長岡市医師会たより No.462 2018.9


もくじ

 表紙絵 「ニューオーリンズの街」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「猫シリーズ第二弾」 渡部和成(田宮病院)
 「日赤研修医便り2018」 三ツ井彩花(長岡赤十字病院)
 「百人一首を俳句に〜その三」 江部達夫(江部医院)
 「蛍のかわら版〜その44」 理事:児玉伸子(こしじ医院)
 「英語はおもしろい〜その44-1」 須藤寛人(長岡西病院)
 「巻末エッセイ〜猫は家族である」 福本一朗(長岡保養園)



「ニューオーリンズの街」  木村清治(いまい皮膚科医院)


猫シリーズ第二弾 渡部和成(田宮病院)

 小生、本会報登場5回目です。この8月から長岡生活5年目に入りますので、おおよそ年1回ずつ寄稿していることになりますでしょうか。頼まれると断れない性質で、ついつい書いてしまいます。本稿は、面白いものをぜひ、と言われ書いたものですので、のんびり読んでいただければと思います。
 読者諸氏は、前回掲載された写真付きの拙文を覚えておられるでしょうか。写真まで付けてもらい登場し拙文の主人公となっていたのは、猫でした。今回も、またまた猫です。猫シリーズ第二弾です。
 ここで、前回の猫について思い出していただくために、その時の話をかいつまんで記させてもらいます。その猫は、ある夏の日に露天で売る作家から値を訊ねることなく買い求め、今も我が家のリビングの棚に置いてある石の猫です。その縦長に立つように工夫してある石には、頬から首にかけては白く、目の周りから頭の天辺にかけては茶トラとなっている猫の顔が大きく描かれていて、その顔の前には濃い緑の背景に白い文字で「見つめる先には夢がある」とくっきりと書かれています。その猫は、口を真一文字に結び、両耳をピンと立てていて、凛々しく見開き斜め上を遠く見つめる澄んだ薄緑の目からは抱いている夢が透けて見えてきそうで、強靭で誠実な表情を見せています。勇気づけてくれる不思議な力を感じて購入したものでした。今や見るたびに小生に力を与えてくれる相棒の猫となっています。
 さて、今回の猫は、よく覘く和人形店で、たまたま立ち寄ったときに見つけ購入したものです。全体が白い印象で10センチほどの大きさの土人形で、横になった眠り猫です。ふっくらとして優しい面立ちの白い丸顔で、左右の小さな三角の耳は黒と茶でぶちになっており、両目は三日月のように細く黒く閉じられ、ピンクの小さな鼻の下ではやはりピンクの口がやさしく閉じられています。そして胴体も白く丸味を帯びふっくらと柔らかそうです。でも、これだけの猫であったのならば、魅力は不十分で購入するには至らなかったでしょう。事実、この猫の周りには同じ作者によると思われる5、6種類の違うモチーフで作られた白く可愛い猫が並べてありました。しかし、この猫は異彩を放っていました。仰向けに寝て、後ろに組んだ両前肢を枕にして頭を載せ、床に立てた右後肢に左後肢を載せるように両脚を組み、瞑目しているかのようにゆったりと眠っていました。人形にはあり得ないような姿でした。そして、この三毛猫は、白い台紙を布団のようにして、その上に乗り寝ていました。その台紙をよおく見ると、その四角く白い紙の長辺には、「にゃんとかなるさあ」(何とかなるさ、ということでしょう)と黒い丸文字で伸びやかに書かれていました。何とも人を食ったユーモラスなこの猫の態度と一緒になって、ほんわりと伝わってくるものがありました。この猫は、小生に「ゆっくりやれよ」と語り掛けて来ていました。今回も値を訊ねることなく購入しました。結構高いのかと思っていましたが、店主から知らされた値は、第一弾の猫の十分の一で拍子抜けをするほどの廉価でした。一点物ではなかったからでしょう。この三毛猫は、今、我が家のリビングの棚で、当然同じ格好で堂々と寝ています。いつも心をほっこりさせてもらっています。
 小生は、統合失調症治療が専門の精神科医ですから、病院での診察時には、統合失調症の患者さんに、病からの乗り越え方について助言することがしばしばあります。「統合失調症治療の目標は、症状に対処しつつ病気をうまく管理しながら社会に参加し、自分らしく生きられるようになることです。しかし、慌てたり無理をしたりしてはいけません。ゆっくりでいいんです。何とかなるさぐらいの気持ちでいきましょう」と。この猫は、そう助言する小生に、頑張りすぎるな、ゆっくりやれよ、と諭してくれているように感じられます。小生の主治医です。
 誠実に語り掛けてくる茶トラの猫と、のんびり語り掛けてくる三毛猫が、個性豊かにリビングの棚に隣同士で並び、小生の日常を見てくれています。これが、小生の相棒の2匹です。さて、3匹目の猫はいつどのように現れて来るのでしょう。期待して待っていたいと思います。

