長岡市医師会たより No.465 2018.12


もくじ

 表紙 「暮れ行く浅間」 丸岡稔(丸岡医院)
 「会員旅行記(後編)」 田中普(三島病院)
 「英語はおもしろい〜その44-2」 須藤寛人(長岡西病院)
 「蛍のかわら版〜その47」 理事:児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜ナスカの地上絵」 富樫賢一(悠遊健康村病院)



「暮れ行く浅間」  丸岡 稔(丸岡医院)


会員旅行記 渋温泉「歴史の宿 金具屋」の旅(前編)

〜「千と千尋の神隠し」の舞台を訪ねて〜 田中普(三島病院)

 みなさん、こんにちは。前回掲載させていただいた医師会旅行記の続きです。前回は要領が悪く、文章が長くなって文字数オーバーしてしまいました。今回は気を付けます。
 さて今回は、目的地に到着し、一風呂浴びて、金具屋という歴史的な旅館を見学した後の続きです。
 旅館の温泉や文化財を見学して、のんびり過ごしたあと、同室のNG先生、AR先生と一緒に夕食会場に到着しました。すでに皆さん勢揃い。時間厳守、さすがです。OT先生とKB先生の同級生コンビが温泉街の射的をやってきたという話を皮切りに話が弾む。会長の音頭で乾杯。食事はとても美味しかったです。バスの中でパクパクと肉やらチーズやらを食べたのを後悔。量が半端ない。結局、食べきれずに残すはめに。もったいない。お酒のほうはビールから開始。お隣の席のNG先生のお勧めで一緒にシャンパンを飲み始める。日本酒に手を出したところで私は瞑想を開始。バスの中で飲んだお酒と温泉との相乗効果で撃沈です。ふと目を開けたら、お酒を配っている宿のお姉さんに「おはようございます」と言われる始末。がんばって目を覚まそうとしたけど、オレキシンが枯渇したように覚醒状態を維持することができず。自分の感覚では長い瞬目を2回しただけなのに、いつの間にか宴会が終わっていました。やらかしました。長岡ではいつも気を張っているお偉い先生方が、長岡を離れ、ついつい気が緩み、宴会で乱れていたといったエピソードを、面白おかしく詳細に報告するのが私の役目なのに。寝ていたなんて。読者の期待に応えられず申し訳ない。宴会場を出る時には、皆さん紳士的な雰囲気でしたので、何をしていたのか私にはとんと見当もつきません。
 旅館の宴会場を出ると、旅館から100mほど離れたスナックに移動。浴衣で雪駄というザ・温泉地というスタイルでぞろぞろ。このあたりから私は復活。私はハイボールを注文。お酒がそろうと再び乾杯。さっそくAK先生がマイウェイを唄う。さすが歌い慣れている。MR先生が新潟ブルース。星さんの指名で私も一曲披露。写真を撮ってもらう。ハイボール一杯でクラクラしてくる。この調子で飲んでいたら明日は絶対起きられない。外湯めぐりでもしなければ旅行記が書けない。そう思った私は、二次会が盛り上がってきたところで、外湯巡りの旅に出発しました。
 渋温泉の「外湯」は日帰り入浴ができないシステムです。宿泊客が外湯を利用するには、旅館で貸し出される鍵とタオルを持って、外湯に行き、ドアの鍵を開けて入浴することになっています。入浴時間は6時から22時まで。外湯は全部で9つ。全て加水なしの100%かけ流し。外湯の一つは故障していたのか入れなかったが、ほかの外湯には全て入ることができた。外湯はそれぞれ源泉や泉質が異なるようだが、共通して熱い。それもかなり熱い。ひたすら熱いです。源泉が50℃とか70℃だとか。タンパク質が凝固するのは60℃前後だったかなーと頭をよぎる。かけ流しのままでは事件になるので、水道の水でぬるくして入るのが基本らしい。私が入ったのは夜の最終の時間に近かったので、他の人がひたすらぬるくしてくれたお湯に入れたから良かった。それでも一瞬肩までつかるのが精いっぱいなお風呂もあった。外湯巡りをしている他の旅行者と湯船の前で立ち尽くし、お湯がぬるくなるのを待ちながら、交代で恐る恐る足を入れて温度を確認。「熱すぎるよねー」と言いながら交流するのもほのぼのしていい感じ。湯船に漬かっているより着替える時間のほうが長いくらいだが、50分くらいで全ての外湯を制覇しました。朝一で入った先生もいたようですが、まだ水で埋まってないのでさぞかし熱かったことでしょう。
 お酒と温泉の力でそのまま寝たようです。星さんに「あと15分で朝食です」と言われて覚醒し、2日目の朝を迎えた。朝食後は気ままに温泉街を散歩。道は狭く、両側に土産物屋やスマートボール、射的屋が並ぶ。坂を下って川を渡る。橋の中央から上流を眺めると狭い谷の間に川を挟んでびっしりと建物がたつ。土地が狭い。なるほど、木造にもかかわらず高層化する必要があったのだと一人で納得。情緒がある温泉街です。渋湯神社に参拝したら猿の群れと遭遇してびっくり。あわてて携帯を取り出し写真を撮る。交尾を始めた奴らもいた。生で見るのは初めて。少し近づいたら猿が「キー!」と迫ってきた。すごくびっくりして、慌てて逃げた。近くを歩いていたお婆さんに、「ここの猿は襲ってくるから近づいたらダメだよ。」と言われて反省。そういえばその日の朝、金具屋のお風呂に猿が落ちたと後から聞きました。帰り道、無料の卓球場があり、KS先生と一戦。
 10時に仲居さんに見送られ旅館を出た。土産物屋さん、フルーツランドで爆買いした後、コスモス園は台風接近のためキャンセルし、昨年同様にサンクゼールワイナリーに寄ることになった。「確か去年ブランデーの機械を入れたと言ってたから、今年どうなったかな」とKM先生が抜群の記憶力。ブランデー飲めるかなと期待していたら、「ブランデーはあと数年寝かしてから販売です。」と説明され、がっかり。ジャムを購入。
 ワイナリーの後は眺めの良い場所でランチ。再びバスの中で飲んで、寝て、医師会館に無事に帰着。当初心配していた台風の影響もほとんどなく旅行を終えることができました。
 以上、2018年の医師会旅行の報告でした。また来年もよろしくお願いします。

