長岡市医師会たより No.470 2019.5


もくじ

 表紙 「ディズニーランド(ロサンゼルス)」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「杉山一教先生を偲ぶ」 富所 隆(長岡中央綜合病院)
 「英語はおもしろい〜その46」 須藤寛人(長岡西病院)
 「“2度目の”「新しい救命処置を学ぶ半日コース」を受講して」 八百枝 潔(やおえだ眼科)
 「蛍の瓦版〜その50」 理事:児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜深田久弥と守門岳」 江部佑輔(江部医院)



「ディズニーランド(ロサンゼルス)」  木村清治(いまい皮膚科医院)


杉山一教先生を偲ぶ 富所 隆(長岡中央綜合病院)

 杉山一教先生のご逝去にあたり、深く哀悼の意を表し、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 先生には小生が長岡に来てから40年間、公私ともに本当にお世話になりました。思い起こせば、昭和54年の暮れ、県立がんセンターで初期研修をしていた私は、大学の医局には入局せず、臨床医として地域医療を担いたいと願い、就職先を探しておりました。そんな折に現在の長岡中央綜合病院にお誘いを受け、故亀山宏平先生の面接の後、杉山先生と故高橋剛一先生に夕食に誘われ、ワインとステーキをごちそうになりました。そしてその晩、ステーキの美味しさにつられ、ついうっかりと、「来年の春からお世話になります。」と答えてしまったのが始まりでした。
 先生は、新潟市のご出身で、昭和33年新潟大学医学部をご卒業後、刈羽郡病院でインターンをされて第二内科に入局されました。2年間県立がんセンターに出張され、昭和45年から長岡中央綜合病院に赴任されました。
 大学では血液学を専攻されておりましたが、当院へ赴任後は消化器内科医としてもご活躍されました。
 小生が一番お世話になったのはこの消化器内科の分野であり、内視鏡の手ほどきを受け、その作法を教えて頂きました。また、臨床研究や学会発表、論文の作成なども一から教えて頂きました。全国の厚生連病院が主管する農村医学会では何度もシンポジストとして発表させていただき、その夜には先生と一緒に各地の名産に舌鼓を打ったことを覚えています。
 先生は病院の外では、長岡市医師会理事や新潟県医師会理事などもお勤めになられました。昭和59年、新潟県医師会の勤務医委員会委員長をお勤めの時、医師会での勤務医の立場や発言を全国に発信するために新潟勤務医ニュースを発刊されました。年4回発行されるこのニュースはその後一度も途切れることなく、現在137号になり、全国の医師会に広く配布されています。
 その後、先生は平成2年に当院の第8代の病院長に就任され、同時に厚生連理事、看護学校の校長などの重責を担ってこられました。
 今、世の中では、働き方改革が大きな話題になっています。病院での先生は、いわゆるワーカーホリックでしたね。早起きで、日の出前から出勤し仕事をされていたことを知っています。先生が平成10年に、左手が重くなり、血圧が210−140となって入院されたことがありました。この時、先生は主治医の制止を振り切って、“患者さんが待っている、早く病院に戻らなければ”と言って一晩で退院されました。主治医は、“ここは病院なのに”とつぶやき、“このまま入院を継続するのは患者の精神衛生上不利益が大きい”と診療録に記載したことを覚えています。
 そんな先生でしたが、仕事以外にもたくさんの趣味がおありになったようです。病院での卓球、野球、ゴルフなどたくさんのスポーツにも秀でておられたようで、中でも病院でのゴルフ大会では13回の優勝を果たされました。残念ながら小生にはその技を伝授していただけなかったためか、ゴルフの腕はさっぱりでした。
 また、先生がカラオケが好きだったとは記憶していないのですが、病院での宴会の締めは必ず内科医全員が壇上に上がり、肩を組んで合唱を行いました。合唱団の名称は『杉山一教とザ・ナイカーズ』と称し、中山康夫先生の指揮のもと杉山先生がソロで古城を歌い、全員が伴奏をコーラスで行ったことも、古き良き時代の楽しい思い出です。
 先にも述べましたが、先生は平成15年に脳梗塞のため、左片麻痺の状態になりました。奥様と二人三脚で懸命にリハビリを行いながら、平成21年3月まで栃尾郷病院の嘱託医として診療を続けておられました。患者さんが好きで、ひたすら内科医として歩んでこられた先生にとって、病気のために第一線から身を引かざるを得なくなったことは、実に忸怩たる思いであったと推察いたします。
 ですが、先生の地域医療への思いは、本日喪主を務めておられる山崎肇先生が、そして新潟市民病院で研修中のお孫さんの俊くんがしっかりと引き継いでくれています。どうかご安心ください。
 最後になりましたが、先生にはもう直接お目にかかってお話などすることはできませんが、私たちの心の中で、先生は永遠に生き続けていきます。
 本当にありがとうございました。
 安らかにお眠りください。

