長岡市医師会たより No.458 2018.5


もくじ

 表紙絵 「蓮の花のように生きる」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「開業までを振り返ってみた」 高田琢磨(江陽高田医院)
 「百人一首を俳句に〜その1」 江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜その42」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜闘」 江部佑輔(江部医院)



「蓮の花のように生きる」  福居憲和(福居皮膚科医院)

蓮の花のたとえの様な清い生活は、当然選べるのですが、

年を重ねて衰えた体であっても、

心の年齢こそ、自分で自由に決めることができるのです。


開業までを振り返ってみた 高田琢磨(江陽高田医院)

 小林清男先生、三千先生が昭和61年10月1日に開設されてから、31年7カ月の間続いた江陽医院を引き継ぐ形で、私は平成29年5月1日に江陽高田医院を開院しました。開業からおよそ1年が経過し、これからの地域に必要とされる医療機関とは何かを自問しながら、診療を行っている今日この頃です。これだけだと紙幅が余ってしまいますので、私がここ長岡市で開業するに至った経緯について、自己紹介もかねて記したいと思います。
 私は昭和47年に千葉県で生まれました。父親は成田空港そばの片田舎で自動車整備工場を経営していました。私は一応社長ご子息、かつ長男ですが、小さい会社なのでお金は全然ありませんでした。空を飛ぶものが好きで、将来は航空機のパイロットや宇宙飛行士になりたかったことを覚えています。当時から「おでぶ」だったので、航空機パイロットはともかく宇宙飛行士は難しかったかもしれません。幼少期から勉強はそれなりに出来たので地元の中学校には進学せず、今で言う「お受験」をして私立の中高一貫校に進学しました。ちなみに後輩には今(平成30年3月)宇宙に行っている金井宜茂がいます。同窓の星です。彼は私の夢を叶えてくれました。その他の有名人というと小保方晴子がいます。おっと。
 高校時代はラグビーに明け暮れていましたが、進学校だったので受験の時期が迫ってきました。医師の子弟も多い学校だったので、何となく医学部進学を志してしまいました。秋田大学に拾ってもらって入学しました。大学でもラグビーに明け暮れ、おかげで県の学生代表にはなりましたが、卒業が迫っても自分が医師として働く姿を思い描くことが出来ませんでした。環境を変えようと、新潟大学の内科研修医になることにしました。
 研修の後半に所属した第二内科で荒川正昭教授に出会って衝撃を受けました。総回診での豊富な知識、質の高い討議、患者に対する全人的なアプローチに感銘を受けました。「俺も荒川正昭になりたい」、そう思い第二内科(腎臓内科)に入局することになりました。
 ご存じの通り、新潟県の腎臓内科医師は透析診療も行います。透析導入原疾患の第1位が糖尿病性腎症になったこともあり、腎・透析診療にあわせて糖尿病診療についても専攻することになりました。慢性腎臓病、糖尿病とも全身性疾患であり、なるべく全身をくまなく診られるように心がけておりました。
 新潟県立六日町病院、新潟県立がんセンター新潟病院での後期出張を終え、平成19年に長岡中央綜合病院に着任しました。一般病院における腎診療とは何かを考えながら診療をしていました。末期腎不全から透析療法に導入される患者は減らず、上流で何が起きているのかを確認したい気持ちに駆られていました。また高齢化も著しく、透析療法を導入したくても通院などの社会的な問題を抱える人も増加してきました。在宅で治療を行うことが出来る腹膜透析療法に力を注いでおりました。
 そんな折、御縁があって江陽医院を引き継がせて頂くということになり、江陽高田医院の開院となりました。縁故関係の無い私にも地域医療のチャンスを与えてくれた小林清男先生、三千先生には感謝しております。これまで両先生が築いてこられたことと同様、地域の皆様から頼られるような「かかりつけ医」としての機能を中心に、これまで私が行ってきた内科一般、とりわけ腎臓病や糖尿病などの診療を行うことが出来たら良いと思います。
 最後に、長岡中央綜合病院に着任する前から、実は私はうっすらと長岡市との御縁がありました。平成16年に結婚した妻は、かつて長岡赤十字病院の院長だった和田寛治先生の三女です。私は結局妻の地元に住むことになりましたが、これも御縁だと思います。地域の皆様に役立てるよう、そして頼られるような医療機関を目指しつつ、今後も精進を重ねたいと思います。
 ……あ。紙幅が余った。趣味は体を動かすことです。ラグビーをやりたいですが一人では出来ないので、かわりにスポーツクラブで黙々と走っています。生活習慣病を診療するものとして、ある意味義務だと思っています。ダイエットも趣味ですがこちらはちっともうまくいきません。写真撮影も好きですが、最近カメラをいじっていません。撮影した写真を医院に飾るのがささやかな楽しみです。あとはハムやベーコンなどの燻製作りも得意です。冬になるとベランダから煙が立ち上ります。夏にやると通報されかねません。こんなところで。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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百人一首を俳句に〜その1   江部達夫(江部医院)