目次に戻る


英語はおもしろい〜その44-2 須藤寛人(長岡西病院)

 サマリア地方とは「パレスチナのヨルダン川西地区北部一帯の呼称である」が、Wikipedia によれば「サマリア」の由来は大昔のこの辺の地主「ショメル」の名前に起源が求められるとのこと。この地方は、イスラエル国のおよそ60%が荒野や砂漠である中、大変肥沃な土地であり、穀類やオリーブ、ぶどうが実り、また東西南北の街道が通り交易も盛んで経済的には富んでいた。このことは一方では内戦や民族戦争の時は侵略の対象の土地となった(山本七平著聖書の旅)。
 サマリアは北イスラエル王国の時代には中心的な都市となりこの地域やもっと広く北イスラエル王国を指すようになった。ところが、紀元前722年北イスラエル王国がアッシリア帝国(メソポタミアの北西部に興った帝国)に滅ぼされ、アッシリア捕囚が起こると、替わってアッシリアからの移住者が入植した。捕囚の対象は上流・中流の市民で下層の人々が残ったとのことであった。紀元前586年のバビロン捕囚で南ユダ王国も滅亡した。
 「サマリア人(さまりあじん、さまりあびと)とは時代によって変わるが、主にサマリア地方の住民、特にイスラエル人とアッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた子孫、およびサマリア教徒のことをいう」とウィキペディア上まとめられていた。
 サマリア教はイエスの時代ヤハウェを唯一神とし、偶像崇拝せず、モーセを最も偉大な予言者とし、割礼や安息日といったユダヤ教と同じ風習を持っていたが、相違点として聖地はエルサレムではなくサマリアのゲリムジ山であったこと、モーセの五書(トーラ)は聖典であったが他のユダヤ王国起源の書は聖典に加えなかった。ユダヤ教徒の一派はトーラにない宗教規定を守るかどうかでサマリア人と考えが異なると非難していた。
 イエスの時代、イスラエルは北のガリラヤ地方、中央のマサマリア地方そしてエルサレムを含む南のユダヤ地方に三大別できるが、「ガリラヤ〜ユダヤを旅する人の中で、宗教上の汚れを嫌うユダヤ人はサマリア人との接触を避けるためわざわざヨルダン川を渡って川の東北側の道を旅した」という一文に目が止まった((「英語で聖書を読もう」より引用)。「律法の専門家」というユダヤの宗教人はサマリア人を異教徒と見なしてよいほど嫌っていたということが推測できる。
 イエスが生まれたところはエルサレムに隣接する町ベツレヘムであるが、育ったところはナザレであった。ナザレはガリラヤ地方の中央部の山地にある小さな村であったが、「当時は地図にも載っていないところでした」とのガイドの説明であった。ガリラヤ湖周辺はイエスが布教を繰り返した地域で、イエスの弟子もこの土地の出身者が多かった。
 私は今回初めて聖書のこの部分を熟読してみた。そうすると「ルカによる福音書」第10章のこのイエスの逸話の前に重要な導入部分があることを知った。その箇所(25〜28節)を引用すると;

