長岡市医師会たより No.474 2019.9


もくじ

 表紙絵 「夕焼けのシンフォニー」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「荒川修二先生を偲んで」 角田典穂(白根緑ヶ丘病院 前長岡保養園院長)
 「旅行初日はアクシデント連発」 大和靖(長岡赤十字病院)
 「良寛の世界〜良寛短歌を俳句に〜その四」 江部達夫(江部医院)
 「200年の平和を実現した古代ローマ都市国家の智慧2」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍の瓦版〜その53」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜東京に再び オリンピックの聖火輝く!」 福本一朗(長岡保養園)



「夕焼けのシンフォニー」  福居憲和(福居皮膚科医院)

一日のクライマックスの夕焼けの中、

海の魚達が歓喜で舞い上がり、

愛する二人を夕日が照らし包み込んでいくのです。


荒川修二先生を偲んで 角田典穂(白根緑ヶ丘病院 前長岡保養園院長)

 令和元年8月25日に医療法人至誠会前理事長である荒川修二先生が亡くなられました。先生は亡くなられる迄の9年間保養園で御家族や職員からの手厚い心のこもった看護を受けて過ごされていました。
 私は平成4年4月から平成28年3月まで保養園で勤務させていただき、先生の謦咳に接させて戴いた関係から、今回先生のお人柄の一端でもご紹介したいと考えています。
 先生は江田島の海軍兵学校在学中に終戦を迎えられ、その後新潟医科大を卒業され、病理学教室に入局されて独マックス・プランク研究所へ留学され、その後新潟大学精神科医局に入局されました。そして当時東洋一と言われた長岡の悠久莊へ赴任されました。
 その後昭和39年に長岡市より宮内病院を引き継ぎ、昭和42年に長岡保養園を精神科病院として開設されました。その後進行する高齢化への対応という地域社会のニーズもあり、病院の増改築や施設整備を行い、昭和55年には老人病棟を、そして昭和63年には老人保健施設やすらぎ園を併設しました。そして平成4年には特別養護老人ホームまちだ園を誘致し、平成7年には老人病棟を療養型医療施設に転換し精神科病棟もすべて開放の精神療養病棟に転換して、同一敷地内に三施設が一体となって医療・保健・福祉の、在宅から入院まで一貫したサービスを提供できる、現在の地域から必要とされる至誠会としての体制を整えられました。
 その頃先生が良く言われていたのは「世の中が良くなるようにしていけばいいんだ。法律などは実情に合わせて整備されるんだから、後からついてくるんだ。前例に従っていたらそこで止まってしまうんだから。」ついつい問題が起きないように、と活動が萎縮してしまう我々を叱咤激励する言葉でした。
 先生の思考・行動の基底にあるのは、ご本人もよく仰っておられたのですが、江田島の海軍兵学校での全国から集まった優秀な学生が互いに切磋琢磨しあう生活と、終戦というそれまでの価値観の転換を迫られたこと、そして医学部の病理学教室への入局、マックス・プランクへの留学であり、“先入観に囚われず”にあったようです。ただここまでだったら私たちの知っている荒川修二先生ではなく、クールに解剖をして、身体病理を理路整然と追及する研究者としての先生が出現していたのでは、と考えます。しかし先生は当時の精神科医局の上村教授に誘われて精神科に入局し、悠久荘へ赴任されます。当時の精神科は治療よりも収容が優先され、社会から隔絶された患者さんを治療者の人間性を武器に道徳療法・作業療法で安定させるという時代でした。その頃の経験が保養園を開設し運営していく背景にあったのでは、と推察するのです。保養園を開いてからのことは、いろいろとご苦労はあったのでしょうが、楽しそうに話してくださいました。当時から入院していた患者さんたちも、病院周囲の松を植えたり、田んぼや畑の農作業を先生と一緒にしたことを懐かしそうに話してくれたものでした。
 プライベートでの先生はビール、特にキリンのラガーが大好きで、それも一人で飲むというよりは我々や病院スタッフを引き連れて夜の殿町へ繰り出していたものでした。先生は私よりちょうど二回り年齢が上でしたから当時既に60代半ばを過ぎておられたはずなのに、誰よりも元気に酔いながらタバコをふかしながら、保養園の昔のこと、これからの至誠会のことなどを話されるのは、とても楽しいものでした。
 他にもゴルフ、スペイン語、錦鯉、絵画等々とても説明しきれない関心と見識の広大さの持ち主でいらっしゃいました。
 最後に先生が倒れられたときには、長女の育子先生に「これが脳梗塞の症状か、よく見て置け」と言っておられたということを聞いて、いつも客観的であろうとされた先生らしいと感じたものでした。
 ここまで書いてきて、私では荒川修二という人物を、きちんと解剖して合理的に説明することはできないことだと思い知らされました。「できもしないことを感情で引き受けちゃだめだよ」という先生のお叱りの声が聞こえてきそうです。
 このあたりで筆を擱かせていただきます。
 荒川先生どうぞ安らかにお休みください。

