長岡市医師会たより No.459 2018.6


もくじ

 表紙絵 「梅雨頃」 丸岡稔(丸岡医院)
 「田村正人先生を偲んで」 永井恒雄(長岡西病院)
 「理事就任のご挨拶」 岡村直孝(長岡西病院)
 「理事就任のご挨拶」 高野勝(高野医院)
 「蛍の瓦版〜その43」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
  江部先生からの寄贈絵画「憩い」
 「巻末エッセイ〜地球の裏側 ペルー」 富樫賢一(悠遊健康村病院)



「梅雨頃」  丸岡稔(丸岡医院)


田村正人先生を偲んで 永井恒雄(長岡西病院)

 平成17年以来、長らく当院の院長職を務められました田村正人先生は平成30年5月22日、肝胆道系の悪性疾患でご逝去されました。65歳でした。先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。私ども職員は病院の支柱を失い、今もなお茫然自失の心情です。
 このたび、田村先生の追悼文を掲載させて頂く機会を得ましたので、これまでいろいろお世話になった長岡市医師会の先生方や職員の方に田村先生になり代わり感謝申し上げますと共に、故人のお人柄を偲び、ここに先生のご遺徳を披露させていただきます。
 田村先生は昭和29年5月、石川県羽昨(はくい)市で開業医のご両親のもとにお生まれになりました。4人兄弟の長男としてお育ちになり、日本大学医学部に入学され、卒業後は、現在当院の顧問をして頂いている高須俊明同大学神経内科学名誉教授が開設された神経内科学教室に入局されました。葬儀に来られた同教室の亀井聡現教授(日本大学内科系神経内科部門)によれば、田村先生とはオーベン、ウンテンの関係でしたが、同教室の立ち上げに亀井先生達と随分とご尽力され、夜遅くまで実によく学び、またよく遊んだとのお話でした。亀井先生が涙ながらに語られた心揺さぶられる弔辞には、人生の3分の2にも亘る長い間、心苦を共にされた若かりし頃の思い出が走馬灯のように語られ、殆どの参列者が涙を禁じえませんでした。
 田村先生が当院の院長になられた経緯は、田宮崇医療法人崇徳会理事長の依頼で、先の高須先生を通じて日本大学から当院の神経内科診療に応援医師として派遣頂いた中に田村先生がおられ、その人柄や力量に惚れ込んだ理事長がどうしても当院の副院長にと就任を懇願し、理事長が院長職を退いた折に2代目の院長に就任して頂いたとのことです。その後は、「患者様やそのご家族が安心して診療を受けられるような病院」にしたいという理念をかざし、院長自ら先頭に立って努力をされたと聞いております。
 先生は巨人軍、特に長嶋茂雄選手のファンで、その野生人のような言動だけでなく、その天才的なプレーが、実は、人の目に触れないところでの血のにじむような猛練習で培われていたという事実がお気に入りだったのではないかと思われます。先生の院長としての働きぶりは当にそのとおりで、ご自分の実績をひけらかすことなく淡々とお仕事をされ、責任は持つが業績は人に譲り、暖かく見守るという形でした。先生の逝去以来、先生が診療されていた外来患者さんや訪問診療の患者さんの数、処理されていたお仕事の案件が実に膨大な量であることが判明し、改めて私どもは先生の偉大さに気付いたのでした。
 お忙しい中、患者さんには優しく(でも時には毅然とした態度で)接し、職員同士の融和を図るべく、良く駄洒落を言って場を和やかにしようとされていました。ご自分の自己紹介欄に「緊迫した時についギャグを言ってしまう」とあり、鼻ひげを生やされたご自分の風貌を早稲田大学考古学者の吉村作治教授似と述べられました。また飲み会の時などにご自分でカメラを持参され、職員のスナップ写真を撮影しては後日、職員に自らプリントしてプレゼントし、職員が喜ぶのを楽しんでおられました。
 日本大学神経内科学教室から出張の形で多くの応援の先生方に来てもらい、脳血管障害患者さんを中心に、脳変性疾患や、増え続ける認知症患者さんの診療をひたむきにされていました。当院の住所が長岡市三ツ郷屋町にあることから、自嘲気味に、「当院を三ツ郷屋地区1番の病院にするんだ」と言っておられましたが、ご自分では密かに当院の神経内科では第一級の診療を実践しようと考えられていたのではと思います。
 ご自分の病気が判明した時の驚きと無念なお気持ち、残されたご家族への想い、そして、病気を知らされた時のご家族のお悲しみなどは、あまりにも大きすぎて、私共には想像することすらできませんが、今となっては、時が過ぎ、徐々にご家族の悲しみが薄れていくことを、ただひたすらお祈り申し上げるばかりです。
 残された私共は、先生の理想とする病院の姿を確立し、さらに維持していくために、今後ともなお一層、努力してまいりたいと考えます。
 田村先生、どうぞ、天国で安らかにお眠りください。そしてご家族の皆様と同じく私共をも天国から静かに見守り下さい。
 長い間、たいへんお世話になりました。有難うございました。合掌。