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日赤研修医便り2018   三ツ井彩花(長岡赤十字病院)

 「俺らも研修医スクラブ作ろうぜ」「誰かデザイン考えてよ」
 このやりとりは記憶に新しい先生もいらっしゃるかと思います。この研修医室も例に漏れず、今年もオリジナルスクラブを作るようです。がんばれ1年目。
 「何か良いアイデア無いですか?」
 私はその年の色が出てこそだと思い、にこにこしてその姿を傍観していました。ですが、これがなかなか決まりません。もう6月なのですが、どうやら主導する人がいないようです。これは困りました。そのままいくと1年目終わっちゃうよ。
 「みついさ〜ん、助けてください〜〜」とある1年目の悲鳴が聞こえてきました。少しかわいそうになって私も考えてみることにしました。餅は餅屋というわけです。去年のスクラブ担当にお任せあれ。
 その前に、去年のデザインにも思いを馳せてみようと思います。
 「ま、ここは三ッ井でしょ」「いやいやちょっと待ってくださいな」
 去年の我々もこのような状態でした。私が学生時代に部活Tシャツのデザインをしていたことを同期は知っていたので、ある種自然な流れです。私は「長岡日赤らしさ」を色々考えました。花火、ヘリコプター、十字……こんなところでしょうか。まずは一番の難関、ヘリの攻略にかかります。写真を検索し、スケッチ。いやでもこれどうやって図に落とし込むの?私は早速頭を抱えました。横から見たヘリはその前の年に出たばかりです。となると、ちょっと角度を変えて?ですがそれも難しい。上記3つのうち中心になるモチーフがヘリだったため、これが決まらないと構想も一向に進みません。結局、私はそこで一旦さじを投げました。
 「こんなのどうかな」
 次の日のことです。同期の一人が1つの図を見せていました。私も一緒になって覗き込み、びっくり。ヘリを真上から見下ろしたシンプルなデザインでした。おたまじゃくしのような機体に、「十字」のプロペラ。私はこれだ!と思いました。ひらめいたら、即実行です。
 花火はこの場合、もっとも流動性のある便利な存在でした。そこで、まず主役となるヘリと十字が一番美しいと思える角度を探しました。そういえば、十字の使用には制限(赤十字活動以外で十字の使用を認めない)があったような……念のため得意とする装飾を十字の中に盛り込みました。一応、これで十字の乱用にはあたらないはずです。そして赤十字のもう一つのシンボルである三日月(イスラム教国で赤新月と称され、赤十字同様に取り扱われています)を組み合わせ、大枠が完成しました。三日月にはNRC(長岡日赤の頭字語)が隠れています。あとは隙間を大きな花火が背景になるように……
 こうして2017年度のオリジナルスクラブは完成しました。まあまあの出来だと自負していますが、唯一の反省点は刺繍範囲が広く生地がやや硬くなったことです。着ているうちに気にならなくなったので結果オーライでしょうか。(図1)
 

さて、問題は今年のスクラブでした。
 「あ、じゃあラーメン屋さんみたいな文字で作ろうよ」
 完全に思い付きのような発言で恐縮ですが、私は大真面目でした。長岡日赤に関するモチーフはこの私が使い尽くしてしまったのですから。彼らに全く新しい発想を与えない限り、私は去年の自分から逃れられないのです。適当な裏紙を引っ張り出して、ざっと草案を描きました。限りなく字を崩して、パッと見読めないけどよく見ると「日赤レジデント」。最高にクールなデザインの一つです。
 「ありがとうございます!」
 これ以上私が絡むとこの代らしさが無くなるかもしれない。そう考えて、そこから先のデザインはその涙目だった後輩に託しました。今まで何を悩んでいたのかというくらい、その後はとんとんと話が進んでいきました。思いの外可愛い仕上がりになりましたが、後輩達らしさがあるとても良いデザインだと思います。(図2)

