長岡市医師会たより No.461 2018.8


もくじ

 表紙絵 「戸隠晩夏」 丸岡稔(丸岡医院)
 「田辺一雄先生を偲ぶ」 長尾政之助(長尾医院)
 「開業して一年の感想」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)
 「巻末エッセイ〜六十四年東京オリンピックのあれこれ」 星榮一



「戸隠晩夏」  丸岡稔(丸岡医院)


田辺一雄先生を偲ぶ 長尾政之助(長尾医院)

 先生がつい最近、体調を崩されて入院された旨を伝え聞いておりましたが、まさかその数日後に、先生のご訃報に接しようとは思いもよりませんでした。
  先生は、富山県氷見市のご出身で、中国の大連でお育ちになり、帰国後、昭和二十七年に新潟医科大学専門部をご卒業され、砺波厚生病院でのインターンを経て、昭和二十八年に県立小出病院に勤務され、医師としてのキャリアをスタートされておりました。昭和三十年の秋田県男鹿市立病院勤務を経て、昭和三十一年に新潟大学医学部副手となられ、その間、県民生部保健課地方技官、支払基金・国保連合会審査委員、新潟臨港病院内科医長を兼務され、多忙な日々を送られたと伺っておりました。昭和三十四年に厚生連小国病院内科医長、昭和三十七年には同病院院長を経て、昭和四十三年七月に田辺医院をご開業されました。その後、平成十一年には、ご長男である一彦先生が医院に勤務する形でご一緒に地域住民の方々の診療に力を尽くしておられましたが、喜寿を過ぎた平成二十年には医院を一彦先生にまかせるようになっておられました。
 当長岡市医師会では、地域医療はもとより救急業務にもご尽力され、昭和四十九年に開設した休日急患診療所の発足時には、当時小児の入院設備のあった田辺医院に二次病院のうちの一つになっていただいた経緯があります。また、北部班では、昭和五十五年に、当時、夜間に一次診療で処置できると思われる患者が二次病院に集中している状況を二次病院よりお聞きになり、先生をはじめとする有志が自主的に協力し合い、診療終了後より午後十時まで北部班平日夜間自主協力体制をつくり、救急業務の一助としてご尽力してこられました。
 また、平成六年に発足した在宅患者の時間外の対応にあたるネットワークにも進んで参加されておられました。
 そのほか長岡市の個別健診、予防接種、学校医、産業医などと、ご自分の医院の診療の他にも多方面に亘り地域医療に率先してご尽力してこられました。平成六年には、川崎小学校の学校医として児童生徒の健康管理、増進にご尽力された功績により、長岡市表彰を受けておられます。
 それから、会史編纂委員会の委員や会報編集委員会の委員長としても、その手腕を発揮されました。お顔の広い先生で、多くの先生方に、にこやかに原稿の依頼をしておられるお姿が、今でも鮮やかに印象に残っております。
 先生との思い出は、まだまだ尽きませんが、永年にわたる先生のご尽力に会員一同心から感謝申し上げます。
 本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

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開業して一年の感想〜後悔していませんが反省だらけの一年でした   磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)

 皆様、こんにちは。平成29年5月に開業しました磯部と申します。長岡駅東口のアクロスプラザ脇に開業しております。大きな恐竜が目印です。恐縮ですが御挨拶させていただきます。
 一年目の感想ですが、一言で言うと「大変だが楽しい」です。開業予定地は変更に変更を重ねて5か所目です。会計士も変更の変更で4社目でした。ですがなんといっても「人との出会い」が楽しくて、毎日充実しています。
 当院の特色としては

(1)開院パーティを行いました。
 100人規模で自分の結婚式よりも多かったです。プロピアニストの弾くショパンを聞いていただいたり、吉本芸人にも来ていただき、大変よい門出になりました。新婚旅行のようにそのまま開院旅行に行きたかったのですが、そうにもいきませんでした。
 予算に大幅に足が出たのです。経営能力がないということが初日にわかりました。

(2)立て看板はゼロスタート。
 看板をみんなが建てろ、建てろと言うのですが、「看板広告は一切しない。」と意地を張ってしまいました。みんな口コミでいく。口コミで評判をあげれば患者さんが来てくれる、と考えていましたが、正直に言うと費用がないのが理由でした。看板、誘導看板はあったほうがいいと思います(絶対)。患者さんが来ないと不安で寂しいものです。最初の一年は一生懸命集客にガンバルべきです。

(3)差別化をはかろうと失敗ばかりです。
 目立つように黒いドームを建築したり、恐竜や亀を設置したのですが、やはり、予算が不足でした。差別化をはかろうと、訪問診療をしたり、ネット診療をやったり、日曜診療をやったり、試行錯誤の毎日ですが、上手くいかないことの方が多いです。が、しかし、ハッピー・ゴー・ラッキーな性格のため、それを楽しんでいます。これを楽しむ自分ってすごいなと、もはや別人格を誉めています。いまだに「開業ハイ」が続いています。

(4)医療法人でスタートしました。
 おそろしく無知なことをしてしまいました。損なのか得なのかわからず、いまもって不明です。
 ですが、不安定感を楽しむ性格です。不透明な中を泳ぐ自信があるのです。不思議な性格です。わからないことだらけを楽しむ性格なのです。石橋を叩いて渡るのではなく、吊り橋をキャッキャ言いながら渡りたいのです。たぶん、ビョーキです。

