長岡市医師会たより No.476 2019.11


もくじ

 表紙 「太陽のピラミッド(メキシコ)」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「県医師会理事となって1年半があっという間に過ぎました」 田中 篤(長岡赤十字病院)
 「会員旅行初参加「四万温泉の旅」」 湯野川淑子(田宮病院)
 「蛍の瓦版〜その54」 理事:児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜私のスタンド・バイ・ミー(前編)」 江部佑輔(江部医院)



「太陽のピラミッド(メキシコ)」  木村清治(いまい皮膚科医院)


県医師会理事となって1年半があっという間に過ぎました 田中 篤(長岡赤十字病院)


はじめに

 昨年6月の県医師会理事就任後まもなくより、長岡市医師会報に寄稿するようにと依頼されていましたが、何をどう書いたらいいか分からず、また忙しさにもかまけて伸ばし伸ばしにしてしまいました(編集委員の先生方、事務長さんお許しください)。しかし、今まで医師会活動にほとんど何の貢献もせず、全くその力量もない自分が理事に就任したのは、長岡市医師会の諸先生方からご尽力いただいた結果であることから、そのお礼を兼ねて県医師会理事としての活動の現状をご報告することが責務であることに今更ながらに気づきました。昨年6月からスタートした理事としての経験と感じたことなどを紹介させていただき、私の役割を果たさせていただきたいと思います。

理事となってみて分かったこと

 医師会とは何をしているところで、県医師会の理事がどのように決まっていくかさえ全く知らない、ド素人のレベルからのスタートでした。しかも、昨年6月の県医師会理事会に初めて出席した時は、理事のメンバーには病院長や副院長、教授などの役職のある方々ばかりで、一介の勤務医は私一人でした。「かなり場違いなところに来てしまったなあ、やはり理事を引き受けるべきではなかったのではないか。」と後悔の念が頭をかすめました。ただ、遙か昔に医局長をしていた時に、毎月の医局長会議で苦労を共にした、かつて医局長だった理事が数人いて懐しい思いを感じることができたのが唯一の救いでした。
 小児医療に関することであれば、自分のこれまでの経験から、それなりに現状に対する問題意識があり、ある程度は分かっているつもりでしたが、それ以外の医師会が取り組んでいることとなると初めて聞くことも多く、実に多種多様な仕事と課題があり、それらを手分けして日々取り組んでいることが徐々に分かってきております。すべての面において、しっかり理解して自分の考えを持って発言したりすることなど、とても自分の力量の及ばないところでしたので、まずは自分の与えられた仕事だけに集中しようと思いながら、これまで何とか最低限の責任を果たしてきたところです。

医師会活動

 現在の私の県医師会における具体的な役割は、次のようなものです。母子保健部部長、学校保健部副部長、社会保険部・救急医療部・病院部の担当理事として、それぞれの活動に関与しています。また、日本医師会母子保健検討委員会の委員もさせてもらっています。この委員会の全国から選定された12名の委員は、所属の県医師会の会長や副会長、常任理事、日本小児科医会会長や日本産婦人科医会副会長などの錚々たるメンバーばかりで構成されており、勤務医で理事という立場の自分としては、かなり場違いに感じました。こちらは、年4回の日本医師会館で開催される会議に出席して、母子保健の現状や課題などについて話し合ったり、改善に向けた提言をまとめたりしている委員会で、小児科勤務医や医師少数県の立場としての自分なりの意見を言わせてもらっています。

 それぞれの活動において、初めて知るようなことも多く、正直に言うと積極的に活動に参加しているとは言い難い状況にあります。また、平日の日中に開催されることの多い会議のすべてに参加することは自分自身の診療活動などから不可能なので、優先順位をつけて、できるだけ可能な範囲内で参加するようにしてします。

母子保健活動

 母子保健部の部長の役割を与えられていることもありますが、小児心身症や不登校、子ども虐待の臨床を通して、子どもの心の問題や子育て支援の現状に対して、元々関心と危機意識があり、子育て支援や少子化対策に関して積極的に問題提起をさせてもらっています。近年における小児診療の質的・量的な劇的変化と、それに伴った様々な課題、そして小児医療の維持・向上のために、県内の小児病床の大胆な集約化と合わせての小児専門医療施設(子ども医療センター)の設置は、新潟県には必要不可欠であるという主張をさせていただいております。幸い、県医師会理事の皆さんから賛同をいただき心強い援護射撃をいただいております。医師会内外からの働きかけもあって、県が「小児医療あり方検討会」を正式に立ち上げて、これまで2回会議が開催されました。県医師会代表の委員として、現役の小児科勤務医として、小児医療の現状と課題などについて可能な限り発言させてもらっています。新潟県は皆さんご存知のように大変厳しい財政状況にありますので、現実には大変ハードルは高いのですが、将来を担う子どもたちのために、あるべき姿について積極的に発言していこうと思っています。