 こうして毎年当院ではオリジナルスクラブをめぐり、小さなドラマが発生します。研修医を見かけたら、その肩口にも注目してみてください。もしかしたら何か面白い話が聞けるかもしれませんよ。

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百人一首を俳句に〜その三   江部達夫(江部医院)

41 密やかにはじめし恋もうわさ立ち

 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか 壬生忠見(みぶのただみ)

 恋をしているという私の噂(うわさ)が早くも立ってしまったよ。誰にも知られないように思いはじめたのに。

 壬生忠見は忠岑(30の詠み人)の子、村上天皇の代に活躍した歌人で三十六歌仙の一人。官位は低く、摂津大目(だいさかん)など歴任。家集(個人の歌集)に「忠見集」がある。

42 涙(なだ)の袖(そで)しぼりつ契る行く末を

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは 清原元輔(きよはらのもとすけ)

 たがいに涙で濡れた袖をしぼりながら約束したよね。あの末の松山を波が越すことがないように。

 清原元輔は清少納言の父で、三十六歌仙の一人。従五位下肥後守(ひごのかみ)となる。歌人としても名高く、「後撰集」の撰進(詩歌・文章を作ったり、集めたりして天皇に奉ること)の任についた。

43 逢うた後心は昔の物でなく

 逢い見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)

 あなたに逢って結ばれ後の恋しく思う心にくらべると、逢う前の気持ちなどは物思いをしていないようなものですよ。

 敦忠は平安中期の歌人で、琵琶の名手でもあり、三十六歌仙の一人。左大臣藤原時平の三男、美男で、恋多き美女の右近とは恋愛関係にあったと、その頃の歌か。三八歳で亡くなり、その死を惜しまれた。

44 逢わざれば人をも身をも恨まずに

 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)

 もし逢うことが全くないものであったのなら、あなたのこともわが身をも恨むことがないのであるが。

 朝忠は三条右大臣藤原定方(さだかた)の五男、三十六歌仙の一人。和漢の学問に優れ、笙(しょう)の名手でもあった。平安中期(関白政治の時代)藤原氏全盛の頃の歌人。大変な肥満であったが五六歳まで生きた。

45 あわれとも言う人もなく吾は逝く

 あはれとも言ふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな 謙徳公けんとくこ(けんとくこう)

 私のことをかわいそうだと云ってくれそうな人は思い浮かばないので、このままむなしく死んでしまうのであろうよ。

 謙徳公は藤原伊尹(これただ)のおくり名、正二位摂政大臣であったが、九七二年四七歳で亡くなっている。才色兼備の風流人であった。和歌に優れ、「後撰集」撰進の監督にあたる。

46 由良の門(と)を梶(かじ)なく渡る恋の道

 由良の門(と)を渡る舟人梶(かぢ)を絶え 行方も知らぬ恋の道かな 曽禰好忠(そねのよしただ)

 由良の海峡を漕ぎ渡る舟人が梶を失って行方も知らずただよっているかのように、私の恋の道もこれからどうなってゆくか分からないことよ。
 「由良の門」は京都府宮津市の由良川の河口で、幅の狭い海峡のこと。

 曽禰好忠は一〇世紀後半の人で、生没年、家系は不詳、丹後の掾(じょう)(判官−公文書の審査、事務上の過誤のう摘発などが職務)であった。歌の才能はあったが、ひがみっぽい性格で孤立していたと。

47 草しげる宿に人来ず秋きたり

 八重葎(やへむぐら)しげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり 恵慶法師(えぎょうほうし)

 いく重にもつる草が茂っているさびしい宿に、訪ね来る人はいないが、秋はやって来ているのだ。

恵慶法師は平安中期、花山(かざん)天皇の頃の人、播磨(はりま)国の国分寺の僧であった。生没、家系は不詳の歌人。

48 岩に波くだけるわが身片思い

 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけて物を思うころかな 源重之(みなもとのしげゆき)