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理事就任のご挨拶   岡村直孝(長岡西病院)

 この度新しく理事を務めさせていただくことになりました。長岡西病院の岡村直孝と申します。もともと専門は外科ですが、合わせて、緩和ケア病棟のビハーラにも係わっており、現在はむしろ、後者にシフトしています。
 私は長岡市に最後に飛び地合併した旧川口町の生まれですので、長岡市との関係は子供の頃からあります。かつて屋上に遊覧施設を備えたデパートのあった大手通り界隈は親しみのある所でした。小千谷高校、東北大学、同大麻酔科学教室、白河厚生病院外科(福島県白河市)を経て、昭和59年に新潟大学第一外科に入局しました。
 医師として初めて長岡に来たのは昭和60年です。医局のローテーターとして立川綜合病院に参りました。わずか半年間でしたが、その年、大手大橋が開通し、次男が同病院で生まれました。救急医療がかなりしっかりしていたことも印象に残っております。当時から3病院の輪番制があり、これまで経験したことのない制度でした。例えば同時期、私が派遣された新潟市の某病院では、当直時の「on-off」制があり、「off」は「救急車と繋がらない」意味でした。結果として、最近話題となった市民病院が、当時もその多くを引き受け、負担が偏っていました。立川病院での当直は、現在の当番時同様、救急外来は忙しく、文字通り「休む暇なし」でした。最初の当直の日、夕食用に出前の「ラーメン」を頼んだら、食べたのは夜の10時過ぎでしたので、すっかりのびてしまいました。その後、平成3年に長岡赤十字病院に参りました。手術三昧の後、現在に至り、長岡市での時が既に4半世紀も流れました。
 これまで医師会活動には「総会」や「新年会」に参加する程でしかなく、気楽でした。しかし一転、理事の立場となりました。非力ではありますが、医師会と長岡地域の医療に貢献できるよう努めたいと思います。宜しくお願い申し上げます。

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理事就任のご挨拶   高野 勝(高野医院)

 このたび長岡市医師会理事を務めさせていただく事になりました高野勝と申します。
 現在、当院の駐車場になっている場所で生まれましたので、生粋の長岡産であります。
 平成4年、前医院長の死去に伴い医院継承いたしまして、医師会業務としては教職員判定委員会それと並行して選挙管理委員会を長年にわたり務めてまいりました。
 医師会の理事改選では色々な場面にかかわってきましたが、自分に出番が訪れるとは考えてもみませんでした。
 以前、当誌にも掲載していただいた空手指導(高校大学と空手道部で、現在も町道場で指導させていただいております。)は若手指導者に徐々にその役をまかせ、長く務めていた陸上競技関係の役職も一昨年一線を退き、そろそろ目もかすみ、腰も痛く、トイレも近くなり、酒量も減り髪も減り、出掛ける事すらめんどうになって……、と色々後ろ向きな初老期を自覚していた所での理事選出でしたので、これを医師会の先生方からのハゲ増しと前向きに解釈する事にいたします。
 先述した、私の出生時に生家で仕事をして頂いた助産師さん、その方の終末期、今度は私が在宅での仕事をさせていただきました。そういえば医師を目指していた最初のころ漠然とこんな仕事をしたいと思っていたことを、今、少しだけ実践しているような気がしています。
 日常診療では広く浅くの振り分け担当を生業としていますので、学術的な貢献は一切できませんが、長尾会長はじめ全ての先生方から与えられた仕事を一生懸命務めたいと思っております。宜しくお願い致します。

