長岡市医師会たより No.471 2019.6


もくじ

 表紙絵 「6月の河川敷」 丸岡稔(丸岡医院)
 「良寛の世界〜良寛短歌を俳句に〜その一」 江部達夫(江部医院)
 「揺れるスウェーデンの難民受入」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍の瓦版〜その51」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜マチュピチュ」富樫賢一



「6月の河川敷」 丸岡稔(丸岡医院)


良寛の世界〜良寛短歌を俳句に〜その一  江部達夫(江部医院)

 平成二十年は良寛生誕二百五十年に当たり、全国各地で良寛の作品展や記念講演会が開かれた。
 新潟日報社では全国良寛会の協力の下、平成二十年三月から三年間、新潟日報朝刊の第一面に、良寛詩歌の紹介とその解説を、「良寛」の表題で連載した。
 良寛は厳しい修行の中で、清貧をモットーとし、自然を愛し、子供達と遊び、村人達と接し、多くの短歌や俳句、漢詩、書を残している。
 新潟日報に紹介された七百余首の短歌の中、百十二首を俳句にしてみた。
 短歌を俳句化することは、十四文字も少なく表現することから、歌意の全ては伝え切れないが、それなりの味が出せたのではと思っている。
 文の形式は、初めに俳句、次いで元歌とその歌意を記し、その歌を通しての良寛の心情を推察した。
 また歌は新年より始まり、年末まで一年を通したものに並べてみた。

1.晴れ渡る今日の富士の嶺言葉なし

 言の葉もいかがかくべき雲霞 晴れぬる今日の不二の高根に

 雲や霞もなく晴れ渡った今日の富士の嶺は、言葉では言い表せないほど美しい。
 新年を詠んだもの。

2.我庵(わがいお)は餅を絵に描き神仏に

 世の中は供へとるらし我庵は 餅を絵に描き手向(たむ)けこそすれ

 世間ではお正月に神や仏に餅を供えているようだが、私の庵は何もないので、餅を絵に描いてお供えしよう。
 質素な生活の中にも新年の喜びがあったのだ。

3.心悲しあらたまの日の暮れゆくは

 むらぎもの心悲しもあらたまの 今年の今日も暮れぬと思へば

 楽しみに待っていたお正月の一日が暮れてゆくのが惜しまれることよ。
 「むらぎもの」は心にかかる枕詞。

4.酒わさび神馬藻(じんばそ)届く春楽し

 神馬藻(じんばそ)に酒にわさびに賜(たまわ)るは 春はさびしくあらせじとなり

 神馬藻に酒やわさびが届き、お正月の食卓も寂しくなくなったよ。
 神馬藻は赤藻屑(あかもく)、ホンダワラ科の海草で酢の物などがおいしい。
 わさびは国上山の沢に生える百合山葵のことか。茎や葉に辛味がある。酒のつまみになる。

5.老いの身は火あれどすき間風寒し

 火と我とあれども寒しすき間風 いづくも同じおいらくの身は

 いろりに火があっても、老いの身には隙間風が寒く感じられるものだよ。
 酒造家から好物のお酒が届いた時の礼状の歌で、寒い時には体の中から温めるのが嬉しかったのだろう。

6.今は昔来世は今が夢のよう

 古(いにし)へを思へば夢の世なりけり 今も来む世の夢にぞあるらむ

 昔のことを思うと夢のような世であったが、今の世も過ぎ去ってみれば、現実の世のつらさが夢のように思われるのだろう。
 この歌は百人一首にある藤原清輔朝臣の歌(出典、新古今集)、「長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」が思い出される。

7.今宵雪刈田の鴨はいかがせん

 我が門の刈田の面にゐる鴨は 今宵の雪にいかがあるらん

 私の庵の前に広がる刈田にいる鴨達、今宵しんしんと降る雪の中、どのように夜を過ごすのだろうか。
 良寛の慈愛の心は生あるもの全てに。

8.今いくつ寝(い)ぬれば春来む月日よみ

 今よりは幾つ寝(い)ぬれば春は来む 月日よみつつ待たぬ日はなし

 冬の五合庵には訪れる人もいないので、今幾つ寝たら春が来るのだろうかと、月日をよんで春を待っているのだよ。
 春、雪が消え、庵に村人や子供達がやって来るのを楽しみに待っている。

