長岡市医師会たより No.467 2019.2


もくじ

 表紙 「待春の岸辺」 丸岡稔(丸岡医院)
 「西村義孝先生を偲ぶ」 石川忍(石川内科クリニック)
 「新年ボウリング大会優勝記」 茨木政毅
 「新春麻雀大会優勝記」 渡辺庄治(長岡中央綜合病院)
 「第2回新年将棋大会優勝記」 窪田久(窪田医院)
 「蛍の瓦版〜その48」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜三宅正一先生胸像」 星榮一



「待春の岸辺」  丸岡 稔(丸岡医院)


西村義孝先生を偲ぶ 石川 忍(石川内科クリニック)

 先生は長野県安曇郡梓川村(現、松本市)のご出身です。戦前の一時期、中国で過ごされたとお聞きしました。昭和24年には英語教師の免許を得ておりますが、同年新潟医科大学に入学されました。学生寮では板倉亨通先生と同室でお互いに切磋琢磨されたようです。卒業後は厚生連刈羽郡病院でのインターン、同病院での勤務などを経て昭和35年新潟大学放射線科に入局し野崎秀英教授のもとで研鑽を積まれております。当時、当直時のX線は撮影から現像まですべて手作業で当直医がやることになっていて、随分と苦労されたようですが、後年、放射線技師教育に深く関わることになる基礎がこの時に出来たと存じます。昭和41年に放射線科部長として長岡赤十字病院に赴任されました。
 昭和50年頃、私は長岡赤十字病院の病理検査室に週に1日、剖検例の整理の手伝いに行っていました。病理は病院の地階にあり同じ地階に放射線治療室、RI検査室等が有りましたので西村先生がふらりと病理に来られてお話したりお昼を御一緒することが有りました。先生は若輩の私にも非常に丁寧に接して下さいました。先生の話は非常に理路整然としており、なにか結論めいた事を話されるときは必ずその根拠も示されるといったふうで印象的でした。その後、私が内科医として赴任した時には、胃透視をしていると、そっと覗かれて「斜位の写真をもう少し多くすると見逃しが少なくなるかもしれませんね。」とさりげなくアドバイスしてくださいました。長岡赤十字病院には昭和52年県内では先駆けて全身用CTが導入されたのですが、国内ではまともに研修するところもなく、先生は米国まで行って体部CTの運用と診断の研修を受けられたのでした。その甲斐あって順調にCTの導入、運用がなされました。当時のCTは20秒の呼吸停止の1センチ刻みでしたから、画像は今とは比べものにならない位不鮮明で診断には随分苦労されておりました。私の撮ったエコーの写真とCТ像を見比べて2人で頭を悩ましたものでした。
 昭和59年に先生は新潟大学医療技術短期大学部の教授に就任されました。先生は実は昭和41年より新潟県X線技師養成所、続けて臨床放射線技術学校の講師を閉校まで続けられ、県内の放射線技師養成に深く関わって来ておられました。まさに適任だったわけです。県内で働く放射線技師さんの殆どが先生の教えを受けておられるのです。平成4年に新潟大学を退官された後、先生は開院直後の長岡西病院に勤務され、放射線診断に加えて職場健診、人間ドック、病院職員の健康管理を担当されました。新しい職務に対する先生の勉強ぶりは徹底したもので医師会の産業医認定だけでなく、はるかに難しい国家資格の労働衛生コンサルタントの試験に合格し認定されています。健康診断や最近のストレスチェックにも深い理解を示されておいででした。
 平成21年長岡西病院退職、平成26年から29年迄三島病院に勤められました。その間も先生はずっと「ななし会」というX線画像診断の研究会に参加しておられました。この会は西村先生が日赤に勤めておられた頃に始まった会で、月1回西村先生をコメンテイターにして開業医が持ち寄ったX線フィルムを検討する会で、その他医療制度などなんでも話題にしておりました。板倉亨通先生が幹事で分水の藤井正宣先生、柏崎の会田惠先生等も参加しておられました。西村先生が新潟大学に移られてからは、日赤の佐藤俊郎先生、その後は場所を中央病院に移して原敬治先生、佐藤敏輝先生をコメンテイターに現在も続いております。参加された先生は見附の金井朋行先生、高橋剛一先生、放上幸充先生、大関道義先生、大貫啓三先生、鈴木丈吉先生、岸裕先生、石川などです。西村先生は長岡に戻られてから再び参加されるようになり長岡西病院、三島病院の症例を提示されたり、最近の医療問題についてプリントを用意して説明してくださったりしました。ストレスチェックの問題点について知ったのも先生のお話からでした。先生は英語、中国語をはじめ語学に堪能でソ連崩壊時のシベリア、マレーシアのベトナム難民キャンプ、イギリスの老人ホームなど様々な所を訪れており、また外国の方とお話しするのがお好きでした。先生からその折の珍しい話を聞くのもその会の楽しみでありました。
 運転を止められてからは、バスを乗り継いでつい最近まで参加して下さっておりました。ここ何回か見えられないと思っていたところ訃報を知りました。先生の少し早口の理路整然としたお話がもう聞きできないかと思うと寂しい限りです。御冥福をお祈りいたします。