終わりに

 県医師会理事となって一番感じていることは、これまでの長年にわたり諸先輩方が築いてこられた社会貢献活動に基づく社会からの信頼がある故に、県福祉保健部や県会議員に対しても、私のような者が直接発言できる機会をいただくことができて、それに対してそれなりに反応してもらっており、そういう意味でやりがいがあるということです。もちろん、現実には様々な問題があり、そう簡単には理想通りに進展していくわけではありませんが、理事としての役割を与えられている間は、自分自身の40年以上の医師としての経験と、後輩の医師を指導する立場から、諦めることなく自分なりの考えを発信していきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願い致します。

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会員旅行初参加「四万温泉の旅」 湯野川淑子(田宮病院)

 7月始めに児玉先生から医師会旅行のお誘いがあり、予約困難な『たむら旅館』に泊まれるとのことで、参加しました。(旅行記投稿は、初参加者のルーテイーンワークとの事です。)
 参加者は13名で、紅2点の旅だと家人に伝えると、「紅色でなく、たそがれ色だね。」と言われながら家を出て、9月28日土曜日午後2時に医師会館を出発。サロンバスにて関越道を使い群馬を目指しました。乗った途端にビール・銘酒・ワインが配られ宴会が始まり、ガイドさんの説明は、誰の耳にも届かない程、盛り上がりました。医療ネタ・時事ネタ・芸能ネタと話題も酒もつきず、いつ関越トンネルを抜けたのかが分からない程の騒ぎでした。
 群馬県北西部・上信越高原国立公園の中に位置する四万(しま)温泉は、「四万の病に効く」という処から命名されたそうです。その中で10万坪の敷地を有して、500年も昔から湯治宿を営む「たむら旅館」が宿泊先でした。宿のご主人の説明では、60年以上前の雨水が地中をくぐり、毎分1600?の湯量が出ており、7種類の温泉があり、シャワーも温泉水を使っているとのことです。
 午後5時に温泉宿に着き、早速の入浴。私は初めて温泉蒸し風呂に入ってみました。サウナは老廃物を汗として出すが、この風呂は、温泉蒸気を体に吸収させる様式で、蒸し玉子になった気分で、深呼吸しながら入り、出た後も爽快でした。T先生は余りの気持ち良さに寝てしまい、他のお客さんから声をかけてもらって、大事に至る寸前に救出とのこと。
 午後6時半から、前橋から来たコンパニオン3名を加えて、大宴会が始まり、「洗心」の一升瓶もあり、皆さんお酒も料理もハイピッチですすんでいました。途中からK病院長とN医師会長は、夢の中に入られて、日頃の激務の現れですね。
 午後8時半から、場所をカラオケルームへ移し、各人ご自慢の喉を披露し、「エイトマン」「ひょっこりひょうたん島」などの懐かしい歌になると、歌詞を見なくても歌える世代と全く初めて聞く歌とばかりにポカンとしている世代に別れていました。
 翌日は快晴で、早朝から再度入浴したり、近くを散策したりして過ごし、7時半よりバイキング朝食を摂り、8時半に後ろ髪を引かれながら宿を出発。関越道を使い、川越市を目指しました。車中では、皆さん昨日とは打って変わって静かで、車窓を見たり、寝ていたりして、バスガイドさんが“別のグループ”では、と驚く程でした。
 11時過ぎに川越の割烹ささ川本店に着き、懐石料理が次々と運ばれてきましたが、朝食バイキングの食べ過ぎに後悔しても後の祭りで、皆さん半分くらいしか食べられず、しかし辛党の先生方は、お酒は別腹なのでしょうか、ビールや地酒セットを飲み続けていました。
 その後、小江戸と呼ばれる川越の街を散策しましたが、恋占いのおみくじがブームとかで、若い女性達やカップルが多く賑やかな街並みでした。川越城本丸などを散策したりしていると時間はあっという間に過ぎて、午後2時帰路につき、帰りの車中は、睡眠組とまだ飲める組に分かれていましたが、午後5時事故もなく、無事医師会館に到着出来ました。
 途中のSAや土産屋で皆さんお土産を買われていましたが、『右門のいも恋を買っていかないと怒られる。』『変な土産を買って帰ると、お金を貰う方が良いと妻に言われる。』などと、先生方の愛妻家や恐妻家の一面が垣間見れて興味深かったです。
 最初は初参加で緊張していましたが、皆さんの話題の豊富さや、和気藹々の雰囲気に楽しく過ごせました。
 群馬県人なら皆が暗記している上毛かるたの中で、四万温泉は、『世のちり洗う四万温泉』と詠まれていて、温泉の効能通り、俗世を忘れ、時間を忘れ、心にゆとりが生まれた旅となり、幹事の先生方やいつも細やかな気配りをされる事務局の星さんに心から感謝です。
 参加未経験の先生方も是非、医師会旅行に参加しましょう。普段飲めない高級酒が一日中飲み放題の旅ですよ。

