長岡市医師会たより No.478 2020.1


もくじ

 表紙絵 「描き初め (1月4日、河口湖の朝)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「「新春を読む」 
 「「良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その一」 江部達夫(江部医院)
 「「我が第二の故郷 ナイジェリア ジャフン〜国境なき医師団3」 鈴木美奈(魚沼基幹病院)
 「「県医師国保組合理事会報告〜国民年金基金をご存じですか?」 副会長 荒井義彦(荒井医院)
 「「巻末エッセイ〜北極圏 オーロラクルーズ」富樫賢一



「描き初め (1月4日、河口湖の朝)」  丸岡 稔(丸岡医院)


新春を詠む

十二支の振出し戻る年新た  荒井紫江(奥弘)

訪う人の絶えて元旦から朝寝  江部達夫

電子音満ちて此の世や去年今年  石川 忍

折り合うて夫婦仲よき雑煮椀  郡司哲己

 

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良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その一  江部達夫(江部医院)

 ここで俳句に読み替えを試みた良寛の短歌百首は、谷川敏朗(選・解説)、小林新一(写真)両名の著書『良寛の名歌百選』(考古堂刊)によるものです。
 谷川氏によれば、個人の好みにより拾い出したものではなく、「過去に先達の方々が、良寛の代表作として評釈された中で、多く論評されている歌を選び出したもの」であるので、この百首の短歌は客観的に良寛の名歌と言えるものであると。
 良寛の詩歌には、移り変わる季節、人々の喜びや悲しみ、子供たちと遊ぶ楽しみ、社会の在り方への嘆きなどに、まことの心が述べられている。歌の根底には、良寛の清貧に甘んじ、その中で生きて楽しみを見出してゆく強い精神力が感じられる。
 平成二十年、良寛生誕二百五十年にあたり、新潟日報社では、全国良寛会の協力の下三年間、新潟日報朝刊の第一面に『良寛』の表題で、良寛詩歌の紹介とその解説を連載した。
 その中には短歌七百余首あり、『良寛の名歌百選』に選ばれている歌が七十七首含まれている。
 この七十七首の中、二十首ほど八年前に俳句に詠み替えているが、この度改めて詠み替えてみると、前とは異なった表現になっているものが多い。八年の経過の中で句作りに幅がひろがったか。
 短歌には季節感の無いものもあり、俳句に求められている季語の無いものが多くなった。また十四文字も少なく表現することから、歌意を十分伝えることは困難であるが、不足の分は読者の推量で補っていただければ幸いです。
 文章の形式は初めに元歌、次いで注釈を加え、終わりに俳句に詠みかえている。

1 つの国の高野の奥のふる寺に

 杉のしづくを聞きあかしつつ

 「つの国」は「摂津の国」。「ふる寺」は摂津、播磨の多加野村にある天台宗普光寺の説。「つの国」は「きの国」の誤りで、「高野の奥のふる寺」は高野山の古寺との説もある。

古寺に夜通し杉のしずく聞く

2 その上(かみ)は酒に浮(う)けつる梅の花

 土に落ちけりいたづらにして

 「そのかみ上」…昔。「いたづら」…むなしい、はかない。

酒に浮かべ遊びし梅花土に落ち

3 あづさ弓春も春とも思ほえず

 過ぎにし子らがことを思へば

 「あづさ弓」…「春」にかかる枕詞。「春も春とも」は「春を春とも」の詠みもある。「過ぎにし子」…亡くなった子。

亡くなりし子らを思へば春はなく

4 人の子の遊ぶを見れば

 にはたづみ

 流るる涙とどめかねつも

 「にはたづみ」…「流る」にかかる枕詞。子を亡くした親の気持ちになって良寛は詠んでいる。

遊ぶ子に涙留めず亡子思ひ

5 この里に往き来の人は

 さはにあれども

 さすたけの君しまさねば

 寂しかりけり

 「さはに」…数多く、たくさん。「さすたけの」…「君」にかかる枕詞。「まさねば」…「ます」は「あり」の尊敬語。「この里の往き来の人はあまたあれど君しなければ淋しかりけり」とも詠まれている。「左一がみまかりしころ」の詞書がある。左一は三輪左一、左市とも。与板町三輪家(回船問屋大阪屋)の出、五合庵に良寛をしばしば訪ねていた。良寛の心の友であり、法弟ともいわれていが、良寛五十歳の時亡くなっている。

