長岡市医師会たより No.457 2018.4
表紙絵 「守門山麓の春」 丸岡稔(丸岡医院)
「森下先生とのこと」 上原徹(立川綜合病院)
「May your soul rest in peace」 川嶋禎之(長岡赤十字病院)
「新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講して」 辻本友高(辻本皮ふ科)
「新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講してきました。」 七條公利(七條胃腸科内科医院)
「何故か目の前で人が倒れている〜新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講して」 高田琢磨(江陽高田医院)
「蛍の瓦版〜その41」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「巻末エッセイ〜ウルシを食材に」 江部達夫(江部医院)
「守門山麓の春」 丸岡稔(丸岡医院)
森下英夫先生、先生とのお別れは、とても辛く悲しいことです。
森下先生、あなたが昭和49年新潟大学泌尿器科教室へ入り、その1年後私が入局してから、もう40数年のお付き合いをさせていただきました。当時から医局内では先生のことを、親愛の情を込めて、森下ジンタンと言っていましたので、ジンタンさんと呼ばせていただきます。その頃泌尿器科は、まだマイナーな科とされており、例えば手術で大血管の処置に血管外科の力を借りなければならないなど、という状況でした。泌尿器科をマイナーと言わせない、手術は我々だけでやるのだという気で、夜中まで一緒に手術をやりましたね。また子供さんが小さかった頃、奥様も皮膚科医としてお忙しくされておりましたので、夜遅く子供さんをおんぶ紐で背負い子守をしながら、医局に現れ勉強してから帰宅されました。
昭和62年4月、佐藤昭太郎教授が日本泌尿器科学会総会を主宰されることになり、先生はプログラム作成の中心として、当時ヨーロッパの泌尿器科の重鎮であったヒル・ベルネ先生を招請すべく、スペインまで交渉に行かれました。先生が医局長を務めた後、私が医局長を命じられ、泌尿器科学会総会を成功裏に終わることができました。そしてその年の8月先生は長岡赤十字病院に就職され、私は翌9月に立川綜合病院に移ることになりました。当初は大学医局からのサポートもままならず、大きな手術の時や緊急手術の時は、お互いの病院を行き来して協力し合いました。私が赴任してすぐ、膀胱全摘・回腸導管の長時間の手術に手伝いに来ていただき、やっと閉腹し、さあこれから飲みに行けるぞと思っていた矢先、導管の血流障害が見つかりました。やり直すとなるとさらに2時間以上かかるので、躊躇していたところ、「先生が頑張るなら付き合うよ」、と言って励ましてくれました。おかげさまでその患者さんは今なお、元気でいらっしゃいます。
新潟時代から家族ぐるみのお付き合いをさせていただき、奥様とのラブロマンスは、散々聞かされました。スキーにも何回かご一緒しました。私の子供たちにも「悪ガキが来たぞ」と、小さくてまだリフトに一人で乗れないのを抱いて乗せてくれました。大変お世話になりました。
先生のモットーは、「激しく学び、激しく働き、激しく遊ぶ」であり、それは病院の自室に大きく掲げてありました。熱血漢であり元気でパワーがあり、あらゆることに常に挑戦しながら、そして思いやりと気配りのできる人でした。長岡赤十字病院の院長に就任されてからは、困難な病院経営だけでなく、公的病院の院長として対外的な種々の役職をもこなしてこられました。責任感あふれるリーダーとしての力、燃える闘将としての器、その激務の中で、学会発表や論文をまとめて、業績集を出されました。それをもらった時、電話で、「これでおしまいという意味ではないよね」と言ったところ、「ふふふ、ばれたか」と言っていましたね。思えばその頃から体調を壊していられたのですね。体の動きが思うようにならず、院長職を辞めることになった時、「トップランナーとして走れなくなったら、辞めるのは当然だ」と言われました。見事な心意気と、感服しました。
赤十字病院を退職された後、立川メディカルセンターの悠遊健康村病院に来ていただき、リハビリをしながら、車椅子で仕事をしていただきました。私が毎月悠遊健康村病院へ行った時、先生は動きにくい指で、キーボードを押して、自分の子どものころから現在までの思い出を本として出版しました。また “ぼん・じゅ〜る” に介護保険について、ご自分の考えを寄稿されました。一字一字、ぽつぽつと押しながら形にする、とてつもなく大変な作業を行っていました。まだまだやりたいことが沢山あったでしょうに、また体が言うことを聞かず、じれったい気持ちもあったでしょう。しかし先生は淡々と状況を受け入れ、冷静を保っておられました。見事なものです。
