長岡市医師会たより No.481 2020.4


もくじ

 表紙絵 「北陸の春 (越中入善町)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「「サードミッション エチオピア〜国境なき医師団C」 鈴木美奈(魚沼基幹病院)
 「「良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その二」 江部達夫(江部医院)
 「「巻末エッセイ〜自分史を刊行して」星榮一



「北陸の春 (越中入善町)」  丸岡 稔(丸岡医院)


サードミッション エチオピア〜国境なき医師団C  鈴木美奈(魚沼基幹病院)

 エチオピアは、東アフリカに位置するアフリカ最古の独立国です。人口は1億200万人で、サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで2番目に人口の多い国です。多民族国家であるエチオピアは、9つの州と2つの自治区からなる連邦制をとっており、ミッションで行ったのは、ガンベラ州です。ここは、すぐ隣が南スーダンであり、多数の難民が流れこんできます。そのためMSFだけでなく、国連児童基金(UNICEF)や国連難民高等弁務官事務所(UNIHCR)、他多数のNGOが集まっていました。
 このミッションは、ガンベラ州の保健省が所轄する病院にMSFが共同運営、支援の形で入ることになり、その立ち上げの段階を担う仕事でした。まず、つまずいたのは、日時、時間の基準が違うことです。現地では、独自のエチオピア暦が使われており、世界共通のグレゴリオ暦(現地ではヨーロッパ時間と呼ばれていた)と相当ずれているのです。エチオピア暦の2000年1月1日はグレゴリオ暦の2007年9月11日。だから、まず話が全くかみ合いません。この患者は、いつ破水したのだ?5年前か?みたいな。日時の換算ができるようになるのに2週間かかりました。
 この病院は、産婦人科だけでなく、内科、外科、救急も併設されています。近隣の難民対象の診療所、保健所からもかなりたくさん患者が紹介されてきます。しかし、衛生状況が最悪でした。病棟中にアリ、ゴキブリ、野良犬。屋外の雨宿り用のトタン屋根がついた細い通路には、外傷、脱水などの患者がずらりと寝ています。便、尿、嘔吐物も時に放置され異様な臭いもしました。NICUも一応ありましたが、“ここは、物置きだろう?”と思えるほど医療機器が煩雑に置かれ、至る所にアリの大群が発生していました。しかし、コートジボアール人の優秀なナースとスペイン人の優秀な小児科医が、物凄い勢いでこれらの環境を改善していきました。彼らの能力の高さ、徹底されたMSFのトレーニング、管理能力の高さに脱帽でした。徐々に新しい棟が作られており、私が働き始めて1カ月したところで、産婦人科は新病棟へ移転しました。
 このサードミッションで経験したのは、会議の多さ(立ち上げミッションのため)と現地医師との関わりの難しさです。派遣中に、新しいエチオピア人の産婦人科医が採用されました。彼(本当は奴と言いたいところです!)は、女性を見下しており、私は異国の地から来たお節介な女と思われていました。全く言うこときかず、エチオピアでしか通用しない治療方法を重んじ、MSFのガイドラインを提示すると完全無視です。ある日、手術中に意見したら“手術室から出ていけ”と言われました。ただ、もう一人いたベテランのナイジェリア人の産婦人科医は、私やMSFを尊重してくれました。私も、基本的に彼を立て、何でも相談しながらさりげなくMSFガイドラインをすり込んでいきました。なにより彼のいいところは“MINAは35歳くらいだろー”と言ってくれたところです!!昼食をご馳走してくれたこともありました。ホテルのテラス、と言っても小さな汚い庭で油ギラギラの羊肉と思われるものとパンを一緒に食べます。ちょっとすっぱい薬味がつきます。そのあと、エチオピアといえばコーヒー!日本で言えば、喫茶店であろうテントに入り、小さなカップに濃いコーヒーを注いでもらいます。しかし、みていると大匙2杯くらいの砂糖を入れるのです。ブラック好きの私には甘すぎました。でも、これらすべて男性払いなのです。女王様気分が味わえたひと時でした。