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旅行初日はアクシデント連発  大和靖(長岡赤十字病院)

 嫌な予感は、成田空港へ向かう空港送迎タクシーの中から感じていました。2019年7月某日、我々夫婦は、夏休みを利用し、アンコール遺跡への旅行に出発しました。空港送迎タクシーは、深夜に自宅を出発し、上里パーキングエリアで他の地域からきた客と合流し、成田空港へ向かいます。ところが、合流後、我々の後ろに座ったおばさん2人が、くだらない話をずっとしゃべり続け、眠れません。「静かにしろ」と言う勇気もなく、そのまま成田空港に到着しました。おばさん達から解放され、やれやれと思いながら、JTBの受付を行い、ベトナム航空のチェックイン(ハノイ経由カンボジア・シェムリアップ行き)も順調に済み、出国審査も終えて、搭乗口に控えていました。10時出発予定でしたが、「機内整備のため出発が遅れます」とのアナウンスが何回かあり、少し不安を感じていたところ、突然「ベトナム航空311便は欠航となりました。」とアナウンスされました。なに、飛ばない?どうすればいいのか、一瞬頭が真っ白になり、まずはJTBの空港事務所へ連絡したところ、「現在調査中で、代行便が飛ぶのか、別の便に振り替えるのか、問い合わせ中です」とのことです。何度か連絡を取り合い、「ホーチミン経由でシェムリアップに行くことになった。そのうち搭乗口カウンターから名前を呼ばれるので、待機してください」と指示がありました。ところが、他の人は名前を呼ばれ、次々と別の搭乗口に向かいますが、我々の名前は呼ばれません。満席になってしまって、もうだめなのか、今日長岡に帰っても、この休暇中どう過ごしたらよいのか、などと考えていたところ、ようやく「ミスターヤマト……」とコールがかかり、ホーチミン行きに乗れることになりました。離陸は12時近くになり、当然機内は満席です。6時間ほどでホーチミンに着き、今度は乗り継ぎカウンターに急ぎます。乗り継ぎ時間は1時間ほどしかありません。ところが、乗り継ぎカウンターは、同様の災難にあったと思われる日本人が30人ほどいて、ごった返しています。ようやく、シェムリアップ行きの搭乗券を受け取り、何とかぎりぎりで搭乗しました。飛行時間は1時間ほどで、シェムリアップに着いたのは、現地時間17時半でした。当初の予定の便で来れば、20時ころ到着でしたので、「何だ、早く着いて、返って得したみたい」と思ったのは、甘い考えでした。入国審査も無事おわり、あとは荷物をピックアップしてホテルへ向かうはずでしたが、荷物が出てきません。ターンテーブルの上を荷物がぐるぐる回っているだけで、排出口から新しい荷物は出てきません。同じように、荷物を待っている日本人が20人位います。誰かが、係の窓口に行って聞いてみたところ、「そのうち出てくるから待っていて」と言われたそうです。しかし、30分ほどたつと、ターンテーブルの荷物もなくなり、ロストバゲージは確実となったため、日本人は「被害者団体」を結成して、窓口と交渉しました。結局、ホーチミンに置き忘れてきたらしく、荷物は今日中に着く予定なので、書類を提出し、ホテルで待っていてほしいとのことです。仕方がないので、書類を提出し(この時クレイムタグ必需)、到着口を出て現地係員と合流し、ホテルまで移動しました。ホテルへ着いたのは、20時過ぎでした。疲れ果てたので、ホテル内のレストランで夕食を食べ、シャワーを浴びたものの着替えはなく、そのまま眠ってしまいました。すると、23時頃荷物が届いたとの連絡があり、ようやく荷物を受け取り、翌日の観光に備え眠ることができました。翌日からのアンコール遺跡観光は、天気にも恵まれ、すばらしい遺跡群を堪能することができました。日本への帰国便は、予定通り運航され、無事帰国できました。今回の教訓としては、このような航空機のトラブルの場合は、やはり大手旅行会社が頼りになること。個人旅行では、便の変更は無理だったと思います。また、ガイドブックなどに、「機内持ち込みの手荷物には、必要最小限の薬や着替えは入れておくこと」と書かれていますが、その通りだなと実感しました。また、現地でトラブルになった際は、だれか頼りになる人を見つけて、その人について行動するのが得策のようです。皆様も、海外旅行の際は、最悪の場合も想定した準備をして、ご出発下さい。