往き来の人里にはあまた君はなく

6 この里の桃の盛りに来て見れば

 流れにうつる花のくれなゐ

 「この里」は現 新潟市白根で、「流れ」は信濃川。

桃盛る里の流れは紅(べに)映し

7 たらちねの母が形見と朝夕に

 佐渡の島べをうち見つるかも

 「たらちね」…「母」にかかる枕詞。「うち見つるかも」は「うち見つるかな」の詠みもあり。良寛の母おのぶ(秀子との説もあり)は佐渡市相川の生まれ。

朝な夕な母が形見と佐渡眺め

8 古(いにし)へに変わらぬものは荒磯海(ありそみ)と

 向かひに見ゆる佐渡の島なり

 「荒磯海(ありそみ)」…「荒磯海(ありそうみ)」、岩が多く波の荒い海岸。

荒磯海と佐渡は古へ変わらずや

9 草の庵(いほ)に足さしのべて小山田の

 かわづの声を聞かくしよしも

 「聞かくしよしも」は「聞くがよろしも」の詠みあり。「よしも」の「よし」は「好し、善し」で、快い、楽しいの意。

庵に足伸ばし山田の蛙聞く

10 神馬藻(じんばそ)に酒に山葵(わさび)に賜るは

 春は寂しくあらせじとなり

 「神馬藻」は「赤藻屑(あかもく)」、ホンダワラ科の海藻。食用やお正月の飾り物になる。

酒山葵神馬藻届き春楽し

11 さすたけの君がすすむる

 うま酒に

 我酔(ゑ)ひにけりそのうま酒に

 「君」は阿部定珍。阿部家は旧分水町渡部にある。代々の庄屋で、酒造業を営んできた。定珍はていちん、さだよしとも(1779−1838)。阿部家第七代当主で良寛と親しく交わり、惜しみない援助をした。

君すすむうま酒我は酔ひにけり

12 霞立つ永き春日(はるひ)を子供らと

 手毬つきつつこの日暮らしつ

 「霞立つ」…「春日(かすが)」にかかる枕詞。

永き日を子らと一日手毬つき

13 子供らと手たづさはりて

 春の野に

 若菜を摘めば楽しくあるかな

 「たづさわり」…「携わり」、互いに手を取るの意。

子供らと手つなぎ野辺に若菜摘み

14 春の野に若菜摘みつつ雉子(きじ)の声

 聞けば昔の思ほゆらくに

 「思ほゆ」…自然に思われる。「らく」…「〜すること」の意。

若菜摘む野に雉子の声昔偲ぶ

15 足引の此(この)山里の夕月夜(ゆふづくよ)