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蛍の瓦版〜その43   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 新役員

 6月1日長岡グランドホテルにおいて開催された定時総会では、平成29年度の事業報告と決算について会員の皆様からご承認頂きました。また3月22日の選挙で予め選任された、新しい役員の2年間の任期がこの日から始まりました。
 理事には新しく岡村直孝先生(長岡西病院)と高野勝先生(高野医院)が加わりましたが、会長と2名の副会長及び庶務担当理事は前回と変わらず、基本路線も大きな変化はありません。それぞれの理事の担当は表1(※略)に示したとおりです。
 執行部では従来の医師会活動である、予防注射や健診・検診の取りまとめ、また休日・夜間急患診療所の運営や各種講演会の開催・後援等の事業を継続してまいります。その上で昨年度から新たに再構築された“長岡フェニックスネット”の整備普及と、新企画である長岡市医師会百周年記念事業に努めてまいる所存です。

 長岡フェニックスネット

 昨年4月の瓦版でもご紹介しましたように“長岡フェニックスネット”は、総務省のクラウド型EHR(医療情報連携基盤)高度化補助事業に応募し採用されたシステムです。“長岡在宅フェニックスネット”の多職種間の情報共有機能に加え、災害時の緊急避難や救急搬送等にも対応できる機能が付加されています。今までの瓦版でもご紹介しましたが、フェニックスネットの始まりはこぶし園の介護現場で、多職種間での情報の共有と記録の保存のために開発されたアプリ(TEAM)です。長岡市では平成26年から2年間に栃尾と小国地区にて、専用タブレット(端末機)とアプリ(TEAM)を用いたモデル事業を行っています。このTEAMを基に構築された ICT(InformationCommunicationTechnology)が従来の“長岡在宅フェニックスネット”です。当初は訪問看護ステーションを中心に長岡市から無償貸与されたタブレットを活用し、看護情報を主治医と共有することから始まりました。その後対象を調剤薬局や歯科や介護関連事業所等に拡大し、現在は救急搬送等の緊急時にも利用され効果を挙げ始めています。
 今回の新たな構想では、長岡赤十字病院と長岡中央綜合病院の電子カルテ内の一部の検査や服薬の情報も加わり、情報量が格段に増えると思われます。まずこれら2病院の情報を富士通のシステム内で統合し、従来のTEAMで集められた情報とともに個人別に集約し、救急搬送等の緊急時等に活用します。医療機関同士の情報交換も可能となり、紹介や逆紹介の手段となることも目指しています。
 また集約された個人の医療情報は“青洲ネット”を通して複数個所で保存し、大規模災害にも備えております。“青洲ネット”は和歌山県医師会が南海トラフ地震に備えて開発したもので、大規模災害での医療者のニーズに対応しかつ安価なものとなっています。長岡市では、緊急時に活用する“緊急時安心カード”とともに“長岡フェニックスネット”への市民の登録も勧めています。

 長岡市医師会百周年記念事業

 明治20年には既に同業組合的な組織があったようですが、公に医師会令に基づく社団法人長岡市医師会は大正9年2月10日に設立されており、今年で99年となります。来年には百周年記念事業を行う予定で、講演会と祝賀会及び記念誌の発行を予定しております。近年は中越地震や東日本大震災等の災害や平成の市町村の大合併も経験しました。皆様からのご提案や経験談の寄稿等お待ちしております。

 保険診療における医科歯科連携

 今年の4月の保険診療の改定では、医科と歯科の保険医療機関同志の連携に対し“診療情報連携共有料”が新設され、両者で算定が可能となりました。歯科の点数表では、慢性疾患を有する患者または全身管理が必要な患者を対象に、同意を得て医科に情報提供を依頼した場合に120点が算定できます。歯科からの依頼を受け、患者の同意を得た上で薬剤等の診療情報を歯科へ提供した場合に、医科でも120点を算定できるようになりました。
 その他、睡眠時無呼吸症候群に対する歯科治療(マウスピース作成)の効果判定のために、歯科からの依頼を受け特定の検査を行った医科においても検査料が算定可能となっています。
 また今回の改定前から病院内の特定の患者や在宅療養支援診療所関連では、供歯科医療機関連携加算僑が認められていましたが、こちらも要件が一部緩和されました。
 先回の瓦版でもご紹介しましたように、看護や介護等の多職種との連携に対して今後は保険診療の面からも評価されてゆくと推測されます。