あなたは、いつも私の一歩先を進んでおりました。泌尿器科入局、講師就任、医局長、長岡へ就職、病院長、医師会理事そして新潟大学泌尿器科同窓会長など、あなたの足元には到底及ぶことは出来ませんが、いつも私はあなたの少し後の、同じ道を歩いて来ました。しかし今はもう、あなたは私が追いつこうにも、追いつけないところへ旅立たれてしまいました。ジンタンさん、むこうの世界でも「激しく学び、激しく働き、激しく遊ぶ」のでしょうか。もう少しらくちんに過ごしてくださいよ。そしてゆっくり休んでください。
さようなら、ジンタンさん。そしてありがとう、ジンタンさん。
May your soul rest in peace 川嶋禎之(長岡赤十字病院)
森下先生、謹んで先生のご逝去を悼み、生前の温かいご指導と長きにわたるご厚誼に対し、あらためてお礼を申し上げます。
思い返すと、森下先生に最初にお会いしたのは、昭和47年、季節も同じ4月の初めでした。もう46年前のことになります。旭町の医学部の階段教室、新入生ガイダンスの会場でした。
県外から来て右も左もわからぬ新入生の私に、新潟で最初に声をかけてくれたのが、バレー部員の勧誘に来られていた森下先輩でした。マッチョで男くさく、上級生というより、はるか年上の大人に見えたことを鮮明に覚えています。その後、体育館までバレー部の見学に連れて行かれたものの、結局私は隣で練習していたバスケ部に入ってしまいました。部活も違う上、学生生活のオーバーラップの期間もわずか2年でしたが、同じ体育館の隣り合わせのコートで練習していたご縁でその後も可愛がっていただき、大学病院や、出張先の病院では折りあるごとに親しく声をかけていただきました。
また、私が平成5年に長岡赤十字病院に赴任してからはよくゴルフに御一緒させていただきました。お互い下手の横好きでしたが、芝生の上で先生のご友人をたくさんご紹介いただいたことも楽しい思い出です。
先生は昭和62年に長岡赤十字病院に赴任されて以来、30年間という長きに亘り、中越地域の泌尿器科医療のけん引役としてご活躍されました。また、先生は臨床の領域でご業績を上げられただけでなく、平成20年には副院長に、平成22年には院長に就任され平成27年までの5年間長岡赤十字病院の先頭に立って職員を引っ張ってくださいました。先生が導入されたクリニカルパス、DPCやカイゼン活動、そして時代の風を読んでの病院のダウンサイジング、混合病棟化は職員にとっては良い意味での大きな刺激であり、長岡赤十字病院全体の機能の向上に大きく貢献されました。また、先生は行政に働きかけPET-CT、ドクヘリの誘致を行うなど病院の未来を見据えた次の一手を常に考えておられました。就航して1年になるドクヘリは今や病院の看板ですし、先生に尻を叩かれて講習を受けに行って学んだクリニカルパスやカイゼン活動はしっかり病院に根付き病院発展の原動力になっています。
常に一歩先を見られていた先生は半周遅れの私に時々愚痴もこぼしたりされましたが、ため息ばかりつく私と違ってどんなときもポジティブシンキングでアグレッシブでした。私にとってはガッツあるバレー部キャプテンの時代から常に仰ぎ見る存在だった森下先生、先生のこれまでの長きに亘る医療に対する献身、赤十字病院に対するご貢献、そして私どもへのご指導に心より感謝を申し上げます。
森下先生、長い間本当にありがとうございました。さようなら、どうか安らかにお眠りください。
長岡赤十字病院遠望
新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講して 辻本友高(辻本皮ふ科)
長岡市千歳に開業して6年目になります辻本皮ふ科の辻本友高です。
筆不精で開業時の原稿を辞退していたため、この場をお借りして自己紹介させていただきます。京都府京都市生まれ京都教育大学教育学部附属高校卒ですが、H4年に新潟大学医学部入学ですので既に人生の半分以上は新潟です。大学時代はラグビー部でしたが、4年生の時にアルバイト(飲食業)が忙しくなり退部しました。趣味のウインドサーフィンやスノーボートにどっぷりとはまりながらも勉学も励み?なんとか卒業し医師免許を取得しました(昨今の厳しい医学部生活では卒業できなかったかもしれません。それぐらい昔は自由でした)。現在はゴルフと筋トレにはまっており、毎朝悠久山ゴルフ練習場に通い下手なスイングを固めています(笑)。
