています。すでに開腹切除を要する胃癌患者は少なくなってきていると聞いておりますが、将来、胃癌がめずらしい病気になるようなら、素晴らしいことと思います。
 国の医療計画に基づいた地域医療構想が昨年まとまり、地域医療介護総合確保基金を用いた整備が進もうとしています。中越構想地域は救急医療を含め順調に機能している現状を急に変えることなく、診療報酬体系の改定に合わせ徐々に調整を進めることになりました。
 「長岡フェニックスネット」は救急隊が参加してから1年が経過し、当初、予想しなかった良い効果を認めていただき、驚くとともに関係者一同喜んでいるところです。
 長岡も高齢化がさらに進み、平成28年度の救急搬送約1万件の内、高齢者の占める割合が6割を超えました。高齢独居・老々・認認世帯が増加しており、状況把握や事情聴取に手間取った時に役立つ場面もあって(困って救急要請者の情報を検索すると約5割の確率で情報を得ることができた)良い評価をいただいています。
 「長岡在宅フェニックスネット」は、後方支援にあたる病院の参加を得て、病院・診療所・在宅をまとめるネットワークに発展し、“在宅”をはずし「長岡フェニックスネット」と名称も新たにしました。病病、病診連携は富士通のヒューマン・ブリッジで接続し、在宅はアルム社のTeamを用い、この2つをサイバーリンク社の青洲リンクでつないで、双方向で情報のやり取りや共有を行うことになります。現在、市内の多くの調剤薬局や検査センターに賛同をいただき、ネットワークに接続する機器の設置を進めています。これが完了しますと、同意をいただいた患者さんの情報(処方薬と検査結果に限る)は何ら手を煩わすことなく会計完了後、自動でクラウドサーバーに送られます。多くの先生のご参加をお願いします。
 最後に、伝統ある長岡市医師会をさらに発展させ、地域社会に貢献する医師会となるよう努力する所存でありますので、会員の皆様のご支援よろしくお願い申し上げます。
 皆様にとりまして更なる発展の戌年となりますよう祈念して新年の挨拶とさせていただきます。

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新春を詠む

日本の 誇を永久に 初詣  荒井紫江(奥弘)

薫香の まっすぐ昇り 年迎ふ  十見定雄

永らえて また聴く鐘や 去年今年  江部達夫

診察室ごとに 掛け替へ 新暦  郡司哲己

妻子らは 年越し詣りに 出掛けたり 吹雪く音聞き 祝い酒 汲む  一橋一郎

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典座教訓と良寛和尚   福本一朗(長岡市小国診療所)