9.世は濁る谷川の水澄み流る

 濁る世を澄めともいはず我なりに 澄まして見する谷川の水

 濁ってゆくこの世の流れを、澄めというわけではないが、谷川の水はおのずから澄んで流れてゆくよ。
 良寛の澄んだ心には、世の中からだんだん正しさが無くなってゆくのが憂えられるのだ。

10.雲渡る雁の白き羽雪が降り

 ひさかたの雲ゐを渡る雁がねも 羽白砂(はねしろたえ)に雪や降るらむ

 雲の間を渡ってゆく雁の白い羽に雪が降っているのだろう。
 「如月末つ方なお雪の降りければ」と詞書がついている。
 二月末の北帰行の雁の姿を詠んだ。

11.峯の雲谷の霧晴れ春日差し

 峯の雲谷間の霞立(たち)さりて 春日に向ふ心地こそすれ

 山々の雲や谷の霞もきれいに晴れて、おだやかな春の日差しになってゆく心地がすることよ。
 春は心も晴ればれしてゆく良寛。

12.梅咲かぬ鶯鳴かぬ庭に来し

 鶯もいまだ鳴かねば御園生(みそのう)の 梅も咲かぬに我は来にけり

 鶯もまだ鳴いていないお庭、梅の花さえも咲いてないのに私は来ているのだ。
 阿部定珍の「わが園の梅も咲かねばうぐひすもいまだ鳴かぬに君は来にけり」への返歌。御園生は、ここでは定珍の庭。春を待ちかねて友に会いに出かけたのである。

13.この庭に集いし如月(きさらぎ)花の宵

 えにしあればまたこの館に集いけり 花の緒(ひも)とく如月の宵

 縁があってまたこの館(阿部定珍の家)に集まることができた。この如月(今の三月)の宵、花が咲き始めたよ。

14.友は逝く梅花よ老いの身慰めよ

 梅の花老いが心を慰めよ 昔の友は今あらなくに

 梅の花よ、老いてゆく私の心を慰めておくれ。昔一緒に花を見た友は今はいないのだ。

15.梅の花髪に飾りし昔思う

 梅の花折りてかざしていそのかみ 古りにしことをしぬびつるかも

 梅の花を折って髪に飾り、昔のことをしのんでいるのだなあ。
 「いそのかみ(石上)」は降る、古るにかかる枕詞。

16.梅林に鳴く鶯や春来たり

 うちなびき春は来にけり吾園の 梅の林に鶯ぞ鳴く

 うららかな春がやって来た。吾が庭の梅林に鶯が美しい声で鳴いているよ。
 「うちなびき」は春の枕詞。

17.いま盛る梅見の宴(うたげ)過ぐる惜し

 梅の花いま盛りなりぬばたまの 今宵の夜半の過ぐらくも惜し

 梅の花は今がまっ盛りだ。今宵の梅見の宴が夜も更けて、終わるのが惜しまれることよ。
 「ぬばたまの」は黒、夜にかかる枕詞。
 梅を愛で、宴も好きな良寛の心情がよく分かる。

18.鶯の鳴かずば梅花雪と見し

 鶯の声なかりせば梅の花 こずゑに積もる雪と見ましを

 鶯の囀りが聴こえなければ梅の花を、梢に積もる雪と見まがってしまうことよ。

19.梅の花香なくば雪花と見まがえり

 ふる雪にまがへて梅の花咲きぬ 香さへ散らずば人知るらめや

 降る雪と見まがうように梅の花が咲いている。香さえまき散らさなければ人は気づかないでいるだろうよ。

20.我は老う梅花は春に咲き香る

 梅の花また来む春は咲くらめど 下降(したくだ)ちゆく我ぞわびしき

 梅の花は春が来れば咲き香ってゆくのだが、年々老いてゆく我はわびしいものであるよ。
 自然の偉大さに対して、人の世のはかなさを詠う。

21.鳴け鶯吾が宿の梅今盛り

 声立てて鳴けや鶯わが宿の 梅の盛りは常ならなくに

 大きな声で囀ってくれ鶯よ、わが宿の梅の盛りはいつまでも続くのではないのだから。

22.訪ね来て鶯散らす梅花見に

 心あらば訪ね来ませ鶯の 木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に

 もしよかったら訪ねて来ませんか。
 鶯が枝から枝へと伝って、散らしている梅の花を見に。
 鶯や雀などの小鳥達は花の蜜を吸っては花を散らしている。そんな光景を良寛は楽しんでる。