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新年ボウリング大会優勝記〜高齢者のボウリング 茨木政毅

 恒例の長岡市医師会新年ボウリング大会が1月21日台町のポップボウルで開催されました。新年ボウリング大会も今年で50回を数え、記念すべき大会となりました。この大会はだれでも参加できる大会です。
 私は昭和40年ボウリングブームが起こる少し前に夢中になりました。その後東京、自由ヶ丘ボウルで一般参加の月例会で4位に入賞し、カップとコカコーラ半ダースをもらったことで、すっかりボウリングの虜となってしまいました。昭和47年長岡市医師会に入会したとたんに、当時の工藤医師会長より野村権衛先生と私が幹事に指名され長岡メジカルボウリングクラブを立ち上げました。現在は窪田久先生と市川健太郎先生に引き継がれています。私は平成12年心内膜下梗塞になり、緊張する大会は心臓に良くないと、医師会の例会だけ参加することにしました。私は昨年満80才となり、都合で平成30年12月31日をもって茨木医院を閉院しました。長い間御指導と御支援をいただき、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
 さて前置きが長くなりましたが、私の新年ボウリング大会の優勝は平成24年以来となりました。優勝ですといわれた瞬間、ハンディキャップに恵まれてと“ぼん・じゅ〜る”に書こうと考えました。しかし月例会の集計データーを見てみるとスクラッチでも1位と書かれてあり、これには本当に嬉しく思いました。2位は三上理先生、3位は窪田久先生でした。最近の私のボウリングはストライクは時々でますが、ダブルやターキーはほとんど出なくて力をこめて投げるとスプリットになります。これをきっかけにイージーミスが重なりローゲームとなり、くずれていくパターンが続いていました。 高齢者になったのだから仕方がないと思っていましたが、昨年秋頃からはこのスランプを打開する方法がないかと模索していました。その結果レーンの油にさからわず1投目は比較的ゆるいボールで投げると、スプリットがあまり出ないことを感じました。勿論以前よりわかっていたことですが、ヘッドピンをできるだけはずさないことにより、残りのピンが1本か2本でスペアをとりやすくなります。しかしこの場合2投目は比較的早いボールを投げることで、スペアを確実にクリアできるのです。ただ高齢者にとっては1フレに2投を投げることで疲れが出ますので、3ゲーム目、4ゲーム目がくずれやすくなってきます。
 本題のスコアですが、参加者は14名で、同じボックスは事務局の廣田千尋さんと高木正人先生で、投球がリズムに乗り好スコアにつながったようです。ゴルフでよく言われるパートナーに恵まれての優勝となりました。1ゲーム目は2フレからターキーとなり、6フレの5番7番のスプリットを取れたことで180で終わりました。2ゲーム目はオープンフレームは1回でダブルもあって192でした。スプリットはありませんでした。3ゲーム目は疲れが出てきたようで、スプリットが3回もありヘッドも1回はずしました。スコアは141でした。最終ゲーム目は2フレから残り1本のスペアが5回連続すると、ご褒美のダブルが出て189で終わりました。4ゲームトータルで702、アベ175、ハンデ込で858の優勝となりました。2位は明石明夫先生832、3位福本一朗先生で798でした。総括するとスプリット6回でそのうち2回クリアできました。それとヘッドをはずしたことが3回と少なかったことが好スコアにつながったことと思います。
 高齢者にとってボウリングは健康維持とフレイルの予防に適していると考え、できるだけ続けていきたいと思っています。

