長岡市医師会たより No.469 2019.4
表紙 「早春の駒ケ岳」 丸岡 稔(丸岡医院)
「父の思い出」 新保俊光(新保内科医院)
「百人一首を俳句に〜その五」 江部達夫(江部医院)
「巻末エッセイ〜究極の味ヒメザゼンソウ」 江部達夫(江部医院)
「駒ケ岳」 丸岡 稔
平成27年2月、姉から「父が九州に行きたがっている。健康が心配なので、お前にも付いて来てほしい」と連絡があった。昭和4年生まれの父は85歳になっていた。大人になってから父と旅行した事はなく、医院を休みにするのも気が引けた。思わず理由を聞くと、「戦争中に過ごした、大分県大神基地をもう一度見てみたい」とのことだった。戦争について語ることの少なかった父の願いだけに、切実に思えた。結局、父、姉、義兄、私の4人で3月下旬に5泊6日の九州旅行に出かけた。
父は今まで、あまり子供と話すことはなかった。父に叱られた記憶はなく、褒められた時も一言位だったと思う。私が浪人した時も、「どうしても医学部でなくては駄目か?」と問われたけれど、反対はされなかった。私は父の背中をみて育ち、言葉を交わすことは少なかったが、父子の関係はそういうものだと思っていた。
ここまで書いてきて、2つのことを思う。1つは、親鸞聖人がいうところの「契機」である。人間は、置かれた環境でどうにでもなるということだが、父もあと少しで戦死するはずであったし、人間魚雷で多くの人を殺したかもしれない。あと1つは、日本人の歴史(気持ち)の途絶である。父をはじめ、多くの方は大義や正義をもって戦争に身を投じたはずだが、その時の気持ちを語る者は少ない。欧米諸国のアジア植民地化が進む中、契機として同じような侵略行為があったとしても、唯一列強に立ち向かった日本には、語り継がれるべき活力と魂があると思う。日本は少子化や貧困、アレルギー疾患の蔓延という新たな難局に直面しているが、欠落した歴史を再評価し、誇りと自信を取り戻して活路を見出してほしい。
最後になりましたが、父の晩年大変お世話になりました、長岡赤十字病院の桑野先生およびに訪問看護ステーションみつごうやの皆様に、この場をかりてお礼申し上げます。
81 ほととぎす鳴く方見れば明けの月
ほととぎす鳴きつる方(かた)をながむれば ただ有明の月ぞ残れる後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)
ほととぎすが鳴いていた方をながめると、ただ有明の月だけが残っているだけですよ。
後徳大寺左大臣は藤原実定(さねさだ)のこと。平安後期の歌人、神楽(かぐら)(皇室との関連が深い神社で神をまつるために奏でる歌舞)の名手でもあった。
82 思いわび生きてはいるも涙(なだ)の日日
思いわびさても命はあるものを 憂き(うき)に堪へぬ(たへぬ)は涙なりけり 道因法師(どういんほうし)
つれない人に思い悩み、それでも命はあるものなのに、つらさに堪えかねて、こぼれ落ちてくるのは涙であることよ。
道因法師の俗名は藤原敦頼(あつより)。従五位左馬助(さまのすけ)になるも出家。歌道に熱心で、90歳の時に右大臣家の歌合に出詠していると。
83 世を遁れ(のがれ)入りし山にも鹿ぞ鳴く
世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)
この世の中には逃れる道はないものだ。思いつめて遁れ入った山の奥にも、鹿の悲しげな声が聞こえるよ。
俊成(じゅんぜい)(トシナリとも)は藤原定家の父、平安末期の歌人。正三位皇太宮大夫となるも病のため出家す。「千載集」の撰者。
84 今は昔生きては今が恋しかり
長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき 藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけあそん)
生きながらえるならば、つらいと思っているこのごろが懐かしく思われるだろう。つらいと思って過ごしていた昔が今では恋しいのだから。
清輔は平安末期の歌人で歌学者。顕輔(あきすけ)(79の詠み人)の子、太皇太后宮大進にとどまる。六条家の中心人物。家集「清輔朝臣集」あり。
85 恋に病む明けぬ夜の闇無情なりよもすがら物思ふころは明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへつれなかりけり 俊恵法師(しゅんえほうし)
夜通し思い悩んでいるこの頃、なかなか夜が明けないので、寝室のすき間さえもつれなく思われてくるよ。
俊恵法師は源経信(74の詠み人)の子、平安末期の歌人で東大寺の僧、鴨長明(かものちょうめい)(方丈記の著者)の師でもある。家集「林葉和歌集」がある。