 風が激しいので岩にうちあたる波が私だけにくだけ散るように、私の心はくだけるばかりに物思いするこの頃ですよ。

 重之は平安中期の歌人で三十六歌仙の一人。清和天皇の曾孫、従五位下相模権守(ごんのかみ)となる。旅の歌人で、地方の名所を詠んだ句が多い。

49 物思う衛士(えじ)の火夜(よ)は燃え昼は消え

 みかきもり衛士(ゑじ)のたく火の夜(よる)は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ 大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)

 宮中の御門を守る衛士のたく火が、夜は燃え、昼は消えているように、私の恋心は夜は燃え、昼は消えるかのように物思いに悩んでいるのですよ。

 大中臣能宣朝臣は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人で、正四位下伊勢の祭主にいたる。九五一年に「梨壺の五人」(梨壺は平安京内裏の五舎の一つ、昭陽舎で、前庭に梨を植えていた。ここは和歌所でもあった。)に撰ばれ、「後撰集」の撰集と「万葉集」の付訓に当たった。

50 君がため惜しまぬ命長くあれ

 君がため惜(お)しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝(ふじわらのよしたか)

 あなたのためなら惜しいと思っていなかった命であるが、お逢いしてからは長く生きていきたいと思うようになりましたよ。

 義孝は45の詠み人一条摂政伊尹(これただ)の三男で右近衛少将であったが、流行した痘瘡のため三一歳の若さで亡くなった。美男で才能豊かな歌人であった。

51 吾が恋の燃ゆる思いを君知るか

 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)

 このようにあなたを恋い慕っているのに、伊吹山のさしも草のように、それほどに知らないのでしょうか、私の燃えるような思いを。

 藤原実方は貞信公(26の詠み人)の曽孫。従四位上左中将となったが、宮中での乱行で一条天皇の怒りをかい、陸奥守に左遷。この時、旅の歌人源重之が同行した。実方は任地で没した。

52 明け暮るる知りても朝は恨めしき

 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)

 夜が明けるとまた日が暮れ、あなたにまた逢えることは分かっていても、恨めしく思う明け方であることよ。

 道信は太政大臣藤原為光(ためみつ)の三男、従四位上左近中将となるも二三歳の若さで亡くなる。和歌に優れており、その死は人々に惜しまれたと。

53 きみ知るかひとり寝の夜の長きかな

 嘆(なげ)きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る 右大将道綱母(うたいしょうみちつなのはは)

 嘆きながらひとりで寝る夜の明けるまでが、いかに長いかはあなたは知るものでしょうか。いや知らないでしょう。

 道綱の母は陸奥守藤原倫寧(ともやす)の娘。摂政太政大臣藤原兼家の室となり、かねいえ道綱を生む。平安中期の女流歌人で中古三十六歌仙の一人。「蜻蛉(かげろう)日記」は有名。

54 末永く忘れぬ難し今日限り

 忘れじの行末(ゆくすえ)まではかたければ 今日限りの命ともがな 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

 いったい誰を昔からの友としようか。長寿の象徴の高砂の老い松も昔からの友ではないが今の友としようか。

 儀同三司母は平安中期の歌人。中関白藤原道隆(みちたか)の妻で名は貴子(たかこ)。藤原伊同(これちか)、定子(ていし)の母、定子は一条天皇の中宮となる。
 儀同三司とは三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と同じの意で准大臣のこと。長男伊同がこの職にあった。

55 滝の音絶えても久し名は聞こえ

 滝の音(おと)は絶(た)えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 大納言公任(だいなごんきんとう)

 滝の音は途絶えて久しく年月もたったが、その名は流れ伝わり、今も聞こえていることよ。
 (京都嵯峨に平安の初め、嵯峨上皇が離宮として大覚寺を造営。池に滝を造った。百年後公任が訪れ、荒れてしまった庭と涸れた滝を見て、その面影をしのんだ歌。)

 公任は関白太政大臣藤原頼忠(よりただ)の子、正二位権大納言となる平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人、漢詩、管弦にも優れていた。

56 死も近しも一度会いたし思い出に

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな 和泉式部(いずみしきぶ)

 私は病(やまい)のためまもなく死ぬでしょうが、この世の思い出に、せめてもう一度あなたにお逢いしたいものです。

 和泉式部は平安中期を代表する女流歌人。和泉守橘道貞(たちばなのみちただ)と結婚、小式部内侍(ないし)を生む。その後も多くの男性に愛される恋多き女性であった。「和泉式部日記」は有名。