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良寛の世界〜良寛短歌を俳句に〜その四  江部達夫(江部医院)

85.秋紅葉夏時鳥忘られじ

 露霜の秋の紅葉と時鳥 いつの世にかは我が忘れめや

 日ごと深みゆく紅葉の美しさと、夏の時鳥の鳴き声は、何時になってもわたしは忘れることはない。
 「露霜の」は「秋」にかかる枕詞。
 ほととぎすが南に向かう頃から始まる紅葉、移り変わる季節に自然への畏敬の念を持つ良寛。

86.萩すすき手折りて衣手染(し)みこませ

 この岡の秋萩すすき手折りてむ 我が衣手に染まば染むとも

 この岡に生えている萩の花やすすきを手で折り、衣の袖に花の香や色を染みるだけ染みこませてみようよ。
 秋の衣替えの時季を楽しんでいる良寛。

87.秋淋し虫の鳴く音に野辺の花

 いつはとは時はあれども淋しさは 虫の鳴く音に野辺の草花

 いつと言うのではないが、秋は虫の音を聞く時や、野の草花を見ていると淋しいものだ。
 良寛はこの句と次の句で、暮れて行く秋を虫や草の花にたとえ、自身の心の中を詠んでいる。

88.虫の音に乱れ咲く花秋夜あはれ

 あはれさはいつはあれども 秋の夜は 虫の鳴く音に八千草の花

 自然の中でしみじみとした感動は何時の世でもあるものだが、深みゆく秋の夜の虫の音や野に咲き乱れる草花には心が動かされる。

89.夜露下り山路は寒し立ち酒を

 露は置きぬ山路は寒し立ち酒を 食(お)して帰らば けだしいかがあらむ

 夜露が下りている山道は寒い。お立ち酒を飲んで、元気をつけて帰られたらどうでしょう。

90.月待ちて帰られ山路毬(いが)が落ち

 月(つく)よみの光りを待ちて帰りませ 山路は栗の毬(いが)の落つれば

 山路には栗の毬が落ちていて危ないので、月が明るく照るのを待って帰られたら。
 「月よみ」は「月」と同じ。月夜見(つきよみ)。

91.笹に降る雨音秋もうら寂し

 山奥に見捨てて帰る薄紅葉 我れを思はん浅き心と

 奥深い山に色づき始めたうす紅葉に、何の関心も持たずに帰ったわたしを薄情な奴と思っているだろうよ。

92.雨よ降れ山田の苗のかくるまで

 秋もややうら寂しくぞなりにけり 小笹に雨の注ぐを聞けば

 秋も次第にもの寂しくなって来たようだ。笹に雨が降り続いている音を聞いていると。

93.日々夜風寒く虫の音弱々し

 虫の音も残り少なになりにけり 夜な夜な風の寒くしなれば

 あれだけ賑やかだった秋の虫の音も、夜ごとに吹く風が寒くなるので、残り少なくなったよ。

94.菊さかり観れて時雨の降るもよし

 かみなづきしぐれふるとも よしゑやし 菊のさかりをあひみてのちは

 十月末の阿部定珍のお庭。さかりの菊の花を見れて、もう何時時雨が降っても、思い残すことはないよ。

95.風夜ごと寒さ増す野に鈴虫が

 秋風の夜ごとに寒くなるなべに 枯野に残る鈴虫の声

 秋が進むにつれ、風も夜ごとに寒くなって来た。しだいに草木も枯れてゆくなか、鈴虫のか弱い鳴き声が聞こえて来るよ。

96.色づかぬ黄葉(もみじば)散らす山の風

 色づかぬ黄葉(もみじば)の 色づかぬ間を何か頼まむ

 山の風は時節を考えずに吹くので、葉がまだ色づかないから散らないといえようか。
 与板の俳人、中川都良の訃報に接して詠んだもの。

97.冬隣(となり)なりて雄鹿の声恋し

 秋もやや残り少なくなりぬれば ほとほと恋し小牡鹿(さおしか)の声

 秋もだんだん残り少なくなってくると、雄鹿の鳴く声が本当に恋しくなって来るよ。

98.秋深くなりて帰らむ我が庵へ

 秋もややうら寂しくぞなりにけり いざ帰りなむ草の庵に

 秋もしだいに深まり、なんとなく寂しくなってきた。さあ帰るとしよう我が庵へ。
 陶淵明の「帰去来辞」を思い出しながら詠んだもの。

99.十日前来たれば見せし山紅葉

 十日まり早くありせばあしびきの 山の紅葉(もみじ)を見せましものを

 十日あまり早く訪れてくれたならば、山の盛りの紅葉をお見せできたのに。
 五合庵の周りの山々の紅葉は素晴らしかったのだ。

100.虫音絶え時雨れる秋の暮れ寒し

 肌寒(はだざむ)み秋も暮れぬと思うかな 虫の音も離(か)る時雨する夜は

 秋も深まり、虫の音も絶え時雨れる夜は、肌寒さが一段と身に染みることよ。

101.峰々の紅葉散り果てうらさびし

 遠近(おちこち)の山の紅葉(もみじ)ば散り過て うらさびしくぞ成りにけらしも

 国上山の峰々を紅く染めた紅葉(もみじ)もすっかり散り、なんとなく寂しい庵での暮らしになってしまったよ。

102.木の葉時雨今朝は雨音里の庵

 はらはらと降るは木の葉の 時雨にて 雨を今朝聞く山里の庵

 国上山の庵にいると、風が吹くと枯葉がしぐれのように降って来る。今朝は雨音も混じって聞かれた。

103.降り続く時雨に峰の紅葉散り

 久方の時雨の雨の間なく降れば 峯の紅葉は散りすぎにけり

 晴れる間なく降り続く時雨に、峰々の紅葉はすっかり散り果ててしまった。

104.紅葉散る人とて同じ老いがある

 惜しめども盛りは過ぎぬ待たなくに 尋(と)めくるものは 老いにぞありける

 紅葉も盛りは過ぎてしまうと冬がやってくるように、人も同じく老いがやって来る。待ってはくれないのだ。
 良寛は紅葉に託し、過ぎて行く人の世の侘びしさ、老いの淋しさを詠んでいる。

105.岩垂るる水命にて冬しのぐ

 岩が根にしたたる水を命にて 今年の冬もしのぎつるかも

 大きな岩からしたたり落ちる水を命の支えとして、今年の厳しい冬を乗り越えてゆくことよ。
 「石走る垂水の上のさわらびの崩え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子・万葉集)を思い浮かべ春が待ち遠しい良寛。