(5)チャレンジしてきました。これからもチャレンジしていきます。
 法的に違法なことはダメ、倫理的に胸に手をあててダメだな、と思うことはダメ。当然のことです。ですが、失敗して反省して、学習するべきだ、とも思います。そうしないと人として成長はありません。恥をしのんで頭を下げて、関東信越厚生局に「すみません。わかりません。教えてください。」と電話ばかりしています。ただし、患者さんの不利益になるようなことだけは避けるべきです。まさに、そのとおりですが、できる範囲でチャレンジしていくつもりです。自分はアイランド・ホッパー(島の診療所の代診が好きでたくさんの島で代診の経験があります)だと自負していますが、開業してからはしばらく我慢です(いずれ、また、島に行きます)。

(6)開業して、医療関係者以外と非常に仲良くなりました。
 地元長岡の学校の先生方や弁護士さんや会計士さんや銀行の方、保険会社の方、商工会や青年会議所など若き経営者さん達と懇意にさせていただくようになりました。なかでも長岡高校の先輩でもある「原信」の社長である原和彦さんとの交流は特筆すべきで、彼から学ぶべきことは非常にたくさん、まだまだあるような気がしてなりません。自分は研究会や懇親会にいってもザリガニのように壁に体をくっつけているような人見知りなのですが、最近は自分から人と交わるようにしています。別の職種の人からは必ず学べるからです。ありがたいです。感謝です。「ああ、そうか」と思うことばかりです。

 以上、開業して1年の間に自分の人生に劇的な変化が起こっています。勤務医とは別の人生がスタートしたかのようです。すべて自己責任です。他の誰のせいでもありません。反省はしていますが後悔はしていません。「まあ、なんとかなるだろう。トホホ」っていう感じです。
 以上、駄文に付き合っていただきありがとうございました。今後とも反省を促していただけるような指摘は大歓迎です。どうぞご指導をよろしくお願いいたします。医師会関係者の皆様および患者さますべてに感謝いたします。

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巻末エッセイ〜「六十四年 東京オリンピックのあれこれ」 星 榮一

 二年後に二〇二〇東京オリンピックが開催される。五十四年前の六十四年に、東京で開催された第十八回オリンピックを観戦したので、当時を思い出しながら綴ってみる。

 戦後日本がオリンピックに参加できたのは、一九五二年の第十五回ヘルシンキ大会からである。第十七回ローマ大会の前年の一九五九年に六十四年第十八回オリンピックが東京で開催されることが決まった。その一年前の五十八年に東京で第三回アジア大会を開催して、一応の実績はあげていた。

 それから五年の間に、首都高速道路、東海道新幹線、東名高速道路、浜松町〜羽田のモノレールなどの建設がなされた。オリンピックの会場としては、国立競技場はアジア大会のものを増築して収容人員を増やしたが、吊り屋根方式の代々木競技場や皇居北の丸公園の武道館、駒沢オリンピック公園の駒沢体育館や屋内球戯場などが新設された。

 第十八回オリンピックの開催日は、六十四年十月十日から二十四日までの十五日間と決定された。この期間中に二十競技、百六十三種目が行われることになっていた。

 当時、僕は新潟大学の医学生であったが、日本でオリンピックが開催されることは当分ないので、是非観戦したいものだと考えた。問題は何時、どの種目を観るかだ。日程表を見ると、閉会式の前日や前々日に観戦したい種目が集中していた。体操の決勝戦、柔道無差別級、女子バレーボール決勝に的を絞った。

 観戦の入場券は、約一年前に全国の交通公社で、競技ごとに何回にも分けて発売することになっていた。新潟の交通公社には各種目数枚の入場券しか割当がなく、行列の後ろでは入手できない可能性がある。したがって僕は大学五年生の時に三回、新潟古町の交通公社の前の歩道で寝袋で寝た。幸い目指した入場券は全部ゲットできた。

 昭和三十九年、この年は六月に新潟国体があり、その直後に新潟地震があった。十月二十二日午前に特急「とき」で新潟を発った。昭和三十七年に上越線の全線電化が終わり、新潟〜上野間四時間四十分になっていた。

 東京の宿泊は、弟の世田谷のアパートに泊めてもらった。二十二日は午後五時から千駄ケ谷の東京体育館で体操の表彰式。日本の男子チームは団体優勝、遠藤が個人総合金メダル、鶴見が銀メダル。日本女子チームが団体銅メダル、チェコのチャスラフスカが女子の個人総合金メダル。続いて男女種目別競技があり早田が吊り輪で金メダル。

 二十三日は午後一時より武道館で柔道無差別級予選リーグで、期待の神永がオランダのヘーシンクと顔を合わせ判定で敗れた。しかし、神永は敗者復活戦で勝ち上がって再び決勝でヘーシンクと熱戦を展開し、ヘーシンクが優勝し、神永は銀メダルに終わった。

 午後七時より駒沢室内球技場で、女子バレーボールの決勝戦が、日本とソ連チームで戦われた。会場には美智子皇太子妃もご臨席されておられた。第一セットは十五対十一で日本、第二セットも十五対八で日本、第三セットは十四対九からソ連が追い上げて十四対十三に迫ったが、最後は日本が制して金メダルを勝ち取った。鬼の大松監督のもとの猛特訓が実ったのだった。

 オリンピックが終った十月の末から翌年の二月末までは、毎週末に卒業試験が続き、のんびりしている暇はなかったが、幸い無事に卒業できた。

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