23.風に散る梅の木伝い鶯鳴く

 風吹かばいかにせむとか鶯の 梅の上(ほ)つ枝(え)を木伝(こづた)ひて鳴く

 風が吹いて来たら花が散るので、鶯はいかにしょうかと気をつかい、梅の木の高い枝を伝いながら鳴いているよ。

24.梅の花散るとも香残せ我が宿に

 梅の花散りは過ぐとも我が宿に 香をだに残せ春の形見に

 梅の花よ散ってしまっても我が宿に、春の形見としてせめて香だけでも残してほしい。
 はかなく散ってゆく梅に語りかけている良寛。

25.この宿で梅花相見し散るもよし

 この宿に来(こ)しくも著(しる)し梅の花 今日は相見て散らば散るとも

 この家に来たしるしに、今日は一緒に梅の花を見れたので、もう何時散っても思い残すことはないよ。
 粟生津(あおうず)の医師順亭の家を訪ねた。

26.指折りて数える春はもう半ば

 手を折りてかき数ふればあづさ弓 春は半ばになりにけらしも

 指を折って数えてみると、春はもう半ばになったようだ。
 良寛の島崎の宿に弟の由之(ゆうし)が訪ねた時、雪が降って帰れなくなった。良寛は雪消えを願い詠んだもの。

27.山べ摘むかたこ食べたし子供らと

 あづさゆみ春の山べに子供らと 摘みしかたこを 食べばいかがあらむ

 春が来たら子供たちと山に行き、かたくりを摘んで食べたらどんなに楽しいだろうか。
 春になったら子供たちと野山で遊びたいと思う良寛の心情だ。

目次に戻る


揺れるスウェーデンの難民受入  福本一朗(長岡保養園)