106.時雨(しぐ)るるや飯乞(いいこ)う里に今日も出ず

 飯乞ふと里にも出(い)でずこの頃は 時雨の雨の間なくし降れば

 この頃冷たい時雨の雨が止むこともなく降るので、村里に托鉢に行こうにも、つい足が遠のいてしまうよ。

107.流れは堰(せ)き止めても月日止められず

 行く水は堰きとどめてもありぬべし 過ぎし月日のまた返るとは

 流れる水は堰き止めることはできても、過ぎた月日は取り戻すことはできない。
 老いは堰き止められないのだと悟る良寛。

108.関据えて老いの年月通らせじ

 年月の来むと知りせばたまぼこの道の巷(ちまた)に関据えましを

 老いを連れて年月がやって来るのが、目に見えて分かるものならば、分かれ道に関所を設けて通さないようにしたいものだ。
 「たまぼこの」は道にかかる枕詞。

109.年月は過ぎ行き老いはつもりゆく

 年月は行きかもするに老いらくの 来れば行かずに何つもるらむ

 年月は知らぬ間に過ぎてゆくが、老いはやって来るとどこにも行かず積もってゆくのだ。
 老いを悟っていてもやはり気になる良寛の心情。
 阿部定珍からの歳暮への礼状。

110.冬ごもり宿に行き来の跡もなし

 わが宿は越の白山(しろやま)冬ごもり 行き来の人の跡かたもなし

 私の草庵も越後の雪に覆われ、冬ごもりに入り、行き来する人もなく、足跡も見えない。
 雪のため陸の孤島となった庵で一人で暮す良寛の心情。

111.我は酔う君のすすめしうまき酒

 さすたけの君がすすむるうま酒に 我酔ひにけりそのうま酒に

 あなたが勧めてくれるうまいお酒に、私はすっかり酔ってしまったよ。そのおいしいお酒に。
 阿部家におよばれ、おいしいお酒に帰ろうにも帰れない良寛。

112.いつか来る春を待ちわび数えおり

 今よりはいつかいつかとあづさ弓 まだ来ぬ春を数へて待たむ

 まだ来ない春を、今からいつやって来るのかと、指折り数えて待つとしょう。

 良寛は雪に閉じ込められた暮らしより、梅の花が咲き出す春が好きで待ちきれなかった。雪国の生活者は誰しも思っていることだが。

 良寛の短歌を中心に、三年間新潟日報に掲載された詩歌を読んでみると、良寛は越後の大自然の中で生きた歌人である。
 厳しい仏門の生活(良寛は生涯持寺はなく托鉢で暮しを立てていた)の上に、移り変わる自然に接し、その中で子供らと遊び、村人達と交流、友と杯を重ね、野の草花を愛で、小鳥や小さな虫達に心を寄せていた。
 詩歌や書はそのような暮らしの中から生まれ、後世の多くの文人達に影響を与えている。
 良寛の短歌を俳句化した句を読み直している中に、私の人生は良寛に似ているところがあると思われた。
 良寛は仏道で、私は医道で人々に接した。自然を愛する気持は同じである。ただし私は魚や虫達の命を奪った点は大きく違うが。
 良寛の日常生活は清貧に甘んじていた。「貧にして楽しむ」(論語)、「足るを知る者は富む」(老子)の生き方を生涯貫き通した。そのため良寛の詩歌には心の貧しさはない。貧しさはユーモアで吹き飛ばしている。
 良寛短歌の百余首を俳句化したのは七年前、今年(平成三十年)になって俳句を再読し、推敲を重ねていると、中には一句の全てが自分の句ではないかと思ってしまうような句がある。
 良寛短歌の俳句が記憶されて、その後の私の句造りに大きな影響を与えていると思われる。
 千三百五〇首余りある良寛の短歌を折をみながら俳句に詠み替えてゆきたいものだ。

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200年の平和を実現した古代ローマ都市国家の智慧2  福本一朗(長岡保養園)

