長岡市医師会たより No.479 2020.2


もくじ

 表紙 「少雪の白馬高原」 丸岡稔(丸岡医院)
 「長岡中央綜合病院私的今昔物語」 佐藤祐一(長岡中央綜合病院)
 「新年ボウリング大会優勝記 平成から令和に」 三上理(三上医院)
 「新春麻雀大会優勝記」 児玉伸子(こしじ医院)
 「新春囲碁大会優勝記」 新保俊光(新保内科医院)
 「第3回新年将棋大会優勝記」 玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)
 「巻末エッセイ〜来世もペット達とともに」 福本一朗(長岡保養園)



「少雪の白馬高原」  丸岡 稔(丸岡医院)


長岡中央綜合病院私的今昔物語 佐藤祐一(長岡中央綜合病院)

 昨年4月から長岡中央綜合病院に勤務している佐藤です。私は、新潟大学を平成3年に卒業し、新潟大学病院で1年間の内科研修ののち、平成4年から平成6年までの2年間(研修医1年と第三内科として1年)、長岡中央綜合病院で勤務させていただきました。それですので、今回、“出戻り”といった形で当院に勤務しております。
 今回、“ぼん・じゅ〜る”編集部からのご指名とのことで、私が研修していた当時の長岡中央病院の話が、皆さまに少しでも楽しんでいただけるかなと思い、寄稿させていただきました。
 平成4年当時、長岡中央病院はご存知のように、福住に在りました。駅からも近く、福島江がすぐわきを流れていました。私が研修していた内科は、本館4階、5階、6階に病棟があり、内科研修医はそれぞれを順に4か月づつ回って研修するシステムになっていました。今と違って、市中病院が研修医を独自に採用することはほとんどなく、新潟大学からは内科2年めの研修医として、私のほかに、荒川道先生と中山均先生が一緒に研修することになりました。1年間、お互い情報交換しながら、つらくも楽しい研修生活を送りました。3人で福島江の桜の下で写真を撮ったことも、いい思い出です(残念ながら写真は紛失)。その後、荒川先生は、新潟大学第一内科に入局された後、ご結婚されて田川道先生となっておられます(もう20年以上お会いしておりません。お元気でしょうか?)。中山先生は第二内科に入局し、腎臓内科医としてご活躍でしたが、数年前に行政の道に転じ、今は新潟県庁で勤務されており、監査に来られているのを時折お見掛けします。
 1.本館4階
 本館4階は、私が、長岡中央綜合病院内科で、一番最初に回った病棟です。
 指導医は循環器内科が高橋正和先生、土田桂蔵先生(現 土田内科循環器科クリニック)の2人、呼吸器内科が星野重幸先生(現 新潟市秋葉区 ほしの医院)、塚田弘樹先生(現 慈恵医大柏病院 感染制御部教授)でした。婦長は金子さんでした。
 とにかく中央病院に来て初めてのことばかりで、病院のシステムに慣れるのに必死でした。一日10枚の心電図を読み、それを毎日、高橋先生からチェックしてもらうのが日課でした。土田先生には、循環器疾患全般はもちろん、特に虚血性心疾患のリハビリについてよく教えていただきました。土田先生はご開業されてからもご活躍で、私がこの度、赴任した直後にも、できたばかりの論文を頂戴したりして、全く衰えていないそのパワーに圧倒されております。医師会や病院の忘年会の際にも、温かくお声をかけていただいており、本当に感謝です。
 星野先生・塚田先生には、呼吸器の基礎を教えていただきました。特に塚田先生には、兄貴分として、飲み会に私の1年上の石塚修先生(現 佐渡市立両津病院院長)と誘っていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。この時に一緒に飲みに行った看護師さんが、現在は、当院の看護師長さんになっておられたりして、久しぶりに中央病院に来た私にとって、なんだか気恥ずかしいやら、うれしいやらで、これも塚田先生のおかげと思っています。
 本館4階は、右も左もわからない研修医だった私を、楽しくも厳しく鍛えていただいたという印象です。なお、私自身はその後、循環器や呼吸器を勉強することはほとんどなく、ご指導いただいた先生方には申し訳なく思っております。正直、2つの科については、この時の研修が今のすべてといってもいいかもしれません(不勉強ですいません……)。
 2.本館5階
 2番目に回った病棟で、9〜12月に研修しました。