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新春麻雀大会優勝記 渡辺庄治(長岡中央綜合病院)

 1月19日、新年麻雀大会が「麻雀荘・坂之上」で開催されました。いつもの会場、「トップ」が閉店したとのことで、今回は新しく坂之上での開催とのことで、今回は12名の参加でした。私も学生時代や研修医のころは週1回から月2〜3回は麻雀をしていましたが、現在はこの数年間参加しているこの大会が唯一の場になっています。その唯一の場での成績はというと最下位に近い順位でここ3年間は、ブービー賞、最下位、下から4番目という超低空飛行でありました。午後2時5分前に会場につきましたが、みなさん全員揃われていて麻雀卓についておられました。みなさん錚錚たる気合いでいらっしゃっているのだな、と思いながら第1局開始となりました。第3局まであるのですが1年ぶりの麻雀なので緊張感やらルールのことやらで1、2局目はほとんど記憶にありません。なお、ルールの件で後付け、喰たんの有無を高橋暁先生に質問していたような気がします(いま思い返すと、私、ここ3〜4年毎年同じ質問を高橋先生にしていたようです)。このような訳で1局目は3位、2局目は2位でした。2位なんていい成績だなあ、と思っていました。まあいつもの成績に順調に突き進んでいるような気がしていました。さて第3局目となりました。自分に親がまわってきました。手持ちの牌がなんと撥、中2枚ずつ、ドラ牌3枚なのです。これはどんどんポンしていくしかないと決めた途端、下家の小林徹先生が撥、中を連続で出してくださるではありませんか。さっそくテンパってしまい、早々に積もってしまいました。撥、中、対々和、ドラ3の親の跳満で大量リード、結果的に1着になりました。今回は大量リードなど点数の差がほとんどなかったようです。普段はブービー狙いの私が1位になるなど夢にも思いませんでした。この栄誉と原稿まで書かせていただけるなんて(?)全ては小林先生のおかげだと感謝しております。また優勝賞品「浅草の佃煮」は、とてもおいしくいただきました。
 丸山先生もおっしゃってますように、囲碁将棋は実力とおりの結果がでることが多いようです。しかし、麻雀は運7割実力3割といわれます。私のようにたまたま優勝ということもありますので、次回は是非多くの先生方のご参加をお願いいたします。

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第2回新年将棋大会優勝記 窪田 久(窪田医院)