 (2)貴族の義務(Nobles oblige)
 ローマ社会には王こそいなかったが、元老院を構成する貴族は存在した(Fig.5)。その経済システムは自由資本制度であったので、彼らは広大な領地・富・多くの使用人を有し、中には共和国軍に匹敵する私兵軍団を要するものもいた。もちろん貧富の差は大きかったが、その弊害を緩和する民主的制度をローマは有していた。その一つは、「様々な特権を与えられている貴族は、当然市民と国家に対してなすべき義務がある」という貴族の義務“Nobles Oblige”の考えを全貴族が有していたことである。平時には私費で道路(アッピア軍道など)を建設し、図書館や市場・浴場などの公共施設(ハドリアヌス浴場など)を建設することが賞賛されていた上、多大の寄付をした富裕な貴族は元老院の許可を得て自らの名前をその施設に冠することが許された。戦時には戦費を分担するとともに、自らも私兵を率いて先頭に立って戦場に赴かねばならず、そのため不断の心身練磨と戦略学習、武器使用法習得が、ギリシャ語習得などの一般教養と並んで貴族の子弟の嗜みとされた。災害時には無償で避難民に食料と避難場所を与え、領地内の災害復興も多くは自費で実行した。つまり本来国家が行うべき社会福祉や国家防衛義務の一部分を貴族・富裕者のみに許される名誉な行為として当然に担当したからこそ、貴族は市民から社会的尊敬を得て特権を維持できたといえよう。
 貴族達は元老院での演説に際して、〈元老院とローマ市民諸君!Senatus Populus que Romanus !〉と呼びかけた様に、自らの地位がローマ市民の総意に基づくものであり、自分の行為は利己目的だけではなく、国家と市民のためを考えていることを示すのが常であった。
 元老院議員のみならず皇帝達も自分の統治行為が後生の歴史でどう評価されるかが最も重要と考えた。「私自身は、死すべき運命にある人間の一人にすぎない。その私がなす仕事もまた、人間にできる仕事である。あなた方が私に与えた高い地位に恥じないように務めるだけでも、すでに大変な激務になる。この私を後世は、どのように裁くであろうか。わたしの成したことが、わが先祖の名に恥じなかったか、あなた方元老院議員の立場を守るに役立ったか、帝国の平和の維持に貢献できたか、そして国益のためならば不評にさえも負けないで成したことも、評価してくれるであろうか。もしも評価されるのならば、それこそが私にとっての神殿である。それこそが最も美しく永遠に人々の心に残る彫像である。他のことは、それが大理石に彫られたものであっても、もしも後世の人々の評価が悪ければ、墓所を建てるよりも意味のない記念物にすぎなくなる。私の望みは、神々がこの私に生命のあるかぎり、精神の平静とともに、人間の法を理解する能力を与え続けてくれることである。(皇帝ティベリウスの言葉)」これに対して米国大統領や我が国の政治家達はどうであろうか? まさにその様な為政者を選挙で選んだ国民の品格が問われよう。
 (3)民生の安定
 ローマは自由市民の選挙による共和国であったため、国の義務は国民に安全な生活を保障することであると考えられた。そのため国には侵略を試みる外敵から領土を防衛して国民の命を守るとともに、食料供給を保障して最低限の生活を維持することが求められた。国土防衛は200の騎兵を含む6000人のローマ市民からなる軍団legioが、50軍団備えられて国境警備などを担当させ、“全ての道はローマに通ず”と言われる様に首都を中心として全長29万qと帝国内に血管の様に張り巡らされた古代の高速道路であるローマ街道(Via Romana)によって、効率よく機動的に運用された(Fig. 6)。
 一方社会福祉については、詩人ユウェナリス(A.D.60〜130)は、権力者から恩恵的に無償で与えられる食糧と娯楽(=“パンとサーカス(panem et circenses)”)によって政治的盲目に置かれたローマ市民を揶揄した様に、ローマ市民全員に最低限生存できる穀物が女性子供を含む全市民に無料支給されるとともに、戦車競技や剣闘士試合がコロセウムで開催されて、皇帝や貴族が無料で市民を招待していたことは事実である(Fig. 7)。