 イエスの説法を聴いたある律法の専門家が立ち上がり 「先生、私は何をすれば永遠の命をつなげられるのでしょうか?」。

 イエスは彼に言った 「律法には何と書かれているか、あなたはどう読んでいるか?」。

 彼は答えた 「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛さなければならない』、そして隣人を自分自身のように愛さなければならない」。

 イエスは彼に言った 「正しい、それを行いなさい、そうすれば生き続けられます」。

 すると彼は自分を弁護しようと思って、「私の隣人とは誰のことですか」と意地悪な質問をした。

 ここからあのサマリア人の逸話が続くのであった。三浦綾子の「新約聖書入門」には、「質問した律法学者の仲間である祭司やレビ人(神殿奉仕者)が見て見ぬふりをして冷淡に通りすぎて行き、自分たちが差別し蔑んでいたサマリア人が親切にしたという話であった。イエスは当時の信仰のあり方がただ形式的に流れ、律法に束縛されあまりにも隣人に対して冷淡であった憤りを伝えたかったのであろう」と解説していた。Christianity の根幹をなす Compassion(同情心)や隣人愛の大切さを訴える有名な逸話(anecdotal story)といえよう。
 後日 Google 検索すると、私達の見た高速道路脇の屋根は2009年にできた"Museum of the Good Samaritan"という施設であることが分かった。高速道路の反対側に古代イスラエルの神殿跡があり、そこから出たモザイクタイルの絵がたくさん展示されていることが示されている。また現在のサマリア人はおよそ700人に減少しているが、ユダヤ教の一派として正式に認められているとのことであった。インターネット上、ユダヤ人のキッパとは全く違う背の高い茶色の丸い帽子をかぶりゲリムジ山頂で祈っている写真が載っていた。今はインターネットで何でも調べられる時代になった。実に良い時代になったものである。
 おっと、忘れるところであった。帰りのトルコ航空の機内でアナウンスがあった。トルコ語のなかで「メデスン」に近い一語だけが耳に留まった。しばーらくして英語でのアナウンスそして日本語と続いた。「機内でご気分を悪くされている方がおります。どなたかご援助いただける方がおりましたら、キャビンアテンダントまでお声をかけてください」というようなものであった。そこには Dr. とか Nurse とか医療関係者などという言葉は全く使われていなかった。「個人情報保護に厳しい時代になったためかな」と考えていると、機内の中央部トイレの脇のCA用の立てかけ椅子にこちら向きに座っている40歳代の女性が紙袋を持って空吐きしているのが見えた。5分経過しても駆けつける人は誰もいなかった。6分して私は席を立っていた。「Dr.Sudo と申します。どうですか、吐き気は少し収まったようですね……」、「吐くだけ吐けば楽になりますね……」、話を交わしている内に、重症感を感じられなかったので「もう少しすれば良くなると思いますよ……」。まもなくは彼女は自分の席に戻って行った。聖書の中のそのサマリア人が宿屋に置いてきた「2デナリ」は当時の宿泊料の24日分に当たるとのこと(三浦綾子著)、the Good Samaritan に比べれば the Good Japanese というにはおこがましい蛇足話を付け加えさせてもらった。(続く)

 目次に戻る


蛍の瓦版〜その47   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 医科歯科連携 睡眠時無呼吸症候群の治療

 平成16年から保険診療でも口腔装置(マウスピース)の作成が、睡眠時無呼吸症候群の治療として認められていたことはご存知でしょうか? 今回の診療報酬改定では、歯科におけるマウスピース作成後の効果判定のために、医科において行った検査に対しても点数が認められました。
 閉塞性の呼吸障害に対して、以前より口腔の内外に様々な装置を装用して気道を確保する工夫がされてきました。そのうち保険診療では、睡眠時無呼吸症候群の治療としてモノブロック型のマウスピース作成が認められています。マウスピースの装用によって下顎を前方に引き出した位置で固定することで、舌と軟口蓋も前方に引き出され舌根の沈下を防ぎます。
 本法は上気道の閉塞による睡眠時無呼吸症候群が良い適応で、高度な鼻閉や不随意運動のある方や、多数歯欠損等の口腔内状況の不良な方は適応外です。一年間の治療継続率は72%との報告もあり、睡眠時無呼吸症候群の治療に広く用いられている経鼻的持続陽圧呼吸療法(CPAP)と比べても遜色ありません。また保険診療上の本人負担は、CPAPに比べて1/5程度で済むことも患者さんの負担減に繋がります。
 本法の対象は軽症から重症例まで幅広く、CPAPとも相対するものではなく、外泊時だけ使用する等の交代併用や同時併用も可能です。特に重症例では、CPAPにマウスピースを併用することで、気道が開きCPAPの圧を低く設定することも可能となり、より快適に使用できるようになります。
 睡眠時無呼吸症候群の患者さんの中でもCPAPの使用に抵抗のある方や使用継続できない方、また下顎が小さく後方に下がり気味で上気道の閉塞が疑われる方等、一度お近くの歯科の先生にご相談されてはいかがでしょうか? なお、日本歯科大学新潟病院 口腔外科教授・睡眠歯科センター長の河野正巳先生が睡眠時無呼吸症候群の治療に熱心に取り組まれています。