 指導医は腎臓内科が小林和夫先生(元 栃尾郷病院院長)、長尾政之助先生(現 長岡市医師会長 長尾医院)の2人、血液内科が大野康彦先生(元 県立小出病院院長、現 小千谷さくら病院)糖尿病・内分泌内科が八幡和明先生(現 当院糖尿病センター長)でした。婦長は増田さんでした。
 腎臓内科については、私に全く進む気がなかったことを、小林先生・長尾先生がお察しになられたのか、あまり難しい腎疾患症例を担当することはありませんでした。一方、長尾先生には、腎臓のことだけでなく、趣味も含め、いろいろと教えていただきました。シャント手術を初めて見学し、その丁寧な吻合に驚いたこと(佐藤先生もやってみたら、と言ってもらいましたが、患者さんのことを思うと、とても素人の私の手が出せる感じではありませんでした)や、趣味の気球のお話しや、コーヒーのおいしい淹れ方もご教授いただきました。ちなみに、キジバトを初めて食べたお店(アンジェ)や、アケビのつるを初めて食べた店(土筆だったかな?うろ覚えです)を教えていただいたのも、長尾先生でした。
 大野先生はいつも静かに医学書を読んでおられました。血液内科もほとんど患者を担当することがなく、大野先生にとっては、私は悪い研修医だったのではないでしょうか。
 八幡先生は当時から、いろいろと気さくにお声がけいただきました。糖尿病教室で患者さんに講義をした際、八幡先生にお褒めいただいたのが今でも心に残っております。私が新潟大学在職中も、研究会や大学の近くの本屋などでお会いすることが度々あり、「先生、これからどうするの?」と聞かれ、「自分でもどうなるかわからないんです」とお答えしていたのですが、まさか長岡中央病院に逆戻りするとは、私だけでなく、八幡先生も想定外だったと思います。
 本館5階は、先生方もベテランが多く、ほんわかあたたかという感じでした。
 3.本館6階
 消化器内科の病棟で、研修医最後の4か月間、回った病棟です。
 指導医は戸枝一明先生(元 見附市民病院院長 現 長岡西病院)、富所隆先生(現 長岡中央綜合病院院長)、岸裕先生(元 岸内科消化器科医院)、窪田久先生(現 窪田医院)、銅冶康之先生(現 三条市 どうや胃腸科)でした。一学年上に長谷川勝彦先生(現 日本歯科大学新潟生命歯学部内科学講座)も一緒でした。婦長は三重堀さんでした。
 消化器内科は今もそうですが、朝から晩まで忙しく、検査の合間に入院患者の診察をしていました。胃カメラ、大腸カメラ、ERCP、アンギオなど検査の種類も多く、日々の業務をこなすのに精いっぱいだったように思います。ただ、若かったのでしょう、あまり苦痛に感じたことはありませんでした。
 戸枝先生には、回診で温かいご指導をいただき、見附に行かれてからも、バイトに行かせていただいたりしてお世話になりました。富所先生には胃カメラとERCPの初歩の初歩から教えていただき、今では院長・副院長の関係(こんな関係性になるとは思ってませんでした!)で、さらに様々なことを教えていただいています。岸先生はアンギオやPTCDの道具に大変こだわりがありました。元々、芸術家肌の先生で、本紙でも長らくエッセイを書いておられ、私も時折拝見させていただいておりました。もうお会いできないのが本当に残念です。窪田先生は順天堂大学白壁教授(胃透視の巨匠)のお弟子さんということで、胃透視等で勉強させていただきました。今は、研究会等でお世話になっており、本当に感謝しております。銅冶先生は、新潟大学から一緒に来たこともあり、検査・病棟業務はもちろん、殿町周辺でもずっとご指導いただいておりました。銅冶先生の私の結婚式のスピーチでの名言は、今でも妻や一部の出席者の間では語り草です。長谷川先生は部活の先輩でもあったのでいろいろと相談にのっていただきました。
 私自身、どこの内科に入局するか、とても迷っていたのですが、本館6階での4か月で、たくさん消化器内科のことを勉強させていただき、さらにもっと勉強したいと思ったのが、最終的に消化器内科を選んだことにつながっています。そういう意味では人生のターニングポイントとなった病棟といってもいいかもしれません。
 4.さいごに
 長岡中央綜合病院は、いろいろな意味で私の医師としての基礎を作ってくれたところだと思っています。学生に毛が生えた程度の私を、暖かく指導していただいて、感謝以外の何物でもありません。そういった意味で、これから少しでも恩返しができればいいかなと思っております。今後とも会員の先生方には、ご高配のほどよろしくお願い申し上げます。