 1回目のジャフン・プロジェクトを経験し、「さらにレベルアップをしたい!」と向上心をたきつけられたこと、熱帯医学の勉強不足で満足できる仕事ができなかったことから、私は2017年10〜12月に再度、そして2018年11月〜2019年3月にも再々度、ジャフン行きをMSFに希望しました。このように、同じ派遣場所に希望で複数回行くことは珍しいそうです。そして、この忙しいプロジェクトを好む私を現地スタッフは不思議がる一方で重宝もしてくれ、「ジャパン・マシーン」という、ありがたいようでありがたくないニックネームを付けてくれました。
 スタッフについて驚いたのは、助産師がほとんど男性であるということです。今まで行ったミッションでは、助産師は全員女性。もちろん日本でも男性の助産師さんに会ったことがないだけにかなり不思議な感覚でした 3回目(2018年11月〜2019年3月まで)の派遣で気づいたさらなる改善点は、分娩の8割弱を占める正常分娩症例の取り扱いです。過去10年間の妊婦へのアウトリーチ(病院外)教育、啓蒙の成果が出て、妊娠前健診が広がり、自宅分娩から医療施設での分娩へと住民の意識が変化しました。一方、無償で医療が受けられるジャフン病院に患者が殺到し、完全にキャパシティを超えていました。しかし、ジャフン病院は日本でいう高度医療施設です。多忙ゆえ、重症患者の対応が遅れてしまうこともありましたが、MSFは現地の他の医療施設と連携を深め、問題のない妊婦は近くの医療施設に紹介するようにしました。こうした取り組みでジャフン病院の現地医師や助産師の負担が減り、より密度の濃い診療が提供できるようになったのです。
 臨床面でも貴重な体験ができました。いくつか紹介します。まず、妊娠22週位の胞状奇胎の患者です。住んでいる宿舎前のよく利用する雑貨店の奥さんでした。22週相当の胞状奇胎は大量です。吸引量で3000〜4000mlにもなります。先進国のように、妊娠8週前後で医療機関を受診することもなく、超音波が一般的でない発展途上国では珍しくないのです。最初は愕いていた私ですが、3例目くらいから、また来たか、という感じでした。この患者の手術後、毎日お店に様子を見に行きました。いわば、在宅訪問のボランティアですね。ご主人が感謝の気持ちといって、5本位ジュースをタダにしてくれました。
 最も記憶に残る症例は、Rokitan-sky-Kustner-Hauser症候群(先天的に膣が欠損し、子宮も瘢痕程度しかない発生異常)の患者です。問診していくと、5人姉妹のうち3人がこの疾患でした。この病院の驚くべきところは、心理カウンセラーが常駐し、外来、入院患者のフォローをしてくれるところです。この症例も本人、父、姉妹3人と共にカウンセリングを数回行いました。エチオピアに限らずアフリカでは、女性は子供を産み育てることで人として認められる、という過酷な文化があります。子供が産めないことは極秘とし、せめて結婚して社会的地位が築けるようにと造膣術を希望されました。McIndoe法による造膣術をアルゼンチン人の外科医としました。手術前は、YouTubeで手術画像をみながら手順、分担を確認。この地で代用できる手術器機を選定し、ないものはあるもので作ることにしました。例えば、膣内に植皮する際のコルポスタット(膣内に出し入れする筒状の機器)は、スポンジを固く圧縮し細長くしてそれをコンドームで包んで作りました。当日、初めての術式なので手術室は大騒ぎ。外科医に習いながら鼡径周辺の皮膚採取もしました。手術は成功。術後は毎日、注射器とコンドームで作った簡易のコルポスタットで、膣萎縮予防と性交のためのトレーニングをしました。彼女は難民なので、退院までの宿舎はありません。他の患者、患者家族と共に、病院の庭で、炊事、洗濯していました。そして、自分で膣のトレーニングがしっかりできることが確認できた手術1か月後、自分のテントのある地に帰って行きました。