開業するまで長岡赤十字病院皮膚科に約7年間勤務し、伊藤薫先生、渡辺修一先生の御指導のもと、全身熱傷や難治性皮膚疾患、レーザー治療などほぼ皮膚科領域全般にわたって研鑽させていただきました。また現同病院病院長の川嶋禎之先生のご配慮で朝の整形外科カンファレンスに約一年間参加させていただき、骨折などの救急外来で遭遇する疾患や皮膚疾患に関連する骨病変について貴重な勉強の機会を与えていただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
開業後は長岡赤十字病院での経験をもとに、皮膚科全般において開業医としてできるかぎりの医療を患者さんに提供できるよう、さまざまな皮膚医療機器を導入して日々診療にあたっております。また皮膚疾患の患者さんを治療することはもとより、健康な方がより生き生きと人生を送っていただくことも、皮膚科医として大切な責務だと考えおり、美容医療などの自費診療にも力を入れております。レーザー治療も積極的に行なっており、乳児血管腫(いちご状血管腫)は発症からできるだけ早期に照射することで、3、4割の患者さんで自然消褪が促進されます。そのような患者さんがおられましたら、できるだけ早くご紹介いただけると幸いです。もちろん生下時より認める単純性血管腫も早期であればあるほど治療が容易で効果的です。他にも異所性蒙古斑や太田母斑なども治療していますので、あざでお困りのお子さんがおられましたらいつでもご紹介ください。
救急の講習会については毎年医師会から参加の依頼がありましたが、当院は長岡市消防本部が隣接しているので、特段必要でないかなと思っていました。しかしゴルフや旅行の際に現場に居合わせる可能性もあり、やはり一度は講習を受けておいたほうがいいと思いこの度参加させていただきました。
優秀な救急救命士の方の御指導のもと3人一組で正しい心肺蘇生の方法について実技を行い、まとめとして実際の現場を想定しシミュレーションを行いました。BLS(一次救命処置)のアルゴリズムは非常にシンプル且つ実践的な内容で、実際の現場でも焦らず救命処置を行えると思いました。AEDについてはお恥ずかしながらデモ機にも触れたことがなかったため、今回の講習で実際の機器の操作方法や注意事項、適応疾患について理解でき、実地でも使える自信がつきました。総務省消防庁のデータによると、H28年度中に一般市民が心原性心肺機能停止の時点を目撃した傷病者は2万5569人で、そのうちバイスタンダー(救急現場に居合わせた人)が心肺蘇生を実施した傷病者は1万4354人(56.1%)、一カ月後の生存者数は2359人(16.4%)でした。心肺蘇生を実施した傷病者のうちAEDを使用して除細動を実施した傷病者数は1204人であり、そのうち一カ月後の社会復帰者は547人、社会復帰率は45.4%でした。一方心肺蘇生を実施しなかった傷病者は11215人(43.9%)、そのうち一カ月後の生存者数は1041人(9.3%)1カ月後の社会復帰者は545人、社会復帰率は4.9%とAEDの有用性が明らかです。さらに救命側に医療従事者がいると有意に救命率が上がります。また医療従事者が救命処置を行わないと応召義務違反で訴えられることもあるそうですので、まだ受講していない先生は是非とも一度受講されることをお勧めします。
最後に休みの日にもかかわらず、講習会を主催していただいた諸先生方、検査部や看護師の方々、医師会事務のみなさま、消防職員の方々に深謝いたします。
新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講してきました。 七條公利(七條胃腸科内科医院)
遥か昔のことになりますが、実は研修医時代に、救急医学学会の認定専門医を目指した時期がありました。しかし勤務医時代は専門の仕事が日々忙しく、徐々にその興味も薄れていきました。それでも病院に勤務している間には、幾多の救急処置を経験しましたので、通り一遍等のことはできると思っていました。ですので本講習のことは医師会からの案内で知ってはおりましたが、全くと言っていいほど興味がありませんでした。しかしながら、長岡市医師会の方から督促に近い参加要請が幾度とあり、ついにその熱意に負け、遅まきながら去る3月18日に本コースを受講してきました。
私が参加したのは午後の部で参加者が僅か6名でした(午前の部は20名以上で大盛況だったそうです)。そのうち医師は私だけでしたので、殆どの医師会員は既に受講済みなのだなと感じました。2人ずつ3グループに分かれての講習でしたので、少人数の分マンツーマンに近い形式でした。
