長岡市医師会たより No.460 2018.7


もくじ

 表紙絵 「ストリートチルドレン」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「さようなら小林和夫先生」 八幡和明(長岡中央綜合病院)
 「極悪性膵癌と闘う」 皆川昌広(長岡赤十字病院)
 「百人一首を俳句に〜その2」 江部達夫(江部医院)
 「巻末エッセイ〜夏といえば祭りだ」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)



「ストリートチルドレン」  木村清治(いまい皮膚科医院)


さようなら小林和夫先生 八幡和明(長岡中央綜合病院)

 小林和夫先生が平成30年6月5日に逝去されました。先生は昭和45年に新潟大学を卒業し第二内科で研鑽を積み、54年5410月厚生連中央綜合病院(現長岡中央綜合病院)に赴任されました。腎臓専門医として人工透析の普及に尽力され、特に腹膜透析という新しい治療を導入しこの分野では他の施設をリードする活躍ぶりでした。その間若手の育成にも貢献し、一緒に学んだ仲間からのちに多くの教授や准教授が誕生してきたことは喜ばしい限りです。その後平成9年には厚生連中条病院院長、平成14年から厚生連栃尾郷病院院長を歴任されました。いずれも比較的小さな病院であり、医師の確保のために各方面への行脚や、病院経営など本来あまり得意でないこともしなければならないなど苦労が絶えなかったことでしょう。まさに厚生連一筋、大きなトラブルもなく平成21年に無事退職を迎えることができました。その後は手術も経験され、再発することもなくお元気にされておられたようですが、この春から間質性肺炎で入院していました。いつもお会いするたびに、「おーい元気かぁ?」と語尾のあがる独特の会津なまりが懐かしかったです。リハビリにも励んでおられたのですが、突然のお別れになってしまいました。「先生、73歳はまだ早すぎるよ。」さみしいけどいつまでもしんみりしてても仕方ないので、今日は明るい話で送ることにします。
 思い出せば先生には若いころから楽しいお付き合いをさせていただきました。出会いは私が昭和55年に中央綜合病院の研修医としてやってきたときにはじまります。先生はその前年に赴任されたばかりでした。ちょっと愉快な兄貴といった感じで、公私にわたりお世話になりました。透析当番の日は朝からシャントの刺し番でした。シャント血管は、るいるいと膨隆した立派な血管に見えるのに、穿刺してもなかなか入らず汗びっしょり。失敗すると患者さんにはおこられ、看護師の冷たい視線に耐えながらの日々でした。「まーだ入らないの?」と会津弁でおっしゃって、代わって刺してくれたことも何度かあったような。同じころに赴任していた富所隆先生(現院長)はさっさとトンずらしてしまいましたが、研修医の立場では逃げるわけにもいかず忍耐の1年でした。夜になると毎日のように飲みにつれていかれました。たまには勉強でもしようとアパートに帰っていると、電話がなって殿町に呼び出されたものです。店に行けばカラオケが鳴り響いていて、小林先生の定番は「恋の町札幌」でした。よほど北の町でいいことがあったのかなと思いましたが、詳しいいきさつはついに聞かずじまいでした。一緒に飲みに来た仲間には「踊って踊って」とダンスを強要し、自分は歌いながら次の曲をリクエストするという神業を発揮して一人ステージに立ったままで次々と美声を披露していたのでした。いったい、いつ酒を飲んでいたのか今も不思議です。
 その後私は大学に戻ったのですが昭和60年秋、縁あって再び長岡中央病院に糖尿病専門医として赴任することになりました。血液の大野康彦先生をトップに小林和夫先生、鈴木丈吉先生、長尾政之助先生(現医師会長)と一緒のグループでした。専門は違えどチームで回診し、おおいに議論もしました。碁はもちろんだけどスキーもやったっけ。長岡駅にスキー靴を履いたままガチャガチャと大きな音をさせてやってきたこともあったし、外来を止めるのを忘れて妙高で滑っていたこともありました。なんか憎めない先輩でしたね。飲み会では相変わらずのオンステージでした。そのころは堀内孝雄の「愛しき日々」が十八番になりました。たしか会津白虎隊のTVドラマの主題歌で、小椋佳が作った曲でとても気に入っていたようでした。やはり会津の心は忘れてなかったんだね。たくさんの思い出をありがとうございました。病気をしてからご無沙汰だったカラオケも、今度はあちらで好きなだけ歌いまくってください。だれもマイクを奪わないから。