 頸がん末期患者をいよいよ具合が悪くなり連れてきた息子。悪臭漂う彼女をどの病棟もいやがります。何とか翌日に転院させるからと、婦人科病棟の看護師をなだめ入院させました。しかし、その夜に逝去。息子は、「病院に来たから死んだ。」と憤り看護師を責めるのです。医療啓蒙の低さ、短期間での患者家族とのコミニュケーションの難しさを痛感しました。
 血液バンクがない故の苦労もたくさんありました。再生不良性貧血妊婦、前置胎盤の妊婦。これらの患者を、車で近くて8時間の都市の病院に搬送します。搬送の受け入れ先を探し、車の都合をつけ、運転手と同乗する看護師を手配し……などなど。ともすれば、手配に1日〜数日かかるのです。日本の救急車のたらい回しなんて比になりません。準備中に母体死亡したこともありました。妊娠30週でHELLP症候群。溶血がひどく、透析適応と思われました。しかし、週末のためなかなか搬送準備が進まず死亡しました。こういう時、現地医師は家族が文句を言ってきても対応しません。私に責任が押し付けられるわけですが、言葉の壁、文化の違いで分かり合うことは不可能でした。
 忘れられない症例も多々あります。心嚢液、胸腹水の貯留した妊婦がいました。ドーパミン使用でも血圧維持が困難でした。妊娠終了が唯一の最適な治療ですが、分娩誘発に全く反応しません。このままでは母体生命予後は不良です。帝王切開自体も危険をはらむものでしたが、ごく少量の薬剤での脊椎麻酔と、皮膚、子宮筋層への局所麻酔を併用し、45度のファウラー体位で帝王切開に臨みました。術後は顕著に状態が回復し、最後は降圧薬の内服をしながら退院できました。現地医師、麻酔科医、手術室スタッフ、ICUスタッフ、助産師のチームワークの大切さを痛感できた症例です。その後、同様の妊婦が2人入院してきました。前症例の経験から帝王切開を施行しましたが、一人は経過良好、もう一人は術後数日で亡くなってしまいました。同じ治療であっても、症例ごとに適切な手術施行時期があり、判断の遅れが患者の命を奪ってしまうのです。ナイジェリアでの医療の難しさを痛感する日々でした。
 施行手術は、帝王切開、子宮頸管縫縮術、卵巣捻転の手術、胞状奇胎の子宮内容吸引程度で楽でした。一例、子宮頚癌Tb1期の手術可能な患者がきましたが、輸血がない上、手術経験のない現地スタッフとうまく手術する自信がなく搬送しました。
 ここでの生活環境は、比較的救急症例が少なかったので、MSFチームの同僚と散歩したり、ジョギングしたり、宿舎内の敷地でバレーボールしたり、バドミントンしたりできました。とにかく、暑かった!!連日37〜42℃です。部屋には、大きなファンが付いているだけでエアコンはありません。マラリア予防に、蚊帳をして寝なければいけないですが、これが空気の淀みを作り更に熱い!何十年ぶりに汗疹ができました。食事は、現地のコックさんが作ってくれましたが、朝、昼の食事が冷蔵庫に入ることもなくテーブルに置き去りにされています。エチオピアンコーヒーは濃厚でおいしかったです。バーベキューもよくやりました。魚が大好きな私は、よく魚の頭を食べていました。そしたら、何かの寄生虫か細菌感染に罹り、3日間高熱、嘔気、下痢に苦しみました。漠然と、異国の地で本当に死ぬこともあるのだなーと痛感し、心細くなり、家族や基幹病院の先生達にLINEで弱音をはきました。
 このガンベラ・プロジェクトは始まったばかりなので、保健省−MSF間の連携も、血液バンクも搬送システムも、そしてなにより現地スタッフのMSFに対する信頼も築けていません。どこの国のプロジェクトも、最初はこのような状態から始まるのでしょう。でも、少しずつ根気強く働きかけていくと、アフガニスタン、ナイジェリアのプロジェクトのように、最後はみんながMSFを尊重し、先進国にも劣らない医療が構築されていくのです。ガンベラ病院も早くそのようになって欲しいです。

