長岡市医師会たより No.477 2019.12


もくじ

 表紙絵 「白山冠雪 (木場潟)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「ファーストミッション アフガニスタンへ〜国境なき医師団2」 鈴木美奈(魚沼基幹病院)
 「古代アテネの公務員弾劾制度に学ぶ」 福本一朗(長岡保養園)
 「蛍の瓦版〜その55」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜私のスタンド・バイ・ミー(後編)」 江部佑輔(江部医院)



「白山冠雪 (木場潟)」 丸岡稔(丸岡医院)


ファーストミッション アフガニスタンへ〜国境なき医師団2  鈴木美奈(魚沼基幹病院)

 2016年、MSFとして初めて活動した国はアフガニスタンでした。アフガニスタンというと思い出すのが、私の人生初のデートです。あれは、忘れもしない高校二年生の時。人生初めて彼氏というものができ、映画に誘われました。観た映画は“ランボー、怒りのアフガン”です。今考えると、初デートは、もっとロマンティックなものがいいのでは、と思いますが……。当時、主演のシルベスター・スタローンをカッコイイとは思っていませんでしたが、ウブな振りをしていた私は、彼氏の「ランボー、カッコよかったでしょう?」という問いに健気に「うん」と答えていました。
 余談はさておき、活動した場所は首都カブールにあるダシュテバチ産婦人科病院でした。アフガニスタンは人口増加率が世界5位と著しく、カブールにおいては、2001年に100万人いなかった人口が、2010年には5倍の500万人以上になりました。人口の約75%が辺鄙な郊外に住み、1日1ドル以上の収入を得られない家庭も30%以上います。更に、宗教上の長引く紛争の影響も加わり、世界的に最も健康指標が低い国になってしまいました。国民の平均寿命は48歳と、世界ワースト2位です(2011年統計)。特に、妊産婦死亡率と乳児死亡率がとても高く、産科と小児科への支援が求められています。
 2014年の統計では、乳児死亡率は1000人中117人で、世界224カ国中ワースト1位、熟練医療関係者による出産介入率が177カ国中167位です。この数字は何を意味しているでしょうか?病院が近くにない、または、費用の関係で病院にかかれず、自宅分娩する人が多いということです。戦時中の日本に近い状況です。アフガニスタンの妊産婦と乳児は、何かトラブルが発生しても医療を受けることができない危険な状況にありました。
 MSFの活動の目的は、現地の医療関係者と協力し合いながら、問題を抱える妊産婦、乳児に適切な医療を無償で提供し、死亡率や罹病率を減少させることです。しかし、最終目標は、自国の人々だけで充実した医療を継続的に提供していけるようにすることです。
 そのため、私が3カ月で行った仕事内容は、24時間オンコールの診療、113件の手術のみならず、現地産婦人科医の手術や診療の指導、講義、そして評価という管理職的な面を多く含むものでした。日常診療だけが仕事と思っていたため、最初は面食らいました。むしろ、「臨床だけやらせてよー」とも思っていました。でも、生まれた赤ちゃんの元気な泣き声、その赤ちゃんを抱いた時のお母さんの笑顔をみると、「アフガニスタンがこのパワーで満ち溢れるなら何でもしたい!」と強く思えるようになっていきました。
 アフガニスタンでは母親一人あたり平均5人の子供を産みます。日本の平均出生率が1・41であることを考えると驚くべき数字です。ダシュテバチの病院でも、1日45から60のお産がありました。この中で、5つの出産に1つが何らかの問題をもっており、医療の介入が必要でした。
 診療が全て思い通りにいくとは限りません。例えば、日本では分娩の約20〜30%を占めるといわれている帝王切開ですが、アフガニスタンでは施行率3・6%です。帝王切開は3回までが安全限界とされており、平均5人もの子供を産むアフガニスタンの文化にはそぐわない分娩方法なのです。それでも赤ちゃんを見殺しにもできず、特に18歳、19歳の若い初産婦さんの場合、帝王切開を決める段階で葛藤に苦しみました。
 このような状況でも、3カ月の間に行われた約4500件の分娩では、妊産婦死亡は0人、乳児死亡もたった1人でした。2011年の1000件の分娩で3人の妊産婦死亡、64人の乳児死亡から考えると、このプロジェクトは確実に効果を生み出していました。
 日常に些細な幸せもありました。言葉の通じない(アフガニスタンはダリ語)重症患者が、毎日診察で接していたため、退院の時、笑顔でハグしてくれました。また、外を歩いていた時、以前帝王切開した患者がありがとう、と声をかけてくれたこともあります。患者も現地スタッフもMSFをとても尊重してくれます。病院内では、患者だけでなく患者家族も体の不調を診て欲しいため、何か言いながら近づいてきます。MSFに対する期待の大きさを感じました。
 治安面では、派遣された前年2015年10月にアフガニスタンのMSF外傷センターが米軍による誤爆を受けています。そのため、かなり厳重なセキュリティーシステムが敷かれていました。病院−宿舎間の800mでさえ車での移動を強いられましたが、日中、2人以上で連れ合うならば病院−宿舎間のみ歩くことを許可されました。条件として、必ずチームリーダーとWatch manと言われる見張り番に連絡を入れなければなりません。面倒くさいのといつ呼ばれるかわからないのとで、常に宿舎で過ごしていました。
 宿舎内の生活は、想像していたよりかなり快適で、個室、共同のシャワー室が使えました。また、食事も現地のコックさんが世界各国からくるスタッフの口にあうように、現地食以外のものをたくさん作ってくれました。現地産のオレンジとパンは、物凄くおいしかったです。お陰で痩せることはありませんでした。
 一緒に働いたMSFスタッフは、麻酔科医、薬剤師、看護師、助産師、プロジェクトリーダー、メディカルリーダー、アドミン(給料管理と人事係)、ロジスティシャン(用度係)とかなり大きなチームでした。幸いに、同時期に日本人の助産師さんがいて、嫌なことがあったり、むかつく人がいたりすると、日本語で愚痴を言い合ってストレス発散していました。また、パーティー好きな外人達は、毎週末に限らず何かにつけてパーティーを催し、日本文化との違いを感じました。
 奇跡的に何とか3カ月の初ミッションを終えることができました。何を言っているかわからない、自分の言いたいことが伝えられない中での多種多様な仕事は、かなりストレスだったようで、帰国後、食欲を失い、常に眠く、すぐには日本の診療に戻れませんでした。これでMSFの活動を辞めようかとも思いましたが……