最初の実技は、最も基本となる胸骨圧迫と気道確保のトレーニングでした。久しぶりに心臓マッサージを長時間行ったので、体力的には正直きつかったです。それでもインストラクターを担当してくださった整形外科の丸山先生が、実におもしろおかしくユニークな教え方をしてくださったので、シビアな研修の割には楽しく学ぶことが出来ました。一汗掻いたあとは、人工呼吸の行い方、AEDの操作の要点を教えていただきました。私は開業して14年になりますが、当院の患者層の大部分は50歳以下の比較的お元気な方ばかりなので、幸いなことに今日までCPRを必要とする場面は一度もありませんでした。そのため実際にAEDを使った経験がなかったので、いろいろな細部の再確認ができて本当に良かったと感じました。その後は、小児や成人の窒息の解除法を学び、最後にインストラクターチームが総出で、不安定な患者への対応の仕方について、臨床現場で比較的よく遭遇するであろう幾つかのケースデモを見せていただきました。内容以上に皆さんの息の合った迫力のある演技に感心させられました。特に、NSAID潰瘍患者の救急デモの場面で、我チームの丸山先生が演じた救急ドクターが、「整形の医者は痛み止めばっかり出すから、まったくどうしようもないな?」と言う自虐的コメントが私の笑いを誘いました。緊迫した場面の中にコミカルなものを織り交ぜる丸山先生のセンスの良さを感じました。長い様でもあり短い様でもあった3時間の講習でしたが、改めて再確認できたことや知らなかったことも学べたので、遅まきながら参加してよかったと感じました。
開業して以来、CPRとは全く無縁の状態で日々の診療に従事しておりますが、救命を必要とする救急の場面は予期せぬときに突然訪れるわけですので、本講習で学んだことを、これからの診療に生かせたらと思いました。最後に休日にもかかわらず本講習会を企画してくださいましたスタッフの皆様には、心より感謝申し上げます。これからも地域医療レベルの向上にご活躍されることを願っております。誠にありがとうございました。
何故か目の前で人が倒れている〜「新しい救命処置を学ぶ半日コース」を受講して 高田琢磨(江陽高田医院)
平成29年12月中旬のある日、当院で初めて開催する忘年会に参加するべくタクシーに乗ったとき、私は目撃しました。氷雨降る師走の、暗い、混雑した道の上に、黒い物体が横たわっていました。傍らには壊れた傘が1本と軽自動車が1台。青白い顔をした男性がパニックになって周囲に助けを求めていました。周囲の状況から交通事故が発生したのだとすぐに理解しました。タクシーを停めて、同乗の妻と共に救助に向かいました。
被害者は80歳くらいの女性でした。道路の真ん中で危ないので、ひとまず近傍の建物に移動させました。意識レベルはJCSで10程度、耳から血を流しており、頭部には擦過創と打撲を認めました。右下腿を触ると痛がります。呼吸、心拍は保たれているようでした。119番に連絡し、状態を観察しながら救急隊の到着を待ちました。幸い意識レベルは少しずつ回復し、痛い痛いと訴え始めたのでかえって安心しました。急変はありませんでしたが、耳から流れ出る血液をどうすることも出来ないまま待つ時間の何と長いことか。無力感を感じる瞬間でした。
救急隊は10分弱で到着しました。手際よく状況を確認した上で患者さんを当番病院へ搬送して行きました。とても心強く感じたことを覚えています。警察からの簡単な事情聴取を終えた我々夫婦は、待機してくれていたタクシーに乗り込み、何とか時間通りに忘年会に間に合うことができました。
このような忘れがたい経験を踏まえて、本日開催されたBLS講習会に、当院スタッフと共に参加いたしました。BLSの内容についてはすでにご存じの方も多く、また実際に体を動かして習得するものと考えますので、詳細な記載はここでは省きます。私個人としてはG2010が発効されたあたりでACLSの講習会を受講しており、そのときのほのかな記憶を思い出しながらの受講となりました。BLSについては習得しやすいよう、その手順や教える方法が統一化されており、半日という短い時間ながらも充実した講習を受けることが出来ました。講習の内容もさることながら、「他人を教育する」という難しい行為について、良く練り込まれた指導方法を体験することが出来たのは良かったと思います。
これまで私は主に救急病院で働いていたことから、救急の現場においては専ら二次救急の引受先としての業務が主体でした。今回医院を開業し、119番通報を行って当番病院の救急外来への搬送を依頼することも少なからずありました。今回の講習では不安定な状態の患者に対する情報収集の重要性と、その方法に対するレクチャーもありました。引受先の病院スタッフが必要とする情報を的確に収集、連絡できるよう、今後も努めたいと思います。