 しかしこれは、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(日本国憲法第25条)」という近代福祉国家の理念を先取りするものであり、2000年前のこの時代の日本列島は統一国家も存在しない弥生時代であったことを考えると、古代ローマは卓越した社会福祉政策を有していたといえよう。「人間は飢える心配がなければ穏健化する。過激化は絶望の産物なのである。(塩野七生)」生活の安定は平和と治安の維持に繋がり、それがさらなる産業の発展と民生の安定をもたらす好循環でローマの平和は200年も続いたと考えられる。
 さらに国民の保健については、ローマ人にとって公衆浴場が社会生活の重要な一部だったため、全ての都市には最低1カ所の公衆浴場(thermae)が備えられ、一般市民も皇帝貴族も平等に安価な入場料で利用できた(Fig. 8)。浴場は全て公の施設として建設運営され、貧富の差を問わず誰でも利用でき、飲食・運動・読書・商売・哲学的議論などが自由に行える社交場でもあり、貴族のみならず皇帝でさえ裸で一般庶民と自由に話し合えたという。ローマ市民は今日まで使用可能な上下水道を完備させるとともに、毎日温泉に浸かって心身の健康を維持するなど、公衆衛生にも心がけたため、中世の様な悲惨な疫病発生も少なく、ローマ時代前後に比して平均寿命も長く保てた。
 ローマの平和と繁栄は、平等なローマ市民が自らの為政者を自由な選挙で選び、当時の科学的兵器と大規模土木技術を駆使する市民重装歩兵が、自らの国を自らの手で守ることに誇りを持つことで維持された。それが定住農耕生活を認めない狩猟採集の未開異民族の侵入という“外患”と、富の不公平による市民の没落という“内患”によって敗者同化政策が崩れる時、時代は戦乱と暗黒の中世へと向かう。
 ローマを世界帝国とした「敗者同化政策」は、ローマ人の考え方と文明を受け入れられる侵略者に対してのみ有効であった。ナチスのジェノサイトやイスラム原理主義者の同時多発テロなどは、両者の宗教観・価値観・人生観の違いから発生したともいえよう。フランス革命以来、多くの人民の血の犠牲の上に確立され、地球上の大多数の人々が当然と考えている思想、基本的人権・男女平等・政教分離・国際協調・互助友愛・寛容・不戦平和主義・地球環境保護・契約自由・労働者保護・障害者支援などを認めない人々が存在することも否定できない。しかし同じ人間である限り、また皆が同じく幸せを求める限り、いつかは理解しあえる時が来ると信じる。そのためには国と国との国境を越えた人々の個人的な交流が必須であり、ホームスティや学校間交換留学・短期労働移住・相互里親制度など、様々のグローバルな融和機会を各国政府も国連も大規模にかつ長期的に実施することが重要であろう。その意味で2020年の東京オリンピック・パラリンビックは、我が国にとって「草の根国際交流」の絶好の機会であると思う。全日本人よ目指せ、“一人一国際交流”!
 文献
 1.『ルネサンスの女たち』(1969年 中央公論社)
 2.『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』(1970年 新潮社)
 3.『神の代理人』(1972年 中央公論社)
 4.『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』(1980年 中央公論社)
 5.『コンスタンティノープルの陥落』(1983年 新潮社)
 6.『ロードス島攻防記』(1985年 新潮社)
 7.『レパントの海戦』(1987年 新潮社)
 8.『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』(1987年 中央公論社)
 9.『三つの都の物語』(1999年 朝日新聞社)
 10.『ローマ人の物語』(1992年 新潮社)
 11.『ローマ亡き後の地中海世界』(2008年 新潮社)
 12.『十字軍物語』(2010年 新潮社)
 13.『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(2013年 新潮社)
 14.『ギリシァ人の物語』(2015年 新潮社)

