長岡市医師会たより No.464 2018.11


もくじ

 表紙 「アークの祝福」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「会員旅行記(前編)」 田中普(三島病院)
 「会員ゴルフ大会優勝記」 江部佑輔(江部医院)
 「今こそ死刑制度廃止を」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍のかわら版〜その46」 理事:児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜人を食う熊 熊を食う人」 江部達夫(江部医院)



「アークの祝福」  福居憲和(福居皮フ科医院)

〔潜伏キリシタン関連遺産〕が世界遺産になりました。愛のあるところには、祝福が寄り添うものなのです。


会員旅行記 渋温泉「歴史の宿 金具屋」の旅(前編)

〜「千と千尋の神隠し」の舞台を訪ねて〜 田中普(三島病院)

 皆さん、こんにちは。三島病院の田中晋です。昨年に引き続き、医師会の旅行に参加しましたので報告します。今年の旅行先は長野県下高井郡山ノ内町の渋温泉です。宿泊は「金具屋」という旅館で、昭和初期に建築された木造の4階建て。有名な宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」の「湯屋」のモデルの一つではないかと言われてます。
 旅行に参加した先生方には、この文章が思い出を記憶に定着させる一助になれば幸いです。参加されなかった先生方には旅行の楽しい雰囲気が少しでも伝わるように報告したいと思います。
 医師会旅行が予定されていた週末の天気予報は最悪でした。伊勢湾台風にも匹敵するという前評判の台風24号が、ちょうど日本列島を西から縦断する予定だったんです。旅行前日の天気予報でも、台風が来る前に旅行が終わるかどうか。ギリギリな感じでハッキリせず。さあ、どうなることやら。
 土曜日の午後2時半集合だったので、少し早めに到着するように家を出ました。ちょうど5分前に医師会館に到着。よし予定通り。と思ったらバスガイドさんがバスの前に立っている。あれっと思ったら、ガイドさんが遠くにいる私を見つけて、「来ました!」と大きな声でバスの中へ報告。皆さんすでに着座して待っている。まるで遅刻してしまったかのような雰囲気に耐えられず、小走りでバスに駆け込む。みんな張り切りすぎ。いや、10分前集合は社会人の常識です。TK先生が「田中先生、走らなくてもいいですよ」と言ってくれたので少し安心してバスの中へ。
 バスではサロン席を勧められ、そこに私は着席。これから目的地まで宴会の始まり。乾杯の合図とともにビールをグイっと。さあ楽しもうとした矢先、星さんが「今年の旅行記は田中先生にお願いしますね」とまさかの公開指名。お断りする正当な理由もなく、「喜んで了解しました」と返事をしました。その時点からしばらく「結婚式でスピーチの順番を待つ友人代表」の気分を久しぶりに味わう。心から旅行を楽しむというより、何だかそわそわ。ただ、ビール、ワイン、シャンパン、日本酒を順番に飲んでいるといつの間にかいい感じ。夜の宴会にそなえてペース配分を考えている各先生方を横目に、私は栃尾の日本酒が美味しくて、ついついペースが早くなりいい気持ちに。飲みすぎたかな。いつの間にか目的地に到着です。
 宿についたら夕食まで結構時間があり、さっそくAR先生と露天風呂へ。やっぱり温泉の露天は気持ちがいい。露天風呂の次は宿のおすすめの「鎌倉風呂」に向かう。鎌倉風呂は源頼朝が渋温泉に入ったという伝説から名づけられたそうだ。木造りの湯舟に白っぽい湯の花がゆらゆらと浮いてる。なかなか風情があっていい。ゆっくりしたかったが、お湯が熱いので我慢できず、やむを得ず脱出。後から知ったのだけど、渋温泉は湯が熱いので有名らしい。このあと、「お湯の熱さで有名」の本当の意味を外湯巡りで知ることになる。
 17時半からは金具屋文化財巡りに参加。通称「金具屋ツアー」。昭和11年に完成した木造4階建ての「金具屋斉月楼」と「金具屋大広間」を、九代目西山平四郎さんが案内してくれた。彼の曽祖父の六代目西山平四郎さんが作ったそうです。ここの当主は歌舞伎役者のように代々名前を継ぐみたい。金具屋という名前の由来は、家業が金具を作っていたからだという話から始まり、解体した水車の部品を建築に利用した、部屋の作りが一つ一つ違う、廊下がまるで屋外にある路地のような雰囲気にした、などなど、感心することばかり。日本の建築技術は奥が深い。皆さん、金具屋に泊まる機会があればこの「金具屋ツアー」にぜひ参加しましょう。建築科の大学生も取材に来ていました。
 最近は宮大工さんが少なくなってきて、木造建築の維持が大変なんだとか。長野県といっても夏は30度を超える日が続くので、お客さんのためにエアコンを入れたら乾燥しすぎて木が歪むようになったとか。現在の建築基準で作られてないので、消防署からの許可を定期的に更新するのが大変だとか。100年以上前に作られた木造建築を現役の旅館として通常営業するのは、並大抵の苦労ではないそうです。千と千尋の映画の頃から若いカップルや外国の旅行者が増えたそうです。渋温泉に来る人は、たとえ金具屋に泊まらなくても金具屋の外観は見に来ることが多く、他の宿に泊まっている人も金具屋の前で足を止め、写真を撮っていました。夜ライトアップされた金具屋は、なかなか味わえないような荘厳さを感じます。
 と、ここまで書いたところで原稿依頼の既定の文字数を超えました。ここから医師会旅行の佳境の宴会に入るところですが、残念ながら続きは次号にてご報告いたします。(つづく)