 ほのかに見るは梅の花かも

 「足引の」…「山」にかかる枕詞。

梅の花ほのかに山里夕月夜

16 あしびきの片山かげの夕月(ゆふづく)夜

 ほのかに見ゆる山梨の花

 「片山かげ」は片側だけが山になっているその陰。

片山かげ山梨ほのか夕月夜

17 梅が枝(え)に花ふみ散らす鶯の

 鳴く声聞けば春かたまけぬ

 「かたまけ」は「片設(かたま)く」、時節がめぐってくるの意。

梅花ふみ鶯の鳴く春来たり

18 道の辺(べ)に菫摘みつつ鉢の子を

 忘れてぞ来(こ)しその鉢の子を

 「鉢の子」…托鉢の僧が持って歩く鉄鉢。鉄鉢は重いので良寛は木製の鉢を使っていた。

菫摘み道辺に鉢の子忘れ来し

19 むらぎもの心はなぎぬ永き日に

 これのみ園の林を見れば

 「むらぎも」…「心」の枕詞。「なぎぬ」…「なぐ」、おだやかになる。「み園」は阿部家のお庭。

心なぐ永き日み園の林見れ

20 むらぎもの心楽しも春の日に

 鳥のむらがり遊ぶを見れば

鳥群れて遊ぶ春の日心楽し

21 春の野のかすめる中を我が来れば

 遠方(をちかた)里に駒ぞいななく

春野行くかすむ村里駒ぞ鳴く

22 薪(たきぎ)こり此の山陰に斧(をの)とりて

 いくたびか聞く鶯の声

鶯の声聞く山に薪樵(たきぎこ)り

23 佐渡島(さどがしま)の山はかすみの眉ひきて

 夕日まばゆき春の海原

 「佐渡島の」は「佐渡が島」の詠みもあり。

佐渡の山かすみたなびき日は海に

24 青山の木ぬれたちぐき時鳥

 鳴く声聞けば春は過ぎけり

 「木(こ)ぬれ」…こずえ、木に枝の先。「たちぐき」は「立ち潜(ぐ)く」、くぐり抜けるの意。

こずえ舞ふ時鳥の声春は過ぎ

25 相連(あひつ)れて旅かしつらむ時鳥

 合歓(ねぶ)の散るまで声のせざるは

 「五月(さつき)過ぐるまで 時鳥の鳴かざりければ」の詞書がある。

時鳥声なく(合歓(ねむ)散る連れ旅か

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我が第二の故郷 ナイジェリア ジャフン〜国境なき医師団3  鈴木美奈(魚沼基幹病院)