「アフガニスタンの位置出典:Wikipedia」

「分娩数が多すぎて、常にコットは新生児2人以上を収容」

「現地の産婦人科医、助産師と」

「宿舎の食事はコックさんが作ってくれます」

「陽気な仲間たちとの週末パーティー」

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古代アテネの公務員弾劾制度に学ぶ  福本一朗(長岡保養園)

 内外多事であった2019年10月は1週間で大臣2名の辞任が問題となり、その一人は参議院議員である“妻”が公選法違反疑惑を起こしたため法相を辞任し首相の“任命責任”が問われた。しかし考えてみると、1つは大臣が公人としての行為ではなく、自分以外の妻という他者のしたことの責任を取らねばならなかったことは、自由主義・個人主義の近代世界観にはそぐわない。それは“任命責任”についても同様で、行政委任された大臣が役人としての意思と能力不足以外の言動(失言など公務以外の私的行為)に対する責任を取ることは筋違いであろう。そもそも「責任は義務ではなく関係改善要請である」とするドイツの刑法学者ハンス・ケルゼンによれば、“責任を取る”ということは“身を引く”ことではなく、“損なわれた関係性を修復する”ことであり、引責辞任は決して責任を取ったことにはならない。その意味で死刑廃止論者は「国家権力によって人生を強制的に終わらせることは、自らの行為の責任を取れなくすることであり、むしろ終生の償いをさせることが本人にとっても被害者家族にとっても解決になる」と主張する。
 そもそも辞任に伴って大臣始め上級公務員が頻繁に交代することは、行政が滞るだけでなく、国政選挙になれば数億円の国税が虚しく消費されることになる。「敷島の大和心を人問わば朝陽に匂う山桜かな」、日本の武士は古来“潔さ”を信条とし、必要な場合には切腹という名誉ある死で自らの行為の責任を取ってきた。渡世人の指詰めも庶民の“ミニ切腹”といえよう。しかしその個人として立派に見えるその行為は、果たして社会に“責任を取る”ことになっているのであろうか?特に政治家が不祥事に際して、単に辞任するだけで“禊ぎ”となり、国民に対して責任を果たしたことになるのであろうか?また自由主義・自治主義・個人主義に立つ民刑法の「過失責任原則」に照らしても、原則として自己の行為により他人に損害を与えた本人だけが“個人的に責任”を負うものであって、例え家族や部下であっても、自分以外の人の行為の責めを負うことはあってはならない。
 民主主義発祥の地、古代アテネでは、全市民の政治参加を原則とした一方で権力者に対する根強い不信感をいだいていたため、役人には厳しい責任を要求し、それを果たさぬ者に対しては、一般市民が民衆裁判所において、市民権を有する民衆であれば誰でも弾劾提起でき(Fig.1)、罷免・訴追さらに処刑にまで導くための法的手段(役人資格審査・民衆訴追制度・陶片追放制度など)を数多く備えていた(Fig.2)。さらに幾重にも張り巡らされた公職者弾劾制度の網の目が役人達の行動を監視していた。この中で特に注目されるのが、執務審査制度である。アテネで公的な役職に就いたものは原則として任期中に辞めさせられることはないものの、任期終了後1カ月以内に執務報告書と公金出納報告書を民会に提出し、報告に不正がある時には市民からの告発を受け、有罪とされれば、国家に与えた経済的損失を個人的に賠償させられた。しかもこの政治責任には一切時効がないため退職後も終生訴追されることを覚悟せねばならなかった。そのため選挙や希望者の中からの抽選で選ばれる役人になろうとする者には、私腹を肥やそうとするものは皆無であり、執務中は無責任に税金を浪費したと非難されないよう常に心掛けていた。