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第48回長岡市医師会会員ゴルフ大会

優勝 江部医師インタビュー   江部佑輔(江部医院)

 読者の皆さんこんにちは。“ぼん・じゅ〜る”ゴルフ担当の Yusuke Ebe です。
 今回は、9月24日、長岡カントリーで行われた長岡市医師会会員ゴルフ大会で優勝された江部佑輔先生にインタビューをすることになりました。実は大会終了直後に予定していましたが、先生は11月の“ぼん・じゅ〜る”原稿の締め切りに追われているとのことで遅くなってしまいました。あ、先生来られたようです。

「江部先生、この度は会員ゴルフ優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」

「実家に入られてからかなりゴルフ頑張っていると噂には聞いていましたが、今回医師会ゴルフ初優勝の気持ちを教えていただけますか」
「はい、優勝できたことは本当に光栄なことです。ただ、正直スコアは今一つで、たまたまぺリアでハマっただけのことなんです」

「ぺリア方式ですか。そのぺリアってどんな方法なんですか」
「ゴルフは1ラウンド18ホールで競うのですが、そのうち数ホールを隠しホールにして、そこのスコアで競技者のハンディを決めるハンディキャップ戦です。今回は18ホール中12ホールを隠しホールにする新ぺリア方式だったんです。その日はパーもまずまずあったのですが、大たたきしたホールも何ホールかありました。で、そのぺリアの隠しホールにダブルボギー以上打ったホールがほぼすべてハマり、逆にパー、ボギーで上がったホールはハマらないというラッキーに恵まれたわけなんです。まったく運だけの勝利だったんです」

「あら、そんなご謙遜を。それに運も実力のうちとよく言うじゃないですか」
「ま、そうですけど、やはりいいスコアで勝ちたいじゃないですか。最近アプローチシャンクがたまに出てしまい、それが続くととってもへこむんですよ。この日も何発かあったのですが、同伴競技者の先生達から励まされながらなんとか最後までできました。まだまだ満足のいくゴルフができないのですが、それでもまあ優勝は優勝ですから、素直に喜ぶべきなんでしょうけどね」