 移民や難民に寛容なことで知られる北欧スウェーデンで、反移民感情が高まっている。難民受け入れ凍結を掲げるネオナチ極右政党「スウェーデン民主党」が支持を伸ばし、9月の総選挙では第1党をうかがうかも知れないと、スウェーデン国民は心配していた。人口780万人のスウェーデンは、これまで55万人もの難民を受け入れ、毎年8400億円もの難民対策費を支出している(Fig.1)。しかしシリア内戦による大勢の難民が欧州に逃れてきたため、昨年1年でも15万人以上の難民を受け入れることになり、従来は仮設アパートなどを難民に開放していたが間に合わなくなった(Fig. 2)。現在では仮設テント、教会、軍兵舎、刑務所施設から古い防空壕(ごう)までも活用して急場をしのいでいる。それでもまだ、約3万人分の収容施設が不足しているという。そのため一昨年12月から、入国する難民数の制限を目的に国境管理や難民申請者への対応を厳しくし、新たな申請者は一時的な滞在許可しか与えられず、家族の呼び寄せも難しくなった。
 「難民条約」と略称される「難民の地位に関する条約(Convention Relating to the Status of Refugees)」は、1951年7月28日国際連合全権委員会議で、難民の人権保障と難民問題解決のための国際協力を効果的にするため採択した国際条約であり、加盟国数は143カ国で日本も1981年に加入している。難民条約の本文では、難民に対する人道支援や社会保障・帰化等について規定するが、とりわけ第31条はその滞在の不法性に対して刑罰を科してはならないことを明記し、第33条は生命や自由が脅かされる危険がある地域に何人も追放してはならないと規定している。
 またブリティッシュ・カウンシルが作成した移民統合政策指標(MIPEX 2015)では、38カ国を8つの政策分野(労働市場・家族呼び寄せ・教育・保健・政治参加・長期滞在・国籍取得・反差別)について167の政策指標を設け、数値化して評価しているが、総合的な評価ではスウェーデンが1位(78点)となり、ポルトガルが2位(75点)、ニュージーランドが3位(70点)となり、以下フィンランド、ノルウェー、カナダ、ベルギー、オーストラリア、アメリカ、ドイツとなって、日本はスロベニア、ギリシャと並んで27位(44点)であった(最下位はトルコで25点)。これに反してフランス・イタリア・ハンガリーなどの国々では、シリア難民に対して国を閉ざし、幼い子供達を遭難死させたとして世界中から避難されている(Fig. 4)。戦争は平和に暮らしていた人々から未来と生活を奪う。もとより内戦の犠牲となった難民には、何の罪もなく突然不幸に見舞われたという点では、自然災害と同じである。人類はお互いに助け合うことで進化し、地球の支配者となった。古代ローマ帝国は敗者にローマ市民権を与えて同化することで、千年の昔に百年の平和(Pax Romana)を実現した。世界に冠たる平和憲法である日本国憲法前文に「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と謳うことに対して、「〇〇ファースト!」と大声を張り上げて他国民を無視する国はネアンデルタール人の様にいつかは滅びる運命にある。困っている他人を助ける博愛人道主義こそが、お互いに生き残る唯一の道である。
 排外的なスウェーデン民主党に対して、「我が国の国民性は合理性である」と誇るスウェーデン国民の大多数は、世界平和主義の旗手であった故オロフ・パルメ首相の意思を継いだスウェーデン社会民主労働党を圧倒的に支持しており(Fig. 3)、難民受入れ継続の意思を堅持している。例えばスウェーデンの警察官達は「私たちの美しい国へようこそ」と歓迎する動画をフェイスブックに投稿し、「私たちは皆、同じ権利と義務を持つ対等な人間だ。あなたたちがこの国で安全だと感じるように何でもする」などと呼びかけて話題になった。
 これに対して、全国難民弁護団連絡会議によると「世界中で紛争または迫害から避難を余儀なくされた人の数」は,およそ6500万人とされているが、そのうち日本が受け入れているのは3000人(いずれも2016年末時点)にすぎない。本来隣人愛に富み、困っている人に手を差し伸べることを徳とする日本人にとって恥ずかしいことである。それは歴代の政府の、難民の現状と解決方法を国民に周知せず、先進諸国の一員としての義務を忘れた首尾一貫しない難民政策に起因していると思われる。
 ここで「難民」と「移民」を区別して考えねばならない。さらに政治的理由で庇護を求める「亡命者」は国際法上入国を許可すべき義務はないので、天災・戦禍などによって生活が困窮し住んでいた土地を離れ安全な場所へ逃れて来た犠牲者である「難民」とは峻別されるべきである。