 欠点のない人など存在せず、ゲーテの言うように「人間とは必定過つ存在(Es irrt der Mensch so lange er strebt)」である。公務員の在任中は法の下で言動の自由を与えて「歴史として我を裁かしめよ!(Let history judge!)」と、能力の限り国民に奉仕させ、その代わり退任後には厳しい結果責任を問う古代アテネの制度を再考することも有益ではないかと思う。

「Fig. 1 フリュネーの民衆裁判(BC400アテネ) 画家兼彫刻家ジャン・レオン・ジェロームの作品」

「Fig. 2 陶片追放の投票札 (アテネの最盛期を築いた将軍ペリクレスの名前が書いてある)」

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蛍の瓦版〜その55   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 胃がんリスク検診

 (対象が若年層に拡大しました!)

 長岡市医師会と長岡市では、長岡地区での胃がん撲滅を目指し、胃がんリスク検診と中学生のピロリ菌検診を推進してきました。全国的にはがん死亡における胃の割合は減少傾向ですが、平成29年の長岡保健所管内では男女共に2位を占めていました。一方胃がんの発生にはピロリ菌感染に因るところが大きく、大半の胃がんではピロリ菌の排除が一次予防となりえます。幼児期のピロリ菌感染成立の予防とともに、胃粘膜の萎縮が進行する前の若年世代から、ピロリ菌の除菌治療を開始することが肝要です。またピロリ菌の感染は、胃がんの他にも消化性潰瘍等の胃内外の関連疾患を併発することが知られています。
 平成27年9月の瓦版にご紹介しましたが、平成26年に開始された胃がんリスク検診は昨年で5年の節目を迎えました。ピロリ菌感染の有無と胃粘膜萎縮の程度を血液検査で判定し、胃がん発生リスクの高い方に積極的に内視鏡による精査を受けていただき、除菌を勧めるものです。また3年目からはA群の判定基準を厳しく設定し、精度を上げています。13万人近い対象者のうち約2万6千名の方が検診を受けられ、104名の胃がんとその他の悪性腫瘍9名が見つかっています。平成28年開始の中学生のピロリ菌検診は、5月の瓦版にご紹介しましたように順調に運用され、今年度から対象を拡大しています。
 胃がんリスク検診ではさらに対象を20・25・30・35・40歳の若年層に拡大し、いっそうの充実を目指しています。長岡市報5月号でも紹介されていますが、これまで同様に未受診者に限り45・50・55・60・65歳の節目の方も対象です。
 一般に検診の受診率は若年層程低く、特に男性で低いことが特徴です。今までの胃がんリスク検診でも40歳代と50歳代の男性の受診率は10%と低く、70歳の女性が30%を超えるのとは対照的です。今年の検診でも、8月末までの約3カ月では40歳以下の男性は受診率3・8%で女性の7・4%に比べ半分程度でした。胃がんリスク検診は、胃がんや胃潰瘍の家族歴のある若い方に積極的に受診していただきたい検診で、簡単な採血だけで可能です。機会を捉えて啓発していただくと共に、通院中のご両親祖父母を通しても検診の活用を勧めていただきたくお願いします。