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蛍の瓦版〜その53 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 中学生ピロリ菌検診

 以前に瓦版でもご紹介しましたように、長岡市では全国に先駆けて平成28年から、希望者を対象とした中学二年生のピロリ菌検診を開始しています。平成30年までの3年間で、在籍者の90%に相当する計6447人が一次検査を受けています。ここでは、現行の貧血や血中脂質のための採血を用い、ピロリ菌に対する血中抗体価を測定します。
 ピロリ菌の感染診断には、内視鏡による生検が必要な培養法等以外には、血中抗体価や便中抗原の測定および尿素呼気試験があります。血中抗体価法は簡便で多数例を対象に行う検診には適っていますが、後二者に比べ感度・特異度共にばらつきがあります。そのため本検診では見逃し例を防ぐためにカットオフ値を3U/mlと低く定め、二次検査の対象者としています。ちなみに成人を対象とした胃がんリスク検診では、当初ピロリ菌感染のカットオフ値は10U/mlと定められています。
 この3年間で二次検査の対象者は全受診者の4%に相当する253名あり、そのうち190名(75%)が二次検査や治療を受けています。二次検査では、まず便中抗原を調べ必要に応じて呼気検査を追加して診断を厳密に行い、陽性者に対しては除菌が勧められています。二次検査以降治療までの実施は市内の三病院(長岡赤十字・長岡中央綜合・立川綜合)に限定し、長岡市の保健事業として無料で行われています。
 本検診は、ピロリ菌感染をその弊害が現れる前の早い時期に診断し駆除することを目的とし、長岡市も予算をつけてバックアップしています。他の各種検診同様に、一次とともに二次検査の受診率向上が重要です。お心がけ下さい。