 越後の賢人良寛和尚は「富貴わがことにあらず、神仙期すべからず、虚名得て何するものぞ、腹を満たせば志願足る」と教えられた。しから凡下の俗人は富貴や虚名とはもともと縁とてなく、ただ“腹を満たす”事に毎日汲汲としている。考えてみると、“腹を満たす=食べる”ことは、酸素・水と並んで動物が環境から物質を取り入れる行為であり、生存に不可欠である事は言うまでもない。ただ「過ぎたるは及ばざるがごとし」、酒池肉林・暴飲暴食は却って命を縮める事もまた真実である。つまるところ「適切なものを適当な量食べる」ことが、個体の命を延ばすのに大事だということであるが、それがなかなか難しい。さらに食べる事は本来利己的行為であるため卑しいことであり、食い意地が張り意地汚いことは立派な人のする事ではないとされ、「武士は喰わねど高楊枝」「男子厨房に入らず」と食に無関心を装う事が君子の嗜みとされて来た。これに対して曹洞宗の開祖道元禅師(1200.1.19〜1253.9.22)は「食べる事こそ生きる事」として、食事を単に生存に必要な行為としてだけではなく、「より良く生きて悟りに至る修行法」として採用し、『典座教訓』(てんぞきょうくん)として食に関する金言を残された。典座とは禅寺において「食」を司る重責を担う役僧のことであり、典座教訓はその典座職の行うべき職責を細かく丁寧に説明して、禅寺に750年間守られて来た料理作法マニュアルである。
 1200年京都で生を受けた道元禅師は、幼くして両親を失い、世の無常を感じて出家した。当時の日本仏教界での修行に満足できなかった道元禅師は、真実の仏法を求めて中国(宋)に渡られた。宋では正師と仰ぐ如浄禅師の教えを受け、多くの経験と修行を積み、ついに身心脱落してその法灯をついで帰国され1233年、京都の宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建立された。1235年には僧堂、翌1236年には法堂が建設されるなど着々と伽藍の整備が行われ、布教の基礎が整う中、1237年に著されたのが『典座教訓』である。その中に、道元禅師が食の重要性を教えられたエピソードが二件述べられている。
 一つ目は宋の港に到着し、上陸許可がおりるまで船に留まっていたとき、年を召した中国の僧侶が港にやってきた。老僧は修行道場の食事係(典座和尚)で、うどんに使う食材を買いに来たのだが、道元禅師はその僧侶と仏法の話がしたくて、「今日はここに泊まっていきませんか」と誘ったところ、老僧は食事の準備があるからとそれを堅く断った。その頃の日本のお寺での考え方に従って、食事の用意などは修行の妨げになる面倒な雑事だと思っていた道元禅師は言った。「そんな食事の用意などは新入りの若い者にでもさせればいいではないですか。あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の議論よりも、そんな食事の準備などを優先させて、何かいいことがあるのですか。」すると老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」と言い残して帰ってしまった。
 二つ目は、道元禅師が中国各地の道場を訪ね修行を重ねていた暑い日の昼間、腰の曲がった老典座が、杖をつきながら汗だくになって本堂の脇で海藻を干していた。見かねた道元禅師が、「こんな暑い日ですから、誰か若い人にでもさせるか、せめてもう少し涼しい日にしたら良いのでは」と声を掛けると、「他(た)は是吾(これわれ)にあらず更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」(他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずに何時するというのだ)と返され、再び大きなショックを受けた。こうした宋での体験は、僧の日常所作に対する認識を根底からくつがえすほど衝撃的であり、道元禅師の思想形成と日本での布教態度に少なからぬ影響を与えた。
 三部に分かれた『典座教訓』の第一部では典座が行うべき職務を理念的内容と具体的内容をおりまぜながら一日の流れを追って解説しており、第二部では道元禅師の宋での修行中の体験・お釈迦様や歴代祖師などの故事を引用しながらわが国の至らぬ点とめざすべき理想を説いている。さらに第三部では、何をする時でも常にわすれてはならない三つの心構え、すなわち「三心(さんしん)」を説いている。三心とは「喜心(きしん)」=作る喜び、もてなす喜び、そして仏道修行の喜びを忘れないこころ。「老心(ろうしん)」=相手の立場を想って懇切丁寧に作る老婆親切のこころ。「大心(だいしん)」=とらわれやかたよりを捨て、深く大きな態度で作るこころをいう。更に作る側の心構えとしては、(1)食材に対する敬意を持つ、(2)整理整頓を心がけ道具を大切にする、(3)食べる人の立場に立って作る、(4)手間と工夫を惜しまないことが大事であり、食べる側の心がけとしては宋の修行道場の食事様式である『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』に示されている「五観の偈」が引用されている。それは(1)この食事ができるまでに携わった多くの方々の苦労や食材の尊さに感謝する、(2)自分がこの食事を食べるにふさわしい行いをしたかどうか反省する、(3)むさぼり・いかり・ねたみの心を制して正しい心と行いをもっていただく、(4)単に空腹を満たすためではなく、心身を養う薬としていただく、(5)仏の教えをなしとげるためにこの食事をいただく、として「作るのも修行ならば、それを食べるのも尊い修行」であると教えられている。筆者は大学時代、少林寺拳法部に入っていたが、これは金剛禅という禅宗の一派であり、毎年禅寺で合宿して早朝から起こされ、作務・座禅・稽古をさせられたが、食事も修行の一環で沢庵を一切れ残した時など「食わんのに取るな!」と大声で叱られるのでいつも緊張していた。その点プロのお坊さん達は立ち居振る舞いが静かでゆっくりと無駄がなく、食器も奇麗に拭き取って合掌して戻されていて立派であった。
 人間を含む動物にとって、食べ物は植物や他の動物の命を取る事で得られる。つまり我々は他の「生き物の命」を調理した食べもので養われているのであり、「(命を)いただきます」「(作っていただいた料理を)ごちそうさまでした」と感謝するのは当然の事である。しかし欧米には食前の祈りや料理してくれた人への個別の感謝の言葉はあっても、日本人の様に食前に手を合わせて「いただきます」と一緒に食べはじめ、食後にも手を合わせて「ごちそうさまでした」と一同で感謝する習慣はない。このような良い伝統的な食事作法は永く守り続けるとともに、近頃の若い人々の様に男子も積極的に厨房に入って、健康的で美味しい料理を作る新しい風俗を形成する事が大事と思われる。イスラムのラマダン、仏教徒の断食、キリスト教徒の喜捨のための一日絶食は、空腹がどんなに苦しく、飢えた人間がいかに浅ましいか、そして食べる事が人間にとって、いかに大切であるかを現実に体験するとともに、飢餓に苦しむ人々を救う方策を考える良い機会である。人は「生きるために食べる」とともに「食べるためにも生きる」存在なのだから。