「先生はここ数年ゴルフにハマっていられるとのことですが、ゴルフのどこに魅力を感じているのですか」
「どこっていうか、単純に楽しいとこですかね。なかなか練習したことが結果につながらないのですが、たまにいいゴルフができると爽快な気分になれますし、スコアの悪い日でも、ナイスショットが数打でるだけでも気分がよくなることもあります。この年齢でラグビーを続けるのはなかなか厳しいのですが、ゴルフは何歳になっても、若者と対等にできる、いやそれ以上の結果をだせるスポーツなんですよ。こんな競技はそんなにはないと思います」

「そうなんですね。先生はラグビーやスキー、登山などスポーツ面でも多趣味と聞いていますが、他の競技とはどんな違いがありますか」
「年齢を問わないことは先ほど答えたとおりですが、パワーや瞬発力、体力など多くのスポーツに必要とされる身体能力が優れている方が有利なことはゴルフにも言えるとは思います。実はそのウエートは他の競技よりは小さく、メンタル面や知力的な面の方がより重要なのだと最近つくづく感じております。その点での能力が不足していることを、日赤時代からご指導をいただいているK先生からよく指摘されるのですが、まったくそのとおりだなと。ただ、少しずつではありますが、ゴルフ脳も鍛えられてはきたようで、ミスショットを繰り返す頻度が減ったのはその結果と考えています」

「そうなんですね。それでは今後のゴルフにおける目標を教えてもらってもいいですか」
「そうですね。まず、ハンディを15ぐらいにはしたいですね。スコアも常時85ぐらいで回れるようにはなりたいですね。そして来年もこの大会で是非優勝を取りたいと考えています。もちろん、今度は自分の納得のいくスコア出をしてですがね」

「そうですか。今日はいろいろとお話いただきありがとうございました」
「いいえ、こちらこそありがとうございました」

 皆さん、今回の江部先生のインタビューいかがでしたでしょうか。先生のゴルフへの熱い思いが伝わってきたと思います。
 私も最近裏庭に練習用ネットを張って頑張っていますが、佑輔先生に負けないようますます練習に励もうと思いました。それではまた、Yusuke Ebeでした。

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今こそ死刑制度廃止を!   福本一朗(長岡保養園)