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新年ボウリング大会優勝記 平成から令和に 三上理(三上医院)

 令和2年1月20日(月)、毎年恒例の新年ボウリング大会が、台町のイープラザ地下、ポップボウルで行われました。出席者は総勢13名。今年はあらたに渡辺玲先生が加わりました。
 私は平成20年からメジカルボウリングに加わらせていただき、大きな新年会のトロフィーのペナントをみると、平成25年、26年に名前がありました。この頃は絶好調で、月例会もよくトロフィーをお持ち帰りしていました。
 スポーツによらず、何事も、少しわかるようになるといろいろと欲目が出て、考えすぎて、よろしくない方へ転がることがあります。
 ボウリングでストライクを取るには、ポケットにある角度で玉を投げ入れれば良いのですが、そのためにはまっすぐな球筋ではだめで、曲がる球筋が有効です。そのため曲がるボールと曲がる投げ方を考えるようになります。マイボールを持てば、基本的に曲がるようにできているのですが、次は投げ方を考えます。腕の振り方、助走の方向など。そして、道具!通販サイトはもちろんですが、専門サイトをみれば、ボール以外にも様々なアイテムが並んでいます。底の摩擦が変えられる靴、指の太さ、抜け具合を調節するテープ、手首の角度を固定する器具など。道具が増えれば増えるほど、頭の中で考えることが増えます。そして考えすぎておかしな方向へ……
 当然スコアメイクに苦しみ、なかなか勝てなくなりました。さらに右膝半月板の手術の影響で、投げ終わった後膝が痛みます。そのため練習も減り、投げ方がおかしくなり悪循環へ。ご存じかもしれませんが、BS日テレでPリーグという女子プロの大会がありますが、それ以外にもスカパーでも大会の放映があり、イメージトレーニングをしていると、気づきました。無理に玉を曲げず、ただポケットに角度が付くように投げ込めばいいと。そして、窪田先生からのアドバイスもあり、昨年頃からほんの少しずつスコアが上がってきました。
 そして迎えた令和2年。大会は19時半開始で、その前に約10分程度の練習投球がありますが、それではなかなか体が合いません。今年は少し早めにポップボウルへ行き、18時半頃から2ゲームほど投げました。一人で投げているとストライクは出るのですが、集中力不足か、スペアが取れません。それでも多少の自信を持つことができました。投げ終わる頃には市川先生も来られ、廣田さんの封筒も受け取ろうかと思いましたが……(笑)
 大会ではまず投げるレーンを引くのですが、市川先生に9番レーンの希望を通していただき、練習で投げていたレーンと、その隣の10番での本番となりました。練習の2ゲーム目では220まで出ていたので、あとは10番レーン次第です。福本先生、山井先生、渡辺先生と同じ組で大会開始です。1ゲーム目、練習と同じラインを狙い、10番レーンでもほぼ同じ様子で、3フレーム目から7連続ストライクを含め、224ピン。結果的には幸先のいい立ち上がりとなりましたが、実際は10フレームでスペアが取れず、それ以外にもオープンフレームもあり、もったいないゲームでした。そして、2ゲーム目はその影響が出て、なかなかスペアが取れず152ピンまで。今まででしたらここから崩れてもおかしくなかったのですが、できるだけシンプルに考え、3ゲーム目ではノーミスの215ピンまで戻しました。こうなるとあとはグロスで4ゲームアベレイジ200をなんとかして取りたいと欲が出ましたが、2フレーム目でビッグフォーが出て、その後もなんとかカバーはするものの、今度はストライクが出ず4ゲーム目はスコアが伸びません。結局154ピンまで。結果、グロス745ピン、ネット833ピンで終了。これでは封筒も難しいと思いましたがなんとか久しぶりのトロフィーをいただきました。今年は2ゲーム目、4ゲーム目のようにムラがでないよう、そして、グロスアベレイジ200を目標に、月例でも頑張りたいと思います。
 ただ、自宅に帰ってから、膝が痛くて……(笑)
 現状4〜6ゲームが限界のようです。毎年春と秋に黒崎である、県大会には顔を出しており、今年も出るつもりですが、全国大会はゲーム数も多く、ちょっと躊躇しております。
 由緒あるこのクラブのトロフィー、平成の時代に父と私の名前が、そして新たな令和の時代の幕開けに私の名前が付くことを幸せに思います。