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巻末エッセイ〜雪ノ下のナメコ採り 江部達夫(江部医院)

 奥山に紅葉踏み分け滑子(ナメコ)採り

   群生出会い冬は楽しき

          猿まね達夫(だつゆう)

 昭和の頃までは紅葉は秋の季語にふさわしかった。地球温暖化の影響か平成の世は、北海道と本州の高い山々を除いて、紅葉は初冬から中冬にかけてが見頃に。越後でも立冬の頃から盛りに。

 ところで茸は秋の季語、松茸や榎茸などは単独で季語。今でも多くの茸は九月、十月に盛りを迎えるが、滑子(ナメコ)だけは季語は冬。

 越後の山では少し深く入ると、十月中頃からナメコは生え始めて来るが、大きくなり旨みが増して来るのは十一月立冬を過ぎてから。

 私は十一月中旬になると関川村の里山深く出かけている。ナメコは?(ブナ)林の恵み、立ち枯れした老木や風で倒れた倒木の幹や枝で樹皮が付いている所に発生する。他の広葉樹にも発生するがやはり?に多い。

 ナメコの群生に出会うと、群の中央部のもの程大きく、傘の径は十センチを越え、肉厚になってくる。これが旨いのだ。冬眠前に捕れた熊の肉に大きなナメコの入ったナメコ汁、山の男達の楽しみの一品だ。

 十一月小雪の候(二十三日頃)、雪が降り始めると山男達は山に。ナメコ、エノキダケ、ムキタケ、ヒラタケなど、立ち枯れした木に生え、冬でも成長し続ける茸を採るのだ。

 茸採りは秋だけのものではなく、山里で生活する者にとっては雪消えまで続く。エノキやヒラタケは春の山菜が出始める頃まで採れる。またぎ達は春の雪山で熊の目覚めを待ちながらヌケオチ(エゾハリタケ)を見つけて来る。

 私の味覚では、ナメコは冬、雪が降り始める頃が最も旨い。雪をかぶったナメコは少し黒ずみ、風味が増し、甘みも出て来る。

 雪をかぶったナメコ、山に初雪の舞う頃、?(ブナ)の倒木に雪がこんもり積もった所を見つける。雪を取り除くとナメコが群生。十センチ程の雪をかぶった所が良い。こんな群生を四、五箇所見つけると大量収穫になる。

 大自然の恵み、冬のナメコは、一年中市場に出ている企業栽培のナメコとは別物の味。栽培物に慣らされた口には天然の旨さは分からない。

 冬のナメコ、たくさん採れた時は洗って汚れを落とし、一食分づつ小分けにして冷凍保存に。ナメコはみそ汁、けんちん汁、みぞれ和え、鍋物などで食べている。大きな物は水気をよく切っててんぷらも旨い。

 天然のナメコは平成になって大群生に出会うことは少なくなった。昭和三十年、四十年代、国策で?(ブナ)林はどんどん切られ、杉に植え替えられた。たくさんの?(ブナ)の切り株にナメコが生え、植林された杉林でナメコが採れた。十年も経って切り株も朽ちた。

 ?(ブナ)林でのナメコ採り、足、腰が衰えたため山仲間に任せ、私は採れたナメコの水洗いを手伝っている。天然物は苔や枯葉がこびりついている。

 天然ナメコは遠くまで出かけなくても長岡近辺の里山でも採れるのだ。息子は十一月小雪の頃、市営スキー場近くの林で毎年のように採ってくる。皆様も探してみては。

 

  俳句滑子五句

落ち紅葉踏みしめ里山滑子採り

群生の滑子競いて伸びおるや

今日もまた滑子洗いて闇に入り

味噌汁の滑子摘まんと孫苦戦

吾こぼす滑子目敏く孫見つけ

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