 目次に戻る


巻末エッセイ〜ナスカの地上絵 富樫賢一(悠遊健康村病院)

 現在のところアフリカのチャドで発見された約650万年前の化石がヒト属最古と言われている。ヒト属はその後約180万年前まではアフリカに留まり、その後世界各地に広がったが、いつ頃ペルーにたどり着いたかは不明。アンデス文明は紀元前1800年頃現れ、ナスカ文化は出土土器から紀元前後から800年頃と同定されている。ただし同定方法がないためナスカの地上絵がどの時期に描かれたかは依然不明のまま。

 約9時間の飛行と時差マイナス14時間で疲労困憊。そして翌日は午前3時起き。まだ外は真暗。3時45分バス出発。眼が覚め切らない旅人を乗せ、バスは北米まで繋がっているパンアメリカンハイウェイを南へ南へとひた走る。ナスカまでは約4時間。それなのに何故かこんなに早い出発。セルジオは言う。セスナの予約時間に間に合わせるためだと。

 リマは人口約890万人の大都会、不動産も日本並みに高い。だが15分ばかりで町並みは消え道路の両側は砂地となり、右側には海、左側には丘が果てしなく続く。そこには掘っ立て小屋のようなものや、雑な塀で区切られた箇所が散在している。勝手に立てた物だと言う。1年目は木で作り2年目、3年目と立派にしていくらしい。5年後には自分の物。勿論無料、政府公認。大きく囲んでいるのはマフィアの物だという。あなたもどうですかとセルジオ。

 セルジオは日系4世。祖先は移民でこの辺に上陸して暮らし始めたのだと言う。過酷な労働に耐え徐々に根付いた折も折、第二次世界大戦が勃発。ペルーは連合国側だったため日本人を収容し始めた。セルジオの祖先は山奥に逃げ、そこで農業をしながら生計を立てた。村人とも交流があり皆親切にしてくれたと言う。今ではペルーは親日国。大手企業には日系人が係わっているものも多い。

 パラカス(ピスコ)、イカを経由しナスカに。その頃には外はすっかり明るくなっていた。バスの中で地上絵が描かれた紙が配られた。有名なハチドリを始めとした13種の絵。予習しておかないとセスナから見下ろしても何がなんだか分らないと言う。これは崖の所だとか、これは道路の近くだとか、バスの中を歩き回って熱心に説明する。本当に見えるのだろうかと不安になる。

 早起きの甲斐あって我々が一番。飛行場の中の待合小屋に案内される。突然の土砂降り。勿論飛行機は飛ばない。客は1時間程うろうろ。スタッフは誰も心配していない。やがて小雨になるとどうぞと言って傘を貸してくれた。こちらは雨でも向こうは大丈夫だと言う。

 30分位の飛行で目的地に到着。心配していた通り曇っていて何も見えない。雲の中をぐるぐる旋廻、そして帰還。これでは何をしに来たのか分からない。少し待って2回目の離陸。今度は雲もなく良く見えた。副操縦士が片言の日本語で「これがハチドリです」とか言う。セスナは目的の絵に向かって下降しながら旋廻を右に左にと繰り返す。その時首筋に冷たい物が。雨漏り?ではなく、後部座席の人の吐物。「こんなことは初めてです」と。酔ったらしい。

 着陸態勢に入ると副操縦士が操縦桿を握った。するとセスナが左右に揺れだした。たどたどしいのは日本語だけじゃない。それでも何とか着陸。セルジオに言われていたので機長にチップを渡すと、喜んでセスナの前で一緒に写真を撮ろうと言う。ペルー人は陽気だ。飛行機は吐物でかなり汚れたようだったが。私の服はホテルで洗濯に出した。費用は約千円。吐物の主が払ってくれた。

 目次に戻る