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江部先生から絵画のご寄贈

 このたび江部佑輔先生、達夫先生から、故 江部恒夫先生が描かれた「憩い」(油彩80号)を当医師会にご寄贈いただきました。
 会館二階に展示いたしましたので、御覧ください。


巻末エッセイ〜「地球の裏側 ペルー」 富樫賢一(悠遊健康村病院)

 父一郎は出不精で旅行どころか冠婚葬祭や墓参も敬遠していた。私もどちらかと言うと出不精。ところが尻を叩かれ、またまた海外へ。しかも今回は地球の裏側。

 成田から10時間でロス、近くのホテルで一休みしてまた空港に。今度の搭乗便は聞きなれないラタム航空(チリ)。ところが乗るはずの便の表示が無い。それもそのはず、その便は欠航。しかし係りからの説明は一切無し。結局変更便の離陸まで4時間以上待たされるはめに。添乗員から機内で食べるはずだった夕食分のクーポンが渡された。

 まずは添乗員がいつも時間がかかると言う、セキュリティチェックを済ます。それから搭乗口を確かめ、いざ夕食へ。一人20ドルのクーポン、さて何を食べよう。あちこち歩き回るがなかなか決められない。ふと見るとファーストフード店の並びに長い列。その列の先には釜焼きピザの店。最後尾に並び気長に待つ。やっと番だ。3種類のピザベースと10種類以上あるトッピングから好きなものを選ぶ。トミイが二枚分を選んで焼いてもらった。

 会計でクーポンを出すとビールには使えないと言う。ビールの分だけカードで支払う。ビールを飲みながらピザを待つ。と、突然トミイが余ったクーポンを持ってどこかへ。しばらくしてビールとつまみを抱えて戻って来た。クーポンでビールが買える店があったとのこと。ピザが出来てきた。人気店だけあって美味。ん? 大勢待っているのに店をたたみ始めた。0時閉店のようだ。店員はパフォーマンスは見せてくれるがピザは出さない。

 ロスから9時間でリマ。朝着くはずが昼過ぎ。出迎えの現地ガイドは日系4世のセルジオ。添乗員は自分の名前が呼ばれびっくり。クレオパトラに似ているから覚えていたと言う。ガイドは眼が悪いようだ。

 そうそうに昼食場所の人気レストランへ。だが出てきたのは嫌いな地鶏料理。地ビールのクスケーニャで流し込む。とメンバーの一人がビールのシールを剥がし始めた。そこにはマチュピチュの絵が。何でも記念に持ち帰る人は居るものだ。試しに私も剥がしてみた。綺麗に剥げた。もって帰ろう。

 疲れているうえ時差(マイナス14時間)ボケ。それでもリマの市内観光へ。国立博物館ではなく何故かラルコ博物館。ラルコ氏個人が収集した膨大な土器が時代毎に別々の部屋に展示されていた。ナスカ時代の土器もある。その中には地上絵に似た図柄が描かれた物も。ナスカの地上絵の時代考証はそれによっているとのこと。

 土器よりも黄金のマスクや宝石の部屋に人気集中。セルジオは山形大学ナスカ発掘隊に同行して驚くべきものを見たと言う。なんと宇宙人のミイラ。それをスマホで見せる。みんなで覗き込むが真偽不明。クレオパトラも覗き込む。セルジオがすかさずあなたには黄金のマスクが似合いそうだと。

 秘密の展示室は一見の価値あり、ということで何があるかと思えば、男女の性器を模った土器。エロティックというよりグロテスク。さっさと通り抜ける。

 次は市場めぐり。珍しい果物、農産物が並んでいる。日本には無い果物もあり恐る恐る試食。メンバーの中には結構買い込んだ人もいた。市場の中の狭い通路を抜けながら、セルジオはしきりに嘆く。大統領はもう年で呆け始めている、政治が停滞しているのはそのためだと。呆けても居座る大統領、そういう点ではペルーはまだまだ発展途上国。そしてリマは世界でも最も危険な都市の1つ。さてさてどうなることか。

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