 「かたくなまでのひとすじの道もう少し時がゆるやかであったなら愛しき日々のはかなさは消え残る夢青春の夢……」さようなら。

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極悪性膵癌と闘う   皆川昌広(長岡赤十字病院)

 2018年の正月早々、野球界の闘将、星野仙一元監督の訃報が伝えられました。病名は膵臓癌。普通ならパワハラになるような怒りを人にぶつけ、組織を強く引っ張っていく本当にすごい人だと思っていた監督が、膵癌という病気に倒れたことで、膵癌を日常診療で見ている自分にとっては大きな衝撃をもつ年明けとなりました。
 私が長岡赤十字病院に赴任させていただき、早3年が経過しました。肝胆膵外科に特化した大学病院での修錬・経験を活かせればと思いつつ、冷や汗をかきながら診療をつづけていくうち、膵癌をはじめ多くの肝胆膵領域の高難易度外科症例を診させていただけるようになってきました。近隣医療施設からの丁寧なご紹介、ならびに長岡赤十字病院の消化器内科の先生方、内分泌内科の先生方、放射線科の先生方、麻酔科の先生方、当院外科の島影尚弘先生、谷達夫先生、内藤哲也先生らのサポートがあってこそのこと、と思っており改めて感謝する次第です。
 癌診療に携わる先生方には自明のことですが、星野元監督の命を奪った膵癌は固形癌の中でも予後が悪く、5年生存率を他の癌と比較してみてもその顔つきの悪さは突出しています(図1)。一方、膵癌患者数は年々増加しており、2016年の国内統計では結腸癌とほぼ同等の第4位の癌となっています(図2)。進行膵癌の診断をうけた患者さんに、何もしなければ予後は数カ月〜半年かもしれないという説明をし、その治療のために多くの過酷な試練をクリアしなければならない現実を伝えた後では、この膵癌という癌は本当に「極悪性」だな、という印象しかうけません。そして、切除に必要な手術の多くは、膵頭十二指腸切除という侵襲の大きな手術であり、「がんになっても医師がうけたくない手術」の一つにあげられてしまっている手術です(週刊現代2017年9月発刊。名医たちが実名で明かす「私が患者なら受けたくない手術」より)。
 そんな中、当院では少しでも治療成績を伸ばそうと、放射線治療科の伊藤猛先生から協力をいただき、局所進行膵癌に対して(多くは切除ボーダーライン膵癌、初回切除不能癌を含む)、2016年より「術前」放射線化学療法(あるいは術前化学療法)を導入し、局所進行膵癌に対して、より効果的な手術ができる集学的な治療を目指してきました。生存期間をみるにはまだ観察期間が不十分ですが、術前放射線化学療法を行った患者さんの当院での切除率でみると88.7%であり、肝胆膵外科がある国内のハイボリューム病院に劣らない結果を得ています。また最近では、初回手術不能であっても半年以上の治療を経てサルベージ的ではありますが、R0切除(治癒切除)を行えた症例もでてきています。膵癌の全国的な治療成績は大きく改善していないのが現状ですが、いくつかの化学療法レジメン−放射線治療−手術をどの組み合わせ・どのタイミングで行うのか?、癌進展度と効果の関係は?、という様々な問いの答えを見つけるため、世界・国内の臨床試験が次々と計画されています。これから少しずつではありますが、成績の良い治療法の組み合わせが、より明確にわかってくるだろうと期待しています。
 膵癌に対する当院での手術件数も増加し集学的治療もすすむ中、術前治療による炎症を伴う癌切除としての手技的な難易度上昇だけでなく、体力低下や栄養障害、精神的不安定など、患者にとっても多くの問題が生じることがわかってきました。その問題に右往左往しているうち、手術をうける患者さんに関わる長岡赤十字病院スタッフから「協力しますよ」という有難い申し出があり、膵切除専門の多職種連携チームが2018年年頭より発足することになりました。栄養、リハビリ、血糖コントロール、精神的サポート、緩和ケア、入退院支援など、様々な角度から患者支援・教育ができるメンバーで構成された膵臓手術周術期管理・サポートに特化した非常に贅沢なチーム(PRACTICEチーム、図3)です。このチーム結成のおかげで、これまで外科医だけで苦労しながら行っていた周術期管理・外来サポートをより精密にきめ細かく行い、膵切除という侵襲の大きな手術でも患者さんの早期回復を促す環境をつくることができるようになってきました。
 「仕事に対して闘争心がないというのは人生の放棄と同じ」という星野仙一監督の格言を唱えながら、怯みそうなメスを持ち直し、闘う仲間も増やし、これからも「極悪性」膵癌に立ち向かっていく所存です。長岡市医師会先生方には術前・術後症例についてお世話になる機会も多いかと思いますが、当科への相談・苦情などありましたら、何なりと気軽にお声かけください。先生方の御支援・御助言にて、より質の高い診療を目指せればと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