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新春麻雀大会優勝記 児玉伸子(こしじ医院)

 さる1月18日に麻雀荘坂之上にて行われました長岡市医師会の新春麻雀大会にて、優勝させていただきました。実は麻雀は私の大好きなゲームで、履歴書の趣味の欄に記入したいと思うほどですが、外聞がよくないので実行はしていません。また最近はお誘いを頂戴することもあまり無く少々寂しく感じており、この麻雀大会は秘かに待ち焦がれていました。
 私の子供時代は西岸良平のマンガ“三丁目の夕日”のような時代で、週末になると父親の職場の友人達が、我が家を訪れ夜遅くまで麻雀を楽しんでいました。その延長で私たち兄弟3人は幼稚園のころから、父親を教師として麻雀に親しんできました。父親自身も麻雀が大好きだったようですが、子供たち全員もこのゲームにすっかり魅せられてしまいました。もちろんテレビゲームやスマホの無い時代のことでした。
 父親は麻雀以外にも、将棋や釣り等様々のことを教えてくれましたが、3人が同様に気に入ったのは麻雀でした。実力そのままに勝負する将棋より、運が勝負の流れをかき回す麻雀の方が、一家団欒には適していたようです。おかげで子供たちが成長しそれぞれ実家を離れてからも、面子が揃うと子供時代に戻って、どうでもよい雑談をしながら卓を囲んでいました。我が家での麻雀は、まさに一家団欒の必需品でした。
 さて、今年の大会は丁度12人の先生方のご参加で、いつものように和やかに勝負が進んでゆきました。私は2回戦が修了した時点で、結構愉しくちょこちょこ上がらせて頂き、今年は春から縁起がいいなと心秘かに喜んでおりました。例年であれば、3回戦で別のどなたかにどーんとツキが周って、私のめでたさも中ぐらいになる予定でした。
 実はかなり昔のこの大会で優勝しルンルンしていた帰り道に、見事にネズミ捕りに引っかかった苦い経験があります。そんな記憶もあって、この大会ではツキを使い尽くすことなく、優勝だけは避けたいと当初から必要の無い心配をしながら参戦しておりました。ところが私にもまだツキが残っていたようで3回戦でも高い手ができ、そうなると初心を忘れつい夢中になってツキに乗ったところ優勝してしまいました。
 苦い記憶から“正月早々ここで運を使ってしまってどうしよう!?”とつぶやいたところ、雀荘の奥様に“これでここから運気が上がるのです!!”と励ましていただきました。とりあえず帰路は慎重に運転し、何事も無く帰宅しました。

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新春囲碁大会優勝記 新保俊光(新保内科医院)