今回の講習で新たに知ったことは、救急隊員による患者の初期対応でした。とりわけバイタルサインや外傷部位の確認と評価については興味深く講義を拝聴しました。私はこれまで外傷を伴う救急患者の診察については経験が少なく、冒頭のような事故に遭った患者に対する系統だった診察が少し苦手でした。今回方法論を学んだので、今後はその経験を活かしたいと思います。
さて3時間の講習もあっという間に終了しました。私個人はもちろんのこと、当院スタッフも知識と技術を再確認できたものと思います。貴重な学習の機会を設けて頂いた長岡市医師会の皆様、さらに休日にもかかわらず十分な準備と講習を行ってくださいました長岡赤十字病院や長岡市消防隊の皆様、その他携わって頂いた皆様に感謝いたします。
さて冒頭の患者さんのことです。伝え聞くところによると、一命を取り留め現在はリハビリに取り組んでいるとのことでした。ひとまず安心しました。今後もいつ何時「何故か目の前で人が倒れている」状況が出現するかも知れません。医療人として適切に対応できるよう、今後もこのような救急救命を研修する機会に参加したいと思います。
介護支援専門員(ケアマネジャー)
多職種紹介シリーズです。介護支援専門員(ケアマネジャー通称ケアマネ)は、先月号でご紹介した“介護保険”の導入に伴い創設された新しい職種です。
職務内容
ケアマネの職務は、介護が必要な方が、介護保険のサービス等を利用しながら、在宅での生活を円滑に送れるように援助することです。利用者本人や家族の状況を確認しその希望に応じて、介護度に応じた限度額内で、多種多様なサービスを組み合わせたケアプランを作成します。また利用者に係わる多職種のまとめ役としてサービス間の調整や評価を行い、多職種参加のケア会議も開催します。サービス利用実績を確認し、保険者である市町村へ国民健康保険団体連合会を経由して報告することも大切な業務です。
資格
ケアマネ(介護支援専門員)として認められるためには、介護支援専門員実務研修受講試験に合格し、都道府県が実施する介護支援専門員実務研修を終了する必要があります。この研修は実習を挟んで、合計2週間の90時間近い講義と演習からなりたっています。実務研修受講試験の受験資格としては、規定の国家資格を所持し5年以上かつ900日以上の実務経験または資格なしでは相談援助業務への従事実績が必要です。規定の国家資格には、医師・歯科医師・看護師・リハビリ専門職等の医療系や、介護福祉士・社会福祉士・精神保健福祉士等があります。平成10年の初回試験の合格率は44%あり、役半数が看護師を主とする医療系の資格保持者でした。合格率はその後徐々に低下し平成28年度は13%ですが、昨年はなぜか22%に回復していました。昨年度合格者の既得の国家資格は、介護福祉士70%社会福祉士8%に対し、医療系は全て併せても16%に過ぎず初回から漸減しています。
居宅介護支援事業所
ケアマネが実務を行う事業所のことで、一人から設立可能です。他の介護保険サービスと異なり利用者の個人負担は無く、費用はサービス利用の多寡に係わらず介護度に応じて、全額介護保険から給付されます。一人のケアマネが扱えるケースは35名程度とされていますが、35名全員に丁重に対応することは現実的には困難です。全国的な統計でも居宅介護支援事業所の多くは赤字経営で、大半の事業所は通所介護や短期入所介護・訪問介護等の介護保険サービスの事業所に併設運営されています。
医療介護同時改定
今年は6年に一度の医療保険と介護保険の同時改定の年で、慢性期の療養はさらに医療から介護保険へシフトしています。そして医療と介護の円滑な連携のために、調整役としてのケアマネの係わりが大きくなっています。今回の改訂から、医療系の介護サービス(老人保健施設・デイケア・訪問看護・訪問リハ等)を利用するケースでは、主治医へのケアプランの報告が求められています。また以前より点数化されていた退院前カンファレンスの評価が上がり、終末期の方へのケアプラン作成要件が明記されました。
最後に
現在長岡市内には70の事業所があり、約220名のケアマネさんが従事されています。その多くが介護職として現場で苦労され、頑張って試験に合格して勉強されてきた方です。
日常生活に何らかの介助を要する高齢者が生活をしていくためには、介護保険の上手な利用は不可欠です。ケアプランの報告に来られたケアマネさんと、ちょこっとでも情報交換をされてはいかがでしょうか!