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百人一首を俳句に〜その2   江部達夫(江部医院)

21 今行くといわれ長月明けを待つ

 今来むといひしばかりに長月の有明の 月待ち出でつるかな 素性法師(そせいほうし)

 すぐに行くとおっしゃったので、九月の長い夜を明け方の月が出るのを待つことになりましたよ。

 法師が女性の立場で詠んだ歌です。
 素性法師は平安中期の歌人、三十六歌仙の一人。僧正遍昭の子で、良岑玄利(よしみねのはるとし)といい、左近将監(さこんしょうげん:近衛府の判官)となるが出家す。宇多上皇の御幸(ごこう)にお供して和歌を詠んだ。

22 秋草木しおらす山風あらしなり

 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらん 文屋康秀(ぶんやのやすひで)

 吹くやいなや秋の草木をしおらしてしまうので、山から吹き下ろして来る風を嵐というのであろう。

 文屋康秀は縫殿介(ぬいどのすけ)の役にあり、六歌仙の一人となる歌人。
 二条后高子(にじょうのきさきたかこ)に召され、素性法師や在原業平らと歌を詠んでいた。

23 月悲し秋はわのみのものでなし

 月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里(おおえのちさと)

 月を見ているといろいろと物悲しくなるものだよ。私だけの秋ではないのだが。

 大江千里は在原行平、業平の甥。博学で漢学にも優れ、宇多天皇の命で、唐の白居易の詩文集「白氏文集(はくしもんじゅう)」の詩句を題に詠んだ和歌集「句題和歌」がある。六位兵部大丞(ひょうぶだいじょう)となった。

24 幣(ぬさ)忘れ手向(たむけ)の山の紅葉神に

 このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山(たむけやま) 紅葉(もみじ)の錦神のまにまに 菅家(かんけ)

 このたびの旅は幣(神に祈るときに捧げるもの)を用意できなかったので、手向山の錦のような紅葉を幣代りに神の御心のままにお受けを。

 菅家は菅原道真(すがわらのみちざね)の尊称、醍醐(だいご)天皇の時右大臣になったが、左大臣藤原時平一派の排斥に会い、太宰権師(だざいごんのそち)として左遷され、その地で没す。死後太政大臣を賜る。
 幼少の頃から学問に優れ、太宰府天満宮に祭られ、学問の神様に。
 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな  は拾遺和歌集(雑春)にのる名歌。

25 逢い寝たし密かに通う路あれば

 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな 三条右大臣(さんじょうのうだいじん)

 逢坂山のさねかづらの名のように、逢って寝られるならば、たぐり寄せて人に知られずにあなたに逢う方法があればなあ。

 三条右大臣は藤原定方(さだかた)のこと。三条に屋敷があり三条右大臣と呼ばれ、和歌や管弦に優れていた。
 平安前期の歌人、紀貫之(きのつらゆき)や凡河内躬恒(おおしこうちみつね)の後援者として和歌を普及。

26 みゆきまで小倉の紅葉(もみじ)散るを待て

 小倉山峰のもみじ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ 貞信公(ていしんこう)

 小倉山(京都嵯峨にある山)の峰の紅葉よ、おまえに心があるなら、もう一度ある天皇の行幸の時まで、散らずに待っていてほしいよ。

 貞信公は関白太政大臣藤原忠平(ただひら)の諡号(しごう:生前の行いを尊び死後に贈られる称号)。菅原道真を太宰府に追放した藤原時平の弟。時平の死後政権を握り、藤原氏全盛の礎を造った。

27 心わくいまだ見ぬ人恋しくて

 みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)

 瓶原(みかのはら:京都府木津川市の地名、聖武天皇が久邇京を造営した所)に湧くにのみやき、分けて流れているいづみ川、その名のように、いつ見たというわけではないのに、あなたが恋しく思われるよ。

中納言兼輔は従三位中納言となり、賀茂川の堤の近くに屋敷があり、堤中納言と呼ばれた。三十六歌仙の一人で、当時の歌壇の中心人物。

28 里は冬人来ぬ草かれ寂(せき)まさり

 山里は冬ぞ寂(さび)しさまさりけり 人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)

