長岡市医師会たより No.466 2019.1


もくじ

 表紙 「1月3日 忍野村にて」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新春を読む」 
 「百人一首を俳句に〜その四」 江部達夫(江部医院)
 「巻末エッセイ〜甘い甘いミルクの思い出」 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)



「1月3日 忍野村にて」  丸岡 稔(丸岡医院)


新春を詠む

平成の 余命を生きて 年迎ふ  荒井紫江(奥弘)

百八の鐘 煩悩を断ち切れず  江部達夫

新雪を踏む音楽し 犬散歩  いちろう(一橋一郎)

長椅子の辺り 何やら暖かし  石川 忍

大泣きの子にかき消さる 獅子囃子  郡司哲己

 

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百人一首を俳句に〜その三   江部達夫(江部医院)

61 古都奈良の八重桜今九重に

 いにしへの奈良の都の八重桜(やえざくら) けふ九重ににほひぬるかな 伊勢大輔(いせのたい)

 その昔栄えていた奈良の都で咲いていた八重桜が、今この九重(宮中)で色美しく咲いていることですよ。

 伊勢大輔は平安中期の女流歌人、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ:49の詠み人)の孫、父輔親(すけちか)は伊勢神宮の祭主であったので伊勢大輔と呼ばれた。一条天皇中宮彰子に仕えた。

62 夜明け前鳥鳴きまねるも逢いませじ

 夜をこめて鳥の空鳴(そらね)ははかるとも よに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ 清少納言(せいしょうなごん)

 夜のあけないうちに、鶏の鳴き声をまねて私をだまそうとしても、あの函谷関(かんこくかん)ならばともかく、この逢坂の関ではけっして許しませんよ。

 この歌は藤原行成(ゆきなり:50の詠み人、義孝の息子)が恋心を寄せて来たのを断った折のもの。
 清少納言は平安中期の女流文学者。清原元輔(42の詠み人)の娘で一条天皇の中宮定子(ていし)に仕え、この頃の随筆「枕草子」は有名。宮廷サロンの花形であった。

63 今はただあきらめ告げたしわが口で

 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちま)

 今となってはもうあきらめてしまおうということを、人づてではなく、お逢いして直接自分でお話する方法があってほしいものだ。

 道雅は儀同三司母(54の詠み人)の孫、内大臣藤原伊周(これちか)の子、伊周は藤原道長との権力闘争に破れ、太宰権師に左遷、一年後大赦で京へ。後に儀同三司に。道雅も従三位左京大夫にとどまる。栄達はあきらめ、風流人となる。

64 朝霧の晴れる宇治川網代木(あじろぎ)が

 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ) 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)

 明け方、ほのぼのと明るくなる頃、宇治川の川霧がとぎれとぎれになると、川瀬の網代木があちこちに現れてくることよ。

 網代木は網代(冬、川の瀬に竹や木を編んだものを網を引くように立て、その端に簀(す)を当て魚を取る仕掛)に用いる杭(くい)。網代は、主に氷魚(ひうお:鮎の子)を取るために使用。
 定頼は大納言藤原公任(きんとう:55の詠み人)の長男、美男で和歌や書道に秀で、小式部内侍(60の詠み人)や大弐三位(58の詠み人)と親交があった。正二位権中納言となる。

65 恨み泣き恋に朽ちる名惜しかりし

 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ 相模(さがみ)

 恨み嘆き悲しんで、涙にぬれてかわくひまもなく朽ちてしまう袖も口惜しいが、この恋のため朽ちてしまうわが名の方が惜しいことですよ。

 相模は平安中期の女流歌人、多くの歌合に出詠していた。父は源頼光(よりみつ:大江山の酒呑童子征伐伝説の人)とも言われている。相模守大江公資きんよりの妻となり、相模と呼ばれた。

66 山桜あわれむ心共に知る

 もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそ)

 おたがいにしみじみなつかしく思ってくれ山桜よ、花であるおまえのほかに私の心を知る人はいないのだ。

 行尊は三条天皇(68の詠み人)の曾孫で、父は参議源基平(もとひら)、一二歳で出家、熊野大峰山などで修行。一一二三年に比叡山延暦寺の天台座主に。歌人としても有名、書家でもあった。

67 春の夜の手枕(たまくら)浮名立つは惜し

 春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ 周防内侍(すおうないし)

 短い春の夢ほどのたわむれの手枕に、かいもなく浮名が立つのはなんとも口惜しいことですよ。

 周防内侍は平安後期の女流歌人、多くの歌合に出詠。父は周防平棟仲(たいらのむねなか)、父の官名から周防内侍と。
 後冷泉、後三条、白川、堀河天皇と四代に仕えた女官。家集「周防内侍集」がある。

68 ついぞ生き恋しく思う夜半の月

 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半(よは)の月かな 三条院(さんじょういん)