 新年あけましておめでとうございます。大会は令和2年1月24日、割烹魚藤で開かれました。星さんが会場設営と受付をしてくださり、参加者は太田裕先生、大塚武司先生、斎藤古志先生、柳京三先生、山本和男先生、吉田正弘先生と私新保俊光の7名でした。例年ご参加の小林矩明先生、斎藤良司先生、三間孝雄先生は都合がつかず、少しさみしい大会になりました。参加者からは、来年は是非ご参加いただき、手談や酒談を交わしたいとの声しきりでした。
 私は1戦目、柳先生と対戦いたしました。細かい形勢でしたが、終盤柳先生に死活の見損じがあり、中押し勝ちになりました。2戦目は太田先生と対戦いたしました。終盤私の大石の目が怪しくなりましたが、なんとかしのぎ2勝目をあげました。最後は大塚先生との対戦でした。一昨年は決勝戦で先生に負けています。中盤で効かしのつもりで打った手が緩着で、みるみる私の大風呂敷に穴があき、弱石もでき必敗の形勢でした。局後の検討で太田先生ご指摘の通り、何度も大塚先生の勝ち筋があったのですが、しぶとく粘り逆転勝ちしました。昨年に続く優勝で望外の結果でした。
 6時過ぎに懇親会がはじまり皆さん参加致しました。医療界の話題や社会問題など盛り沢山の話題が提供され、私もいろいろ質問させていただきました。約3時間、楽しくためになる時間をすごさせていただきました。世事に疎い私には年1回、尊敬する先生方の謦咳に接する、ありがたい機会で感謝しております。
 囲碁は、対人型インターネット碁(パンダネット)で楽しんでいます。月額2千円余りで、様々な国籍、棋力のかたといつでも対戦できるのがうれしいです。多くは就寝前にお酒をのみながら烏鷺を遊ばせます。毎日のように打つこともあれば1カ月ご無沙汰することもあります。プロのタイトル戦やAIに触発され俄然打ちたくなることがあり、2年前にAIの手法を取り入れ、どこまで棋力が上がるか挑戦したことがあります。酒をのまずに半月間、毎日何局も真剣に打ちました。最高で5段プラスまで昇段しましたが6段の壁を越えられずマイブームが終了しました。その後お酒を飲みながらダラダラ楽しんでいたら一気に10数連敗し、段位は元の4段に戻りました。
 医師会の新春囲碁大会も楽しみにしています。毎年大会前に1〜2回長岡駅近くの碁会所に伺います。ネット越しとは違い碁盤を挟んでの対戦は新鮮で、大変贅沢な気持ちになります。今回碁会所で3つの驚きに出会いました。1つは、斎藤古志先生が碁会所リーグ戦のトップ3に入っておられることです。長岡市の碁会所はレベルが高く、過去に何人もの県名人を輩出しており、その中でのこの成績は医師の趣味を超えたものだと感嘆いたしました。今年は対戦致しませんでしたが、また是非教えていただきたいと思います。2つ目は、対戦した82才の方です。この方に私は2子置いて戦いました。とにかく型に明るく急所に石が来ます。打つ手も早く、若い私が長考するありさまでした。対局後、失礼と思いながら年齢をお聞きし、更に失礼かと思いましたが、「歳をとっても棋力は落ちないものですか?」と不躾に聞くと「私は80才から棋力が伸びたよ」との返答でした。やっぱり囲碁は素敵だなーと思いました。あと1つは、小学低学年の男の子と女の子が25歳前後のお兄さん先生と楽しそうに囲碁を打っている姿です。子供教室に通っているお子さんのようですが、実にのびのびと楽しそうに囲碁を打つ姿があまりに可愛らしく、しばし盤側で観戦していました。感想戦では、ついつい脱線しディズニーの話などがでてきても、これはこれで自然で楽しく、周りの大人の眼も随分温かいものでした。このお兄さん本当に凄いなー。
 私は麻雀も好きで、お盆やお正月に甥や姪と卓を囲みます。最初はギコチナイ挨拶言葉が、麻雀が始まると一気に座が砕け和気藹々となり冗談が飛び交います。麻雀をしている時だけは、彼らにとって話のわかる叔父さんに格上げされているようです。
 ゲームは世代の壁を越えたコミュニケーションツールであることや、私は麻雀や囲碁をしている時は何時も上機嫌になれる「おめでたい男」であることに気づきました。長い時間をゲームに費やしてきて、無駄をしたなあーと思うこともありましたが、今となっては医師免許に匹敵する大切な宝物だと思えます。これからは更に人とのコミュニケーションを大切に、より一層楽しんでまいりたいと思います。