 山里は冬には一層寂しくなるものだ。訪ね来る人もなく、草も枯れてしまうとおもうので。

 源宗于は光孝天皇の皇子是忠(これただ)親王の子、源の姓を賜り臣籍に。いくつかの国の国司になるも昇進進まず、正四位下右京大夫までに終る。三十六歌仙の一人、優れた歌人で、歌合(うたあわせ)に度々出詠した。

29 初霜とまどう白菊手折らんと

 心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)

 あてずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜が降り、一面白くなって霜か白菊か分からない花を。

 凡河内躬恒の家系は不詳だが、紀貫之と並ぶ古今集時代の代表的歌人。三十六歌仙の一人。宇多・醍醐天皇に仕えたが地方の役人どまり。

30 有明のつれない別れ朝は憂し

 有明のつれなく見えし別れより 暁(あかつき)ばかり憂(う)きものはなし 壬生忠岑(みぶのただみね)

 有明の月が薄情に見えたその時の別れより、暁ほど吾が身がつらく思われるものがないのだよ。

 壬生忠岑は官位は低かったが、歌人としては優れ、三十六歌仙の一人。貫之、躬恒らと共に「古今集」撰者の一人。六位摂津権大目(ごんのだいさかん)におわる。

31 明けの月見まがう吉野里の雪

 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪(しらゆき) 坂上是則(さかのうえのこれのり)

 夜がほのぼのと明けるころ、有明の月明かりかと思うまでに、吉野の里に降っている白雪であることよ。

 坂上是則は古今集時代の歌人で、三十六歌仙の一人。坂上田村麻呂の四代の孫で、従五位下加賀介となる官吏でもあった。

32 山川の流れせき止む紅葉かな

 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉(もみじ)なりけり 春道列樹(はるみちのつらき)

 山川に風がかけたしがらみ(柵)とは、流れることができなくなった紅葉なのだ。

 春道列樹は歌人としては目立った活躍はなかったと云う。九二〇年に壱岐守に任ぜられたが、出発前に亡くなったと云う。

33 春のどか急ぎ散りゆく花よなぜ

 久方(ひさかた)の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則(きのとものり)

 日の光がのどかな春の日に、あわただしく桜の花は散ってゆくのだろうか。(桜の花を愛でる日本人の心は今も昔も変わりない。)

 紀友則は紀貫之の従兄弟で平安前期の代表歌人、三十六歌仙の一人。役職は大内記(内記は宮中一切の事を記録する官)であった。

34 知る人は絶えて老松今の友

 誰(たれ)をかも知る人にせむ高砂(たかさご)の 松も昔の友ならなくに 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)

 いったい誰を昔からの友としようか。長寿の象徴の高砂の老い松も昔からの友ではないが今の友としようか。

 藤原興風は三十六歌仙の一人、歌合に出詠するなど歌人としては高く評価されていた。官位は低く、治部丞(じぶのじょう:治部省の判官)であった。

35 心変る古里の花香は同じ

 人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之(きのつらゆき)

 人の心は変わりやすいものだが、あなたの心はさあどうだろうか。しかし、古里では梅の花が昔のままの香りで咲きにほっておるよ。

 紀貫之は「古今集」の選者の一人、三十六歌仙の一人でもある。古今集時代の代表的歌人で、「土佐日記」は有名。大内記や土佐守などを歴任した。

36 夏の宵はや明けの月雲いずこ

 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ 清原深養父(きよはらのふかやふ)

 夏の夜はまだ宵のうちにと思っている間に明けてしまう。明けの月はまだ沈まずに、雲のどの辺に宿っているのだろうか。

 清原深養父は清少納言の曽祖父。歌人として優れていた上、琴の名手として知られていた。官位は低く従五位下に止まる。

37 白露に風吹き玉散る秋の野は

 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康(ぶんやのあさやす)

 草葉に降りた白露にしきりに風が吹きつける秋の野は、糸を通してつないでいた玉が散るようだよ。

 文屋朝康は康秀(22の作者)の子。官位は低く、大舎人大允(おおとねりだいじょう)に任ぜられていた。歌人としては種々の歌合に出詠していた。

38 忘らる身誓いし君が命惜し

 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな 右近(うこん)

 忘れられてしまった私の身は何とも思わないが、かつて神に誓った愛を忘れ去った人の命が失われてしまうのが惜しまれることよ。

 右近は平安前期の女流歌人、醍醐天皇の中宮隠子(おんし)に仕えた女房。父は右近衛少将藤原季縄(すえなわ)で、父の官名から右近と呼ばれた。この和歌からも、右近は恋多き女性であったと云う。