 心ならずもこのつらい世に生きながらえていたら、必ず恋しく思い出されるにちがいない、この美しい夜ふけの月よ。

 三条院は冷泉(れいぜい)天皇の第二皇子、三六歳で六七代の天皇となるも、在五年で藤原道長により廃位に。まもなく失明し、廃位一年後には失意のうちに崩御す。

69 龍田川三室(たつたがわみむろ)の山風紅く染め

 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけりにしき 能因法師(のういんほう)

 嵐のような山風が吹き下し、三室の山のもみぢ葉は龍田川に舞い落ち、川面は錦織りなすようだった。

 能因法師は平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人、俗名は橘永ィ(たちばなのながやす)、三〇歳頃出家し融因、のち能因に。
 藤原長能(ながよし)に師事して和歌を習うが、これが歌道師承の先例に。家集に「能因集」がある。

70 さびしさに宿出(い)で見る秋暮れ同じ

 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮れ 良暹法師(りょうせんほうし)

 さびしさのあまり庵(いおり)を出てあたりを眺めて見ると、どこも同じ秋の夕暮れであるよ。

 良暹は平安中期の歌人、比叡山の僧で、祇園別当となる。歌合には度々出詠していた。

71 田は日暮れ稲葉吹く風まろやにも

 夕されば門田(かどだ)の稲葉(いなば)おとずれて 蘆(あし)のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信(だいなごんつねのぶ)

 夕方になると、門の前の田の稲葉をさやさやと音を立て訪ねて来て、蘆ぶきの粗末な家に、秋風が吹きこんで来ることよ。

 まろやは丸屋、茅や葦などでふいたそまつな家。
 経信は平安後期の貴族で歌人。正二位大納言となり、桂の里に別荘があり、桂の大納言と呼ばれた。博学多才で、音楽、詩、歌に優れていた。家集「大納言経信集」がある。

72 あだ波のあなたに泣き寝したくなし

 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)

 うわさに聞く高師の浜のいたずらに立つ波をかけて袖を濡らさないように、浮き名高いあなたには心をかけませんよ。涙で袖を濡らすことになるから。

 紀伊は平安後期の女流歌人、平経方(つねかた)の娘。夫は紀伊守藤原重経(しげつね)。後朱雀天皇の第一皇女祐子内親王に仕えた。

73 峰の桜咲きて霞よ立たずおれ

 高砂(たかさご)の尾上(おのへ)の桜咲きにけり 外山の霞(かすみ)立たずもあらなむ 権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)

 遠くの高い山の桜が咲いたよ。里近い山の霞よ、どうか立たないでほしい。

 大江匡房は平安後期の貴族で、神童とも言われた学者であった。曾母は赤染衛門(39の歌人)、正二位権中納言となる。

74 冷めた人さらに冷めよと祈らぬに

 憂(う)かりける人を初瀬(はつせ)の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)

 私に冷たかった人をなびくように初瀬の観音様に祈りこそしたが、初瀬の山おろしよ、冷たさがはげしくなれとは祈らなかったのに。

 初瀬は奈良県桜井市初瀬町で、観音信仰で名高い長谷寺がある。
 源俊頼は平安後期の歌人。白河法皇の院宣で「金葉集」の撰者となる。従四位上木工頭(もくのかみ)で退官。

75 約束を頼みに今年の秋も過ぎ

 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊(ふじわらのもとよし)

 約束して下さった時の「なほ頼めしめぢが原のさせも草……」(釈教歌)という露のようなお言葉を命としていましたが、ああ今年の秋も過ぎ去っていくようです。

(昔から裏口があったようで、息子の職に就く願いがかなわなかったことを嘆いている歌。)
 基俊は平安後期の歌人で歌学者。万葉集に訓点ををつけた一人。多くの歌合に出詠、判者となった。院政期の歌壇の指導的立場にあった。

76 大海に出で見る白波雲に見ゆ

 わたの原漕(こ)ぎ出(い)でて見ればひさかたの 雲居(くもゐ)にまがふ沖の白波 法性寺入道前関白太政大臣(ほうじょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)

 広々とした海を舟で漕ぎ出して見ると、雲と見まがうばかりに沖の白波が立っているよ。

 法性寺入道は藤原忠道(ただみち)のこと。鳥羽、崇徳、近衛、後白川の四代の天皇に仕え、従一位までなった。
 和歌、漢詩、書道に秀でていた。

77 別れてもいつかまた逢う渓の水

 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思う 崇徳院(すとくいん)

 川の瀬の流れは早く、岩にせきとめられて二つに別れ流れても、また一つになるように、今のあなたと別れても後にまた必ず逢おうと思うよ。

 崇徳院は平安後期の天皇、鳥羽天皇の第一皇子。五歳で即位し、第七五代天皇に、在位十八年で譲位させられ、藤原頼長と謀反し保元の乱を起こすも破れて、讃岐に流され、その地で没す(一一六四年)。

78 淡路より千鳥に寝覚む須磨の守

 淡路島かよふ千鳥(ちどり)の鳴く声に 幾夜寝覚(いくよねざ)めぬ須磨の関守 源兼昌(みなもとのかねまさ)