二十年も前の話である。ある年の四月の末、関川村に山菜採りに出かけた時のこと。
夕食時に村の山仲間夫婦が集まり宴会に。持ち寄ってくれた山菜で造った料理が食卓一杯に並べられた。私が持参した牛肉の炭火焼きと山菜で一杯やりながら、明日の山行きの組合せを決めた。二人一組で四ヶ所の山に入るのだ。雪解けの山は一斉に山野草や木の芽が伸び出して来るので、手分けして山に。なにしろ長岡には私の持ち帰る山菜を待ち構えている連中が大勢いるのだ。山行きの予定が決まり、杯を重ねている中、誰からか「まだ食べたことのない山菜はないだろうか」の声。
関川村は山菜の宝庫である。山菜として図鑑に載っているものは二百種あるが、私が旨いと思っているものは二十種類程度で、その殆どが関川村で採れている。「まだ食べたことのない山菜」、私は前から気になっていたものがあった。ヤマウルシである。私の山菜図鑑のバイブル、清水大典、会田民雄著の「山菜」の、ヤマウルシは毒草だが、調理しだいで旨い食材にもなるとの記事を思い出した。宴もたけなわ、「明日ヤマウルシを採って来るから食べてみたい者は」と声をかけると誰ひとり返答なし。ヤマウルシは日本中の山野に自生している落葉小高木。古来、果実から蝋を造っている。秋早々と美しく紅葉する。生うるしを樹皮から取って塗りに使うウルシは、奈良時代に中国から入って来たもので大木になる。東北地方に多く植えられている。食材に採ってこようと思うのはヤマウルシの新芽。ウルシの毒成分はウルシオールと云う物質。加熱すればその活性は失われるので、料理は塩少々入れてゆで、水にさらし、和えものとするか、てんぷらがよいと。さて翌日の山行き、旨い山菜は沢添いに出るものが多いが、沢にはまだ雪が多く危険とのことで、私は尾根歩きで木の芽の山菜(タラやコシアブラなど)を摘むことにした。尾根道を登り始めるともうヤマウルシは見つかった。赤紫色の新芽が伸び、葉が開き始めたものや開いてしまったものなど、正に生長の盛りであった。手袋をして十センチ位に伸びた葉のまだ開いていないものを試食用に二十本程採取した。
さてその日の晩のこと、採って来たばかりの山菜を女房達は料理に。ヤマウルシの若芽は注意深く扱っていたようだが、痒みを訴え出す者も。ウルシはてんぷらとなって食卓に。食卓のウルシのてんぷら、誰も手を出そうとしないので私が初めに食べた。タラの芽の食感、ワラビのようなぬめりがあり、甘みもあった。「うんこれは旨い」と。私の旨いの一言で何人かの男達は食べたが、女房達は誰も口にしなかった。
翌朝のことである。前夜てんぷらやひたしにして山菜をたくさん食べたためか軟便に。排便してしばらくしてから、肛門のまわりがいやに痒くなった。鏡で観察すると肛門周囲が少し赤くなっていた、かぶれか。
私が世話になっている石山建設の社長(住宅新築時に私専用の部屋を造ってくれた)も朝の排便後から尻が痒いと。長岡に戻ってから早速ステロイド軟膏をぬり、痒みは三日で納まった。社長にも軟膏を送った。
後日談になるが、あの日ヤマウルシを食べた者は他に四人おり、その中の一人にやはり痒みが出たと。自然に納まるのに十日もかかったと。山菜のてんぷらは揚げ過ぎないようにしているので、加熱不足でウルシオールが分解しきれなかったのか。友人の医師にこの話をしたら、「直腸に痒みの神経が無くて良かったね」。
秋分を過ぎてウルシは燃え始め