86 月の夜は悲しき思い涙する 嘆け(なげけ)とて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな 西行法師(さいぎょうほうし)
嘆けといって月が私にもの思いをさせるのであろうか。いやそうではない。月のせいにするかのように、流れる涙であることよ。
西行は平安末期・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。鳥羽上皇に仕え、北面の武士であったが、二三歳の時無情を感じて出家。高野山や伊勢を本拠に、陸奥、中国、四国を旅した。「新古今集」には九四首が入集、桜の花を多く詠んでいる。
87 通り雨槇葉に霧立つ秋日暮れ
村雨(むらさめ)の露もまだひぬ槇の葉に 霧たちのぼる秋の夕暮 寂蓮法師(じゃくれんほうし)
ひとしきり激しく降った雨が通り過ぎ、そのしずくがまだ乾かない真木の葉のあたりに、霧がわき上がってくる秋の夕暮れであることよ。
寂蓮は鎌倉初期の歌僧。俗名、藤原定長(さだなが)。叔父俊成(83の詠み人)の養子となるが、後に出家す。「新古今集」の撰者になるも、その完成前に没す。
88 かりそめの一夜の恋を常しえに(とこしえに)
難波江の蘆(なにわえのあし)のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋わたるべき 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
難波の入り江の蘆の刈根の一節(ひとよ)のような短い一夜の仮寝のため、澪標(みおつくし)(通行する舟に、通りやすい深い水脈を知らせるために立てた杭)のように、この身を尽くして恋いし続けるのだろうか。
皇嘉門院別当は平安末期の女流歌人。皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)に仕えていた。別当は親王家などの政所(まんどころ)の長官。
89 命よ絶えわが忍ぶ恋絶え切れず
玉の緒よ(をよ)絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王(しょくしないしんのう)
我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。生きながらえると、忍ぶこともできなくなりますので。
式子内親王は後白河天皇の皇女。賀茂の斎院(さいいん)(賀茂神社に奉仕した未婚の皇女)となるも、病気のため退き出家する。新古今集時代を代表する女流歌人。
90 汐に濡れ海人(あま)袖色は変わらずに
見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れ(ぬれ)にぞ濡れし色はかはらず 殷富門院大輔(いんふもんいんのたいふ)
松島の雄島の海人(あま)の袖は波に濡れても色は変わらないのに、血の涙で色が変わってしまった私の袖をお見せしたいものですよ。
殷富門院大輔は平安末期の女流歌人。後白河院の第一皇女殷富門院(亮子(りょうし)内親王)に仕えた。西行(86の詠み人)や寂蓮(87の詠み人)との交流があった。
91 こおろぎの鳴く霜の夜をひとり寝か
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷き(ころもかたしき)ひとりかも寝む 後京極摂政前大政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)
こおろぎの鳴く霜の夜を、むしろの上に衣の片袖を敷いて、私はひとり寂しく寝るのだろうか。きりぎりすは、こおろぎの古名。
後京極摂政前大政大臣は藤原良経(よしつね)のこと。関白藤原兼実(かねさね)の子で従一位摂政大政大臣になるも38歳の時、寝所で刺殺された(1206年、鎌倉初期)
和歌を俊成(83の詠み人)に学び、家集に「秋篠月清集」がある。
92 人知れず乾かぬ袖は沖の石
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし 二条院讃岐(にじょういんのさぬき)
私の袖は、潮が引いた時でも海中にあって見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、涙で乾く間もないのですよ。
二条院讃岐は平安後期の女流歌人、父は源頼政(武将で歌人)。若い頃二条天皇に出仕し、天皇崩御後は藤原重頼と結婚、その後に後鳥羽天皇中宮任子(にんし)に出仕、晩年に出家。
家集に「二条院讃岐集」がある。