 もともと長期の定住と労働を目指す「移民」は受入国の労働政策に依存するものであり、新しい国民として完全に同化させねばならないため、移民に対する無償の言語教育を含む定住支援・生活環境順応・就労支援・子弟教育などに国として重い責任が課せられる。尤も移民元の言語や文化を我が国でも保持することが奨励されることは、移民の当然の権利として留意せねばならない。それは多民族国家である米国をみてもわかる様に、新しい文化や考え方を受け入れることがその国の産業発展と民度進化にとって計り知れない価値を産むからである。これに対して純粋に人道支援の立場から行われる「難民」政策は、緊急に困っている人々を助けるために全世界の国々に等しく課された義務であり、その性質として短期的・恩恵的・現状復帰指向であることにその特徴がある。そのためには難民発生国の隣国にのみ負担を強いるべきではなく、その費用は難民発生国を含む全世界が均等に負担するとともに、母国に帰国するまでは多数の国々が、短期間毎に交互に難民キャンプ設置と維持を引き受けることが重要と考える。もちろん受入国の許可があれば難民を移民として受け入れることも許されるべきであるが、原則として難民には期間を定めた居留しか許可せず、その後は当人の望む居留希望リストに従って国を移動する事にすれば、現在の難民問題の多くは解決すると思われる。あらゆる権利には義務が伴うので、難民に対しても、移民と異なり難民を保護すべき義務は本来母国にあるのであって、受入国には“緊急避難として好意で臨時に住まわせてもらっている”ことを自覚させ、もし受入国に移民として永住したければ、受入国の言語を習得し、歴史・地理を学び、その国の習慣・制度を受け入れ、その国の善良な国民として就労することが求められていることを周知させるべきである。ただそれは例えば、コーランによる男尊女卑が当然と考える厳格な回教国の人々にとっては困難な事かもしれないが、同じイスラム国でもインドネシアなどでは女性の権利が認められ社会進出も進んでいることを考えると将来的には不可能なことではないと思われる。
 フランス革命以来幾多の犠牲を払いながら近代西欧社会が築いてきた自由・平等・博愛の精神および基本的人権・言論自由・男女平等・宗教融和・政教分離・法による支配・民族自決などの近代思想と、「剣かコーランか」と思われて排他的と言われるイスラム教徒との和解は難しいと思われるかもしれない。しかし13世紀のシチリアには自らアラビア語を話し、スルタン・アル・カミールと和解してエルサレムを無血解放した神聖ローマ皇帝フェデリーコ2世がいた(Fig.5)。彼はローマ法王から2度も破門されたがイスラムとの平和的共存策を放棄せず、法王に要求された武力的十字軍を実行しなかった。またシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐して10,000人を捕らえたが、彼らを新たに建設した都市ルチェーラに移住させ自治を許した。それを感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、以後フェデリーコ2世の指揮下でローマ法王と戦った。
 1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学を創立した。皇帝はかつてのローマ皇帝たちが施行した法令を元に編纂した『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』を発布して、都市・貴族・聖職者の権利の制限・司法行政の中央集権的性質の確立・税制金貨の統一を行なったばかりか、貧民を対象とした無料の職業訓練施設・私刑の禁止・薬価の制定・役人に対する不敬・賄賂の禁止など18世紀の啓蒙思想を先取りした近代国家制度を創設した。個人としてもすぐれた詩人・科学者であり、文芸の保護に努めるとともに、動物園や薬剤師制度を創設し、自らの経験と体験から学んで科学的な趣味の書である「鷹狩りの書」を著したほか、人体解剖まで行った。彼の宮廷ではローマ帝国時代の伝統の復興、ルネサンスより200年早い古典古代復興の運動が起こった。もしフレデリーコ2世のような開明的・融和的君主がその後も輩出していたならば、現在のパレスチナ問題やイスラム・テロなどは起こらなかったであろうと残念である。
 難民問題は人間性の問題であり、まさに国民の民度と国家の品格が問われている。基本的人権と平和国家・国際協調を確約する日本国憲法を有する我が国の揺るぎない対応に、世界が注目していることを忘れてはならないと考える。

目次に戻る


蛍の瓦版〜その51 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 認知症(番外編)

 蛍の瓦版49号で取り上げた認知症に関する話題に若干付け加えます。

 1.認知症初期集中支援事業

 認知症初期集中支援事業は新オレンジプランに提起されたもので、厚労省の当初の想定では、新たに認知症と診断された方に早期から多職種で関わっていくことを目指しています。長岡市では平成27年9月から悠遊健康村病院所属の多職種によるチームが活動を開始し、平成28年17件、29年13件、30年6件の実績があります。多職種の連携が比較的円滑に行われている長岡市における本事業の対象は、ご本人の病状が重いケースや家庭環境に問題がある等の困難事例です。様々の要因によって対応に苦慮されているケースがございましたら、是非一度ご相談下さい。

 2.認知症高齢者等見守りシール

 認知症等により行方不明になる可能性のある高齢者等の情報を、あらかじめ登録していただき、地域包括支援センターや警察等の関連機関で情報を共有します。登録者には個人が特定できる登録番号が記入された“見守りシール”が配布され、ご本人の衣類や持ち物に添付していただきます。シールタイプ・反射板タイプ・アイロンタイプの3種類があり、行方不明等の場合の身元確認に役立てます。これは長岡市が全国に先駆けて独自の施策として1年前に開始した事業で、現在までに61例の登録があります。

 3.個人賠償保険

 個人賠償保険をご存知でしょうか?
 日常生活や住宅等の管理使用に起因して、第三者の身体や財産に損害を与えその賠償を負担した場合に保障してくれる保険です。自転車走行中に歩行者と接触して怪我をさせたり、ボール遊び中に隣家のガラスを割った等の場合に適応されます。労働災害や自動車損害賠償責任保険(自賠責)の対象や、悪意を持って故意に行った行為等には適応されません。通常は自動車保険や火災保険の特約として付いていることが多く、同居の親族もカバーしていることが一般的です。この親族には、法律上は責任能力の無い児童や判断力の低下した方も含まれます。
 一度ご自分の加入されている保険の特約を確認されてはいかがでしょうか?!