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英語はおもしろい〜その46 須藤寛人(長岡西病院)

 cutting-edge、the-state-of-the-art、the best and the brightest 最先端(の)、最高水準(の)、最も聡明(な)
 私の若い頃の恩師であったMarin L. Stone先生は2012年11月1日92歳で亡くなられた。New York Medical Collegeの同窓会より連絡があり私は以下のCondolence(弔意文)を送った。
 I am deeply sorry to learn of passing of a great physician and educator, Martin L. Stone.
 I shall never forget his sincere kindness and generosity given to me during early medical career. I pray with a tear as I send this condolence to a devoted and respected wife, Nancy.
 The New York Timesの2012年11月4日版の〔Obituary(新聞の死亡記事欄)〕に彼の死が詳しく報じられていた。「Stone-Martin Lawrence, M. D., 92 Professor and Chairman Emeritus(名誉主任教授)of Obstetrics and Gynecology at the State University Medical School at Stony Brook passed away at his home in Southampton, NY after a short illness.」の書き始めで、父母の名前そして妻Nancy・(前妻との間の一人)息子Robertとその配偶者(spouse)と曾孫2人・次いでRobertの(前妻達との間の)孫娘と配偶者そして曾孫2人ら総数11名の遺族の名前と居住地区が書かれてあった。日本の新聞の死亡広告欄とかなり異なっており、本欄が"Paid Death Notice"とあったので、遺産相続問題などを事前回避するための意味もあるのであろうかと推測した。
 その後にStone教授の経歴・役職・業績が長々と書かれてあり、最後にmemorial serviceと引き続くお別れ会(cerebration of his life)がHarmonie Club(1852年創立のNew Yorkで二番目にできた由緒あるprivate club)で開かれると書かれてあった。献花の代わりにはThe Association of Professors of Gynecology and Obstetrics(APGO「婦人科産科教授連盟」)等にご寄付くださいで終わっていた。私は旧友に連絡をとり相応額の寄付金を送った。
 後日Nancyからメールがあり、12月17日の参加者は150人を予定していたが、200人を超えてしまったこと。司会はMike Gordon元SUNY at Albany主任教授でAlan B. Weingold元George Washington University主任教授(いずれもStone教授の教え子)らが弔辞を述べたとのことであった。"The tributes(弔詞)were filled with love"と書かれてあった。
 今回もまた前置きが長くなってしまった。「英語はおもしろい」の主題に入らなければ。故Martin L. Stone先生が90歳の誕生日を祝って"60 Years As A Physician And Medical Educator A Job Well Done"(須藤寛人訳 考古堂書店 2013)というタイトルで回想録を出版していた。
 今回、この本の中にそれぞれ複数回にわたり書かれていた3つの英語、"cutting edge"「最先端の」、"the-state-of-the-art"「最高水準の」そして"the best and the brightest"「最上等の」について書いてみることにした。何事も「最高」でなければ気のすまなかったエリート中のエリートのユダヤ系アメリカ人医師で、アメリカ産科婦人科学会の会長に上り詰めた男の気持ちがこの3つの英語から推察されるかも知れない。
 まずcutting edgeからであるが、本来は、〔ナイフの刀身のうち鋭く切る方の側〕、「切断端」、「切断ヘリ」、「刃口」のことであるが、日本語Word Net(英和)では(形)「最も流行の考えあるいは様式と合っている」=up-to-date「斬新」、「新しい」、(名)「最も大きな重要性または進歩の状況」=forefront、vanguardと書かれており、研究社新英和中辞典などでは「最新」、「尖端」、「先頭」、「最前線」、「最新鋭」とある。"up-to-date"あるいは"update" "updated"という英語は使われ初めてかなりの期間が経ち、新鮮味が薄らいできたのであろうか、最近、日本の各種医学会集会の案内用ポスターなどにも同じような意味をもつ"cutting-edge"を見かけるようになってきた。