 古稀を迎えた時から詠み始めた俳句、多々出ている入門書や歳時記を師として学び、楽しむようになってきた。
 詠み始めてから二年目、俳句の表現力を鍛える目的で、子供の頃からお正月の遊びに、父や母、兄弟姉妹で楽しんだ百人一首を、五七五の世界で詠んでみようと試みた。
 三カ月かけて百首全部を俳句化した。元歌に比べ内容には深みがなくなってしまっているが、ある程度は詠み人の意を伝えることが出来る句になったと思われた。

 あれから十年、俳句百人一首を詠み直し、推敲を加えた。俳句は十七音の中に季語が含まれることにより広がりが生まれる。恋の歌が多い百人一首、恋には季節がないためか、無季語の句が多くなった。
 この随筆は俳句とその元歌、歌意および詠み人についてミニ解説を加えた。

1.田のかり庵とまあらく袖露にぬれ

秋の田の仮庵(かりほ)の庵(いほ)のとまをあらみ わがころもでは露にぬれつつ 天智天皇

 秋の田のほとりの仮小屋、屋根の萱(かや)が荒く葺(ふ)いてあり、小屋の中に入ると衣の袖が露に濡れてしまっていることよ。

 天智天皇は第三八代の天皇、舒明天皇の第二皇子。皇太子(中大兄皇子)の時代、中臣(藤原)鎌足と図り蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を行った。都を近江に移す。歌は近江の田園風景か。

2.夏らしき白き衣の香具山や

春すぎて夏来にけらし白妙(しろたえ)の 衣ほすてふ天の香具山 持統天皇

 春が過ぎて夏が来ているようだ。あれが夏になると白い衣をほすという天の香具山だよ。(天女の白い羽衣がほされていたら見事であろうが、伝説的な話。)

 持統天皇は第四一代の天皇で、天智天皇の第二皇女。天武天皇の皇后、天皇崩御後即位し、藤原京(奈良県橿原市)を造った。藤原京は大和三山に囲まれ、香具山はその一つ。

3.山鳥の尾よりもながき夜ひとり寝か

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂

 雄の山鳥の長いしだり尾のように、秋の夜長をひとりで寝ることになるだろう。

 柿本人麻呂は、天武・持統天皇の頃の宮廷歌人、三十六歌仙の一人。官位の低い役人でもあり、晩年石見国(島根県)に赴き没すと。万葉時くに代の代表的な歌人。

4.田子の浦出(い)で見る富士の嶺雪は降り

田子の浦にうち出でて見ればい白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人

 田子の浦に出て見ると、白く雪をかぶった冨士の高嶺には雪がしきりに降っているようだ。

 山部赤人は聖武天皇(奈良中期)の頃の宮廷歌人で下級官吏。三十六歌仙の一人に数えられている。

5.奥山は紅葉鳴く鹿秋悲し

奥山に紅葉(もみじ)踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸大夫

 里山の奥深く、散り出した紅葉(もみじ)を踏み分けて行く雄鹿の鳴き声は、秋の終わりを告げる悲しさを覚えるものよ。

 猿丸大夫は平安初期頃の人らしいが伝説的人物。三十六歌仙の一人。

6.かささぎの橋に霜降り夜は更けり

かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにけり 中納言家持

 宮中の御橋(みはし:御殿に登る階段状の木造の橋)に降りている霜の白さを見ると、もう夜が更けて来たようだ。
 かささぎの渡せる橋は中国の七夕伝説。かささぎ(カラス科の鳥、胸から腹にかけて白い)が翼を広げて天の川に橋をかけ、織女(しょくじょ)を牽牛(けんぎゅう)のもとに通わせたと言う天上の橋。そこから殿中に上がる御橋に。