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第3回新年将棋大会優勝記 玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)

 令和2年1月18日(土)、長岡市医師会第3回新年将棋大会が魚藤にて開催され、8名の参加がありました。
 1局目は松井俊晴先生との対局で私が先手でした。松井先生は居飛車党とばかり思っていましたので、私が序盤で左銀を6八にあがったのに対し、松井先生はこれに反応して三間飛車にされ、作戦負けに陥り、そのまま負けてしまいました。
 2局目は福居和人先生との対局で私が後手でした。私の矢倉に対し、福居先生は矢倉の早囲い模様となりました。私は4枚矢倉の堅陣に組んだ後、飛車を相手の金と交換して駒損となりましたが、相手の陣形のまとまりが悪く、この直後に右桂を4五に跳ね、私の攻めが繋がる展開になり、勝つことができました。
 3局目は前回優勝者の窪田久先生との対局となり、私が後手でした。窪田先生は角交換の後、筋違い角戦法を用い、飛車を向かい飛車に振りました。私は相手の8二玉をねらい5五角を打ちましたが、窪田先生がこれを放置したため7四歩打ちからの攻めが厳しいはずでした。この後角を切り、飛車を7筋に廻りましたが、歩で守られると飛車を押さえ込まれて優劣は5分くらいになったと思いました。局面は二転三転しましたが、最後は秒読みに救われ、窪田先生が受けを間違い、運良く勝つことができました。
 最後の4局目は高橋利幸先生との対局となり、私が後手でした。2人とも2勝1敗であり、勝ち点の関係で勝ったほうが優勝という状況になっていることを周囲の声より知りました。高橋先生の矢倉に対し、私は左美濃囲いに組み、右四間に飛車を振りました。私は飛車を相手の銀と交換し、駒損となりましたが角を成り込む展開となり、指し易いと思っていました。高橋先生は受けが安定しており、決め手を与えてくれませんでした。相手は入玉をめざし、入玉を阻止することはできましたが、一時逆転された場面もありました。最後に勝つことができたのは幸運であったと思います。
 松井先生は1局目私に勝ち、2局目では高橋先生に勝ちましたので優勝する可能性も高かったのですが、前もって午後5時までしか時間が取れないとのことでしたので、結局2局しか対局できませんでした。そのため私に優勝が転がり込んだと思います。2位は私と同じく3勝1敗の窪田先生、3位は長岡中央綜合病院理容室の高野幸雄さんで、2勝2敗でした。
 これまでの3回の大会では、土曜の午後2時より開始でしたので4試合しかできませんでしたが、懇親会にて窪田先生より、来年は日曜の午前より開始して、もっと多く、できれば全員と対局したいとの提案がありました。懇親会出席者全員より賛成が得られ、皆さんの将棋好きを再認識することとなりました。大会の翌々日、この事を開催に際していつも色々とお世話になっています長岡市医師会事務局の星さんに相談したところ、快諾していただけましたので来年は日曜に開催したいと思っております。日曜になりますと星さんには更にご負担をおかけすることになると思いますが、よろしくお願い致します。
 AIは何年も前よりトッププロを凌駕している状況ですが、AIの新手により、矢倉戦法が減少し、角換わり腰掛け銀が増加するなど戦法の変化ももたらしました。プロ棋士のほとんどがAIを利用していると思われますが、プロ棋士を大きく分ければ、主に他のプロと練習将棋をして研究を深める一方、AIも利用する人と、少数ですが、練習将棋を指さずにAIを用いて自分で研究に没頭する人の2つに大別できるのではないでしょうか。私の利用法としては、将棋の本を読んでわからない局面や、また実戦で出現しそうな局面をコンピューターに駒を配置して検討、解析する程度ですが、役立っています。羽生善治九段は、バージョンアップされた一年後の将棋ソフトは、以前の同一のものに対してほとんど勝利することを考慮すると、AIをすべて信じてよい訳ではないと話されていましたが、なるほどと頷きました。ある局面ではAIが勧める最善手よりもっと良い手が隠れているはずです。また、人間でなければ指せない手もあるからこそ、将棋の面白みがあると思います。
 来年は、もっと多くのご参加をお待ちしております。