 地下鉄サリン事件などで計29人の犠牲者と数千人に及ぶ神経ガス被害者を出した一連のオウム真理教事件で、死刑が確定していた元代表の麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚(63)ら7人の死刑が平成30年7月6日に執行された。憲法で保障された宗教の自由に隠れて、「無辜の市民を無差別に殺戮した死刑囚達の非人間的行為は決して許されるものではない、死刑は当然」という日本の世論は一応理解できる。しかし世界の注目するこの事件の結末には、死刑執行に疑問を呈する人々がいることもまた事実である。
 そもそもヨーロッパ諸国では死刑が廃止されており、連邦制を取り各州の独立性が優先する米国や、独裁的な中国・北朝鮮を唯一の例外とすれば、先進国で死刑制度を維持しているのは日本だけである。その他の国々も1997年に最後の死刑を実施した韓国など、多くの国が死刑執行を停止している。日本の刑法では殺人罪以外に16の犯罪で死刑を課することができる。特に外国と通謀して日本国に対し武力を行使させ、又は日本国に対して外国から武力の行使があったときに加担するなど軍事上の利益を与える犯罪である“外患誘致罪(82条)”は、死刑のみを法定刑と規定しており他の選択肢はない。
 アムネスティ・インターナショナルは1977年に「死刑廃止のためのストックホルム宣言」を出し、「死刑は生きる権利の侵害であり、究極的に残虐で非人道的かつ品位を傷つける刑罰である」として死刑のない世界をめざしてきた。この活動は死刑廃止の世界的な潮流につながり、1991年には国連の死刑廃止国際条約(自由権規約第二選択議定書)として結実し、死刑廃止国は世界の2/3以上の140カ国となった。日本は自由権規約自体を批准しているが、第二議定書は未批准であるため先進諸国から非難されている。1)
 これに対して死刑制度賛成派の主張は、(1)被害者とその家族の無念を晴らす、(2)加害者を生かしておくと再犯の可能性がある、(3)刑務所に一生収監するのは税金の無駄使い、(4)死刑には犯罪抑止効果がある、としている。しかし死刑制度廃止派は、(1)死刑は日本国憲法第36条が禁止する「公務員による拷問及び残虐な刑罰」に相当する、(2)再審で無罪となった免田事件(1948発生−1983無罪確定)・在田川事件(1950−1984)・島田事件(1954−1989)・松山事件(1955−1984)に見るごとく、裁判官も人間である以上、冤罪・誤判は避けられないため再審制度も備えられているが、死刑はその再審の道を永遠に閉ざしてしまう、(3)統計上も死刑制度に抑止効果はない、(4)犯人には被害者・遺族に弁償させ生涯罪を償わせるべき、(5)どんな凶悪な犯罪者でも更生の可能性はある(団藤重光最高裁判事)、として即時廃止すべきだと主張している。特に麻原彰晃の死刑執行後、新たに27歳女性信者の殺害事件があったことが暴露されたが、もしそれが事実ならば死刑によって、かえって正義の実現が妨げられたことになると批判されている。
 なお現在日本において、死刑執行を最終判断するのは法務大臣となっている。刑事訴訟法475条第1項は「死刑の執行は、法務大臣の命令による」と定める。この命令は、判決確定の日から6カ月以内にしなければならないが(刑事訴訟法475条第1項)、上訴権回復、再審の請求、非常上告、恩赦の出願・申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は算入されないこととなっている(刑事訴訟法475条第2項但書)。法務大臣が署名押印して執行命令書が作成されると、刑事施設の長に届けられ、5日以内に死刑が執行される(刑事訴訟法476条)。ただ現実には死刑確定から執行まで平均で7年6カ月かかっている。2)
 1948年に日本国憲法下の新刑事訴訟法が制定されて以来、日本において約900人に死刑判決が出されたが、そのうち女性死刑囚は16人にすぎない。死刑執行は絞首によって行う。絞首刑は、首にロープをかけて「受刑者」を落下させ、空中に吊り下げる方式でほとんどが行われ、日本も1873年以来、この方法を採用している。ところがこの方式の絞首刑では、落下直後に受刑者の首が切断され、またはそれに近い状態まで切断される例が世界各国で報告されている。日本でも明治16年7月6日の小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際、「刑台の踏板を外すと均しくおとわの体は首を縊りて、一丈余の高き処よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体の重かりし故か釣り下る機会に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸り、5分間ほどにて全く絶命した」と当時の新聞にその様子が詳細に描かれている。もし死刑執行の際に首が切断されるようなことがあれば、憲法第36条(残虐な刑罰の禁止)に違反した執行であると解釈されるが、それでも最高裁判所によって死刑は残虐ではなく合憲であると判断されている。