 アフガニスタンの初回派遣から帰国後、いろいろ考えました。最終的にやっとたどり着けたMSFへの道なんだから、1回でもうやめたでは勿体ない。もう1度、他のミッションに行ってみて継続するか辞めるか決めよう、と思いました。
 そして、2017年1月、セカンドミッションとして行ったのがアフリカで最大の人口を持つナイジェリアです。ナイジェリアは西アフリカに位置し、36の州からなる連邦共和国で、人口およそ1億9000万人。首都アブジャのある南部は教育水準が高く、裕福な人も多いです。
 しかし、MSFが援助するジガワ州のジャフンは北部にあり、文化も教育水準も遅れています。また、部族によっては4人まで妻帯でき、かつ一人の妻が平均5人の子どもを産むので貧しい大家族が目立ちます。ジャフン・プロジェクトは、10年前から始まった周産期に特化したプロジェクトです。重症な患者が多いため、現地の保健省と協力し、必要な医療資源、医療を提供することで妊産婦死亡、新生児死亡の低下を目指しています。
 ジャフン病院では月に入院880〜1100件、分娩数600〜700件を受け入れており、帝王切開率は18〜24%、母体死亡は月3〜10件ありました。また、日本ではほとんど経験することのない重症例が、1日に少なくとも15人も入院してきます。例えば、意識障害を伴う子癇発作症例、長期間放置され敗血症になった流産症例や子宮内胎児死亡症例、不用意な子宮収縮促進剤の使用で子宮が破裂した症例、児頭が膣に陥入したまま何日も経過して生じる分娩停止症例、マラリアなどでの重症貧血(ヘモグロビン2g/dlや3g/dlなど)の妊婦などです。胎盤早期剥離などは日常茶飯事でした。
 手術でも、帝王切開に工夫を凝らさなければいけなかったり、膀胱損傷を合併した子宮全摘を強いられたりします。日本で培った20年の経験の枠を超えて、いろいろなバリエーションを考えて組み立て、治療や手術をしていかなければならないのです。1回目の約10週間の派遣で行った手術は、帝王切開115件、子宮全摘12件、流産手術44件、感染創手術5件、試験開腹および子宮外妊娠手術など婦人科系開腹手術6件でした。このミッションこそ、私が思い描いていた“the 国境なき医師団”でした!もちろん、現地医師の指導、臨床症例の検討会などもありますが、管理者会議らしいものもほとんどなく臨床に集中できるのです。私は水を得た魚のようになりました。
 1回目のジャフン・プロジェクトを経験し、「さらにレベルアップをしたい!」と向上心をたきつけられたこと、熱帯医学の勉強不足で満足できる仕事ができなかったことから、私は2017年10〜12月に再度、そして2018年11月〜2019年3月にも再々度、ジャフン行きをMSFに希望しました。このように、同じ派遣場所に希望で複数回行くことは珍しいそうです。そして、この忙しいプロジェクトを好む私を現地スタッフは不思議がる一方で重宝もしてくれ、「ジャパン・マシーン」という、ありがたいようでありがたくないニックネームを付けてくれました。
 同じ派遣先に複数回行くことで気付く変化があります。多忙で食事する暇も寝る時間もなく、モチベーションが下がっていた現地医師たちでしたが、行く度に医師の数が増え、余裕が出てきたのか表情が生き生きとしてきました。助産師の教育も向上し、助け合おうという姿勢も見え、緊急症例の対応がどんどん速くなっていました。
 3回目(2018年11月〜2019年3月まで)の派遣で気づいたさらなる改善点は、分娩の8割弱を占める正常分娩症例の取り扱いです。過去10年間の妊婦へのアウトリーチ(病院外)教育、啓蒙の成果が出て、妊娠前健診が広がり、自宅分娩から医療施設での分娩へと住民の意識が変化しました。一方、無償で医療が受けられるジャフン病院に患者が殺到し、完全にキャパシティを超えていました。しかし、ジャフン病院は日本でいう高度医療施設です。多忙ゆえ、重症患者の対応が遅れてしまうこともありましたが、MSFは現地の他の医療施設と連携を深め、問題のない妊婦は近くの医療施設に紹介するようにしました。こうした取り組みでジャフン病院の現地医師や助産師の負担が減り、より密度の濃い診療が提供できるようになったのです。
 また、妊娠高血圧症の最重症型である肺水腫や心不全合併妊婦、褥婦が多く来院します。以前は治療には利尿薬やドーパミンを使用するしかなかったのですが、今は経鼻的持続陽圧呼吸(nasal CPAP)の機械を購入してもらえ、患者救命に大きく貢献しています。
 他に目覚ましく改善したと感じたのは、検査能力の向上です。2年前の1回目の派遣時は、ごくごく限られた症例に、ごくごく限られた項目しか検査できませんでした。例えば、血液検査といってもHbだけで、生化学検査はほとんど存在しないに等しい状態でした。それも、検査所要時間は1日以上かかります。それが2回目に行くと、全血球計算が可能となっており、生化学としてAST、ALT、ビリルビン、腎機能が加わり、妊娠後期や分娩時に生じることの多いHELLP症候群を診断できるようになりました。しかし、依然として結果が出るのには1日近くかかりました。3回目は、検査項目にALP、LDH、カリウムが加わり、検査所要時間も、「急いで」とお願いすれば数時間で出してくれるようになりました。この素晴らしい検査力の向上は、新規機器の購入によるものだけでなく、MSFと保健省共同でのラボスタッフの教育が大きな効果を上げた結果で、感銘を受けました。
 重症例の受け入れが多いジャフン病院ですが、1カ月の母体死亡件数は1桁に抑えられています。背景には、血液バンクが充実していることがあります。日本では一般的な新鮮凍結血漿(FFP)はないのですが、何十人もの献血者が、同院に連日訪れて献血してくれるため新鮮血が手に入ります。こうした人たちは、以前にジャフン病院で助かった患者の家族、親戚縁者たちで、お礼の気持ちから献血に来てくれているのです。
 アフリカはどの国もそうですが、家族愛に満ちあふれています。親類縁者の絆がものすごく強い!!妊産婦が一人助かると、4、5人の親族が翌日から献血に駆け付けてくれます。血液バンクのスタッフも優秀で、感染症検査はもとより、血液オーダーの欄に書いてある診断名に従って適切な血液を速やかに供給してくれます。例えば、胎盤早期剥離で輸血オーダーすると、何を差し置いても当日取れたての新鮮血を回してくれます。急速にDICに移行するため、凝固成分の早期補充が必要なことをよく理解しているからです。また、重症貧血や心不全患者の輸血には、濃縮赤血球(Packed Red Blood Cell:PRBC)という血球成分が概ねを占め、血清成分が少ない血液製剤を供給してくれます。過剰な水分が患者の命取りになるからです。現地スタッフの優秀さには舌を巻きます。
 忘れられない症例も多々あります。心嚢液、胸腹水の貯留した妊婦がいました。ドーパミン使用でも血圧維持が困難でした。妊娠終了が唯一の最適な治療ですが、分娩誘発に全く反応しません。このままでは母体生命予後は不良です。帝王切開自体も危険をはらむものでしたが、ごく少量の薬剤での脊椎麻酔と、皮膚、子宮筋層への局所麻酔を併用し、45度のファウラー体位で帝王切開に臨みました。術後は顕著に状態が回復し、最後は降圧薬の内服をしながら退院できました。現地医師、麻酔科医、手術室スタッフ、ICUスタッフ、助産師のチームワークの大切さを痛感できた症例です。その後、同様の妊婦が2人入院してきました。前症例の経験から帝王切開を施行しましたが、一人は経過良好、もう一人は術後数日で亡くなってしまいました。同じ治療であっても、症例ごとに適切な手術施行時期があり、判断の遅れが患者の命を奪ってしまうのです。ナイジェリアでの医療の難しさを痛感する日々でした。
 もう1例、印象に残った患者がいます。長期子宮内胎児死亡で敗血症、DICになった患者さんです。経腟分娩には成功したのですが、産褥期に良くなる気配は一向になく、むしろ状態が悪化していきました。脈拍は180/分近く、体温も39〜40度、血小板も5万/μl以下。日本人ならあっという間に亡くなることでしょう。手術にも耐え得るか分かりませんでしたが、一か八か子宮全摘を提案しました。
 私が何度かジャフンに来て一緒に働いていたため、現地の医師たちとの信頼関係が築けており、彼らは私の判断に任せてくれました。そこで子宮全摘に踏み切りました。彼女は術後1か月近くICUにいましたが、毎日彼女の顔を見て、「大丈夫、あなたは強い女性だよ」と声をかけていました。短期休暇のために帰国する前日、「しばらく会えない」と英語で伝えましたが、英語の話せない彼女にも伝わったようで「また会いましょう」と現地語で答えてくれました。回復に時間がかかったようですが、無事にICUから一般病棟に移り退院できたそうです。
 産婦人科領域において、日本は世界でも有数の先進国です。その中で臨床経験を積んでも、MSFの活動を通じて教わるものの方が断然多いと感じています。社会貢献のために行ったつもりが、逆にいつもたくさんの学びを得て、産婦人科医として成長させてもらい、感謝の気持ちいっぱいで帰ってきます。少しでも恩返しできるよう、これからもMSFで働いていきたいと思っています。