57 久し逢う友は雲間の月と消え

 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな 紫式部(むらさきしきぶ)

 久しぶりにめぐりあい、その人かどうか分からぬうちに、雲間に隠れた夜半の月のように、姿を隠してしまいましたね。
 (幼友達と久しぶりに逢ったのに、あわただしく帰ってしまったことを雲間の月にたとえ詠んだもの。)

 紫式部は平安中期の女流文学者、「源氏物語」や「紫式部日記」は有名。越後守藤原為時(ためとき)の娘で、藤原宣孝(のぶたか)と結婚、賢子(けんし)(大弐三位、58の詠み人)をもうけた。夫と三年で死別、その後から源氏物語の執筆が始まった。死別三年後には一条天皇の中宮彰子(しょうし)に出仕したが女房生活はなじめなかったようだ(紫式部日記)。同中宮定子(ていし)には清少納言も仕えた。

58 笹の風そうよあなたを忘られよう

 有馬山猪名(ありまやまゐな)の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弐三位(だいにのさんみ)

 有馬山の近くにある猪名の笹原を風がそよそよと吹くように、そうですよ、なんであなたのことを忘れましょうぞ。
 (有馬山は今の神戸市、猪名は尼崎市にあったが、一緒に詠まれることが多かった。)

 大式三位は名は賢子(けんし)、紫式部の娘。上東門院障子(しょうし)(一条天皇の中宮、藤原道長の娘、八六歳と長命であった)に母式部と同じく仕えた。二番目の夫が正三位大宰大弐高階成章(たかしなのなりあきら)であったため、大弐三位と呼ばれた。

59 やすらわず寝(ね)れるを夜更け沈む月

 やすらはで寝(ね)なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 赤染衛門(あかぞめえもん)

 あなたがおいでにならないと分かっていれば、ためらわないで寝ていたのに、お待ちしながら月が西にかたぶくまで眺めていたことですよ。

 赤染衛門は平安中期の女流歌人、和泉式部と並び称せられた。父は赤染時用(ときもち)で、右衛門尉(うえもんのじょう)をつとめていたので呼び名がついた。
 藤原道長の妻倫子(りんし)に仕え、後にその娘中宮彰子にも仕えた。

60 いく野遠く橋立(はしだて)いまだふみもみず

 大江山いく野の道の遠ければ まだふみをみず天の橋立 小式部内侍(こしきぶのないし)

 大江山を越え、生野を通って丹後国に行く道は遠いので、まだ天の橋立の地に踏み入ったことがなく、母からの文も見ておりません。

 小式部内侍の母は和泉式部、若い頃から和歌に秀でたため、藤原定頼(さだより)に歌会の際、母(この頃丹後国に暮す)からの代作が届いたかとからかわれ、この歌を即座に詠んだと。
 二人の公達に愛され、それぞれに男子をもうけているが、二六歳の若さで亡くなっている。

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蛍の瓦版〜その44   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 蛍は暑さに負けて2カ月間のお休みを頂戴しました。

1.長岡市要保護児童対策地域協議会代表者・実務者会議
 この会議は、年に1回児童保護に関係する長岡市の全ての団体や機関が、一堂に集まって開催されるものです。今年は7月5日に、長岡市・教育委員会・学校・幼稚園・保育園・児童相談所・保健所・民生委員・法務局・人権擁護委員協議会・弁護士会・警察・少年サポートセンターやNPO法人女のスペースながおか・子どもの虐待防止ネットにいがた・歯科医師会及び医師会が参加し開催されています。要保護児童対策会議と名付けられていますが、実際は要保護児童の保護だけではなく、要支援児童や特定妊婦の支援や保護も目的としています。
 要保護児童とは、保護者のいない児童に加え保護者の状況や児童自身の障害等様々な理由で、保護者による養育が不適当と認められる児童です。また保護者による養育に何らかの支援が必要とされる児童を、要支援児童と称しています。特定妊婦とは、望まない妊娠や若年の妊婦のことで、彼女たちの子育てには出産前からの継続的な支援が必要と考えられ、当会議の対象となっています。
 長岡市での養育に関する相談対応件数は年間400件弱あり、そのうち児童虐待と判断されたものは90件前後ありました。残りの300件近いケースは、保護者の疾病や養育力不足及び経済状況不安定等、養育環境に不安のある家庭に関するもので、それぞれ支援が行われています。
 全国の児童虐待対応件数は、平成26年度の年間9万件から27年度の10万件、28年度は12万件と増加していますが、長岡市ではこの間も90件前後で推移しています。虐待の内容は心理的虐待が増加傾向にあり、主な虐待者は養育に直接係わっている実母や実父が大半でした。相談経路は児童相談所・母子保健事業・学校・保育園・幼稚園等多岐に亘っていますが、被虐待児の多くが小学生以下の児童や乳幼児であり本人からの相談は0件でした。
 昨年度と一昨年には長岡市で病院から児童虐待に関する相談例が4件ありました。児童虐待とDV(家庭内暴力)については、医師の守秘義務の対象ではありません。児童虐待の可能性を疑った場合は、福祉事務所や児童相談所等に速やかに通告することが義務付けられています。