 病院の若い女医さんに死刑制度に対する意見を聞いたところ、「人を殺したら死刑になるのは当然」「麻原彰晃のような極悪犯とは同じ空気を吸うのも嫌、即この世から消えて欲しい」「殺されたものの親族の恨みは死をもって晴らさねば」という厳しいものであったが、これは日本人の半数も同じように感じているという調査結果通りであった。しかし反面、「もし貴女が冤罪で死刑を言い渡されたら、それを甘受しますか?」と聞くと、「それは絶対に嫌だ」と言われる。徳川幕府に反抗した名古屋城主徳川宗春は「刑罪はたとい1千万人中1人を誤って刑しても取り返しがつかず、天理に背き国持ちの大恥(「温知政要」1731)」と冤罪を戒め、10数年の治世の間は1件の死刑も行わなかったという。冤罪は誰にも等しく降りかかる可能性がある。自らの裁判官人生を厳しく反省された団藤重光最高裁判事は「オウム真理教事件には死刑を、といったような近視眼的な対症療法では、問題の解決にはならない」「安易に死刑を主張される方は思いやりと人間性を持つべきだ」と主張されるが、これはむしろ我が国の死刑制度の秘密主義が人々に死刑の実態を知らせないことにも起因すると思われる。
 「目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)」という同害報復 lex talionis の思想は、「やられたらやり返す」というものではなく、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」ことにあるという。そうでないと復讐が報復を生んで際限がなくなる。更に同害報復を認めるイスラム法でも被害者遺族には首に縄をかけられた死刑囚が立つ椅子を自ら蹴り外して刑を執行する権利が認められているが、「報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる」と被害者の遺族による免罪も促し、遺族は死刑囚から「血のカネ」と呼ばれる賠償金を受け取る権利が生じる。また儒教でも、漢の高祖が定めた法3章(人を殺す者は死刑、人を傷つけおよび盗む者はそれぞれ処罰する)と死罪を中心に置いているが、同時に皇帝統治者には民衆に対して弾圧を抑制し厳罰を謹んで寛容な政治をする「仁政」が推奨されており、古代の中国では上流階級の犯罪に対して「八議」の制度による死刑減免が認められたことや、皇帝による「恩赦」制度が極めて発達されていた。「不殺生戒」を説く仏教でも、死刑制度を生理的に忌避している。キリスト教でも「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる(ローマ人への手紙12章)」「汝さばくなかれ(マタイによる福音書第7章)」「汝殺すなかれ(モーゼ十戒の第6戒)」と、人の手による私的報復・救済を禁じ、死刑制度に反対している(フランシスコ法王のメッセージ 2015.12.15)。ところで「汝の敵を愛せ」という人類史条画期的な教えを説いたイエスの「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ(マタイによる福音書第5章)」の真意は決して「相手にしたい放題を許し、自分はやられっぱなし」ではなく、掌側が清浄と考えられた時代に奴隷を撃てるのは不浄な裏拳だけであったため、右手の甲で右頬を打った相手が今度左頬を差し出した時には、清浄な右掌で打たなければならなくなるが、それは「奴隷を自分と対等なものとして扱う」ことを要求していることだという。つまり左頬を差し出すことにより、「相手と同じ人間であること」を思い起こさせて、争いを停止させるメッセージがあるという。
 ニュルンベルグ裁判では、ナチスの強制収容所で人間に対する医学的実験や安楽死の執行に関与した医師達に最高で死刑が宣告された。それはナチス・ドイツ当時には合法であった国内法に従って、命じられことを行った医師も、敗戦後の供人類に対する罪僑という事後法で死刑になったのである。その反省から世界医師連盟WMAの最も基本的な宣言であるジュネーブ宣言(1948)では、医師は人間の生命を最大限に尊重しなければならず、その知識を人権の侵害に使用してはならない、ゆえに医師たるものは死刑執行に係わるプロセスに関係すべきではないとされた。
 我が国の死刑台はイギリスの絞首台とほぼ同一のもので、痛みを感じないと言われている。しかしこの絞首刑無痛説はオーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士によると全く誤りである。絞首された者は、ごく例外的な場合を除いて最低でも5〜8秒、長ければ2〜3分間は意識があり、その間に苦痛を感じるという。我が国の刑務医官はその全過程に立ち会い、死刑囚の死亡を確認した後も、法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律179条)の規定により死亡確認後、5分間死体はそのままの状態で置かれる。この様に生命を助命すべき医師が、みすみす人の死を拱手して傍観を余儀なくされる死刑に参加することについては、医師道徳面からも批判が強い。筆者は一介の村医者であるが、「人を殺すなかれ」と命じる国家による殺人であることは否定できない死刑制度に、自らを犠牲にしてでも人命を救わねばならない任務を帯びる医師が協力すること自体が、自己矛盾であり、そのような事態に医師を追い込まないためにも死刑は廃すべきと考える。