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蛍の瓦版〜その54   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 障害者総合支援法

 1.初めに

 心身の障害によって日常生活や社会生活を営むうえで何らかの不自由がある方々を、幅広く支援するための法律が平成24年に制定された“障害者総合支援法”です。今回の瓦版ではこの法律について、成立の経緯から介護保険との比較も含めて紹介します。

 2.総合支援法の成立経緯と概要

 従来のわが国の障害者福祉は社会保障制度の一環として、昭和45年制定の障害者基本法の理念に基づいて制定し運用されていました。障害の種別によって老人福祉法・身体障害者福祉法・知的障害者福祉法・精神保健福祉法・児童福祉法があり、それぞれが別個に運用され、支援の手法は“措置”とされるものでした。措置制度とは、行政が主体となって利用者が福祉サービスを受ける要件を満たしているか否かを審査したうえで、サービスの内容や開始等を判断し行政権限として施設入所等のサービスを提供する制度です。以前のように福祉サービスの整備が不十分な状況では、限られた福祉資源を効率的に活用するためには措置は優れた制度でした。しかし措置では支援が画一的になり、個人の希望が尊重され難く、障害の多様性に応じた対処が困難です。また従来は精神障害者関連の支援は医療に依存するところが大きく、社会生活を営むための支援が不十分でした。
 そこで、障害の種別によって分かれていたそれぞれの障害者福祉法を一括し法の狭間となっていた難病や発達障害等を幅広く含めた障害者総合支援法が制定されました。本法では、障害のある人を権利の主体であると位置付けた基本理念を定め、障害の有無によって分け隔てられることの無い“共生社会”を目指す方向性が示されています。理念の実現のために、日常生活や社会生活を営む上で生じる問題に対し、医療や生活介助から就労まで幅広く支援する仕組みとなっています。
 従来は障害の種別によって、それぞれに障害の重症度が認定され、サービスが提供されていましたが、総合支援法では必要とされる標準的な支援の度合いを示す、障害支援区分(1−6)にまとめられました。これは原因疾患に関わらず必要とされる介護量に拠って、介護度が認定される介護保険に準じています。介護保険では介護度に応じて、利用可能なサービスの内容や量が相当厳しく規制されていますが、障害支援区分に関してはかなり柔軟に対応されています。さらに障害児や一部のサービス利用には区分認定は必要ありません。
 また本法成立までは曖昧であった費用負担に付いても、国が1/2を負担し県と市町村が残りを折半することが明記されています。これは社会保険方式(注1)によって運営されている介護保険が、加入者が支払う保険料と公的資金によって半分ずつ負担されている点と大きく異なります。

 3.障害者総合支援法のサービス

 総合支援法のサービスには自立支援給付と地域生活支援事業の2種類があります。自立支援給付は国がサービスの類型や運用ルールを定め、実務は市町村が主体となって実施します。一方地域生活支援事業では、国から大まかな枠組みは示されますが、サービスの類型や運用ルールは県や市町村に任され、地域の特性に応じて実施するサービスを担っています。自立支援給付は、障害福祉サービスとしての介護給付・訓練等給付・相談支援事業・公費負担医療費に該当する自立支援医療および補装具に関するものに分類されます。
 介護給付には介護保険同様に居宅介護(ホームヘルプ)・短期入所(ショートステイ)・生活介護(デイサービス)や施設入所支援があります。これらのサービスに関して介護保険の対象者では、原則として介護保険のサービス利用が優先されます。
 介護保険に無いサービスとしては、視覚障害者の外出を支援する同行援護や、重度の障害者を対象とした重度訪問介護や重度障害者等包括支援があります。訓練等給付は総合支援法特有のサービスで、障害者の自立を促す目的の自立訓練(生活訓練・機能訓練・宿泊型)や、就労のための就労移行支援や就労継続支援及び共同生活援助(グループホーム)があります。
 相談支援事業に於いて介護保険のケアマネに相当するのが“相談支援専門員”で、一定の資格と実務経験および研修の履修が必要です。現在長岡市内に約10箇所ある指定特定相談事業所で、基本相談支援に携わっています。その他に、施設や病院に入所や入院している障害者が地域生活に円滑に移行できるように、住居の確保や諸手続きの援助等様々な支援を行う地域移行支援も制度化されました。また移行後も地域生活が不安定な人を対象に、緊急時の対応を確保する等の援助を行う地域定着支援もあります。市町村主導の地域生活支援事業としては、外出のための移動支援や日中一時支援、地域活動支援センター等があります。
 これらのサービス利用に当たり法律上は行政が費用の9割を負担し、利用者からは負担能力に応じた利用料を徴収するとされています。通常はご本人の負担能力は無い例が大半で、住民税非課税世帯であれば、自己負担はありません。一方介護保険では負担能力に応じて補助はありますが、サービス利用に当たっては1割負担が原則です。