 Stone教授の回顧録には"We used to meet periodically to discuss cases and cutting edge treatment."や"It is a new cutting edge program I wholeheartedly embrace."などとして使われていた。残念ながらこの単語は一流医学雑誌に限って採用するライフサイエンス辞書の共起表現には載っていなかったので、未だあまり使われていないかあるいは多少俗語的であるためか詳しい理由は分からなかった。医学以外も含めた文献についてみたweblio辞典には共起表現65例文が示されていた。これによると、cutting-edgeは全てハイフォン付きであった。最も多い使用例はcutting-edge research、c-e. technologyであり、ついで多用例はc-e. science、c-e. technique、c-e. information、c-e. program、c-e projectで、c-e. approach、c-e. treatment、c-e. management、c-e. performance、c-e. issue、c-e idea、c-e presentationなどは各1例であった。
 次に取り上げるのは"state-of-the-art"であるが、Stone教授の本の中には、1978年に新設されたニューヨーク州立大学ストニーブルック校医学部・大学病院はハイテク満載の施設で"state-of-the-art university"と言わせしめたということであろう。"state of the art"は(名)「特定の時期の芸術または技術の最高水準」、「最新式」で、"state-of-the-art"は(形)「その時代(特に現代)の最高水準の」、「最新式の」、「最先端をいく」、「最新鋭、最新の技術を集結した」である(ライフサイエンス辞書、Weblio英和対訳辞書など)。
 State-of-the-artはライフサイエンス辞書の共起検索では最多の300例文が載っており、state of the artは25例、他はハイフォン付きstate-of-the-artであった。state of the artの用例文は"We review the current state of art in gene and……"、"We discuss the current state of the art of……"、"This will be the current state of the art for the rheumatic disease."などであった。目に付いたことは"current"を付けて"the current state of the art"や"the current state-of-the-art……"と慣用する用例が56例の多数に見られた。state-of-the-artの用例文はs. approach(s)、s. technique(s)、s. technology(ies)、s. method、s. the-rapy、s. performanceなどであった。
 最後に取り上げたいのが"the best and the brightest"「最上級の」、「最も聡明な」である。Stone教授の本には"the best and the brightest collaborative efforts……"などと使用されていた。この韻を踏んだ一句は1972年に出版されたDavid Halberstam著の「The Best and The Brightest(朝日新聞社 浅野輔訳〔ベスト&ブライテスト〕)」がきっかけと言われているそうである。以下引用であるが、「ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ〔最良にして最も聡明な〕人材だと絶賛されたエリ−ト達がなぜ米国を非道なベトナム戦争に引きずり込んだのか?賢者達の愚行を、綿密な取材で克明に綴った記念碑的レポート」とあるそうである。しかし、Wikipediaによれば"the best and the brightest"は既に1800年代のある詩の中に使われており、はたまた1700年代のイギリス王室の文書などに見つけることができるとのことであった。
 Stone教授の話に戻るが、彼の後任は、彼が推薦したハーバード大学のRobert Barbieri教授が選ばれた。Barbieri教授は子宮内膜症のGnRHa薬を用いた治療にあたって、卵胞ホルモン値を極端に下げ過ぎず、E2値を20−40 pg/mlくらいに保つことが副作用も少なくかつ骨代謝にもやさしく長期使用できる良い治療法ではないかと考えるといういわゆる「window therapy説」を提唱した教授であった。日本にも数回講演に来られ、 "the best and the brightest"を地でいく聡明な教授であられた。Stone先生の本の中に「はじめから予想されていたように」と書かれてあったが、Barbieri教授は3年半でハーバード大学の主任教授として栄転して戻られてしまわれた。Barbieri主任教授は平成31年1月現在現職中である。
 Nancy Stoneからの昨年のクリスマスメールは"Wishing a very special holiday to you all. My it be filled with family & friends. My best wishes to every one for a wonderful New Year. Warm regards"であった。
 今回は「最先端の」、「最新鋭の」そして「最聡明の」という特殊用語についてみたが、「最も○○」という言い方にも色々あるものですネ。英語は本当におもしろい。(続く)

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“2度目の”「新しい救命処置を学ぶ半日コース」を受講して 八百枝 潔(やおえだ眼科)