「ナイジェリアの位置 出典:Wikipedia」

「ジャフン病院の外観」

「ジャフン病院での手術のようす」

「ナイジェリアの現地医師、日本から派遣された同僚と」

「ICUではチーム一丸となって救命に取り組む」

「素晴らしいチームワークで患者さんの命を救うことができた」

「一般病棟に移る日、ICUから写真が送られてきました!」

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県医師国保組合理事会報告〜国民年金基金をご存じですか? 副会長 荒井義彦(荒井医院)

 令和元年12月18日、県医師会館で開催された新潟県医師国民健康保険組合令和元年第2回理事会に市川理事、大塚監事と出席してきました。議事は例年と同じで、事業現況報告、来期予算、今後の行事予定、監査報告、報告事項等でした。

 財政状況は組合費を平成30年8月に値上げしたため単年度決算では黒字ですが、国庫補助金の削減等の影響で厳しい状況は変わりません。詳細は県医師会報および当会報でもご報告していますので、参照してください。

 予定議事終了後にその他が話し合われ、全国国民年金基金の話題になりました。この年金は日本医師会の医師年金とは全く別のものです。全国国民年金基金日本医師従業員支部で受け付けております。特徴はダブルの税制メリットがあることで、掛け金は全額社会保険料控除の対象のため、所得税と住民税が軽減され、給付には公的年金等控除が適用されます。さらに給付は生涯にわたり、例外がありますが、遺族一時金全額が非課税となります。いいことずくめの年金です。