 4.最後に

 長岡市では、医師と障害各分野の専門職から構成された5つの合議体があり、区分判定の認定審査を行っています。昨年度の審査件数は720件あり、全体の2/3相当が知的障害でした。その他は、精神障害114件・身体障害93件・難病2件ありました。ちなみに昨年度の長岡市の介護認定は1万2千余件ありました。

 (注1)社会保険方式

 社会保険方式とは、疾病や事故等に備えて、一定の資格を満たす人々(加入者)が支払う保険料や国庫負担金等を公的機関が運営するものです。主なものに医療・年金・介護・雇用・労災の各保険があります。

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巻末エッセイ〜私のスタンド・バイ・ミー(前編) 江部佑輔(江部医院)

 長岡の歴史は信濃川との闘いでもあります。汪洋広野を浸しつつ流れる信濃川は越後平野を日本一の米どころ育んでくれましたが、ひとたび氾濫すれば、村一つ二つを消滅させるほどの猛威を振るってきました。信濃川の護岸工事は江戸期より始まり、特に明治以降は現在の河川の流れに一致する流域の堤防が建設されました。先だっての台風19号の豪雨は信濃川の堤防決壊寸前のところまで増水するに至たりましたが、意外なほどに長岡市内は穏やかでした。上流千曲川水系での氾濫のニュースに引き続き、県内上流域でもあちこちで越水、浸水している中、大手大橋はいつものとおりの交通量でした。しかし、その橋下に目をやれば今までに見たことない水位まで水面は上昇していたのです。当日は私の中学時代の同窓会を計画していましたが、事前に事態を予想し中止にしました。ただ、同じホテルでは結婚式などのパーティが普通通り行われていたようで少々複雑な思いでした。夕方になると信濃川の水位も徐々に下がり始め、台風一過、近所の土手には信濃川の光景を見学する人たちが集まっていました。翌朝、前日通行止めになっていた長生橋を左岸に渡るとき、昨日は水下に沈んでいた左近町の畑も確認できるようになっていました。左近のこの辺りは三尺玉の打ち上げ場所が設けられる広い土地で、以前は「善喜島」(ぜんきしま)と呼ばれていた所です。ここは江戸期までは信濃川の右岸ではなく左岸に位置し、大島村(今の大島町)の農民が開拓したところであったそうです。今は右岸の左近町とつながり、島ではなくなってしまいましたが、この地域では、そのまま善喜島と呼び続けられていました。私が子供の頃はここに足を運ぶことは厳しく禁じられていました。「あそこに行くとツツガムシにやられるぞ」と近所の人から言われ、父からはツツガムシ病の危険性を何回も聞かされていました。今でこそ信濃川の護岸整備が進み、ツツガムシを媒介する野ネズミがほとんどいなくなったことで安心して土手近辺で遊ぶことができるようになりましたが、当時はある意味命を懸けた冒険の世界でもありました。善喜島は、子供たちにはある意味憧れの場所でもありました。子供は冒険心をあおられることには弱く、実際にそこに行ってオオクワガタを獲ったと自慢するものもいました。しかし、当時の僕は昆虫には興味なく、ビートルズなどの洋楽にハマり始めていたころで、特に善喜島にはさほどの関心もありませんでした。小学4年の夏休み前のことを覚えています。学校から帰るとすぐに友人3名が遊びに来ました。これからあそこに行こうというのです。ダメなことは当然知っていましたし、ツツガムシのことは父から聞いていたので最初は断りました。しかし、弱虫扱いをされることには少々抵抗もあり、またその時は僕の心の中にあった冒険心もあそこに行くことを欲していたらしく、結局悪童3名と私は島に向かって出発しました。我々は草生津から信濃川の土手沿いに歩き、太田川の橋を越えて島に渡りました。ここは学区でいうと宮内小学校区で、私たち千手小学校の生徒は父兄同伴でなければ学校区以外にでることを禁じられていましたので、この時点ですでに校則違反でした。それだけで僕にとってはかなりの冒険で、胸がドキドキしていました。それでも、私は悪童3名とともに島の畑の中をじゃれ合いながらさらに奥へと目指し歩みを進めていきました。(つづく)

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