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巻末エッセイ〜来世もペット達とともに 福本一朗(長岡保養園)

 我が国の独居高齢者は2015年592万人になり、それに比例して孤独死も2891人と急増していて、その大きな原因の一つに孤独感からのセルフネグレクトが挙げられています。まさに孤独は“死に至る病”で自己責任だけでは解決できず、全社会的な対応が必要とされていますが、欧米ではペットを飼うと、自分とともに衣食住に気をつけるようになるので、セルフネグレクトを予防する一助になるとされています。独り身の浪人が捨て猫「玉次郎」のお陰で人間性を取り戻し社会復帰するドラマ「猫侍」の中で「猫は家族です!自分と同じように食事には気をつけましょう!」と諭される場面があります。それは動物愛護法第2条の「すべての人が“動物は命あるもの”であることを認識し、みだりに動物を虐待することのないようにするのみでなく、人間と動物が共に生きていける社会を目指し、動物の習性をよく知ったうえで適正に取り扱う」という精神に呼応しています。ペットが家族であるなら、死後も同じお墓で眠りたいと願うのはきわめて自然ですが、これまで日本では六道輪廻説に従い、ペットは「人間道」よりも下位の「畜生道」に位置しており、人間と一緒に埋葬することは不適当と考えられてきたため、一緒に入れる墓地は全国で5%の347件しかありませんでした。ただ最近の小型犬や猫ブームによって室内飼育が増え、人間とペットの主従関係が薄れてきて、死後もペットと同じ墓に入りたいと願う人が増えてきて、います。2019年6月に開かれた浄土宗学術大会では経典中の言葉、“皆蒙解脱(かいむげだつ)”を「命が終わると動物も含めて皆が極楽浄土に行きける」と新しく解釈し直した結果、「ペットを同じ墓に入れることは仏の教えに反しない」と決議したそうです。もともと仏教でも天台宗や真言宗では“山海草木悉皆成仏(命あるものは全て成仏する)”としてペットの法要の必要性を認めています。日蓮宗では動物もそのまま成仏できるとして人動同葬を認めてきたほか、キリスト教の米国でも2016年に人とペットを同じ墓に埋葬することを可能とした法案が可決されています。

 そもそもペットのうち犬に次いで家畜化の歴史の古い猫の祖先は、約13万年前に中東の砂漠に生息していたリビアヤマネコだと考えられており、約9500年前にはキプロス島のシルロカンポス遺跡から人間と一緒に埋葬された猫の骨が発見されています。紀元前3000年頃のエジプトでは猫はライオンの代わりに崇められてきましたが、そのうち雄猫は太陽神ラーの、また雌猫は女神バストの象徴として神格化されていました。日本では約2000年前の弥生時代から猫の形跡があって、おそらく稲作伝来時に穀物を保護する動物として運ばれてきたと考えられています。西洋では愛玩動物としてだけではなく、図書館の鼠害防止や、町をペストから守るためにも猫は人の役に立ってきました。それだけでなくスウェーデンの研究ではペットを飼っている一人暮らしの老人は飼っていない人に比べて病気のリスクが33%も低下することがわかりました。猫にとっても人に飼われていると寿命は15年と野良猫の5年の3倍も伸びます。この大切な家族と来世でも一緒にいたいと願い、筆者も猫たちと一緒に入るお墓の墓碑銘を“Ichiro MD. & Akiko MW./Sissi Cat ♀ & Misha Cat ♂”として作りました。願はくば、死も我らを永劫に分かつことなからんことを!!

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