 歌人大伴家持は名門の政治家、三十六歌仙の一人。中納言として殿中に出入りしていた。陸奥鎮守府将軍となり没す。

7.仰(あお)ぎ見る月は三笠の山に出(い)で

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 安倍仲麻呂

 天空を仰ぎ眺めると月が見える。かって春日の三笠の山に出ていた月とおなじ月だなあ。

 安倍仲麻呂は十八才の時、遣唐使に従って唐に行き、玄宗皇帝に仕え、長年官史として働いた。この歌は帰国を前に望郷の思いで詠んだもの。
 しかし船は悪天候のため、遭難すること二回、帰国ならず、長安にて没す。七十二才。楊貴妃に会えただろうか。

8.鹿の住むわが庵(いほ)人はうじ山と

わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師

 鹿が住むようなのどかな宇治の里での隠棲生活を、世間の人は憂(う)し山うと言っているようだ。
 喜撰法師は平安前期の歌人、六歌仙の一人で、古今集でその名をあげているが、生没、家系は不詳。出家して宇治に住んでいたらしい。

9.花の色あせるながめは身にもふり

花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に 小野小町

 桜の花は春の長雨の間にむなしく色あせてしまった。私の容姿も生きてもの思いをしている間にすっかり衰えてしまった。

 小野小町は平安前期の歌人、六歌仙、三十六歌仙の一人、絶世の美人であったと。小野篁の子良実(出羽郡司)の娘とされているが確証はない。秋田美人の元祖? 新幹線まで名を借りるほど、秋田県には「こまち」の名がつく名物が多い。
  小町はこの短歌で薄命であったとされているが老後伝説もあり、宮廷の女房か更衣についていたらしい。

10.行き帰り知る知らぬ人逢坂で

これやこの行くも帰る別れては知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関 蝉丸

 これがあの、旅立つ人も帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという逢坂の関なのだ。

 蝉丸は平安前期の歌人、醍醐天皇の第四皇子とも云われ、盲目の琵琶の名手でもあった。逢坂関(逢坂山にあった関で三関の一つ。七九五年に廃止)の近くに住んでいた。
  逢坂関廃止の前年、桓武天皇が都を長岡京から平安京に遷している。

11.八十島へ漕ぎ出し告げよ海人(あま)の舟

わたの原八十島(やそじま)かけて漕ぎ出(い)でぬと人には告げよ海人(あま)の釣舟 参議篁(さんぎたかむら)

 大海原を多くの島々目指して漕ぎ出したと都の人々に伝えて欲しい、漁師の釣り舟よ。

 参議篁は小野妹子の子孫、平安前期の貴族、詩才ある文人であった。小野小町の祖父とも云われている。
 遣唐副使に任命されたが従わず、隠岐の島へ流刑。舟は難波から瀬戸内海を通って隠岐へ。歌はその出帆の時のもの。許された後は参議に。奔放な性格であった。

12.天風よ雲とじおとめをとどめおけ

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ 僧正遍照

 天吹く風よ、雲の通い路を閉ざせよ。天女のように舞う姿のおとめ達をしばらく止(とど)めておこう。

 遍照は平安初期の僧で歌人、六歌仙、三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫で俗名良岑宗貞。仁明天皇崩御後出家、天台宗を学び、京都山科に元慶寺を開き僧正となる。
 歌は遍照が五節の舞(宮中で十一月の新嘗祭に行われる少女達の舞)に感激して詠んだもの。

13.つもる恋筑波の川の淵ほどに

筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院

 筑波山から流れ出るみなの川は流れながら深い淵を作るように、吾が恋も積もり積もって淵のように深くなったことよ。

 陽成院は清和天皇の第一皇子。九才で第五七代天皇に。しかし精神障害もあって在位八年で廃位。上皇として六十年以上過ごされた。

14.しのぶずり乱れし心誰がためか

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに 河原左大臣

 しのぶずり(陸奥の信天郡−現、福島県−で作られた乱れ模様の染め布)のように私の心は乱れているが、それにはあなた以外にいないのですよ。

 河原左大臣は嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のこと。東六条に河原院という豪邸を建て住んでいたため、河原左大臣と呼ばれた。宇治の平等院は融の別荘で、後に藤原頼通が仏寺とし、鳳凰堂を建立した。