 平成31年1月19日に長岡市医師会主催の第2回新年将棋大会が魚藤で開催されました。
 今年の将棋大会は幹事の玉木整形外科の玉木満智雄先生、長岡中央綜合病院小児科の松井俊晴先生、長岡中央綜合病院皮膚科の高橋利幸先生、福居皮フ科医院の福居憲和先生、長岡西病院内科の宮本二一先生、いぐち耳鼻咽喉科の井口正男先生、長岡中央綜合病院理容室の高野幸雄さん、私を加えた総勢8人で行われました。昨年同様スイス方式で行いましたが、昨年は最初の対局に勝つと10点、その後9点、8点、7点として合計点で順位を決めましたが、そうなると最後の対局になる前に優勝者が決まってしまう可能性が高いため、今年は最初が7点、2局目8点。3局目9点、4局目10点と変更し、その合計点で順位を決めることとしました。2局目以降同じ相手と当たらないように、成績が同じもの同士がなるべくあたるようにして、くじ引きで対戦相手を決めました。
 最初は昨年優勝の強豪、高橋利幸先生との対局でした。昔、得意戦法にしていた筋違い角+坂田流向かい飛車を用いました。序盤は抑え込まれ少し苦しい形勢でしたが、相手が7筋の歩交換に来た瞬間に、端に角が飛び出し、その後王手飛車などの大技がかかり中盤戦で勝利となりました。
 2局目は福居先生との対局で、向かい飛車と居飛車の対抗形から角金交換ながら飛車の成りこみに成功し、その後飛車切りから5手必死がかかり快勝となりました。
 3局目になると2連勝同士の対局となりますが、昔、長岡中央綜合病院時代に何百局と指し、好敵手だった玉木満智雄先生との対局でした。玉木先生は今でも一般の将棋大会に出場され、支部対抗戦の全国大会にも参加された実力者です。私もしばらくは玉木先生と一緒に新潟や弥彦の将棋大会に参加していましたが、そのうちボウリングにはまってしまい、足が遠のいてしまいました。私は大学生の頃に将棋部に所属し、現在でも順天堂大学将棋部OB会の夏合宿には欠かさず参加しています。昨年この大会での、玉木先生との対局では4段目から飛車を成りかえってしまい、力を出す前に、みじめな反則負けとなってしまいました。今年は反則負けをしないように、盤面全体をみるように注意して対局に臨みました。先手玉木先生の居飛車に対し、後手角頭歩戦法という特殊な戦法で戦いました。現在私の後手番でのエース級の戦法です。7六歩、3四歩、2六歩に2四歩の出だしで激しい急戦になる変化が秘められています。持久戦となって1筋からの端攻めが成功し、かなり優勢の中盤から攻め続け、即詰めで勝ち切ることができました。勢いのある良い将棋だったと思います。
 最後は井口先生との対局となり、7六歩、3四歩、5六歩、8八角成、同飛車、5七角と相手にわざと馬をつくらせて、自分は角を手持ちにして戦うという特殊な戦型で戦いました。中盤で馬と角の交換に成功した後、手持ちの角で王手銀取りがかかり、井口先生が投了されました。
 終わってみれば形はすべて違いますが、全局得意の向かい飛車で、私らしい思い切った攻撃型の将棋が指せたなと思います。4勝0敗34点で私の優勝となり、2位は3勝1敗27点の高橋先生、3位は2勝2敗17点の高野さん、4位は所用のため、最後の1局が不戦敗で、2勝2敗17点の松井先生でした。5位は優勝候補筆頭の玉木先生で、2勝2敗15点でした。来年は玉木先生に是非優勝してもらいいたいと思っています。
 羽生九段の永世7冠と国民栄誉賞受賞、そして現在は群雄割拠の戦国時代に突入、中学生棋士の藤井聡太七段の活躍、そしてプロの名人がAIに勝てなくなったなど、将棋界は最近、いろんな話題で盛りだくさんですが、来年は更に多くの皆さんにこの会に参加していただけるように、期待しております。中央病院の目黒先生、照沼先生、長岡西病院の福居和人先生、津川病院の原先生、医師会議長の大塚先生待ってますよ。