2.フェニックスネット
 病院と診療所の情報共有が可能となった新たなフェニックスネットが、9月1日より本格的に稼動しております。システム拡充に関する運用説明会も9月13日の病院対象を皮切りに、14日には診療所、19日は介護事業所と訪問看護ステーション、26日は歯科診療所を対象に行っています。
 また、9月号の長岡市政だよりにもフェニックスネットが取り上げられ、市民への周知も始まりました。フェニックスネットを活用し育ててゆくのは、皆様です。登録にご協力下さい。

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英語はおもしろい〜その44-1   須藤寛人(長岡西病院)

 GoodSamaritan 善きサマリア人
  イスラエルの国道1号線は地中海側にある中心都市テルアビブから海抜800mの中央高地にあるエルサレムの町の北側を経て死海(Dead Sea)のごく近いところまで下るイスラエルを東西に横断する高速道路であった。この国道を北に回れば「世界最古の町」と言われるオアシスの町エリコ(Jericho)であり、南に下れば世界最低地(海抜−420m)にある塩水湖の死海の湖畔道路になる。
 この国道の周辺はエルサレムの町を離れればたちまちわずかな草しかない荒野に変わる。15分位下った道路脇の右高台に建物の屋根だけが見えた。イスラエルに住み着いて40年という日本人ガイドは「あれが聖書に出てくる Good Samaritan の宿屋(Inn)のあった所です」という説明であった。なだらかな起伏の続く丘には人が通れる位の細い道が長々と続いて見え、「あの道は2000年前からの旧道で、イエス様もお歩きになった道です」と牧師資格も持つガイドが話されると今回のツアー参加者・私以外全員クリスチャンの12名は頸を長くして見続けていた。
 伝統ある本誌“ぼん・じゅ〜る”の平成22年1月号に、立川綜合病院の当時の研修医の鳥羽智貴先生が「善きサマリア人」としてエッセイを載せていた。「機内で病人が発生したら医師の皆さんはどうしますか?」というような書き出しで、「アンケートによると、名乗り出るという日本人の医師は4割に留まること」や「アメリカとカナダでは善きサマリア人の法が法律化されたこと」、そしてその法律の趣旨は〔災難に遭遇したり急病になったりした人を救うため無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人が行動したなら、たとえその好意が失敗しても責任は問われない〕とまとめられていた。最後に、「自分は未熟で、飛行機にも数回しか乗っていないが、きっと日本においても善きサマリア人の法は必要なのではないでしょうか」と結んでいた。私は彼は実に倫理観の高い立派な若手医師であると感心していた。当該医師とは今日まで全く接点を持つ機会はなかったが、彼は確実に実力を付け立派な医師に成長していることであろう。
 私が、"Good Samaritan"の話を聞いたのは50年位前のことになる。当時、New York 市でのレジデントの給料は他州に比べ高く、3カ月分で新車の普通自動車を買えるほどで、私はシボレー社の Chevrolet Nova を選んだ。当時の日本では自家用車はどの車も「まっ白」であった頃、私は明るいブルーを選んだ。License Plate No は 5053PQ であった。レジデント中に Federation Licensing Examination(FLEX)に合格し New York 州での開業資格を得て意気昂揚していた頃である。2年上の先輩で心置きなく話せた友人で、今もメールのやりとりをしている life-long friend の Theodore Goldberg に"MD Plate"に取り替えることを勧められた。当時、アメリカでは既にナンバープレートは自分で決めて申し込むことができたが、文字のどこかに「MD」を加えておくと駐車違反が甘めに見られるとのことであった。しかしである、「もし、運転をしていて道路脇に人が倒れていたりあるいは交通事故でけが人が出ていたりしているような所に遭遇したとき医師は一端車を止めて対応に当たらなければならない」と念をおされた。ユダヤ人の彼は至極当然のように話をしていた。当時のアメリカはベトナム戦争の後遺症で世の中は荒れていた。路上駐車したばかりに車の4本のタイヤがはずされたり、自動車ごと盗まれたりした話には驚ろかなくなった。レジデントを終えフェローになり、危険なハーレムや South Bronx でアルバイトもするようになり、私はMDプレートを付けるのを断念した。
 さて、今日は表題にした「善きサマリア人」のサマリア(Samaria)とはどこなのか? サマリア人(Samaritans)とはどういう人なのであろうか?これらを知った上で、ユダヤ人であったイエスが「善きサマリア人」の逸話で言いたかったことは何かなど、今回(平成30年3月)の私たちのイスラエル小旅行で知り得たところ、考えてみたところを混ぜ合わせて記してみたいと思う。(続く)