93 世は静か磯引く小舟おだやかに
世の中は常にもがもな渚漕ぐ(なぎさこぐ) あまの小舟の綱手(つなで)かなしも 鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)
世の中は永久(とわ)に変わらないものであってほしい。渚をこぐ漁夫の小舟を綱で引いてゆく光景にしみじみ心が動かされることよ。
鎌倉右大臣は源実朝(さねとも)のことで、源頼朝の次男、母は北条政子。第三代将軍となるも、鶴岡八幡宮の境内で兄頼家の子公暁(くぎょう)に殺された。二七歳。京都の文化に憧れ、和歌は定家に習い、家集「金塊(きんかい)和歌集」を残す。
94 吉野は夜秋風寒く砧(きぬた)かな
み吉野の山の秋風小夜(さよ)ふけて ふるさと寒く衣うつなり 参議雅経(さんぎまさつね)
吉野の山の秋風が夜がふけて吹きおろし、古く都のあった里は寒く、衣を打つ砧の音が聞こえてくる。
参議雅経は藤原氏、飛鳥井(あすかい)雅経と称し、鎌倉初期の歌人。後鳥羽院の命で鎌倉から上京、参議となる。
「新古今集」撰者の一人。家集「飛鳥井(あすかい)和歌集」がある。
95 叡山(えいざん)の僧衣で世の民おおいたし
おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣(そま)に墨染(すみぞめ)の袖 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)
身分不相応ながら、この憂き世の人々におおいかけることだ。比叡山に住みはじめて身につけている黒染の衣の袖を。
わがたつ杣は比叡山のこと。
仏法の力で、世の人々を救済したいの意味を詠んだもの。
慈円は平安末期から鎌倉初期の僧で、藤原忠通(76の詠み人)の子。10歳で父を亡くし、13歳で出家。天台座主、大僧正となる。和歌にもすぐれ、家集「捨玉集」がある。
96 花吹雪ふりゆくものはわが身なり
花さそう嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)
花をさそって嵐の吹く庭は、雪のように花が降ってくるが、古くなってゆくものは実はわが身だったよ。
入道前太政大臣は藤原公経(きみつね)のこと。
姉は定家の妻で、鎌倉四代将軍頼経(よりつね)の曽父でもある。京都北山に西園寺殿を建て、西園寺家の祖となる。歌人としては宮中の歌壇で活躍した。
97 来ぬ(こぬ)人を待つ身は夕なぎ焼く藻塩(もしお)
来ぬ(こぬ)人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしお)の身もこがれつつ 権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)
いくら待っても来ない人を待っているのは、松帆(まつほ)の浦の夕なぎ時に、浜辺で焼く藻塩のように、恋の思いで身もこがれているのですよ。
権中納言定家(さだいえ)は百人一首の撰者。俊成(83の詠み人)の子で、京極中納言と称された。鎌倉前期の歌人で、歌人として呼ぶときは「テイカ」であった。新古今歌壇で活躍。家集に「捨遺愚草(しゅういぐそう)」があり、日記「明月記」は有名。
98 なら夕風小川のみそぎいまだ夏
風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける 従二位家隆(じゅうにいいえたか)
風が楢(なら)の葉にそよいでいる小川の夕暮れは秋のようだが、六月祓(みなづきばらえ)のみそぎだけはまだ夏であることのしるしなのだなあ。
従二位藤原家隆は鎌倉初期の歌人。俊成(83の詠み人)の門に出で、定家と並称された新古今歌壇の代表歌人。「新古今集」撰者の一人。
99 愛し恨み人の世味なく思いやむ
人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は 後鳥羽院(ごとばいん)
人がいとおしくも恨めしくも思われる。おもしろくない世と思うところから、物思いしているわが身なのですよ。
「をし」は「愛し」である。
後鳥羽院は鎌倉前期に第82代天皇に五歳で即位。19歳で譲位し、院政を始める。和歌、管弦、武芸に優れ、定家らに「新古今集」を撰進させた。承久の乱を企て敗北し、隠岐の島に流され、在島19年、59歳で没す。
100 宮は古び軒端(のきば)のしのぶ昔思う
ももしきや古き軒端(のきば)のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 順徳院(じゅんとくいん)
宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見るにつけても、しのびきれないほどなつかしい昔の御代(みよ)であることよ。
順徳院は後鳥羽院の第三皇子、13歳で天皇に。承久の乱で父に加わり破れ、佐渡に流された。在島21年で没す。佐渡市真野に火葬塚がある。乱の前に皇子懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、院となる。
和歌は定家に学び、家集「順徳院御集」がある。小倉百人一首は藤原定家(一一六二〜一二四一)により、奈良時代後期から、鎌倉時代前期までに出されていた歌集の中から撰ばれた短歌である。
中でも四百年続いた平安時代には、和歌(漢詩に対して、上代から日本で行われた定型の歌。長歌・短歌・施頭歌(せどうか)・片歌などの総称)の中でも短歌が主流となっていった。
平安は政争はあっても、末期に到るまでは大きな戦はなく、安定した時代で、宮廷文化華やかな時代、貴族達は自由恋愛を楽しんでいたようだ。
百人一首に恋愛歌が四三首と多いのは時代を反映したものであり、恋愛には季節がないためか、俳句で重視する季語がつけられないものが多くなった。
短歌を俳句化するという試み、そっくり頂くことは今なら著作権侵害になるかも知れないが、もう千年も経つことだから勘弁してもらうことにし、表現力を学ぶつもりで試みた。
元歌の意を充分に表現されていないものが多くなったが、十四文字少ないため仕方がないと思う。そんな中で今後更に表現力を学んでゆきたいものだ。
人が味覚器で認識し得る味には、甘味、塩っぱ味、酸っぱ味、辛味、苦味、渋味、えぐ味などがある。
山菜には塩っぱ味を除いて全ての味があるようだ。旨い山菜にはこれらの味が組み合わされ、その上、匂い、舌触り、歯ざわり、更に見た目も大切。
ジュンサイは特別な味はないが、粘液をかぶった外見、食べての舌触りが旨味になっている、アカミズはしゃきしゃきした歯応えが取り得だ。
さて、東北地方にはエゴナ、エゴツパ、サインシナなどと呼ばれている野草がある。私がよく出かけている関川村でも、山形県に近い集落では食べている。
関川村の山仲間の一人に、山形県の小国町出身の方がいる。
十年前の春、小国町ではサインシナと呼んでいる野草を、酒の席に一鍋煮て持ってきた。
手のひらよりも大きな葉の野草、時間をかけて煮込んで来たという。私以外の仲間は一度は口にしたことがあると見え、鍋の中を見ると怪訝そうな顔をした。私には美味しそうに見えたのだが。
「覚悟して食べなよ」と脅す奴も。山菜の本でかなりきつい味であることは知っていたが不安であった。
先ず料理人が一葉を口にした。旨そうな顔をしている。次いで私も口に。よく噛んで味わっていると、突然口の中は強烈なえぐみに襲われた。吐き出そうとしたら「五分我慢」の声に思わず呑み込んだ。強いえぐみは食道にも。五分耐えていると、あの強烈なえぐみはスッと消えて、口の中に旨み感が残っていた。
凝りもせずもう一葉口に。同じ感覚が口中に。やはり五分で治まった。
この野草のえぐみは筍をあく抜きせずに食べたえぐみの百倍はある。旨みも筍に似ている。
東北地方ではこの野草を食べて春の到来を覚える人たちもいると。
サインシナの和名はヒメザゼンソウ、サトイモ科ザゼンソウ属の山野草で、本州中部以北と北海道に分布。東北では広くエゴナ、エゴッパと呼んでいるが、山形、新潟県でサインシナと呼んでいる地域がある。
サトイモ科の植物はサトイモ、ズイキ、コンニャクのように食用になる物もあるが、ミズバショウ、ショウブ、マムシグサのように有毒成分を含んだ物が多い。近似種のザゼンソウは異臭が強い。
ヒメザゼンソウは山裾の湿り気のある原野や里山の小川の岸辺などに群生。今は耕作放棄地になった山中の水田跡にその群生を見ることがある。生長は早く、三月、四月に生えて来る若葉を食用とする。
調理法は、大鍋にたっぷりの湯を沸かし、塩を少し加え、葉を切らずに一葉一葉湯に入れ、かき回したりせず、弱火で二時間煮る。一晩そのままにし、翌日水を入れ替え再加熱。煮あがったら味噌か醤油で味付け、鯖か鮭缶を入れて旨みをだす。
食べる際は、噛むと細胞が壊れてえぐみが強くなるので、噛まずに呑むとえぐみは軽い。
山菜博士の清水大典先生はヒメザゼンソウにスリルという味覚を提唱。
私は毎春関川村に山菜採りに出かけている。その都度サインシナを食べている中に、すっかりファンになってしまった。
ある年、サインシナを関川村から水煮のまま持って帰り、調理して長岡の山菜好きの集まりに出したら、全員口にしたとたん悲鳴に近い声を上げて吐き出してしまった。驚かせてやろうとのいたずら心から刻んだ物を少し混ぜた。それが効き過ぎた。
病みつきてひめざぜんそうに春を見る