 目次に戻る


巻末エッセイ〜マチュピチュ  富樫賢一

 誰もが一度は訪れたい天空都市マチュピチュ。発見したのは米国人ビンガムで、1911年。今でも観光客は米国人が最も多く、次いで韓国、日本は3位。

 マチュピチュに行こうというその日、張り切って5時起床、6時朝食、7時にはホテル発。ところが9時発のラタム航空の飛行機にはいっこうに搭乗できない。代替飛行機の準備が出来次第出発だと言う。その説明は一切無し。結局2時間遅れで離陸、クスコ到着は昼過ぎ。予定されていたクスコ市内観光は後日ということになった。

 インカ帝国の首都であったクスコは標高約3399mの高地にある。着くなり高山病予防に水分補給を忘れないでと、チャラチャラした現地ガイドの注意がとぶ。この若いガイドは以前銀座でボーイをしていたとのこと。マチュピチュ行き列車が出るオリャンタイタンボ駅まで2時間、バスで行く。オリャンタイタンボは「聖なる谷」のほぼ中心に在る。そこで豪華列車ハイラム・ビンガムを見ながら普通列車に乗り込む。それでもドリンクサービス付き。ガイドが勧めるチチャモラーダ(トウモロコシをレモンと煮込んだ黒汁)を飲んでみたが、やはり女房と同じコカ茶にすれば良かったと後悔。車窓にはインカ時代の遺跡やアンデスの絶景が次々と現れる。ガイドがあれは何々だと言うと、ワーとばかりに撮影隊が前後左右に移動する。カメラを持たない私だけがボーとしていた。

 1時間半で到着。マチュピチュ駅からホテルまで、人込みを掻き分けながらお土産屋が立ち並ぶ細い路地を歩く。きつい登りだったが、ホテルのフロントから自分達の部屋までもかなりきつい。部屋はロッジ風。水道水は飲めないし、トイレで紙は流せない。そうそうに食堂へ。夕食はビュッフェスタイル。ビールを頼むと、その王冠を何気なく素手で開けたウエイトレスにビックリ。

 快眠後早めに朝食を済ませ散歩へ。駅まで下り、橋を渡って居住区まで行く。村の人がすれ違うたびにオラーと声をかけてくる。私達をスペイン人と間違っているようだ。居住区は活気があり、早朝から大勢の人が体操をしたりサッカーをしたりしている。貧しそうだが皆明るい。あちこち歩き回りホテルに戻った。

 ホテルへの途中長蛇の列に遭遇。戻るやガイドに8時なんて言ってないで、さっさと並ぼうと急がせた。邪魔にならないよう道路脇に並び、最後尾から少しずつ前に進んだ。1時間位でやっと先頭が見えた。駐車場に並ぶ10台以上のバスはなんとすべてベンツ社製。係員が往復の乗車券とパスポートをチェック後やっと乗車。駅から遺跡まで、バスは山中の道なき道を突っ走る。かなりのスピードだ。周りは樹木が鬱蒼としていて良く見えないが、左側は山、右側は崖のようだ。時々あがる悲鳴も運転手の耳には届かない。ひたすら突っ走る。道は細くすれ違いの余地は全くない。従って一方通行。

 30分位で到着。とはいっても入場できる人数は制限されているのですぐには入れない。暑い中かなり待ってやっと入場。まずは入口からマチュピチュ絶景ポイント「見張り小屋」まで急な階段を登る。ガイドが最大の難所だと言う。途中何度か休憩しながらどうにか辿り着く。そして、そこから見た景色はまさにマチュピチュ。その日は好天で遠くまで良く見渡せた。よく来たものだという感激とともに、ただただ景色に見入った。ガイド指定の場所に立ち、マチュピチュとともに定番の写真撮影。近くで寝そべるアルパカがバカにしたようにこちらを見ていた。

 目次に戻る