 申し込みできる対象者は、年齢が満20歳以上60歳未満の国民年金の第一号被保険者や、満60歳以上65歳未満で国民年金に任意加入している方で、残念ながら厚生年金の被保険者や他の国民年金基金に加入している方は入れません。新潟県の医師の加入率は6割弱とのことです。該当する方は“日本医師従業員”もしくは“0120−700650”で検索してみてください。

 私も20年前に知っていれば入っていたのに、重ね重ね残念な思いをしております。

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巻末エッセイ〜北極圏 オーロラクルーズ 富樫賢一

 もう4年も経った。女房にせがまれ、カナダのイエローナイフ(北緯60度)にオーロラを見に行ってから。4晩も通ったのに、オーロラビレッジで見たのは白い煙だけ。それも1回だけ。こんなのはオーロラではないと女房(と私)。

 それではと懲りもせず、今度こそはと昨年2月真冬のノルウェーに。南端の首都オスロでさえ2月の平均気温は最高マイナス2度最低マイナス15度。最果ての岬ノールカップ(北緯71度)は一体何度。

 コペンハーゲンで乗り継ぎ、深夜ベルゲンに。翌日ベルゲンとキルケネス間を往復している沿岸急行船フッティルーティン北行きポラリス号に乗船。最大乗員619人。船内通貨はノルウェークローネだが、すべてカード払いで換算の必要はない。だが物価は驚くほど高く、日本の1.5倍以上。

 最初の寄港地はオーレスン。西海岸に面する港町で幾つもの島からできている。渋る添乗員を尻目にアクスラ山登山に挑戦。雪で滑る急な山道418段を何とか登り切り山頂に到達。そこから見たアールヌーボー調の街並みはまさに北欧。

 次の寄港地はトロンハイム。一時首都だったこともあるノルウェー第三の都市。下船後バスで雪に埋まった街中を散策。ニーダロス大聖堂内では牧師が二手に別れて英語と独語で説明。正午出港。フィヨルドの壮大な景色に目を見張る。

 乗船3日目の朝7時、北極圏(北緯66度)通過。海の神ネプチューンの洗礼イベントがあり夫婦で参加。カウントダウンが終わるやネプチューンが客を捕まえては背中に氷水を流し込み始めた。喜ぶ人も居れば逃げ出す人も居る。我々は早々に退散。11時から絵葉書購入で記念スタンプを押してもらえるというので早速にその列に並ぶ。

 次の寄港地ボードーは北部に於ける交通の要所。凍った雪で滑る中、市内散策へ。最後にルーテル教会を見学して戻ると、豪華客船が隣に停泊していた。それがなんと1カ月後悪天候中エンジントラブルで航行不能となったバイキング・スカイ。

 4日目は北極圏最大の都市トロムソ。昨日は真夜中まで起きていたのにオーロラは出なかった。それでもめげずに吹雪の中、街中観光へ。トロムソ教会とマックビール工場を見学後、希望者多数ということで北極教会にも行くことになった。ぎゅうぎゅう詰めの市内バスで30分、雪に埋まる教会前に到着。それは小高い丘の上に立ち、雪中青白く神秘的に浮き上がっていた。これが北極圏唯一の教会。

 さて帰ろう。しかしバスが来ない。一緒に待っていた地元の人の話だと当分来ないかもと。それではと歩いて帰ることに。来る時は分らなかったが長い橋があり、しかもツルツルして転びそう。恐る恐る休み休み歩いて行く。途中橋上から見た暗闇に浮き出たトロムソの街。それはまさに北欧。

 トロムソを出港した船はフィヨルドから外海に出て揺れること揺れること。女房たまらずダウン。

 5日目はホニングスヴォーグ。ヨーロッパ最北端の岬ノールカップ観光の拠点地。運良くその日は晴天。それでも通行止めになることがあるという。雪原を1時間位走ると検問が在りしばらく待たされた。ようやくOKが出てラッセル車先導で出発。無事1時間後到着しモニュメントの前で記念撮影。

 そして明日は下船というその夜、遂に出たオーロラ。放送が入り急いで強風の吹く厳寒のデッキに上がる。薄っすら緑と赤の色が付いたカーテン状のオーロラ。やっと見た。しかし肝腎な写真は撮れなかった。またしても残念な結末。

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