15.君がため野に若菜つむ袖に雪

君がため春の野に出(い)で若菜つむわが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇

 あなたにあげようと、春の野に出(い)で若菜(春の七草)をつんでいる私の着物の袖に雪がしきりに降ってくることよ。

 光孝天皇は第五八代天皇。五十五才で陽成天皇の後を受け即位するも二年後に没す。政治は藤原基経に任せ、これを機に摂関政治が始まってゆく。

16.別れ来てまつと聞かなば直ぐ帰る

立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む 中納言行平

 あなたと別れて因幡の国に行くが、その地の峰の松のように、待つと聞いたならすぐに帰りますよ。

 中納言行平は在原の姓、業平の異なりひら母兄。在原は平城(へいぜい)天皇の皇子阿保(あぼ)親王の王子に賜った姓。行平は学問が好きで、在原氏一門のため奨学院という学問所を造った。

17.龍田川神代も聞かぬ紅しぼり

ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣(ありはらのなりひらあそん)

 神代から聞いたことがないほどに龍田川に紅葉(もみじば)が散り落ち、川面は紅のくくり(しぼり)染めのようだよ。

 業平は平安初期の歌人、六歌仙、三十六歌仙の一人。阿保(あぼ)親王の第五王子。色好みの美男で「伊勢物語」のモデルに。歌舞伎、能楽の題材になる。

18.寄る波の夜(よる)さえ夢路人目さけ

住(すみ)の江(え)の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)

 住の江の岸に寄る波のよる(夜)までも、夢の中行き通う道で、あなたは人目を避けるのでしょうか。(敏行は女性の立場で詠んでいる。)

 敏行は平安前期の歌人で書家。三十六歌仙の一人。従四位上右兵衛督(ひょうえのかみ)となる。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚ろかれぬる

 は「古今集」秋歌部の巻頭歌として有名。

19.蘆(あし)のふしその間も逢わず過せとは

難波潟(なにはがた)短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過(す)ぐしてよとや 伊勢

 難波潟に生えている蘆の節の間のように、ほんの短い間でも逢うことなく、この世を過ごせというのでしょうか。

 伊勢は平安中期の歌人、三十六歌仙の一人。父は伊勢守(いせのかみ)藤原継陰(つぐかげ)、その官位で伊勢と呼ばれ、宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えた。才色兼備の女性で、天皇はじめ多くの公達に愛され、その中で宇多天皇の皇子敦慶(あつよし)親王との間に王女中務(なかつかさ:三十六歌仙の一人の女流歌人で「中務集」を残す)をもうけた。

20.恋に病むみをつくしても逢いたきし

わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思う 元良親王

 今となってはどうしょうもない恋、不義が知られたのだから、難波にある澪標(みおつくし)ではないが、身をつくしても逢いたいものだ。

 元良親王は陽成(ようぜい)天皇の第一皇子。風流で好色。「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルの一人に。
 歌は宇多天皇の女房、京極の御息所(みやすどころ)との密通が知られた時のもの。

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蛍の瓦版〜その42   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 緊急時あんしんカードとフェニックスネット

 長岡市では、“緊急時あんしんカード”を希望者全員に配布することになり、併せてフェニックスネットの紹介と登録への呼びかけも行います。5月後半から民生委員や町内会長、自主防災会長、消防団等へ説明を行い、7月から順次希望者へ配布される予定です。このカードは平成25年に配布が始まった“緊急時あんしん袋”の中に入っていた“緊急時あんしんカード”と同じものです。
 あんしんカードは大規模災害の経験を基に、避難や救急搬送を要する状況で必要な情報を確保するために準備されたものです。A4サイズの厚手の紙に、個別に名前や住所や生年月日等の基本情報と、かかり付け医の名前や服薬状況等の医療に関する情報および緊急時の連絡先を記載するようになっています。
 “緊急時あんしん袋”は吊り手付きの透明プラスチック製で避難行動要支援者名簿登載者に限定して希望者に配布されていました。要支援者はこの袋の中に“緊急時あんしんカード”等を入れ、冷蔵庫の扉等に下げておき玄関先にはステッカーを表示しておきます。これで、緊急避難や救急搬送時には町内会や消防団等の援護者および救急隊員によって“あんしん袋”がすぐに持ち出せるように工夫されていました。
 今回登録を呼びかけるフェニックスネットは、救急搬送時や大規模災害時の“緊急時あんしん袋”の機能も備えています。平成27年に運用が開始された“長岡在宅フェニックスネット”は、平時の多職種間の情報共有が主な目的でした。今回総務省の補助金を活用して新たに再構築された“フェニックスネット”では、従来の機能に加え、緊急避難や救急搬送等の緊急時に対応することも目指しています。以前からの診療所や訪問看護、調剤薬局の情報だけではなく、新たに長岡赤十字病院や長岡中央綜合病院の検査および服薬情報も加わっています。これらの医療情報は登録された個人別に集約して複数個所で保存され、必要に応じて活用されます。現在既に救急隊によって活用され効果をあげて始めています。
 フェニックスネットはより多くの方が登録されなければ、充分に活用することはできません。会員の皆様も自院へかかり付けの方々にフェニックスネットへの登録をお勧めくださるとともに、積極的にご参加くださるようお願いします。