 淡路島から通ってくる千鳥の鳴き声のために、いく夜も目を覚ましたことか須磨の関守は。

 須磨の関は神戸市須磨区の海岸にあった関所。
 源兼昌は平安後期の歌人。従五位下皇宮少進となった後出家す。歌人としての名声は高くなかったと。

79 秋風に浮かぶ雲間の月は澄み

 秋風にたななびく雲の絶え間より もれ出(い)づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)

 秋風にたなびいている雲の切れ間から、もれ出てくる月の光の澄みきっていることよ。

 藤原顕輔は平安末期の歌人、顕季(あきすえ:平安後期の歌人、家が六条烏丸にあり、歌学六条家の始祖と仰がれる。)の三男で、清輔(きよすけ:84の詠み人)の父。越後守など歴任後、正三位左京大夫となる。六条家流の歌道を起こす。
 崇徳院の院宣により「詞花集」を撰進した。家集「顕輔集」がある。

80 心変り怖れ黒髪今朝は乱れ

 長からむ心を知らず黒髪(くろかみ)の 乱れて今朝は物をこそ思へ 待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

 あなたのお心が末長く変わらないかどうかははかりしれない。黒髪が乱れているように今朝は私の心も乱れ、物思いに沈んでいます。

堀河は平安末期の女流歌人。鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子に仕え、堀しょうし河と呼ばれた。後に出家す。

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巻末エッセイ〜甘い甘いミルクの思い出絵 磯部賢諭(キャッツこどもクリニック)

 昔といっても最近の話だが、正月は遠出ができないかわりにファミリー浴場によく行きました。家族でいってお風呂に入って、食事をしたり、マッサージを受けたりする公衆浴場です。正月そうそう愚痴をこぼしてもいいですか?

 たまに「ゆらいや」みたいな公衆浴場に行くのですが、困ったことがあります。温泉とかで体を洗っていると子供が寄ってきて、指を刺して笑うのです。キャッキャ笑うのです。「キャッツの先生だ〜」みたいに笑われます。いいような悪いような、良寛さんみたいに童心にもどることはできません。良寛さんだったら、一緒に背中の流しあいっこでもするのでしょう。しかし、自分は年甲斐もなく恥ずかしいだけです。そそくさと体を流し、風呂場をでるだけです。風呂をでて休憩室で休憩していると、時には元気なママさんが「磯部センセ〜」などと寄ってきます。右手でおでこを隠し、左手で鼻と口を隠し、目だけで寄ってきます。「センセ〜、化粧してないから〜、見ないで〜」と寄ってきます。(じゃあ、来るなよ。)目だけじゃ、誰だかわかりません。(分かっても誰のママだかわかりません。)オフタイムなのでそってしておいてください。「ああ、どうもどうも」なんて言いながら逃げます。喉が渇いたふりをしてドリンクコーナーに逃げます。風呂のあとは牛乳でしょう。紙パックの牛乳よりガラス瓶の牛乳の奴に決まっています。瓶の牛乳はなんで紙パックよりおいしいのでしょうか? ガラスは液体って本当ですか? 勢いよく飲んだので胸がキューンとします。この年では恋煩いでもないし、心筋梗塞かも知れません。おいしいって思えるのって生きてる証拠ですよね。そんな感覚を大切にしたいです。

 さて、前置きが長くなりましたが、ミルクの思い出です。(25年も前の話で時効でしょうか? 感染問題も含め議論が必要かもしれませんが。)瓶の牛乳を飲むといつも思い出します。胸がキューンとなる思い出です。

 小児科の研修医だったころの話です。そのころ小児科で研修をしているのは自分一人でした。(都立病院の研修医はひと学年、たった3名、自由に研修科を選べる素晴らしいシステムでした。)小児科研修医の頃、お金もなかったし、いつもおなかがすいていました。たまに余った病院食を食べたりしてしのいでいた頃、事件は起きました。夕方いつも余った粉ミルクをもらうのです。配膳のおばちゃんが「どうせ捨てるから、飲んでいいよ。」というのです。乳児子供用に調整された甘い甘い粉ミルクです。「余った時は冷蔵庫の一番下の右端に置いてあるから飲んでいいよ。」と言われていました。いつもは1瓶か2瓶、余りミルクの全くない日もあります。自分にとってはおやつ替わりの甘い甘いミルクでした。

 ある日、おなかが非常にすいていた日のことです。いつものように残りミルクをゴクンと飲んだ瞬間、「ん? 甘いな。」と思いました。しかし何事もなく飲み干して、その後、帰宅しました。翌日、騒ぎが起きました。「おっぱいのでないママの子供用にもらい乳をした乳が無くなっている。」と病棟が大騒ぎです。主任医長先生に「自分が飲みました。」と謝罪しました。「まあ、いいよ。でも、報告書を書いてくれ。」といわれました。

 書きながら、思いました。もらい乳っておいしいですよ。

 つめたい瓶牛乳を飲むとおっぱいの味がよみがえってきます。

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