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巻末エッセイ〜東京に再び オリンピックの聖火輝く!  福本一朗(長岡保養園)

 1964年10月10日“世界中の青空を全部東京に持ってきたような素晴らしい秋空”のもと、アジアで初めての聖火が国立競技場に輝き、昭和天皇により第18回オリンピックの開会が宣告され、94カ国7060人の選手団が整然と入場行進を行いました。15日間で20種目の競技が行われ、日本人選手団355名は日の丸の名誉を賭けて“より早く、より高く、より強く”全力を出しきり、16個の金、5個の銀、8個の銅メダルを獲得という大成果をあげました。米ソに次ぐ世界第3位のスポーツ大国になったこのオリンピックの開催国として、日本は敗戦国としての扱いから、先進国として見なされるようになり、OECDの最初の追加加盟国となりました。東海道新幹線・日比谷線・東京モノレール・名神高速道路・首都高速道路が整備されて日本の交通網も飛躍的に整備され、オリンピックを見るために旅行者も増え、家庭用テレビも一気に普及しました。中学生であった筆者は学校では五輪音頭を踊り、家ではテレビにかじりついて日本選手の応援をしていましたが、最も印象に残ったのは女子体操競技で個人総合優勝を果たした“五輪の名花”ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)のダイナミックで美しさと力強さを兼ね備えた素晴らしい演技でした。彼女は1968年夏の“プラハの春”民主化闘争で、ソ連を中心とした国際共産主義の支配に反対して改革派の旗手ドプチェクを支援する“2000語宣言”に“人間機関車”ザトペック達70名の文化人・スポーツマンらと共に署名して迫害されましたが、信念を貫き通して終生署名を撤回しませんでした。ソ連のワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻占領の時、自由の抑圧と民衆の消極的な態度に抗議して焼身自殺した21歳の学生ヤン・パラフのお墓はプラハの目抜き通りヴァーツラフ広場にあり現在でも献花が絶えません。一方ベラ・チャスラフスカは政府から迫害されメキシコ五輪への出場が危ぶまれていましたが、祖国の名誉のため必ず出場するという決意で3週間もの間たった1人で秘密の隠れ家で練習を続けました。開会の直前になりようやく出国を許可され出場を果たしたベラは抗議の濃紺のコスチュームを着て、可憐な“メキシコの恋人”クチンスカヤ(ソ連)と競り合い、個人総合優勝を含む4個の金メダルを獲得し、苦難のチェコ国民に希望を与えました。ヤンはその若い命を、ベラはその競技人生を賭けて祖国の平和的解放に捧げ、国民的英雄となりました。その非服従・非暴力の自由民主化思想は、冷戦の終了や東西ドイツの統合へとつながるものでした。そしてそれは遠く紀元前9世紀古代ギリシャで、武器を捨て敵地を横切りながら360q彼方のオリンピアを目指して旅をするための「聖なる休戦」を伴った「オリンピア祭典競技」の精神につながるもので、1896年のクーベルタン男爵による第一回近代オリンピックに受け継がれました。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、33競技339種目が210を超える参加国からの1万人を超える選手によって競われる予定です。ホモサピエンスの能力の限界に挑戦して、地球上の人々がスポーツマンシップに則り、正々堂々と民族の誇りを担って競い合うオリンピックこそ、諸国民の友情と融和を醸成する千載一遇の良い機会です。世界の人々よ!今こそ争いをやめて再び東京に共に集い、素晴らしい選手達の活躍を応援しましょう!

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