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巻末エッセイ〜「闘」 江部佑輔(江部医院)

 さてさてどうしようか。“ぼん・じゅ〜る”巻末の定期原稿を引き受けてしまった。昨年末に医師会の星さんからの電話に「はい」の一言で快諾してしまったのだ。「書き溜めたものもありますし、自分も文を書くのは好きですから」なんて気取ったことまでいってしまった。確かに文を書くのも、絵を描くのも好きである。達夫の息子、恒夫の孫である。しかし、悲しいかな、神はその遺伝子を厳かにも私には発現させてくれなかった。今までもいくつか作文はしてみたものの、それほど世間の評価は受けたことはなく、絵も祖父にはまったく及ぶものではなかった。

 そもそも私は移り気が激しく、長続きしない性分である。40歳も半ばを過ぎるとラグビーもちょっときつくなったので、そこでゴルフをまじめにやってみようと思ったが、直後に頸椎を痛めてしまった。

 そこでリハビリ目的に登山を始めた。これはかなりはまった。時間があればともかく山に行った。とある土曜、日赤の結核病棟から綺麗なふたこぶの山が見えたのでさっさと仕事を終え向かった。八石山の麓についたのは午後3時過ぎ。そこから地図も持たずに速足で登り始めた。登りの脚には自信があった。ぐんぐん上り1時間半ほどで山頂に。眼下に小国の町、遠くには雪をかぶった越後三山がくっきり見えた。そう、無謀にも晩秋の山をヘッドライトも持たずに夕方登攀したのだ。明るいうちにと慌てて下山するも、秋の夕日はつるべ落とし。急斜面を滑り落ちながら、何とか下山したころには頭上冬の星座が煌めいていた。

 それにしても当時の山への熱意は異常であった。北アルプス、会津駒ケ岳、火打・妙高に9月の連休を利用して、3週の間で登った。このまま山男になるのだと家内も諦めていたようだが、今は日々ゴルフの練習に明け暮れている。このまま山もゴルフもほどほど続けるとは思うが、父や祖父のように何か極めることは私にはないようである。

 さてタイトルの「闘」の話へ。「闘」はそんな私の医師としての生き方に影響を与えてくれた本である。幸田露伴の娘幸田文の作品である。昭和前半の結核旺盛期、武蔵野にあった結核療養病棟を舞台とした、結核闘病患者・家族と、医師や看護師の結核という病を介しての人間模様を描いた作品である。私が医師になったころすでに結核治療は、リファンピシン、イソニアジド、エサンブトールによる治療が確立していた。しかし、そう遠くない過去である昭和40年代前半までは治療もさることながら、公衆衛生的な面でも結核の対策は西洋諸国の後塵を拝していた。結核のもつ悲劇的イメージは文学に通じるものがあったのか、ドラマや小説の主人公の悲壮感を醸しだす演出にも使われことが多かった。この「闘」はそういった結核をテーマとした小説の中では極めてストレートな作品である。当時、長期闘病を余儀なくされた結核病棟での日々の出来事・人間模様が実に生々しく描かれ、その奮闘と葛藤が伝わる。

 文自身は結核闘病の経験はないが、弟・成豊の闘病を看病した経験があり、その時に実によく「病院」や「結核」という病を観察していたのだと驚嘆する。

 平成16年の春、清瀬にある結核研究所でしばらく結核の勉強をする機会があった。そのときこの本を島尾忠男先生(元結核研究所所長)から教えて頂いた。今も私のデスクの上にはこの本が置いてある。飽きっぽい私に医師として患者と真摯に向き合う気持ちを与え続けてくれる。

 何とか初回の原稿を書き終えた。しばらく私の「闘」が続くことになりそうだ。

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