〔参考文献〕
1.団藤重光:「死刑廃止論」第6版、有斐閣、2000
2.「日本における死刑」:https://ja.wikipedia.org/wiki/日本における死刑#死刑執行2018.7.18

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蛍の瓦版〜その46   理事 児玉伸子(こしじ医院)

死亡診断
 先月号からの続きです。

4.医師会
 “死因究明等推進計画”に沿って日本医師会は、平成26年に日本警察医会を発展的に解消し、“警察活動に協力する医師の部会”として全国的に組織化し、連絡協議会・学術集会を主催しています。また死体検案に関する研修会を定期的に開催し、一般医師を対象に一日で終了する基礎編があります。さらに上級編は検案業務に従事する機会の多い医師を対象とし、前後期3日間の日程に加え見学実習もある本格的なものです。
 新潟県医師会では、県の医師会報9月号に担当理事である川合千尋先生が詳しく報告されているように、医療安全部と平成28年に設置された医療安全対策委員会が対応しています。その部会では、警察活動に関する事項だけではなく、医療事故調査制度に係ることも取り扱っています。

5.警察
 病死等の自然死以外の異状死を認めた場合は、24時間以内に警察に届けを出さなければなりません。平成28年度新潟県の警察による死体の取り扱い数は約3千3百体でした。死因究明等推進計画の重点政策にも掲げられているように、警察でも組織内に検視官という職務を設け犯罪の見逃し防止に務めています。
 検視官には、10年以上の刑事としての経験と、警視や警部以上の肩書き及び法医学の知識が必要です。検視官の臨場率は年々上昇し、平成19年には12%だったものが、現在は80%近くになっています。遺体の検案は医師の業務ですが、検視官は検案業務を補助し、犯罪が疑われる場合には捜査に係わっていきます。
 現在新潟県内には34箇所の警察署があり、それぞれの警察署が1〜3人の医師と嘱託医としての契約を結んでおり、警察医と呼ばれる方々です。業務は、留置人の健康管理と異状死体の検案およびその他署長の認める業務(産業医等)があります。県医師会報9月号に郡市医師会へのアンケートの結果がまとめられていますが、希望者は少なく多くは個人の善意で何とか成り立っているのが現状です。

6.死亡診断書記入マニュアル
 厚生労働省では、毎年3月に改訂版の死亡診断書記入マニュアルを出し少しずつ変化しています。平成27年版では、警察に届け出るべき異状死の定義から、“日本法医学会の定めたガイドライン”の記載が削除されました。これは平成16年の最高裁の判例に拠るところで、以降は医師法21条がそのまま記されています。
 また平成27年版では、平成28年1月から死因の分類は国際疾病分類第10回改定(ICD−10)に準拠することが明記され、28年度の統計から適用されています(人口動態統計は平成29年度から適用)。
 平成30年版は厚労省のホームページから簡単に確認できますが、最近のものでは死亡診断書と死体検案書の対象について細かく解説してあります。死体検案書を作成した場合の検案料についての言及(18頁)や原死因の決め方についての記載(19頁)もあり、一度目を通されては如何でしょうか。

7.情報通信機器(ICT)を利用した死亡診断
 今年3月の診療報酬改定では、初めて情報通信機器(ICT)を利用した診療に点数が認められましたが、平成29年9月にはICTを利用した死亡診断も条件付で認められています。
 死亡診断は本来対面診療によって診断すべきものですが、正当な理由のため医師の立会いまでに12時間以上を必要とする例に限り適応されます。この他に要件として疾病による早晩の死亡が予測されており、本人家族の事前の了承がある等の要項を満たすものに限られます。急変や事故の疑いのあるものは適応外です。
 以上の条件を満たす場合に、研修を受けた看護師による死亡確認を、ICTを用いて医師が追認し、看護師が死亡診断書を代書します。

8.人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン
 平成19年版が今回かなり改定されて厚みも増して30年版となりました。最新の診療報酬点数表の、在宅医療と訪問看護におけるターミナルケア加算の要項にもガイドラインの参照が明記されています。30年版では、病院だけではなく在宅や介護施設における看取りも想定し、多職種による医療・ケア支援チームとしての関わりが求められています。また本人の意思を推定しうる者として、家族等の信頼できる者とありその対象者を拡大しています。また本人の意思は変化するものであり、話し合いを繰り返しその内容を記録することの重要性も強調されています。
 このガイドラインも厚労省のホームページから簡単に確認でき、表紙も含め10頁です。関係のある方はご一読をお勧めします。