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巻末エッセイ〜猫は家族である 福本一朗(長岡保養園)

 「あなたはペット好きですか? それでイヌ派それともネコ派?」とよく尋ねられる。両方好きな私はいつも答えに困ってしまう。

 少年の頃、寂しがりやの一人っ子だった私は、学校の行き帰りに捨て猫・捨て犬を拾って来て、ハンガーストライキを決行しては毎回飼ってもらっていた。もっとも動物好きの父はあまり気にしていなかったが、そうでもない母は「食事をあげるのはいつも私なのに、一番懐くのはお父さんかおまえなのは絶対不公平!」と文句を言っていた。

 ペットの不妊手術など流行っておらず、すべて放し飼いの頃だったので、我が家のイヌやネコ達は毎年子供を産み、その子供が孫を産んで、一時は犬猫合わせて20匹以上が狭い家にひしめき、主人親子3人以上のごはんを食べていた時もあった。特にイヌ達は散歩のときに付き合うだけでよかったが、ネコ達は学校から戻ると一斉に駆けつけ、肩に乗ったり足にまとわりついたりしてまるでネコの毛皮にくるまった様になって台所にたどりつき、食事を作ってあげていた。

 このような“多頭飼い”をしていると、ペット達の“個性”は人間に負けずとも劣らないほど多様性に富むことに気がつく。一般には「イヌは人に付き、ネコは家に付く」、「イヌは飼い主に忠実だが、ネコは独立していて自分が必要な時だけ人間に甘える」といわれているが、よく観察していると必ずしもそうとはいえない。例えば故郷で飼っていた雌犬はとても頭がよくて、いたずらをした時など食事のとき以外は家に寄り付かず、子犬を取り上げられそうだと感づくと、こっそり家出して飼い主をとり替えていた。その反対に現在我が家にいる2匹の姉弟ネコのうち、弟ネコはパパが大好きで、帰宅時には三つ指突いて御迎えし、家の中ではいつも傍に控えており、トイレやお風呂にまで付いて来て絶対に離れず“執事ミーシャ”と呼ばれ、獣医さんにも「まるでイヌみたいなネコですね!」と言われている。しかしママが大好きなお姉さん猫シシィは、いつも家の中で一番快適な処を占拠していて、自分が甘えたい時だけすり寄って来てトゲトゲのネコ舌でママ達の顔を舐めにくるだけ。

 この2匹は3年前に動物愛護センターに10回も通ったあげく、ネコ達が私を飼い主として選んで手の中に入って来て家族になってくれた(Fig.1)。雨の日に三条市の道路脇に捨てられていた生後40日400gの痩せこけた弟は、「肛門脱と下痢がひどいので育たないかもしれない」と言われていたが、2歳になる頃にはお姉さんの2倍近い6.5sの巨大ネコに育ってくれ、今ではかけがえのない大事な家族の一員である。

 言葉の不自由なペット達が「本当に幸せかどうか」知るために、愛玩動物飼養管理士1級の資格を取得して動物心理学を修めたが、愛らしい表情と行動を見ていると、実は猫達の方が人間よりもずっとヒトの心を分かってくれているのではないかと思う今日この頃である。

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