39 忍ぶれど人の恋しさあまりあり

 浅茅生(あさぢふ)の小野(おの)の篠原(しのはら)忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき 参議等(さんぎひとし)

 浅茅(あさぢ:丈の低い茅(ちがや))の生えている野の篠原(しのはら:ささはら)、その「しの」ではないが、あなたへの恋心はもうしのび切れないほどですよ。

 参議等は嵯峨天皇の曾孫源等(みなもとのひとし)で、地方官を歴任の後参議に。歌人としては残された歌も少なく詳細は不明。

40 忍ぶ恋問われるほどに顔に出で

 忍ぶれど色に出(い)でにけりわが恋は 物や思ふと人の問ふまで 平兼盛(たいらのかねもり)

 人に知られないよう忍ばせていた恋心も顔色に出てしまい、なにか物思いしているのかと人に問われるまでになってしまったことよ。

平兼盛は平安中期、後撰集時代の代表歌人、三十六歌仙の一人。皇籍にあったが平姓を賜って臣籍に。官位は低く、従五位上駿河守におわる。

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巻末エッセイ〜「夏といえば祭りだ」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)

 夏といえば、スイカに風鈴、花火に枝豆、ビールで充分だ。

 ともあれ、夏らしく、いろいろ試してみました。ブルーベリージャムをつくってみたり、紫蘇ジュースもつくってみました。

 ブルーベリーを洗って、そのまま何も加えず、トロトロになるまで煮ます。蜂蜜で味を整えて終わりです。プレーンヨーグルトにかけておいしくいただきました。ほんとにシンプルなデザートです。

 紫蘇ジュースは、洗った紫蘇を沸騰したお湯にいれて、その後、弱火で10分。レモンと蜂蜜で味付けし、濾して終了。

 氷で割って子供達には紫蘇ジュース、自分には炭酸酎ハイにいれて超ご機嫌です。

 ホオズキなんかも育ててみました。ついでに食虫植物なんかに眼がいって、いくつか買い込んでしまいました。ネバネバの触手のついたハエトリテープみたいなのがたくさん生えている奴や、提灯のお化けみたいな口をあけて、虫を待ち構える奴。また、がま口みたいな葉っぱが口をあけて、虫がくるとガブッチョと挟み込んじゃう奴とか、いろんな食虫植物がホームセンターにあります。

 もう、多動ぎみの自分にとってはホームセンターはたまらない場所です。「青いホオズキを食べると子供の疳の虫に効く。」などと聞くと、ほんとかな? などと意識は飛んで解離します。

 昔、文京区大塚のボロアパートに住んでいた頃、「浅草寺のホオズキ市にいったなあ、帰りに買った金魚の風鈴はどこにいっちゃったのかなあ、キラキラしていたあの頃にもう戻れないな。」などと考え込んでしまいました。大きな金色のウンチが乗っていたアサヒビールの建物を見上げながら隅田川の花火祭りを見に行ったなあ、と思い出しました。

 夏と言えば祭りです。

 日本人は祭りが好きなのです。そうです。日本人は祭り大好きなのです。だから、みんな祭りにすりゃあいいじゃん、と思いつきました。

 「体育祭」や「文化祭」がOKならば、授業だって、今日は「数学祭り」なので朝から晩まで数学です。明日は「国語祭り」です。がんばりましょう。明後日は「英語祭り」です。張り切って Break a leg。明々後日は「社会科祭り」です。地理さんも歴史さんも負けるな、と楽しくできそうです。

 「○○医学会」だって「○○医学祭」にすれば、なんだかワクワク、参加者も増えて楽しくなりそうです。

 病院だって、「病院祭」がOKなのです。今日は「リハビリ祭り」です。職員全員が松葉杖か車椅子で過ごしてみましょう。また、明日は「看護祭り」です。看護し合いましょう。他人にどれだけ優しくできるか競争です。明後日は月曜日ですので、月曜午前は「外来診療祭り」です。たくさんたくさん患者さんがやってきます、張り切って診療しましょう。午後は「手術祭り」です。張り切って手術しましょう。ワッショーイ!(血祭りはダメですし、ICU患者の急変祭りはイヤです。)その後は「残業祭り」です。残業代が出るか出ないか、ハラハラドキドキです。でもキチンと丁寧にがんばりましょう。

 “ぼん・じゅ〜る”も「編集祭り」でーす。原稿遅れて、すみませーん。お疲れ様でーす。

 365日祭りだらけだと本当に疲れますね。夏の夜の戯言です。ふざけてすみません。お許しください。

 暑い日々が続きますがどうか皆様、お体ご自愛ください。

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