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巻末エッセイ〜人を食う熊 熊を食う人 江部達夫(江部医院)

 平成28年の初夏、秋田県で人食い熊騒動が起こった。日本には北海道にヒグマ、本州、四国、九州にツキノワグマの二種が棲息している。ヒグマは大型の肉食性のクマで、家畜が標的に、時には人も餌として襲われていたことがある。ツキノワグマは雑食性、カモシカも捕食されているが、人は危害を加えられても食べられることはなかった。秋田県での熊騒動、一カ月足らずでクマの好物でもあるジダケを採りに入った人が4人食われてしまった。またぎ達の努力で1頭の熊が捕らえられ、その腹から人の骨が見つかり、人食い熊と認定、その後騒動は治まった。平成29年、30年の初夏には熊騒動は起きていない。

 ツキノワグマが人を補食する事例が起きたことは、今後また起こり得るであろう。またぎが減り、熊が増えている。空腹の熊に出会った時には食われてしまう恐れがあるだろう。

 私の第二の故里である岩船郡関川村の大石地区、飯豊連峰の最北端の杁差(いぶりさし)岳より流れ出す大石川の流域にある集落、昭和の時代には熊狩りのまたぎが7、8人はおり、毎年春には2、3頭の熊を仕留めていた。

 平成になるとまたぎは高齢化、後継者もなく、一人減り、二人減りして、最後のまたぎとなったのは私の山仲間、その彼も7年前に脊髄変性疾患で歩行困難に。20才からまたぎ仲間に入り、40年間で射止めた熊は50頭になる。射止めた熊は余す所なく利用するのがまたぎの流儀、皮は敷物、肉や内臓は食用に。春先、まだ餌も取っていない熊の胆嚢は100万円からの値がつくこともある。私の好物は熊汁、それも骨で出汁を取った汁に、渓水で洗った腸管を切り刻んで煮込み、大根を入れ、酒と醤油で味付けした汁だ。大鍋一杯に造り、地区の人達が多勢食べに来る。熊肉は猟に参加した人達に平等に分けられる。肉は冷蔵庫で10日間程寝かせておくと軟らかくおいしくなる。この肉での汁も勿論うまい。

 私が関川村の人達と診療活動で知り合ってから5年後のこと。昭和44年の春、大石地区で100キロの熊が捕らえられたとの知らせがあり、その解体を見に出かけた。現場に着いた時には解体はほぼ終わっていたが、手足は、手、足関節で切断され皮についていた。このまま鞣(なめ)し業者に行くのだと。学生時代金沢に出かけた折、屋台のおでん屋で豚足を食べたことを思い出し、熊の手足も旨いのではないかと、ナイフを借りて手足を毛皮に爪を残して切り出した。手足で4キロもあった。その手足、大鍋でネギとニンニクを入れ半日煮込み、ジャガイモ、ニンジン、タマネギを入れ、酒と醤油で味付けした和風シチューに仕立てた。その晩、ハンター2人を含む山仲間が8人集まり試食会。旨い旨いと、食卓は解剖学で学んだ手根骨や指骨で山となった。以来、大石地区で熊が捕れると、手足は私の所に届くようになった。昭和47年中国との国交が回復してから、中国の食文化がどんどん紹介されるようになった。中に、中国の宮廷料理には熊の手の料理があった。熊の右手を使い、最高級の料理にランクされていると。大石地区にまたぎがいなくなってから、熊の手足は手に入らなくなった。

 日本では熊や鹿、猪など野生動物は有害鳥獣駆除法で100万頭は捕殺されている。日本にはジビエ料理は未だ普及していないので、捕殺されて野生動物の多くは焼却処分されている。またぎの精神が欲しいものだが、「日本には牛や豚など旨い肉がたくさんあるからね。」

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