 まず始めに、本講習会を企画して下さった長岡市医師会の方々、指導して頂いた長岡赤十字病院救急科の小林和紀先生を始めとする救急科スタッフ、救急救命士の方々に、ご多忙の中有意義な会を開催して下さったことにつき深謝申し上げます。
 平成31年3月9日、長岡市医師会のご厚意により、2度目のBLS(basic life support)講習会に参加させて頂きました。1度目のBLS講習会に参加したのがいつだったかは失念したのですが、敢えて2度参加した理由は、@そもそも1度目の講習会がいつだったかを失念しているくらいだから、BLSが全く身についていないと思ったこと。Aいざという時に咄嗟にBLSを行動できるくらいじゃないと習得したことにならないと思ったこと。言い換えれば座学では絶対に身につかず、実技あるのみと思ったこと。B当院で最近視野検査の最中に心肺停止になった患者さんが居たこと(幸いにも小生が救急車要請している最中に蘇生し、今でもお元気でいられます)などが挙げられます。
 講習会に参加してみての所感と申し上げますか、反省点ですが、「30回の胸骨圧迫と2回の人工呼吸」の回数をすっかり失念していました。5pの深さでの胸骨圧迫の深さが浅かったようでした。相変わらずフェイスマスクでの人工呼吸が下手くそでした。
 当院からは小生と看護師2人の3人での参加でしたが、1度目の講習会は施設毎にグループ分けされたのですが、2度目の講習会では、敢えて?バラバラのグループ分けでした。したがって、実技が始まるまで馴染むかどうか不安でしたが、幸いにも山古志診療所の佐藤良治先生が明るい雰囲気を作って下さり、4人で和気藹々と実技に臨めました。
 2度目ともなりますと、BLSも結構身体に染み込んでいたように感じました。しかしながら、おそらく数年したらまた忘れることも出てくるでしょうから、長岡市医師会のお許しがあればまた講習会を受講してみたく思います。
 新潟市民病院の救命救急科の副センター長である、田中敏春先生は、小生の大学の同期で大親友なのですが、彼に「2度BLS講習会を受講した」旨伝えると、「新しいガイドラインでの救命救急を学ぶことも重要だけど、イザという時にとにかく胸の真ん中を押し続ける心意気を学ぶことの方が講習会に参加するうえで意義深いかも」で、「(多くの医療施設はあると思うけど)、AED(automated external defibrillator)の使用方法が大切!」との助言を受けました。AEDの使用方法について、@電源を入れる、AAEDの言うことを聴くと小生が答えたら、「言うことなし!」との回答でした。
 2度目の講習会参加でしたので、本会報への寄稿は免除かと思っていましたが、長岡市医師会の星氏にお願いされてしまい、またしても拙文を執筆させて頂きました。2度目ですし、締め切りが近い英文論文査読中のこともあり、短文となったことをご容赦下さい。

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蛍の瓦版〜その50   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 救急医療電話相談(#7119)と小児救急医療電話相談(#8000)

 平成30年2月号の瓦版でご紹介しましたように、救急医療電話相談(#7119)は一昨年の12月から利用が開始されています。成人に先立って平成27年12月に始まった小児を対象とした小児救急医療電話相談(#8000)も順調に運用されています。いずれも総務省の補助事業を活用して新潟県が導入したもので、夜間の急病や外傷に対し救急受診の必要性や対処方法について電話で助言します。夜間19時から翌朝8時までに限り、プッシュ回線や携帯電話から#7119や#8000を介して東京のコールセンターへ直接通じそちらで対応しています。
 新潟県全体の救急医療電話相談は月400件近くの利用があり、地域別ではほぼ人口割合に比例した件数となっています。長岡市・小千谷市・見附市・出雲崎町を含む長岡地域に限ると、概ね月60件利用されています。相談内容では、救急医療に関する相談が約6割で、病気一般に関するものは3割程度あり、その他は薬について等でした。回答内容では、すぐに医療機関に行くよう勧められたものは3件に1件程度で、翌日の受診を勧められたものも全体の1/3程度あり、その他は応急処置や一般的な助言等でした。
 小児救急医療電話相談(#8000)は新潟県全体では月1000件以上の利用があり、長岡地域に限っても月平均約200件と#7119に比べ3倍近く利用されています。診療科別では小児科が78%でその他には脳外科7%耳鼻科4%等でした。相談内容は受診の必要性に関するものが7割以上を占めていますが、救急車要請を含め直ぐの受診を勧奨されたものは約16%と#7119の半分程度でした。その他にも#7119に比べ、症状への対処法や専門的な指導等の助言を求めるものが多くみられています。そのため回答も病気や症状に関するものや経過観察と受診のめやすについての説明、処置や対処法また介護への助言指導が中心でした。
 総務省の統計によると、救急医療電話相談事業導入後は救急車による軽症者の搬送数が減少しているそうです。さらに中越地区では会員の皆さまの御尽力によって運営されている休日・夜間急患診療所や中越こども急患センターも救急医療の一翼を担っております。今後とも御協力御活用よろしくお願いいたします。