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蛍の瓦版〜その48 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 自殺対策
 日本は世界第5位(男性12位・女性3位)の自殺大国です。国内の県別比較では東北地方の自殺率は高く、新潟県は毎年5位前後と残念な結果です。さらに県内の保健所管内別では、村上・魚沼・南魚沼・十日町・佐渡の郡部で高く、新潟・新津・三条は平均以下で、長岡市は平均値並みでした。
 国も自殺対策に力を入れ、平成10年から3万3千人で推移していた全国の自殺者数は、平成22年から徐々に減少し昨年は2万人程度となっています。一方長岡市では毎年70〜80人の方が自殺で亡くなられており、その数はほぼ横ばい状態です。男女比は2対1程度で推移していますが、女性の自殺率が他国や他県に比べると高いことが特徴です。男性は50代を中心に山型の年齢構成を示し、自殺の要因としても経済や仕事関連が関与し景気の動向に左右されます。一方女性は年齢に比例して右肩上がりに上昇し、健康や家庭問題が主な要因となっています。
 15歳から39歳までの死因の第1位は自殺であり、40歳代から60歳代の男性が全自殺者の35%を占め、その経済的損失は年間4千6百億円に至ると試算されています。また自殺者の8割には同居者があり、残された関係者の精神的負担も少なくありません。
 自殺対策は、誰もが自殺に追い込まれることが無いような地域社会の形成から始まります。その上で自殺念慮に囚われている方の存在に気付き、危機回避のために多方面から多岐にわたって継続して支援することが必要です。遺族へのアンケート調査に拠ると、7割の方が亡くなる前に、何らかの関係機関を相談に訪れており、その半数は直前の一カ月以内でした。
 行政でも自殺対策に取り組んでおり、先日お手元にポスターとチラシが配布されたように、新潟県福祉保健部では24時間対応の“新潟県こころの相談ダイヤル(0570−783−025)”を設置しています。長岡市でも自殺予防の取り組みとして、官民一体の“自殺対策連絡会議”を開催し、さらに行政内でも部署を超えた実務レベルでの検討を行っています。連絡会議のメンバーには医師会や保健所等の医療関係の他に弁護士会や商工会議所、労働基準監督署、民生委員・児童委員協議会、高等学校長協会、警察署、NPO中越地域いのちとこころの支援センター、NPO女のスペース・ながおか、NPO新潟マック等多岐にわたっています。
 自殺の原因の約半数が健康問題であり、うつ病やアルコール等の薬物依存症の関与もあり、医療機関を訪れるケースは少なくありません。毎日の診療でも自殺の可能性を念頭におき、少しでも疑わしいときは、相談ダイヤルの紹介や、専門医や関連機関への連絡等ご配慮下さい。

 医療法人制度
 平成19年の第5次医療法改正では柱のひとつとして、医療法人制度改革が示されました。医療法人制度は、この改正によって非営利性を強調し、小泉政権以来の医療への株式会社参入の動きに対抗するものとなりました。
 法人格を持つ医療法人制度は昭和25年の医療法によって定められ、利益を分配する配当は禁止されています。しかし医療法人のうち“持分ありの医療法人(認定医療法人)”では、出資概念があり、出資額に応じて医療法人の資産に対する財産権を所持します。これは医療法人に出資した者が、その法人の解散時や退職時に出資額に応じた払い戻しを請求する権利のことです。このため認定医療法人の持分には財産的価値があり、医療の非営利性にそぐわないとされました。
 第5次医療法改正では、認定医療法人の新設を認めず、新たに持分なしの基金拠出型医療法人と、社会医療法人を定めています。以前から公共性の高い医療法人には税法上の優遇措置等がありました。新設された社会医療法人では救急医療等にさらに高い公益性が要求されますが、それと並行して様々な優遇措置が認められています。
 平成19年には全国で4万4千近くの医療法人があり、認定医療法人が全体の98%を占めており、そのうちの約80%が一人医療法人でした。既存の認定医療法人については、経過措置として当分存続を認めており、現行法では平成32年9月までとされています。現在、認定医療法人から、定款に持分に関する規定を定めていない持分なしの医療法人への移行は、ほとんど進んでいません。平成29年の医療法改正では、会計報告や監査制度等の透明化とともに、持分ありから持分なしへの移行要件が緩和されています。