「エチオピアの位置 出典:Wikipedia」

「新病棟で看護師、通訳と」

「ガンベラ病院の手術室 帝王切開前」

「Rokitansky-Kustner-Hauser症候群の患者と」

「庭で生活する難民患者とその家族」

「宿舎内 奥が食事や休憩をとるトゥク(小さな小屋)で、手前がバレーボールやバドミントンをする広場」

「一緒に働いたMSFスタッフと昼食」

 

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良寛名歌百選を俳句に「注釈付き」〜その二  江部達夫(江部医院)

26 もも鳥の鳴く山里はいつしかも

 かはづのこゑと

 なりにけるかも

 「もも鳥」は「百鳥」、たくさんの鳥の意

野鳥鳴く山里蛙の声となり

27 あしびきの山田の田居に鳴く蛙

 声のはるけきこの夕べかも

 「田居」…たんぼ、田の面

山田鳴く蛙の声聞くこの夕べ

28 五月雨(五月雨)の晴れ間に出でて眺むれば

 青田涼しく風渡るなり

五月雨の間に見る青田風涼し

29 我が宿の垣根に植ゑし百草(ももくさ)の

 花咲く秋は近づきにけり

 「百草」…種々の草、千草

宿の垣百草咲かむ秋近し

30 秋の野に匂ひて咲ける藤袴

 折りておくらんその人なしに

贈る人なく折る野辺の藤袴

31 いざ歌へ我立ち舞はむ

 ひさかたの

 今宵の月に寝(い)ねらるべしや

 「ひさかたの」…天(あめ、あま)、空に掛かる枕詞。転じて天空に関係あるものにかかる枕詞に。

歌へ舞はむ今宵の月に寝られよか

32 風は清し月はさやけしいざ共に

 踊り明かさむ老いの名残に

風月(ふげつ)いざ踊り明かさむ老い名残り

33 里辺には笛や鼓の音すなり

 深山はさはに松の音して

 「さはに」…しきりに

里は笛鼓に山は松の音

34 さびしさに草の庵(いほり)を出(い)で見れば

 稲葉おしなみ秋風ぞ吹く

 「おしなみ」は「おしなぶ」、押しなびかせる、押しふせるの意

さびしさに庵出(いほい)で見る田秋の風

35 秋もやや夜寒むになりぬ

 わが門に

 つづれさせてふ虫の声する

 「つづれさせ」…つづれさせ蟋蟀(こおろぎ)「てふ」…という

わが門にこほろぎの鳴く夜寒かな

36 しきたへの枕去らずて

 きりぎりす

 夜もすがら鳴く枕去らずて

 「しきたへの」…「枕」にかかる枕詞。「きりぎりす」…「蟋蟀(きりぎりす)」で、こおろぎの古名

夜もすがらこほろぎの鳴く枕許

37 秋もややうら寂しくぞ

 なりにけり

 小笹(をざさ)に雨の注ぐを聞けば

秋寂し笹降る雨の音聞けば

38 秋の日の光り輝く薄の穂

 これの高屋に登りて見れば

 「高屋」は「高楼」、二階建ての家か。

薄の穂輝き見ゆる高屋から

39 夕霧に遠路(をち)の里辺は埋(うづ)もれぬ

 杉立つ宿に帰るさの道

 「帰るさ」は名詞で、帰る時、帰りがけ

里は霧杉立つ宿への帰り道

40 月よみの光を待ちて帰りませ

 君が家路は遠からなくに

 「月よみ」は「月」と同じ。「君」は阿部定珍。人恋しい良寛、定珍を少しでも長く引き留めておきたかったのであろう。

月待ちて帰られ君が家近し

41 月よみの光を待ちて帰りませ

 山路は栗の毬(いが)の落つれば

 定珍へのやさしさと離れがたい思いが込められている。

月待ちて帰られ山路毬が落ち

42 夕暮れに国上の山を越えくれば

 衣手寒し木の葉散りつつ

 「衣手」…袖

国上越え木の葉散る夕袖寒し

43 あしびきの山田の案山子

 汝(なれ)さへも

 穂拾ふ鳥を守(も)るてふものを

 良寛はお米を生産することなく徒食していることにやましさを感じ、農民には日ごろから感謝している。

案山子さへ稲穂鳥より守りをり

44 あしびきの国上の山の山畑に

 蒔きし大根(おほね)ぞあさず食(を)せ君

 「大根(おほね)」…だいこんの古名・「あさず」…残さず。「君」は阿部定珍

あさず食(を)せ国上の山畑蒔き大根(おほね)