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巻末エッセイ〜私のスタンド・バイ・ミー(後編) 江部佑輔(江部医院)

 善喜島は善右衛門さんと喜兵衛さんが開墾したことから名づけられたという言い伝えがあるそうです。この地の開墾の歴史は信濃川左岸の村、本大島、下山村の人たちが行ったともいわれています。
 当時の信濃川は今よりさらに東にあったため、当時開墾された善喜島は信濃川の左岸にあったと考えらえます。
 今の信濃川はその後、信濃川の流れを緩めるために本大島、下山に掘削された新川が江戸時代後期の洪水で本流となったため、当時からみると相当西に流れが移動しています。そのために善喜島は今の左近に接岸した形になったようです。
 我々悪童4人は島のさらに中心へと進みました。しかし、そこは私の想像するクワガタやカブトムシがいるような森ではありませんでした。
 目の前に広がるのは、見事に開墾された立派な畑だったのです。
 私をここに連れてきた彼らは「あるある」と言って、畑の中にある1本の樹木に近づいていきました。その木にはおいしそうな桃がたくさん実っていたのです。彼らの目的はオオクワガタでもなく、島の探検でもなく、なんとこの桃だったのです。
 彼らはそこから数個の桃をもぎ取り食べ始めました。小学4年生ですから、なんとなくそれがいけない行為とは、おそらく当時の私は感じていたとは思います。
 しかし、しばらくの冒険のあとの空腹のためか、結局桃の誘惑には勝てず、私も1つ取って食べてみました。それは今でも忘れませんが、とっても甘い桃でした。
 ただ悪事はそう簡単に許されるものではありません。私たちの窃盗はすぐに発見されました。
 土手の上から、おそらく畑の主でしょう。大きな声で我々をどやしつけてきました。それに気づいた私たちは無我夢中でその場から逃げ出しましたが、結局捕まってしまいました。
 そのあとのことは記憶があいまいですが、後日校長室に我々4名は呼び出しを受けたことは覚えています。
 校長先生は易しい方でしたので、厳しく怒られた記憶はありませんが、私の覚えていることは、校長室に田中角栄とサインのある書があったことだけです。
 この話を父に最近したところ「そんなことあったかな」と覚えていないようでした。
 おそらく当時はかなり怒られたのだと思いますが、そのことは私も全く覚えてはいません。今も記憶に残るのは桃の甘さと開墾された善喜島の光景だけです。
 昭和20年7月20日、善喜島に模擬原爆が投下され数名の人が亡くなったことを知ったのは比較的最近のことです。
 今このあたりのことを(ぜんきじま)と呼ぶ人はほとんどいなくなりました。(ぜんきじま)は当時ここら辺の子供たちには未知の世界であり、小さなロマンでもあったのかもしれません。
 そんな(ぜんきじま)に踏み入って、まさか校長室にまで呼び出されることをするなんて。私はそれほどやんちゃな方ではなく、どちらかと言えばおっとりした性格でしたから、こんなことする人間でなかったと自分でも思っているのですが、なぜだかこの数か月後にもう一度だけ校長室に呼び出される事件を起こしてしまいました。
 そのことはまた別の機会に。

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