 平成30年度臨時総会後の講演会
 3月15日金の平成30年度臨時総会終了後19時ころから、“医業に関する税制について〜節税対策を含めて”と題して、日本一の規模の会計事務所である株式会社トーマツの担当者から御講演いただく予定です。現在長岡市医師会ではA会員の核の方が認定医療法人を選ばれおり、その持分は相続税の対象となります。多くの会員の方のご参加をお待ちしております。

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巻末エッセイ〜三宅正一先生胸像 星 榮一

 三宅正一先生(以下三宅)の胸像は、長岡市悠久山公園の瓢箪池の上の松山の頂上にあるが、市民には余り知られていない。

 三宅は明治三十三年(一九〇〇)岐阜県生まれで、早稲田大学在学中から浅沼稲次郎等と共に建設者同盟を創設して社会運動に入った。大学卒業と同時に、大正十二年新潟県入りし、木崎小作争議を指導した。昭和二年には住所を長岡市に移し、王番田小作争議を指導した。昭和七年六月に長岡市議会議員に初当選すると、農民および労働者のための産業組合法による医療組合の開設を準備した。市議会議員の中の進歩的な保守系議員を巻き込んで、中越医療組合病院創立委員会を組織した。最初は長岡市を中心に三条、柏崎、小千谷を含む中越四市六郡を単位とする大規模な広域医療組合方式を計画した。しかし、この計画が発表されると、長岡市医師会をはじめ地主層から猛烈な反対にあい、県警察本部の指導で長岡市と古志・三島の二郡二十七町村に縮小された。昭和九年四月二日に漸く県知事の開設許可が下りた。三宅は農民運動家というイメージをなるべく薄くするために、表に出ずに陰に回った。中越医療組合病院は難産の末、昭和十年七月十日開院を迎えた。これが現在の長岡中央綜合病院の前身である。

 最初の計画の三条・柏崎・小千谷にも三宅の指導で病院が創設され、それぞれが三条総合病院、刈羽郡病院、魚沼病院となった。現在の新潟県厚生連の中越地域における病院のほぼ全てが、三宅の指導により設立され、昭和二十七年に県厚生連が組織された時に継承されたものである。三宅は昭和十一年に新潟三区から社会大衆党で立候補し衆議院議員に初当選し、国会で新潟県を医療組合病院のモデル県として全国に広めた。また、国民健康保険法の制定にも力を注いだ。すでに成立していた労働者健康保険制度に漏れていた農魚民や一般市民を対象とした医療保険を目指した。さらに、苦学生のための奨学金制度の日本育英会の創設にも心血を注ぎ、昭和十八年に大日本育英団が発足した。

 衆議院議員に当選してからも、長岡に住宅はあったが、中央での活躍が中心になり中越医療組合病院との関係は疎遠になっていた。

 昭和四十三年には日本社会党の副委員長になり、昭和五十一年から三年間衆議院副議長を務めた。昭和五十五年七月に長岡市上除で倒れた時には立川綜合病院に入院し、三カ月後に東京中野総合病院(元医療組合病院)に転院し、昭和五十七年五月二十三日、八十二歳で永眠された。

 昭和五十九年六月の三回忌に、社会党の有志の寄付で、彼の胸像が悠久山公園の松山頂上に建立された。当時は像の前はスキー場で、長岡市街が一望できる素晴らしい場所であった。現在は木々が大きくなり、全く市街は見渡せなくなり、人の往来もない淋しい場所となっている。

 三宅が昭和十一年に雑誌「改造」に書いた「農民の代表として」の文章末尾に「骨は木崎農民学校のほとりと、中越医療組合病院の一隅と、故郷の祖先の墓の横に分骨して埋めてくれれば本望だ」と書いている。

 三宅の遺骨を病院の構内に分骨することは出来なかったが、長岡中央綜合病院も平成十七年に広々とした所に移転したので、三宅の生誕百二十年となる節目に、彼の胸像を病院構内に移設して日々多くの人に崇められれば、せめてもの恩返しにならないかと愚考している。関係各位のご高配を期待する。

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