45 飯(いひ)乞ふと里にも出(い)でずこの頃は

 時雨の雨の間なくし降れば

 「飯乞ふ」は托鉢のこと

日々時雨飯乞ふ里に出(い)でず居り

46 やまたづの向かひの岡に

 小牡鹿(さをしか)立てり

 神無月(かみなづき)時雨の雨に濡れつつ立てり

 「やまたづの」…「向かひ」の枕詞。ヤマタヅはニワトコの古名、枝葉が対に生じているため。

時雨る中雄鹿は立てり対が岡

47 岩室の田中に立てる

 一つ松の木

 今朝見れば時雨の雨に濡れつつ

 立てり

岩室の田の松時雨る中に立ち

48 山かげの草の庵はいと寒し

 柴を焚きつつ夜を明かしてむ

 「明かしてむ」…「む」は助動詞、@推量―だろう、A意思・意向―よう、―つもりだ の意

山の庵(いほ)寒き夜は柴焚き明かさむ

49 埋(うづ)み火に足さしくべて

 臥せれども

 今度(こたび)の寒さ腹に通りぬ

 「埋み火」は灰にうずめてある炭火

灰の火に足さし臥すも寒さ染む

50 この宮の宮のみ坂に出(い)で立てば

 み雪降りけり厳樫(いつかし)が上(へ)に

 「この宮」は旧分水町の菅原神社

 「厳樫」は神社の境内にある神聖な樫の木

宮の坂出(い)でみる樫に雪は降り

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巻末エッセイ〜自分史を刊行して 星 榮一

 平均寿命まで生き、父親より長生きをしたので、そろそろ終活の時期かと考えた。手始めに、子供や孫たちに僕の自分史を遺してやることにした。書店で販売するものではなく、自費出版で関係者に贈呈するものである。

 自分史は星家の歴史と、僕の誕生から現在までと家族のことを第一部とし、これは全くの書下ろしで、個人情報の塊である。第二部は、僕が各種メディアにこれまで発表した文章を収録することにした。第一部と第二部を合わせたものを「榮一の自分史」とした。

 作業としては第一部と第二部を平行して進めるが、第二部を先に完成させ、第一部の該当箇所に第二部の関係頁を参照として挿入することにした。

 第二部の既発表の文章は「ぼん・じゅ〜る」「県医師会報」「新潟日報の窓」はそれぞれでまとめられるが、他はバラバラなので「ボーイスカウト関係」「形成外科の歴史」「長岡中央綜合病院の歴史」「その他」などに分類した。文章は横書きのもの、縦書きのものがあり、それぞれにまとめた。最終的に二百四十六頁になった。タイトルは「お星さまのたわ言」とした。

 第一部の星家の歴史と、僕の誕生から現在までは、三年程前から書き始めていた。なかなか時系列順には書けないので、まず本の構成を考えて、目次を作った。こうすると書きやすい章から書けばいい。僕は執筆するときに、紙に下書きをしてからパソコンに入力するので、ルーズリーフに下書きをした。ルーズリーフは追加することも、前後を入れ替えることもできる。各章ごとに文章がまとまれば、パソコンに入力する。そこで第二部に関係する文章があれば、その頁を参照として第一部に入れた。第一部には、僕が作成した星家の家系図も折り込んで入れた。さらに家族写真、姪の結婚式の際に撮影した星家一族全員の写真、また僕の遺影としても使える写真も、三枚冒頭にカラーで入れた。第一部のタイトルは「あるがままに生きて」として六十二頁となった。

 昨年の四月に原稿を印刷屋に入稿したが、発行は家内の誕生日である十一月三日を予定した。十月からは毎週のように編集者と打ち合わせをし、とことんこだわって十月末には刷り上がった。

 第一部と第二部は別々に製本し、二冊セットのものには箱を付けた。後からの反省で、セットのものは二冊合冊で製本すれば箱は必要なかった(箱一つ約千円)。第一部と第二部のフルセットは七十五部作り、主に親戚に配った。第二部だけのものは、親しい友人等に贈呈した。

 長岡市医師会にも第二部を納本した。長岡市中央図書館と国立国会図書館にはフルセットを納本した。

 フルセットを贈呈した家族や親戚からはほとんど反応がなく、第二部だけを贈呈した友人や知人からは、熱い礼状や感想が沢山寄せられた。

 出版を終えての僕の感想は、この時期に、一応目的とした物を遺せたので良かったと思う。第一部の執筆の際に、口うるさい妹達がいるので、彼女達を意識して書いたが、幸い妹達からの文句は来なかった。

 「榮一の自分史」を配布した後の反響は、「長岡新聞」が書評を掲載してくれ、また「FMながおか」でも番組で取り上げてくれた。

 「榮一の自分史、第二部『お星さまのたわ言』」は長岡市医師会図書室にもあります。

「あるがままに生きて〜わが人生に悔いなし(第一部)」「お星さまのたわごと〜妄言多謝(第二部)」

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