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巻末エッセイ〜深田久弥と守門岳 江部佑輔(江部医院)

 私は木曜午後に長岡赤十字病院で禁煙と無呼吸の診療を続けています。帰りにはゴルフの打ちっぱなしに行くことが多かったのですが、最近は帰ってイッパイやるのが楽しみです。4月にもなると、帰宅する5時過ぎでも日がまだ高く、晴れていると大手大橋を渡るときには東山がきれいに見渡せます。通常だとまず鋸山に目が行くのですが、この季節、東山の雪が解け、木々の緑が萌え始めるころになると、にわかにその左手奥にある真っ白な山の一塊に目を奪われます。「守門山」、旧栃尾市(現長岡市)、下田村(現三条市)、守門村(現魚沼市)にすそ野を広げるその広大な山容は標高こそ1537mほどでしかありませんが、この地域を代表する名山にふさわしいものであります。国土地理院の地形図では「守門岳」と表記されていますが、私の中では「守門山」の方がしっくりします。

 守門山は200万年ほど前の火山活動で形成された火山で、現在、火山活動は休止しています。守門山は、大岳、青雲岳、袴岳などのいくつかの山々を総称したもので、袴岳がその主峰になります。冬には5m近い積雪と、日本海からの風を山頂付近は受けるため、大岳から袴の稜線に東洋一と謳われる雪庇を形成します。長岡赤十字病院の頃は結核病棟から見えるその真っ白な山容にいつも心を奪われていました。平成25年の3月末、その誘惑に負けて、知人と登山用のスキーを履いて麓の二分地区から登ることにしました。夏や秋には幾度も登った山でしたが、麓でも1m以上の雪が残る時期に登るは初めてのことでした。事前学習では、4時間もあれば大岳まで行けるとのことでしたし、その日は快晴で、雪も十分締まっていたので予定以上のスピードで登ることができました。大岳山頂は雪に埋もれていたために日ごろ見慣れたものとは違い広大な雪原となっていました。雪庇の先に少しでも近づきたいと慎重にすすんでいると、突然雪庇の向こうから県警のヘリが現れたのです。近辺にいた方によると、数日前に雪庇の崩落で上にいた方が滑落したらしく、その捜索をしているとのことでした。私はそれ以上前に進むことをあきらめ安全そうなエリアを散策し下山しました。守門山は山を知る人ならだれもが認める名山であることは確かでしょう。しかし、深田久弥は名著「日本百名山」にはこの山を選出しませんでした。久弥はそのあとがきに守門山も百名山に入れたかったと記していますが、標高がわずかに低く選出をためらったようです。開聞岳や筑波山のような千メートルに満たない山も選ばれていることを考えると実に残念な思いがします。しかし、久弥も守門山に対する思いは強かったようで、「日本百名山」初刊から5年後の昭和44年に刊行の「わが愛する山々」で守門山について執筆しています。

 久弥が守門山を訪れたのは昭和35年3月で、上越線の夜行で長岡に着き、そこから栃尾鉄道とバスなどを乗り継ぎ栃堀から道院へと登りました。山に関して限りなく貪欲であった久弥はこの山行で守門山だけではなく、一気に浅草岳も攻める計画であったそうですが、天候に恵まれずに浅草岳は断念し、帰路は小出に下山して帰京したそうです。久弥の辿ったルートをいつか行ってみようとは考えてはいますが、雪山に行くことは家内から固く禁じられており、おそらくは叶うことない夢になるでしょう。ただ、冬は無理でも守門山は四季折々に私たちの心を癒してくれます。3月の本誌の巻頭の絵は数年前の5月連休に登ったときに描いたものです。雪が多い年ならその時期でも雪庇を見ることができますが、途中の道は雪解け水でドロドロになり冬より正直しんどい気がします。久しく守門山にはいっていませんが、今年は高山植物の美しくなる初夏にでも登ってみようかと考えています。

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